流れ行くTLを見ていた。
嫉妬について、皆さんがいろいろついーとしている。
たぶん「浅見さんわかってないなあ」と思いながら
定型発達者らしく、さりげなくアドバイスをくれているんだろうなあというついーとが多かった。
嫉妬というのはただ「羨ましい」と思うだけではなく
嫉妬の対象となる相手の不幸まで望むことまで含まれる、というついーとがあった。
もしそうならば、私は厳密な意味での嫉妬はあんまりしないかも。
羨ましい気持ちはあっても、相手の不幸まではあんまり望まない。
私は人の好き嫌いは結構激しい人間だけど
嫌いな人間はこちらにちょっかいを出さず、視界から消えてくれたらそれだけでよくて
相手がその後幸せになろうが不幸になろうが興味はない。
ただ、あまりに修行は残酷と言い張る人たちがどうなるか、興味があったので
そういう意味では療育の結果観察はしようかなと思っていたけど。
瀧澤さんが本や講演の中で触れていたように

修行系とありのまま系の宗派の違いは昔からあって、もう結果ははっきりしているというのなら、まあ別に観察の必要もないのかもね。
それにあの一連の騒ぎが嫉妬のせいならば、もう観察する価値はないかも。
最近、私が嫉妬らしきものを感じたのは
琴奨菊がきせのんより一場所先に大関になったときくらいかな(そこかよ)。
でも菊関がキライなのには明確な理由があって
何かとキセをライバル視し、「14敗してもキセには勝ちたい」とかいうキモストーカー発言をするのでかちんときているだけであって
そういう発言さえしなければその他大関の一人として、なまあったかく見ていただろう。
生菊関を間近で拝見するとね、いい方だと思いますよたぶん(棒)。
でも相撲はかっこ悪くて好きじゃないし、キセより一場所先に昇進したときには
「とっとと角番になれ!」と思いました。正直。
でも本物の角番危機がきたときには、七勝七敗で迎えた千秋楽、応援してあげたよ。
いなくなってもつまんないかな、と思って。
えーと脱線しました。
で、まあ、嫉妬。
また考えていました。
藤居は大地君のどこに嫉妬したのか。
そして流れ行くTLを見ているうちに、忌まわしい考えが浮かんできたのです。
藤居は自分と大地君を比べて嫉妬しているのではないのではないか。
そうではなく、自分ちのお子さんと大地君を比較して嫉妬しているのではないか。
猿烏賊たちもそうなのではないか。
もしかしたら、これも私が今日まで気づかなかっただけで
多くの方々が、気づいていたのかもしれません。
そういう考えが浮かんだとき
私は血が凍る思いになりました。
精神的なダメージが身体に出るほど身体はやわにできていない人ですが
おなかが痛くなった。
猿烏賊たちの一部は、自分たちも修行はしているのだと言い張っていた。
けれども大地君のことに口を突っ込み続けた。
矛盾している、と思っていたのだが
そこに「自分の子と大地君を比べて嫉妬している」という軸が一本入ると、謎が解ける。
そしてうちに来た数々のメールの中に
「そらまめちゃんがかわいそう」というメールが結構あったのを思い出しました。
リアルつながりでもよく聞いた意見です。「あそこのお嬢さんはかわいそうです」
私は、親が療育が下手だからかわいそうだと思われているのかと思っていた。
「かわいそう」と言った方たちがどういう意図だったのかは知りません。
でも私はね、猿烏賊たちのお子さんの気持ちになってみたんです。
自分をこの世に生み出した実の親が
誰かよその子と自分を比較してコンプレックスを感じているという事実をかみ締めてみたんです。
そして、涙が出ました。
そんなに悲しいことはないと思った。
自分をこの世界に送り出したかけがえのない親が
よその子と自分を比べている。
どうしてそんなひどいことができるのだろう。
そして、こういうついーとを読みました。
=====
集団でできあがった嫉妬のキャンプファイヤーは、嫉妬していることを正当化されているような気になるものなので、罪悪感とかみっともなさを感じなくなる。
=====
ああ、
これが嫉妬する側の集団心理なのか。
だから恥ずかしげもなく、集団で嫉妬できたのか。
っていうか
集団だからこそ、あからさまに嫉妬できたのだな。
一人だったら恥ずかしくてできないはずだ。
自分で自分に突っ込んじゃうんじゃないかしら。
でもむしろ集団でなら、人は嫉妬できるのではないだろうか。
わかりませんよ、真実は。
もしそうならば、私はますます
一ミリも妥協しなくて本当によかったと思います。
嫉妬するのは自然なことだけど
それを行動化するのは反社会的です。
自分のちっぽけな心を自分で処理できずに八つ当たりし
腹いせでどうでもいいあるべき障害者の理想論を作り上げ
頑張っている障害者を非難し、名誉健常者という忌まわしい言葉を生み出し
そして本当は地域で生きられたはずの誰かを
特別支援社会のあの非人間的な場所に送りこむことになるかもしれません。
頑張らないことを選択するのならそれでよい。
私が自分の言葉が自分に返って来るのをよしとした上で猿烏賊を批判しているように
頑張らないという選択をした以上、責任を持てばいい。
けれども頑張っている誰かに、自分のちっぽけなコンプレックスをなだめるため
「頑張ることは正しくない」と言う。
これは反社会的行為です。人として出すぎてます。鬼畜です。
はっきりとそう思います。
なんだったら特別支援社会をその目で見に行けばいい。
イジメの問題が盛り上がっているようですが
「やられてもやり返すな」と言った人たちが
「本を出した以上やられても当たり前。甘んじて受けよ」と言った人たちが
なぜしたり顔でイジメを非難できるのか、私にはさっぱりわかりませんわ。
朝のブログを読んで、愛甲さんが嫉妬についてメールで教えてくれました。
非常にタイムリーでした。
障害児を授かったことの悲哀についても考える題材もくださいました。
私はそれを読みました。
で、思ったのです。
たしかに保護者にも、支援が必要だけど
障害児の保護者の支援に入る人の役目は
それぞれのお子さんの素晴らしさに気づかせること
他人の子と比べたりしないことを教えることなんじゃないのかな。
吉川のペアレントメンターの本は読んでませんが
嫉妬深い連中と一緒になって頑張っている子どもを叩くような人が
本当に保護者支援できるのでしょうか。
そういうのは無益だと教えるのが支援者なんじゃないの?
だってかわいそうでしょ。
子どもが。
まあギョーカイは、地軸がゆがんでいるから、わかりません。
とにかく私は悲しかったです。
叩かれた大地君より
叩いた猿烏賊たちのお子さんがかわいそうだと思った。
自分の親が
誰かと自分を比べているのだから。
嫉妬について、皆さんがいろいろついーとしている。
たぶん「浅見さんわかってないなあ」と思いながら
定型発達者らしく、さりげなくアドバイスをくれているんだろうなあというついーとが多かった。
嫉妬というのはただ「羨ましい」と思うだけではなく
嫉妬の対象となる相手の不幸まで望むことまで含まれる、というついーとがあった。
もしそうならば、私は厳密な意味での嫉妬はあんまりしないかも。
羨ましい気持ちはあっても、相手の不幸まではあんまり望まない。
私は人の好き嫌いは結構激しい人間だけど
嫌いな人間はこちらにちょっかいを出さず、視界から消えてくれたらそれだけでよくて
相手がその後幸せになろうが不幸になろうが興味はない。
ただ、あまりに修行は残酷と言い張る人たちがどうなるか、興味があったので
そういう意味では療育の結果観察はしようかなと思っていたけど。
瀧澤さんが本や講演の中で触れていたように
修行系とありのまま系の宗派の違いは昔からあって、もう結果ははっきりしているというのなら、まあ別に観察の必要もないのかもね。
それにあの一連の騒ぎが嫉妬のせいならば、もう観察する価値はないかも。
最近、私が嫉妬らしきものを感じたのは
琴奨菊がきせのんより一場所先に大関になったときくらいかな(そこかよ)。
でも菊関がキライなのには明確な理由があって
何かとキセをライバル視し、「14敗してもキセには勝ちたい」とかいうキモストーカー発言をするのでかちんときているだけであって
そういう発言さえしなければその他大関の一人として、なまあったかく見ていただろう。
生菊関を間近で拝見するとね、いい方だと思いますよたぶん(棒)。
でも相撲はかっこ悪くて好きじゃないし、キセより一場所先に昇進したときには
「とっとと角番になれ!」と思いました。正直。
でも本物の角番危機がきたときには、七勝七敗で迎えた千秋楽、応援してあげたよ。
いなくなってもつまんないかな、と思って。
えーと脱線しました。
で、まあ、嫉妬。
また考えていました。
藤居は大地君のどこに嫉妬したのか。
そして流れ行くTLを見ているうちに、忌まわしい考えが浮かんできたのです。
藤居は自分と大地君を比べて嫉妬しているのではないのではないか。
そうではなく、自分ちのお子さんと大地君を比較して嫉妬しているのではないか。
猿烏賊たちもそうなのではないか。
もしかしたら、これも私が今日まで気づかなかっただけで
多くの方々が、気づいていたのかもしれません。
そういう考えが浮かんだとき
私は血が凍る思いになりました。
精神的なダメージが身体に出るほど身体はやわにできていない人ですが
おなかが痛くなった。
猿烏賊たちの一部は、自分たちも修行はしているのだと言い張っていた。
けれども大地君のことに口を突っ込み続けた。
矛盾している、と思っていたのだが
そこに「自分の子と大地君を比べて嫉妬している」という軸が一本入ると、謎が解ける。
そしてうちに来た数々のメールの中に
「そらまめちゃんがかわいそう」というメールが結構あったのを思い出しました。
リアルつながりでもよく聞いた意見です。「あそこのお嬢さんはかわいそうです」
私は、親が療育が下手だからかわいそうだと思われているのかと思っていた。
「かわいそう」と言った方たちがどういう意図だったのかは知りません。
でも私はね、猿烏賊たちのお子さんの気持ちになってみたんです。
自分をこの世に生み出した実の親が
誰かよその子と自分を比較してコンプレックスを感じているという事実をかみ締めてみたんです。
そして、涙が出ました。
そんなに悲しいことはないと思った。
自分をこの世界に送り出したかけがえのない親が
よその子と自分を比べている。
どうしてそんなひどいことができるのだろう。
そして、こういうついーとを読みました。
=====
集団でできあがった嫉妬のキャンプファイヤーは、嫉妬していることを正当化されているような気になるものなので、罪悪感とかみっともなさを感じなくなる。
=====
ああ、
これが嫉妬する側の集団心理なのか。
だから恥ずかしげもなく、集団で嫉妬できたのか。
っていうか
集団だからこそ、あからさまに嫉妬できたのだな。
一人だったら恥ずかしくてできないはずだ。
自分で自分に突っ込んじゃうんじゃないかしら。
でもむしろ集団でなら、人は嫉妬できるのではないだろうか。
わかりませんよ、真実は。
もしそうならば、私はますます
一ミリも妥協しなくて本当によかったと思います。
嫉妬するのは自然なことだけど
それを行動化するのは反社会的です。
自分のちっぽけな心を自分で処理できずに八つ当たりし
腹いせでどうでもいいあるべき障害者の理想論を作り上げ
頑張っている障害者を非難し、名誉健常者という忌まわしい言葉を生み出し
そして本当は地域で生きられたはずの誰かを
特別支援社会のあの非人間的な場所に送りこむことになるかもしれません。
頑張らないことを選択するのならそれでよい。
私が自分の言葉が自分に返って来るのをよしとした上で猿烏賊を批判しているように
頑張らないという選択をした以上、責任を持てばいい。
けれども頑張っている誰かに、自分のちっぽけなコンプレックスをなだめるため
「頑張ることは正しくない」と言う。
これは反社会的行為です。人として出すぎてます。鬼畜です。
はっきりとそう思います。
なんだったら特別支援社会をその目で見に行けばいい。
イジメの問題が盛り上がっているようですが
「やられてもやり返すな」と言った人たちが
「本を出した以上やられても当たり前。甘んじて受けよ」と言った人たちが
なぜしたり顔でイジメを非難できるのか、私にはさっぱりわかりませんわ。
朝のブログを読んで、愛甲さんが嫉妬についてメールで教えてくれました。
非常にタイムリーでした。
障害児を授かったことの悲哀についても考える題材もくださいました。
私はそれを読みました。
で、思ったのです。
たしかに保護者にも、支援が必要だけど
障害児の保護者の支援に入る人の役目は
それぞれのお子さんの素晴らしさに気づかせること
他人の子と比べたりしないことを教えることなんじゃないのかな。
吉川のペアレントメンターの本は読んでませんが
嫉妬深い連中と一緒になって頑張っている子どもを叩くような人が
本当に保護者支援できるのでしょうか。
そういうのは無益だと教えるのが支援者なんじゃないの?
だってかわいそうでしょ。
子どもが。
まあギョーカイは、地軸がゆがんでいるから、わかりません。
とにかく私は悲しかったです。
叩かれた大地君より
叩いた猿烏賊たちのお子さんがかわいそうだと思った。
自分の親が
誰かと自分を比べているのだから。
今でいう「療育」を地域社会でした母親と一部教師たち。施設に入れようとした父親。思い出しますね。
最近、世の中には、信念や空気に基づく非論理的な決定も思った以上に結構あることを知りました。
私たちはグランディン先生の考案した屠殺方法で安楽死させられたアメリカンビーフをしばしば食しているわけですが、きっとアメリカンビーフを食しながら例の種族民は、「家事のできる引きこもり」を夢想するのでしょう。
「それぞれのお子さんの素晴らしさに気づかせること
他人の子と比べたりしないことを教えること」
障害の有無にかかわらず、子育ての基本ですよね。
自閉症や発達障害の育て方について勉強していると、考え方は、障害があってもなくても共通だなと思うことがあります。
障害があるから云々と考えてしまうと迷路にはまりやすいのかも。
・・・またも部分的反応ですいません。
幸い私の周りには少ないですけど。
夏休み明けに病欠すれば、わざわざどうしたのとメールしてきて、
「行き渋り」であってほしいと期待しているのが見え見えです。
そうじゃなければ、他のお子さんがいかに自閉的であるか、そのことをわざわざ私に解説したり、もちろん私の子供の事も、「ここが自閉的である」と言ってきますよ。
自分ちの子供ができないところは「こういう理由があるからできない」ということを説明しますが、そういう理由がほかのお子さんにもあるっていうところまでは頭が回らないのでしょうかね。
「じゃあどうやってやらせようか?」ってとこまでいかない話なので、もう、その方と話すときは、
「ふーん」
としか返事が出来なくなってきました。
もっと、実のある話が実生活でできたらいいのですが、案外同じ立場のお母さん同士でも、ぶっちゃけどうよ!って話ができなかったりします。
そこのところは、健常の子を持つ親と変わりないのかな?と思っています。
「こころの健康」読みました。
詳しくはまた本欄で触れようと思いますが
愛知県にももちろん、社会に出たいという動きはあって、そもそもそのために企画されたシンポジウムだったのですね。たった一人その企画意図をぶったぎっている人がいましたけど。
私の知っている名古屋の保護者は「怒りで血が逆流しそうになった」と言っていました。
なんにせよ、発達障害の世界の流れが一つでないことはたしかなようです。主体的に選ぶことが大事ですね。
テンプルさんは、そういう視点で読み直してみようと思います。ヒントをありがとうございました。
またお越しくださいませ。
障害のあるお子さんだって、人間の子どもには違いないですよね。ただ、特別な配慮が必要なだけで。
逆にいうと障害があるからといってえらくもないわけです。平等です。
部分的な反応でもなんでも、いつも示唆をくださるご意見ありがとうございます。
またお越しくださいませ。
藤居の騒動を見ていたリアルつながりの人たちは「ああいう人はどこにでもいる」と言います。でもリアルには見たことないんですよね。ネットでしか見たことないんです。リアルでもやっぱりいるんですね。私は親同士の付き合いではなく、何かイベントとか地域に絡んでのお付き合いをすることがほとんどなので、そういうところには前向きな人しかいないのです。
嫉妬については今日も色々考えていました。またブログにしますね。
またお越しくださいませ。