日馬富士の異常人気の中に、秋場所の幕があがった。期待を寄せた人々の望み通りになるかどうかが、今場所の最大の見ものになると私は思う。
こればかりは、並みの期待や予想が近づける世界ではないことをしみじみと思い知らされているせいだろうか。もうひと声といわれるところまで近づいていながら、「日の下開山」の称号だけは、自分のものにできなかった名力士を何人となく見送ってきたことだろうか。
私がすね者であるせいか、首尾よく綱を締めた力士よりも、締めることができなかった力士の方が、雄弁に土俵人生の思い出を語ってくれそうな気がするのだ。
その土俵人生を送ることになった青年に、大関は越える峠のひとつとされるものなのだろう。現在は6大関が競い合う激しさが、土俵で繰り広げられている。並大抵の努力では、人にほめられる相撲を客に見せることができない。
この厳しさは、先場所の星取表を見れば、誰にでも納得できることであろう。大関でも勝ち越すのがやっとであった。最高の成績が大勝といえるかどうか、幕内上位陣としては、決してほめられたものとはいえない。
初日という緊張感もあってのことだろうが、日馬富士の表情にはやはり緊張感が見られた。というより、碧山にひきずり込まれたといった方が良いのか。現在の戦いの場にやっと引き込まれた感が漂った。
しかし、この勝負のビデオテープを繰り返して見ると、意外な発見があった。ああ、このようにして戦いを挑んでいくのが相撲の常道だというのかがよく感じとれる。それは勧められてそうなったのか、自然の流れでそうなったのか、ごく問題なく差し手争いの展開になったことに見られる。もし、碧山が好んでそうなったのだとすれば随分大胆な選択だといえるだろう。
いずれにしても、初日にしてはこの先の楽しみを期待させてくれる。大関陣には体を整えてほしいと、以前から注文していたが、把瑠都がそうであったように、自分の五体を扱いかねるような体で本場所に立つことは許さないという厳しさを力士全員が持つような倫理観も必要だと思われて仕方がない。 (作家)
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