定型発達者もつらい…かな?

花風社・浅見淳子のブログ

納税額と受けるサービス

2012-01-27 07:20:40 | 日記
さて、1月24日の「療育マネー」の記事にあやみさんからいただいたコメントをもとに今日の話を展開していきますね。

私からのレスの中にも書きましたけど
一般家庭の場合、まず間違いなく行政から受けているサービスの対価のほうが納税している額より多いはずです。

これは教師だってそう。
いや、給与が税金から出てる、とかそれは労働の対価として度外視してもですよ。
教師だって道路を使ったり、落し物があったら警察にいったり、子どもが学校通っていたり、高齢な親がデイケアに通っていたり、一家で健康保険を使っていたりするんですからね。

それでも戦後、大戦への反省を言い訳に、国への貢献をいけないものとみなし、国に不満をぶつけること、国にたかることをひたすら教えてきたのが教育現場。
まあ大雑把に言って私はそう見ています。
共同体への感謝は教えない方針のようです。

そして教え子の自立を望んでいたとしても
それはあくまでその子が輝くため。
いや、これに不同意ではないですよ。輝く子が増えれば増えるほどいいでしょう。
けれども自分が育ててもらった共同体に感謝し、お返しするという発想は、どうもお嫌いなようです。

あやみさんは

=====

ただ、せっかく、多くの予算をかけてくれるのなら、もう少し有効に活かして欲しいなぁとも思います。
特別支援教育はうまく機能してない気がします。幸い我が子は恵まれた学校に通えてますが、格差も大きいですし、本当の支援教育になってほしいです。

=====

とおっしゃっていますが、そもそも教育現場には、予算を勝ち取る意欲はあっても、将来予算を回せる子に育てようという気はなかったのではないでしょうか。
健常児であっても。

そこに堂々と弱者扱いできる子たちが大量に生み出されたのが発達障害という概念。
これはもう、将来できるだけ国にたかれる人間に育てても、どこ恥じるところないでしょう。

っていう発想なんじゃないかな、と思うのですが。

もちろん全員が全員そうじゃないし(私がつきあいのある範囲でも)

先生方からの反論も期待して、こう書いています。

以前は知的障害のない・軽い発達障害の子たちは
「しつけの行き届いていない困った子」とされてきました。

今は「教えてもできないから守るべき子」って思われているとしたら

それは一つの誤解からもう一つの誤解へと移っただけであって
理解が進んだわけじゃないですね。

先生方は、「実は私たちは共同体に守られている」
「力のある人はそれにお返ししなくてはいけない」という考えが
先の大戦以来、心底からお嫌いなのかもしれない。

そして外国人と外国語でケンカをしたこともないくらいドメスティックな人生を送ってきながら
よく知らない外国をうらやみ、それを子どもにも植え付けているかもしれない。

でも教えてあげてほしいですね。

あやみさんのおっしゃるとおり。

=====

通級指導教室に通えることも、病院にかかれることも、その他諸々の支援で育ててくれた社会への恩返しは「働ける大人」になることだと思うのです。そのことは子ども自身も知っておく方がいいと思います。差別したり理解のない人もいるけど、社会全体からは大事に育てられたことを。

=====

そう、社会全体は、大事に育てているっていうことを。

その社会に世話になるときは世話になって
できるときは恩返ししようよ、っていう発想。

やっぱりいけないことなのかな?

教育現場の風潮に厳しいと思われている私ですが

先生方からの反論を期待しています。

楽しみだな。
反論くるかな?

それとも

「死んだふり」しますか?

(おお、これだから「挑発的」って言われちゃうんだな。ベムに。
ベムは千葉県発達障害者支援センターへのメールに、私のことを挑発的って書いてましたよ。もっともベムを挑発した覚えはないんですけど。存在知らなかったし(笑)。)



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発達障害者 特別支援教育
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8 コメント

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ごめんなさい… (松崎)
2012-01-28 17:05:58
自分の給料の金額を知らないニンゲンが教壇に立ってます。当然納税額なんかわかりません。そういうセンスがあったなら、他の職業を選ぶのではないでしょうか?
Unknown (西風)
2012-01-28 20:40:06
私は子どもが「共同体」に対する帰属意識を持つことはとても大切だと思っています。

税金によって生活の糧を得ながら、教師として子どもを育てるという職を負っている我々の存在意味は、育てた子どもたちが社会人となった際に、きちんと納税出来るようになるスキルを身につけさせることであり、そうすることに疑問を持たないようにすることと言えるのかもしれません。

機械と異なり当然ながら人間は様々な感情を持ちます、また、その生産性はその感情のもちようや生活の質により大きく変化します。

夢や目標をたてること、達成感を得ること、他者に感謝し感謝されること、家族をもつこと、対価を得て余暇活動を充実させること、生き甲斐をみつけることなど様々な付加価値を得ながら、一番の目標である「労働し社会に貢献する」ことを我々は日々生業としていると言えます。

そうして築き上げられた共同体は、自分たちの生活を守り、時に困っている人をサポートし、時に様々な発達の問題から働くために支援がいる人を大切にサポートしているのです。


だからこそ大人は、特に教師は、互いを尊重し、大切に思い、助け合うから共同体は成り立っているということを全力で子どもに伝えなければならないはずです。



自分を愛し、他人を愛し、郷土を愛し、国を愛し、他国を含めた地球全体を愛することはすべて連続性の上にあるのかなと考えることがあります。

ただ、皆さんご存じのように「愛」は内発的なものであり強制されるものではありません。

自分にも、他人にも「愛」を持てるような子どもを育てれば、ひいては連続する社会に対しても「愛」をもってくれるはずだと教師である私は考えています。


もちろんその為には社会自体は「愛」されるに値する場所である必要があります。
そういう社会はどういうものか、社会人である私は考えなくてはいけないと思っています。
納税の義務 (ひら)
2012-01-29 00:34:35
私達はよく「社会」という言葉を使いますが、それは一人一人、顔のある人たちで成り立っています。
例えば焼魚を食するにも、漁をする人、そのための船を造る人、仲買、商店、コンロを作る人などなど。目には見えない幾多の人たちの営みのおかげがあります。そのおかげで生活できていることを知ることが、社会人ぬるスタートだと思います。そして、やがてはその一人となって働くことが、人として生きることなんだと伝えてきました。
働き、税金を納めることが誇りなのだと。
「進路教育」が、中学校で単に高校受験のための教育をしていると誤解されがちですが、進路とはこれからの人生をどう考えるのか、ということなんです。高校へいく子もそうでない子もいるので、中学校で、大人になるってどういうことかをしっかり勉強させたい。
しかし、悲しいかな、現実の中学校では、勉強させられている。とか、10年後の自分をイメージできない子どもが増えています。まだ、精神がそこまで成長できていない子どもが多いのです。
できれば、その子どもの成長のスピードにあった教育ができればいいのになあ、と切に感じます。年齢で教育内容が決められるシステムを、そろそろ見直してもいいのではないかと考えます。
いつでも、学びたくなった時にとことん学べるようにすれば、いやいや学校に通って、大切な時間をムダ遣い、いいえ、どんな経験も無駄なことは無いのですが、本当に学びたくなった時に、卒業証書をもらってしまったばっかりに、夜間中学にも入学できないと嘆く人に会うたびに、人によって、学ぶべき時は異なるのだから、そこに寛容になれれば、教育はもっと実のあるものになれるのに、と思います。
科学者でも (浅見淳子)
2012-01-29 08:59:45
松崎先生ようこそ。
最初に書き込むのは勇者か愚者のどっちかと思っていたら松崎先生でした。つまり(以下略)
自分のお給料知らない人ってわりといると思いますが、先生が平均的な納税者で平均的な受益者の場合、受けている恩恵の半分しか払っていないということは、算数の苦手な私でも新聞読んでたらわかります。
科学者でも企業に入ると売上の成果を求められるでしょうし、ノーベル賞おとりになる先生方はあちこち行って膨大な研究費をもらってくるような交渉力が必要みたいですから、偏りを自覚している先生はぜひ物理は教えても人の道を説かないでくださいませ。
またお越しくださいませ。
最高のSST (浅見淳子)
2012-01-29 09:06:15
西風さん、書き込みありがとうございます。
西風さんが機能訓練を大事にされていることとこういう信念あ無縁ではないと思い安心いたしました。
ひとつ付け加えさせていただけるのなら、「見えないものは、ない」人たちにとって、教師の世界観というのはわりと絶対的で、いわゆる自虐的な国家観に苦しんできたASDの人がとても多いということです。それがセルフエスティームを根っこのところで揺るがしてきたのです。
先生たちにも色々信条はおありでしょうし、おっしゃるとおり愛は内発的であり強制できるものではないのですが、とくにASDの人の教育に関しては、先人たちにフェアであってほしいと思っています。
地震がある→テレビをつける→震度と震源地がわかる
これはどこの国でも達成されていることではありません。
「見えないものは、ない」人たちには、そういった過去の恩恵をあえて教える必要があると私は考えています。
岩永先生は大地君が診断告知を受けたとき「ご両親に感謝してください」と手紙を書きました。大地君はそれを大事に受け取り、本にも書きました。
それは最高のSSTだと思うのです。
そしてしばしば、特別支援教育の場で欠けているものに見える。それが私の抱いている危機感です。
またお越しくださいませ。
嘘は教えないでほしい (浅見淳子)
2012-01-29 09:10:34
ひらさんへ
自分の中学生のときを思い出してみても、それほど労働の意味とかわかっていなかったと思います。そして私は、学校でそれを教える必要があるかどうかはまだ結論が出ていません。それこそ先生たちの手に余るのではないかと考えています。
学校はとにかく勉強を教える場であってほしいです。そしてなるべく人格形成に立ち入ってほしくないのです。学校で教えられたことはうそが多いです。それを私たちは学校を出てから入った社会で痛感するのです。
どういう風に生きるべきか、とかは入った業界によっても微調整が必要です。学校の先生が教えられるのは、地方公務員の生き方に過ぎません。そういう謙虚さを持っていただきたいなあと思っています。
学校で教えられたうそを一番信じるのは信じやすい脳を持った人たちです。一番被害が大きいのです。
またお越しくださいませ。
認知を高める (ぐん)
2012-01-30 20:10:02
ご無沙汰しています。

皆さんのコメントも読ませていただきました。
教員にも様々な信条があるのでそこに言及することはありませんが、私個人としては子供達の認知を高めるために仕事をしています。最終目標は、いつも言うように働き続ける大人です。働く形態はいろいろありますが、どのような形であれ、働き、働き続けることが第一の目標です。その時のために一つでも多くのことがわかり取り組めるようになること、そのためにウソをつかず教え、サポートをすることが仕事です。それが社会とつながり、社会に貢献できることへの一番の道だと考えています。偏ってるかもしれませんが、人としてどうあるべきかを説くことは狭い学校文化の中では誤りやすいですし、限界があると思います。
まとまらずすみません。
認知とか学習とか (浅見淳子)
2012-01-31 07:45:20
ぐん先生、ようこそ。
なるほど、認知を高める、ですか。その表現は思いつきませんでしたが、とくに支援校のお立場では重要な視点ですね。ぐん先生はそのために多方面のお勉強をなさっているんですよね。
私は先生方がもうちょっと人の道より認知や学習方面に情熱を注いでくださったら、たとえば子どもによる学習スタイルの違いなどについて研究と実践が進むような気がしてなりません。知的障害があるなりに学力をつける方法はあるし、あって邪魔なものではないので。
またお越しくださいませ。

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