特別支援社会は、高い柵で囲まれていた。
外の社会の荒波から、中にいる人を守るためではない。
守られた世界から逃亡を図る人が後を絶たないから
その人たちが外に出るのを防ぐためにある高い柵。
鉄条網ではない。
そんなものを設置するのは、さすがに人権侵害だろう。
中にいるのは罪人ではなく、生まれつきの弱者とされる人々。
保護されるためにそこにいるはずなのだから。
地上の楽園だろうか。
けれども北の方にある地上の楽園同様
広大なその場所から、抜け出そうとして水辺で命を落とす人も多いという。
私のような方向音痴なら、この場所から抜け出すことはできない。
けれども方向感覚に優れている人ならば、できるのだろう。
おうちに帰りたいという気持ちが強ければなおさらのこと。
けれどもここから抜け出しても、その望みがかなえられる可能性は低い。
広大な敷地の外に出ても、そこは人里離れた山奥なのだから。
特別支援社会は、ある意味で特別ではない。
娑婆と同じように高齢化が進み
新入りを受け入れる余地はあまりないそうだ。
娑婆と同じように格差社会で
行動障害の重い人は築年数の古い建物、問題行動のない人は新しいきれいな建物が割り当てられるそうだ。
その人を人間として扱い、問題行動を治す気のある支援者にあった人は、いい環境を得られる。
死んだふり支援者に出会った人は、古い建物の中に拘束され一生を終わる。
私は実際に目にして
これが長続きするわけはないと思った。
こういう場所を見て「我が子を療育しなければならない」と目覚めたという方がいた。
職員と見まごうほどの高機能の入所者と会い、帰りの車中で泣いたという方がいた。
一般社会で生きようとする人が増えれば
それを目標に修行する人が増えれば
こういう場所ももっと人間的になるのかもしれない。
それでも入居志望者は、列を作っているそうだ。
それぞれの家族にそれぞれの事情があり
こういうところに家族を入れたいと願う人を私は一方的に非難することは避けたい。
選択は家族ごとに自由であるべきだ。
それでも
少なくとも、あの場所を目にしたあと
社会(みんな)の中で生きようと修行をする他人の子どもを揶揄できる人間がいたら
私は遠慮なく、鬼畜の中の鬼畜と呼ぶ。
特別支援社会を出て、地元の街に帰ってきた。
地域で暮らす障害者のいるこの街では
カラオケ屋さんの前に車椅子のグループが集っていた。
これからカラオケするのだろう。楽しそうだった。
特別支援社会よりずっと楽しそうだった。
大地君の「僕は、社会(みんな)の中で生きる。」より、一文公開します。
この話題のあとだからこそ、皆さんに読み返してほしいから。
=====
『名誉健常者』と、蔑んだ呼び方をしないでください。
僕のように、「社会の中で働く大人になろう。友だちと一緒に勉強したり頑張れる人になろう」と、頑張っている人や応援している人を『名誉健常者』と、呼ぶ人たちがいます。この言葉を使っているのは、自閉症の子どもを育てているお父さんやお母さんたちです。その人たちが、僕たち自閉症の人たちを『名誉健常者』と呼んでいます。いつものことですが、ネットで特集を組んでいるそうです。そういうことが起きると、僕のところにメールが届きます。
「『名誉健常者』と、呼ばれて平気なのか!」
平気なわけがありません。決して、良い意味で使われているわけじゃありません。障害があるけれど健常者の中で頑張ろうとしている人を馬鹿にしているのですから。僕の知っている人たちは、僕も含めて「健常者になりたい」という人はいませんし、「健常者を目指して!」と、言う人もいません。でも、「社会の中の一人になりたい」と、みんなが願っています。
それって、普通のことのように思います。挨拶をすること。働きたいと願うこと。おむつではなくてトイレに行くこと。ご飯は箸やスプーンなどを使うこと。そういうことが出来るように努力することも『名誉健常者のロールモデル』とかいうそうです。
どの国にも「自閉症の国」とか「障害者だけの世界」なんてありません。子どもも大人も、健常者も障害者もいろんな人がいるから社会です。得意もあれば、苦手もあります。助けが必要だったり、助けてあげたりするものです。助けてもらうばっかりで、挨拶もしないし、トイレにもいかない人はそれはそれでその人たちの生き方です。
本山先生は「努力している人、頑張っている人を馬鹿にしてはいけない。応援してくれなくてもいいよ。でも、邪魔はするな」と、僕を笑う友だちに言ってくれました。それと同じだと思います。それと、「人間なんだから、人として幸せになろう」と、言ってくれました。
僕たちは障害がありますけど、人間です。障害があるからこれくらいでいいとか、こういうことは無理とか、そういうことではない気がします。僕たちも友だちと一緒がいいんです。そのためには、挨拶くらいは出来たほうがいいし、食事のマナーくらいは守れたほうがいい。きっと、みんなも同じように考えていると思うんです。
頑張って努力している人を馬鹿にして差別する『名誉健常者』という呼び方はやめてほしいです。

外の社会の荒波から、中にいる人を守るためではない。
守られた世界から逃亡を図る人が後を絶たないから
その人たちが外に出るのを防ぐためにある高い柵。
鉄条網ではない。
そんなものを設置するのは、さすがに人権侵害だろう。
中にいるのは罪人ではなく、生まれつきの弱者とされる人々。
保護されるためにそこにいるはずなのだから。
地上の楽園だろうか。
けれども北の方にある地上の楽園同様
広大なその場所から、抜け出そうとして水辺で命を落とす人も多いという。
私のような方向音痴なら、この場所から抜け出すことはできない。
けれども方向感覚に優れている人ならば、できるのだろう。
おうちに帰りたいという気持ちが強ければなおさらのこと。
けれどもここから抜け出しても、その望みがかなえられる可能性は低い。
広大な敷地の外に出ても、そこは人里離れた山奥なのだから。
特別支援社会は、ある意味で特別ではない。
娑婆と同じように高齢化が進み
新入りを受け入れる余地はあまりないそうだ。
娑婆と同じように格差社会で
行動障害の重い人は築年数の古い建物、問題行動のない人は新しいきれいな建物が割り当てられるそうだ。
その人を人間として扱い、問題行動を治す気のある支援者にあった人は、いい環境を得られる。
死んだふり支援者に出会った人は、古い建物の中に拘束され一生を終わる。
私は実際に目にして
これが長続きするわけはないと思った。
こういう場所を見て「我が子を療育しなければならない」と目覚めたという方がいた。
職員と見まごうほどの高機能の入所者と会い、帰りの車中で泣いたという方がいた。
一般社会で生きようとする人が増えれば
それを目標に修行する人が増えれば
こういう場所ももっと人間的になるのかもしれない。
それでも入居志望者は、列を作っているそうだ。
それぞれの家族にそれぞれの事情があり
こういうところに家族を入れたいと願う人を私は一方的に非難することは避けたい。
選択は家族ごとに自由であるべきだ。
それでも
少なくとも、あの場所を目にしたあと
社会(みんな)の中で生きようと修行をする他人の子どもを揶揄できる人間がいたら
私は遠慮なく、鬼畜の中の鬼畜と呼ぶ。
特別支援社会を出て、地元の街に帰ってきた。
地域で暮らす障害者のいるこの街では
カラオケ屋さんの前に車椅子のグループが集っていた。
これからカラオケするのだろう。楽しそうだった。
特別支援社会よりずっと楽しそうだった。
大地君の「僕は、社会(みんな)の中で生きる。」より、一文公開します。
この話題のあとだからこそ、皆さんに読み返してほしいから。
=====
『名誉健常者』と、蔑んだ呼び方をしないでください。
僕のように、「社会の中で働く大人になろう。友だちと一緒に勉強したり頑張れる人になろう」と、頑張っている人や応援している人を『名誉健常者』と、呼ぶ人たちがいます。この言葉を使っているのは、自閉症の子どもを育てているお父さんやお母さんたちです。その人たちが、僕たち自閉症の人たちを『名誉健常者』と呼んでいます。いつものことですが、ネットで特集を組んでいるそうです。そういうことが起きると、僕のところにメールが届きます。
「『名誉健常者』と、呼ばれて平気なのか!」
平気なわけがありません。決して、良い意味で使われているわけじゃありません。障害があるけれど健常者の中で頑張ろうとしている人を馬鹿にしているのですから。僕の知っている人たちは、僕も含めて「健常者になりたい」という人はいませんし、「健常者を目指して!」と、言う人もいません。でも、「社会の中の一人になりたい」と、みんなが願っています。
それって、普通のことのように思います。挨拶をすること。働きたいと願うこと。おむつではなくてトイレに行くこと。ご飯は箸やスプーンなどを使うこと。そういうことが出来るように努力することも『名誉健常者のロールモデル』とかいうそうです。
どの国にも「自閉症の国」とか「障害者だけの世界」なんてありません。子どもも大人も、健常者も障害者もいろんな人がいるから社会です。得意もあれば、苦手もあります。助けが必要だったり、助けてあげたりするものです。助けてもらうばっかりで、挨拶もしないし、トイレにもいかない人はそれはそれでその人たちの生き方です。
本山先生は「努力している人、頑張っている人を馬鹿にしてはいけない。応援してくれなくてもいいよ。でも、邪魔はするな」と、僕を笑う友だちに言ってくれました。それと同じだと思います。それと、「人間なんだから、人として幸せになろう」と、言ってくれました。
僕たちは障害がありますけど、人間です。障害があるからこれくらいでいいとか、こういうことは無理とか、そういうことではない気がします。僕たちも友だちと一緒がいいんです。そのためには、挨拶くらいは出来たほうがいいし、食事のマナーくらいは守れたほうがいい。きっと、みんなも同じように考えていると思うんです。
頑張って努力している人を馬鹿にして差別する『名誉健常者』という呼び方はやめてほしいです。
少し調べたが、何の意味もないことと理解した。それはアパルトヘイト下のかつての南アフリカで日本人や台湾人が「名誉白人」と言われていたのと同じ。
「名誉健常者」とは多分私のような人間のことを指すのでしょう。
この議論、大脳新皮質が世間の圧力に耐え切れずに水素爆発して、大農辺緑系がメルトダウンした一部の基地外によるものです。
そういう議論は全く意味のない有毒性の放射性廃棄物ですから、六ヶ所村の地中深く密封して廃棄しましょう。
「名誉健常者の意味を誤解しているようだから、まずは名誉白人という言葉を説明します」みたいな言い訳を目にしますが、その誤解を受けやすい造語をわざわざ こういう意味だよ と広めようとしていることも理解に苦しみます。
この言葉を広めようとする人は、一体誰からそんな差別を受けたというのでしょうか?
浅見さんですか?だとしたら、相当な認知の歪みがありますね。
知人からというのなら、そんな人相手にしなければいいだけでしょう。
どうも「治る」「治らない」に拘る人がこの言葉を使うようですね。
4歳の息子の可能性を信じて、私はいろいろ試しますよ。エビデンスなんてなくても。
息子を特別支援社会には行かせない。絶対。
>こういうところに家族を入れたいと願う人を私は一方的に非難することは避けたい。
>選択は家族ごとに自由であるべきだ。
親仲間でも特に親しい友人Mは、その子が小学校入学時に特別支援社会に連れて行きました。つらいつらい選択でした。知的・自閉とも最重度の男児。Mは我が子の育ちに必死で向かい合いました。TEACCHを導入しても、自閉ッこのパニックは食卓椅子が飛び交うほどで、2歳違いの姉は乳飲み子だった妹を抱いて自室に逃げる日々でした。お父さんも早朝と夕方彼を長い散歩に連れ歩き、せめて家族みんながぐっすり眠れるよう心を砕きました。家族みんなが必死に生きていました。けれど上の子の堪え忍ぶ姿に私を含め周りの者は、姉妹児までも巻き込んでの最重度障害児の育児は、難しいと思いました。Mは姉妹児のために決断しました。そうして今は、18歳になる彼をMは毎週末帰宅させて一晩家族で過ごしています。この選択は正しかったと思います。
選択は自由。どこで生きるか、どう生きるか。特別支援社会はおそらく時代のニーズと共に変わります。縮小され より人間らしく生きられる場所にならなければ。
そしてそんな特別支援がいらなくなるよう努力する長男を見ていて、彼の生き方を名誉健常者と揶揄する人がいるのなら、さらにその人が子を持つ親だったり、弱者に寄り添う事を生業とする人であったなら、それは浅見社長が仰るとおり鬼畜。そしてやすさんも仰る様に廃棄処分が相当でしょう。
私は、長男や大地君・やすさんのように、自分を受け入れて真摯に生きる人が好きです。彼らの生き方が自分らしく生きるという事、自分らしく生きられたら とても幸せだと思います。
はじめまして。
投稿読んでて、複雑な気分です。
私の教育を受けた時代は「養護教育」という名前でしたね。「養護学校」は差別だと言って徹底抗戦した止揚学園の福井達雨園長のことを思い出しました。
知的障害のある方で、意思の伝達が困難な方の意思確認は、非常に難しいです。とはいえ、まったく意味のわからない普通学級にずっといるというのも、本人にとってもとっても大変、という印象を持ちます。
私の経験では、中学は名門とされる私立中学に入りましたが、特に数学がチンプンカンプンでついていけませんでした。やがて私は登校拒否となり、担任から精神分裂病だと言われたり、有名精神科医からは病気じゃないと言われたり、某学習塾からは(名古屋圏では有名。いまでも立派に営業しています)、立ち直れそうにない人と言われたりする時代が来ました。
親の見えではなく、その子に適した教育を望みます。
腐臭漂う。うん、ぴったりの表現です。
それでもこの言葉を火を発見した原始人のようにありがたがり、大地君一家にメール攻撃したバカどもがいます。その震源地である廃棄物のその後については、別の記事立てますね。着々と吉川医師の理想のASDにおそらく育っていくのかも。
またお越しくださいませ。
=====
名誉健常者・・本当に嫌な言葉ですね。障害児の親が作った言葉なんだから衝撃です。
「名誉健常者の意味を誤解しているようだから、まずは名誉白人という言葉を説明します」みたいな言い訳を目にしますが、その誤解を受けやすい造語をわざわざ こういう意味だよ と広めようとしていることも理解に苦しみます。
=====
作った人も、それを広めようとした人も、恐ろしいことに自分たちが加害者側に回ったという意識がないのですよね。どれだけ卑屈なんだろう、と思ってしまいます。
=====
この言葉を広めようとする人は、一体誰からそんな差別を受けたというのでしょうか?
浅見さんですか?だとしたら、相当な認知の歪みがありますね。
=====
この言葉を作った人は「あの社長さんの理想とうするロールモデルは名誉健常者」とか言っていましたから、私から差別受けたと思っているのでは?花風社の本を明らかに読んでないですね。読んでいたら私がそういう思想を持っていないことはわかるでしょう。読まずに物言える厚顔無恥さも猿烏賊の共通項です。
=====
エビデンスについては、神田橋先生の「小さなEBM」という考え方が一番有効だと思います。定型発達者は自然にこういう考え方をして、世の中を渡っているのではないでしょうか。お子さんの脳をラクにしてあげてください。うめさんや賢ママさんのように、ご自分のお子さんを観察してお子さんの脳をラクにする方法を編み出している人がいっぱいいると思います。そしてその人たちのお子さんは確実に発達し幸せに暮らしています。
またお越しくださいませ。
=====
選択は自由。どこで生きるか、どう生きるか。特別支援社会はおそらく時代のニーズと共に変わります。縮小され より人間らしく生きられる場所にならなければ。
=====
私の感想も、それでした。誰かが必要としているからできたあの場所。でも続くわけがないと思いました。外で生きられる人が増えたら、より小さく、そして人間的な場所になるだろう、と思いました。自分の仕事の意義を改めて感じました。悲しい体験でしたが、見ておいてよかったかもしれません。
=====
そしてそんな特別支援がいらなくなるよう努力する長男を見ていて、彼の生き方を名誉健常者と揶揄する人がいるのなら、さらにその人が子を持つ親だったり、弱者に寄り添う事を生業とする人であったなら、それは浅見社長が仰るとおり鬼畜。そしてやすさんも仰る様に廃棄処分が相当でしょう。
=====
自分たちに今、前向きに生きる力がわいてこないのならそれは構わない。障害者が頑張るという生き方が正しくないと思うのならそれは自分の選択です。でも頑張っている子をひどい言葉で表現したり、それを広めたり、それに乗じて迷惑行為したり、こういうことは本当に鬼畜だと思っています。おからさん、同意ありがとうございます。
またお越しくださいませ。
その偏りを意識しなくてはいけないですね。だから私は「読みたい人だけ読めばいい」と言っているのです。私は自分の性質から言っても、障害がある人も社会(みんな)の中で生きてほしい。社会を怖がらず、社会に参加して、社会を作っていくプレイヤーになってほしい。そういう思いを共有する人は、花風社の本を読んでくれればいいです。
そういう思いを共有しないのなら、あっちへいっていてもらいたい。うちの読者や著者の邪魔をしないでほしいですね。邪魔をされたら専守防衛しますが。それだけです。
偏っていていいと思います。人間みな、差別偏見持っていると思います。
10年前バッハのクリスマス・オラトリオを演奏した時、三沢博先生の言葉「ブーの出る演奏を目指しなさい。ただうまいだけの演奏なんて意味がない。何かを伝えようとしてそれが観客に伝わった時、そのメッセージを嫌悪する人もいる。そういう明白なメッセージのある音楽をやります。」という旨の言葉で指導され、今でもとても大事にしています。
私の目には、貴方も充分、スペクトラムの濃いところに居られる様に感じています。
それを否定されるのなら、なんらかの人格障害スペクトラムかなあ・・・
医師ではないので、完全な思い込みですから、お気になさらないでください。
特性を自覚した上で、考えを表明したかっただけです。
浅見さんは律儀に、受け取った確認をしてくださるので、安心したりするのです。
さすがに名医田中康雄先生の患者だけあって、尊大なセルフエスティーム。そして認知がゆがんでいらっしゃいますね〜。
日本語の「あなた」という二人称がどういう場合に使われるか
よく考えてから書いたほうがいいですよ。
私は当事者の言葉の使い方の無礼さに慣れているのでなんとも思いませんが
外の世界では気をつけたほうがいいです。
私が定型かそうじゃないかは、別にどっちでもいいのでは? 「みんなみんな発達障害」という神田橋先生のお言葉を、私は「ドクターイキガタサ」の100万倍信用しています。
それより、私がスペクトラムのどっかにいたと認めたら障害者差別がなくなるっていう発言がじゅうぶん差別的ですね。ていうかもしかして私をほめてる?
私は以前より「ありのまま系の医師の周りにはセルフエスティームの肥大した当事者がいて、そのひとたちは全然社会に適応しない。ありのまま系名医につくのは社会適応上不利である」という仮説を持っていますし
>浅見さんは律儀に、受け取った確認をしてくださるので、安心したりするのです。
こう甘ったれて来るのも大変社会人としては気持ち悪くて、おそらく見ている方の目には「ああこれだから成人当事者は社会に受け入れられにくいんだな」といういいサンプルになると思いますし
今の子どもたちがそういう大人にならないために、っていうところがうちの本の存在意義なので
このコメントは主治医のお名前とHNとともに晒しておきますね。
テンプレをはずれた発言をするときには、必ずブーイングが起こります。花風社は色々なことをきっかけに、共存ということを考える場合、「社会にわかってもらおう」だけでは遠回りであるという結論に立って本を出していますが、もしこの本たちに影響力がなければ、ブーイングは起こりません。
ブーイングを起こすために仕事をしているのではありませんが、ブーイングが起きることこそ明白なメッセージを受け取る人もそれだけ増えているという証拠だと受け止めています。やすさんもそのお一人として、ここに来てくださるのでしょう。
またお越しくださいませ。
「ありのまま」で生きてきたのはあなたですよね。
そんなあなたが「修行」なんていってもまともな人たちは相手にしない。
ゆがんだ認知、粗雑な野卑な言動、低い言語能力、知的能力ゼロ。
それが浅見淳子さん、あなたです。
いい加減、みなさん、目をさましましょう。
浅見さん。
あなたがブログやツイッターで書く言葉が汚く罵詈雑言ばかりをあなたに批判的なひとに投げつけるのはなにか理由があるのでしょうか。
誰もが苦手や得意があって、偏りがあるのが普通でしょう。
栗林先生の言葉を借りれば「障害があるかどうかは自分で決めればいい。」
浅見さんが生活の中で困っていることがなく定型だと言うならそれでいいのではと思います。
少なくても、他人に「発達に障害がある」と誰かにいうのはお節介です。
私は浅見さんは「ありのままで生きてきた人」と思ったことは一度もありません。
どちらかというと「こんな無邪気な大人は見たことがない」と思って見ています。
浅見さんと出会って三年。私に周囲も同じ様に皆が思っているようです。
子供の様な無邪気さをありのままと勘違いされているのではないでしょうか。
ありのままで生きている人には、会社勤めは出来ません。会社の経営はもっと出来ません。
家庭生活も難しいでしょうね。浅見さんの周囲に人は集まらないでしょう。
と、私は思っていますが…浅見さん。どう?
北海道は30度近くまで気温が上がっています。湿度も60%超えています。
夏の北海道を楽しんでください。明日、私は炎天下の下で運動会です。
このブログでは最近、「こういう大人にならないように」というイタい米は晒すことにしているんですけど
このghotiっていう人に関しては、どうしようか迷いました。なんというか、全然ひねりがなくてつまんないから。
それにしてもこちらが罵詈雑言を受けるのはよくて、やり返してはだめという今話題の「いじめ」論理を振り回す障害者の家族と当事者が時々いますね。
この種の人たちは、母さんの言う
=====
ありのままで生きている人には、会社勤めは出来ません。会社の経営はもっと出来ません。
家庭生活も難しいでしょうね。浅見さんの周囲に人は集まらないでしょう。
=====
が解せないのだと思います。それで不可解で不愉快なのだと思います。言語能力と知的能力がないはずなのに出版社経営してるし、著者にせよ読者にせよ、人が周囲に集まるのも不可解なのでしょうね。
そして自分の呼びかけで、周囲から人が散ると思っているのでしょう。かわいそうに。
=====
私は浅見さんは「ありのままで生きてきた人」と思ったことは一度もありません。
どちらかというと「こんな無邪気な大人は見たことがない」と思って見ています。
=====
そうだね。無邪気なまんまで、いいことあったら喜び、いやなことされたらやり返し、それでも好きな仕事と自慢の夫(笑)、そして母さんや大地君や画伯、ニキさんにちゅん平、神田橋先生や長沼先生や岩永先生や愛甲さんや支えてくださる読者の皆さんと出会って幸せにやってこられた程度には、私は運がよかったのだと思います。
神田橋先生に一度きいたことがあります。「私は現世で徳を積んだ覚えがないんですけどこんなに幸運なのは前世の行いがよかったんでしょうか?」って。真顔で。神田橋先生に前世を見通す力まであるかどうかは知りませんが。
神田橋先生は「わははははは」と大笑いされました。あれはどういう笑いだったんでしょうか。
まあいいや。
母さんもまた来てね。
浅見さんも楽しんでいるわけじゃないでしょう。でも、書かなければならない理由があるのです。
「名誉健常者」という造語と我が家は何に関係もありません。しかし、この言葉に反応しての嫌がらせメールは50件以上。
藤居のブログを読んでの批判メールは100件以上。藤居は私の友達ではありません。お会いしたこともありません。
大地の本を買ってくれた方でもないですし、療育のお世話になったこともありません。
それでも「そらパパさんが言っている。あなたの子育ては間違っているそうだ。」「虐待はやめろ!」などと、あのブログから始まった嫌がらせに私はノイローゼになりそうでした。
私は普通の主婦で、我が家の子供達は普通に地域の中で生活しています。
私達の生活を守るために浅見さんは手を尽くしてくれました。
私だけではないです。藤家さんもニキさんも岩永先生も長沼先生も…みんなみんなです。
そして誰よりも浅見さんがネット上で言葉の暴力を受けています。
浅見さんは、物書きとして、実名で、自分の責任のもとに発信しているのです。
「やられた分はやり返す。」…いいんじゃないの。自分で責任とる覚悟でやっているのだから。
読みたくない人は読まなきゃいい。私も嫌な部分は読んでいません。
攻撃が怖いなら初めから赤の他人の浅見さんを話題にあげなきゃいい。
やられて我慢が出来ないなら弁護士にでも相談したらいい。ネット被害に親身になってくれる弁護士さんがいますよ。
私も浅見さんもお世話になっています。
自分たちが攻撃されたくなかったら、黙ってればいいでしょう。インチキ書いたブログは消さないといつまでも時効が始まらないのだから、トラブルを避けたいのなら消せばいいでしょう。そうしたらこっちも自分の読者にだけ向けてこのブログを書きますよ。
いつまでも謝罪もせず同じ状態を保ってるからこちらとしては対応を変えていないだけです。
弁護士以外の業者も特定のサイトを消すという売り込みきますよ。ただ断ってます。商売に差し支えがないからです。読者には良識があるということですね。
誰でもいいから教えてください。どうして障害者やその保護者はこちらを攻撃してよくてその逆はいけないの?やっぱり障害者親子は特権階級ですか?
母さんが仕事で地に潜ってた期間にわかったけど、あそこんちは体罰的犬的療育だった。慌ててすぐ消したけど見てた人いっぱいいるよ。あと、要するに発端は嫉妬だって教えてくれた人がいて、なるほどと思った。画伯に、気づいてなかったのかとあきれられた。でも母さんも気づいてなかったと思う。ニキさんと山岸の時もそう。支援者たちは強烈な嫉妬が背景にあると言うけど、ニキさんと私だけはなんで嫉妬されてるのか最後までわからなかった。今もわかってない。嫉妬だとしたらくだらないなあ。
まあともかく、私と同様母さんもニキさんも他人の嫉妬に気づきにくいタイプのようだけど、だから気が合うっていう面もあるんでしょ。強みは弱みの裏にあるよね。また神田橋先生にいわれるかも。「あなたのように開き直っている人は健康なのよ」って。