空に色が無い。色が無いというよりも、これが現実の風景であるという重みが無い。これは昔からの現象で、色を思い出すことよりも大切なのは、分裂しそうな自己を保つこと。
「一か月で帰ってくるから」
この言葉だけを信じて私は彼を待つことを決めた。涙を堪えて手を振った。
だけど、きっと私たちなら大丈夫だと思う。
愛には確実性が無い。そんな確実性がないものなのに縋りながらしか生きられないのは人間の弱さなのかな。
彼は地味でもなければ派手でもないけど、まっすぐで人のことを思いやれる人。仕事で大阪へ行ってしまう彼を私は見送った。家にはネコがいるから一人じゃないでしょ、と彼は小さく笑った。
ネコのみいちゃんは毛が真っ白で、瞳が緑色で、人形のようだ。彼も私も、彼女のことがお気に入りだったし溺愛していた。
しかしこう思う。私の大切な白いワンピースも、お気に入りの赤いリップも、彼を喜ばすことが出来ず、これらからは何も見いだせない。それは寂しいことだと思う。
右手には心療内科でもらった薬、左手にあるのは合い鍵だけ。私はこの二つを頼りに一カ月を乗り越える。
一日目 飼いネコがいるからひとりじゃない。
二日目 毎日しているメールが来ない。
三日目 心が落ち着かない。心療内科で薬を増やしてもらう。
四日目 今日もメールが来ない。ご飯が喉を通らない。
五日目 なんでメールが来ないの?感傷的になり手首を切る。
六日目 忘れられたのかな。心療内科でもらった薬2週間分全て飲む。
七日目 彼がいない。薬がなくなる。
八日目、愛海と歌舞伎町のバーへ行く。
愛海は結婚して毎日が幸せなの、と笑っていた。私は自分の手首を強く握りしめ、引きつりながらも笑顔を作ることに成功した。
少し痩せた?と彼女は目を丸くして聞いた。私はそんな自身の変化にまるで気付いていなくて、幸せな彼女に負けた気がし、適当に、ダイエット中なの、と髪をかきわけながら平然を装いそう言った。
愛海の細く尖った顎には肉が付いていた。それはけしてだらしなさを主張しているわけではなく、むしろ優しく、温かみのある雰囲気を醸し出していた。これが俗に言う幸せ太りってやつか、と私は心の中で即座に判断した。
二十一歳で結婚するという彼女の決断力に、初めは驚いた。しかし彼女は昔からの恋愛体質故の、苦い恋や経験を乗り越え決意を固めたのである。男の人を何人も魅了してきたくせに、その魅力をけしてひけらかすことなく、安定した幸せを選んだ愛海。尊敬の念すら抱いていた。情緒不安定なところが似ていて、お互いの傷を舐めまわすような仲であったが、彼女はそこから巣立ったのだ。私は取り残されないように取り繕うのに必死だった。しかしすぐにそれは縺れ、呼吸が上手く出来なかった。
「旦那が仕事から帰ってくるからもう帰るね。明日のお弁当のおかず作らなくちゃ」
ひらひらと手を振り、ピンクのワンピースが風でふわりと揺れている。私はその姿を見届けている自分が顔面蒼白だなんて気付きもしていなかった。携帯を見ても彼からメールか来ていない。
「どうして」
力なく小さく言ったのと、後ろから声をかけられたのは同時だった。
「お姉さん、良かったら一緒に呑まない?」
正直どうでもよかった。しかし、ついて行ったのは間違いなく自分の意思であって、訂正、本当は少しだけだけど、救われたような気がしていた。
連れて行かれたそこは、一見五月蠅いような光景として捉えがちだが、孤独を紛らわすかのように男女が騒いでいたり、寄り添い合っている姿が印象的だった。壁には小さくホストクラブと書かれていた。
嘘で固められているのは一目見れば分かる。しかし、その偽物を本物と見なし、楽しんでいる姿は憎めないというよりも人間の弱さだと思った。愛の対価がお金だということに私は後ろめたさを感じる必要が無かった。お金で買える愛というものは手軽に孤独から回避されて、私は嫌いにはなれなかったし、安心感をも同時に覚えた。
だって、嘘だって初めから分かっていれば傷つかないでしょう?
私の隣にいるのは彼ではなく、金髪にスーツという浮世離れしている別の人間であって、お酒を飲みながら話を聞いてくれる、それ以上でも以下でもないポジションなのだ。手首の傷と、処方されている薬の名前を教えたら優しくしてくれたから、私は嬉しかった。名前とアドレスが書いてある名刺をもらって、気持ちよく酔った状態でその場を立ち去った。私は、メールが来ない理由を考えないで、かつ、薬を飲まないで眠れたから行って良かったと自己解決した。寄り添ってくるネコのみいちゃんに餌をあげて、倒れこむように安眠は出来ていた。
九日目
苛々がおさまらない理由は、けして二日酔いだけではないと思った。減っているお金、来ないメール、なくなった薬、足りない人肌、現実に戻った虚しさ。しかし外に出るのも億劫だ。自分には何もないと、寝起きの機能していない脳内でつくづくと感じた。異性さえいなければもっと精神的に安定するのにとも思うし、しかしいなかったらいなかったで、自分の存在価値を見出さないほど薄弱な自尊心の持ち主なのだろうな、とも気付いていた。そして、そのことがまた悩みの種となり肥大していき、薬に頼る。どうしようもない連鎖だと感じた。自分は、あまりにもアイデンティティの確立が欠如しすぎている。
教科書に書いてある表面的なことを学ぶ才能があっても、その根本を全く理解出来ていない。今までの人生がそうだった。
「今更か」
煙草に火をつけ、小さく嘲笑うかのように呟いた。自己啓発の本や、哲学の本が無造作に置かれた机にある銀色の灰皿をぼんやりと見ながら、どう生きればいいのか、答えのないクイズを解いている感覚に陥りながらも考えていた。しかし、次の瞬間私は携帯が光るのを見逃さなかった。
きっと彼だ……!
甘い幻想を抱きながら携帯に手をかけたが、期待は見事に裏切られ、メールの送り主は昨日のホストだった。お金が交わらないと人は関わってくれないのかと貧困な思考へと化し、でもそれでも良いや、お店に向かおう、と思った。
夜の歌舞伎町は人が多く、それだけで酔いそうだけど、自分はそれ以上に溺れようと決意していた。
「寂しかった?話なら聞くよ?」
目を少しだけ細め、綺麗に並んだ歯を見せ笑う姿に人形みたいと言えば良いのか、人工的な表情だな、と思いつつも異様な魅力を感じた。今もし、天然と人工が良いのかと聞かれたら私は人工だと答えるだろう。
理由は大人数が天然を選ぶことは一般論で、それでも彼は一般論とは異なる少数派の心を掴むのが上手い、人工的な容貌だけでなく、表情までもをも作り上げられているのだ。
昔見た、見世物小屋にいた道化師を思い出した。何故この期に及んで思い出すのだろう、そう感じつつも、彼は虚しき美しい道化師なのだと甘美な感情に浸らせてくれる。
どう騙してくれるのだろう。麻薬を使う勇気なんてないくせに、アドレナリンの分泌を求めているのだから他者に縋りつくしか術はない。
どうして私には自分というものが無いのだろう。
十センチヒールの靴も、胸元が空いた服も、愛海以上に短いスカートも、多く付けた香水も、全てが必然だ。そこは両者が認知し合っていたはずだ。
女として生まれてきたこと以外に、一体何の取り柄があるのだろう。
私の彼氏への不満は爆発した。それなのに嫌いになれないものだから、やり場も無い感情をひたすらホストにぶつけるしかなかった。
個室でゆっくり話そう?という彼はチャージ料が三十パーセントかかるVIPルームを勧めた。この際どうでも良い、只のカモでも構わないから此処から去りたくないと思った。そして、お金を多めに持ってきておいて良かったと思った。
しかし酔っていた彼は次の瞬間態度が豹変し、自分はされるがままだった。個室の意味は、ゆっくり話したいからではなかったようだ。
ズボンを下ろしている姿をぼんやりと見届けながらそう思った。彼だったら絶対そんなことしないと思いながらも、それ以上にこの状況に興奮を覚えていた自分に憎悪と嫌気がさした。浮世絵の春画でもこんなことしていたな、と思った。顔面射精された瞬間私は我に返った。
「どうして愛してくれないの」
「不細工だから。あ、心がね。彼氏がいるのに、金で愛を買えるってことを正当化して他人に依存するような女は誰からも嫌われるよ。」
此処で私は現実に戻った。でも、どうせだったら最後まで騙して欲しかった。少なくとも彼から連絡が来るまでは。私は半開きの口で財布から無造作に札束を出し、力が抜けた腕でそれを渡した。
もう二度と此処に来ることはないだろう、それは嬉しいことなのか悲しいことなのか考える事が出来なかった。
人を信じるとか、信じないかとか、そんなことじゃなくて、ただ縋りつく何かが欲しいだけ。
頭が悪いから、哲学とかよく解らない。人間にすがって、そして最終的に救われたい。
……それだけだよ。
メンヘラは言う
こういう形でしか注目されないから、こういう自分を作るしかない
「こういう」の定義は人それぞれだけど
自分には何にもないんだって、そうつくづくそう思ったの。
意図的に自分を作っていたら何が本当とか分からなくなって…
本当の自分が分からない でもこんな辛い気持は感情の一部だから仕方ないよね?
同族嫌悪に苛まれたとしても、愛する人の根本は一緒だから嫌になる
いつになったらこの連鎖が終わるの?
昔友達だった子に言われたの
ティッシュ配りのバイトはやめなって。
理由は存在を無視された気分になるからだって
お金の対価が存在無視だったらきっと冷たい教室の一角を思い出すから。
泣き叫びながら唾を飲み込み挑む身体改造
どうしたら自分を変えられますか
身体に穴が開いても心の穴が塞がらないとほざくヤリマンは死ね
鏡を叩き割る自分とサヨナラしたいから整形外科
どうしたら自分を変えられますか
メスで切り取るのは過去だけで良いって気付いた時にはもう
最終的に行きつく心療内科
「どうしたら自分を好きになれますか」
十日目
家に帰宅した頃には日付が変わっていた。ネコのみいちゃんが大きな瞳を光らせながら私の方へと向かってきた。
ビー玉のように澄んでいる瞳は、幼い頃に見た景色を必然的に思い出させた。
どうしてこんなに汚れていないの?
図工の授業の時に使ったビー玉、綺麗だったな……。
どうしてこんなに汚れていないの!
気付いたら私は無表情でネコの首を絞めていた。ギャ、と鳴き声とも言えない悲鳴をあげ、口からは泡を吹いていた。それでもこっちをただ一点と見つめている美しい瞳は何かを悟っているかのようで、虚しくてたまらなかった。最後の最後まで飼い主に救いを求めるなんて、飼い猫の生涯は無常だとぼんやりと思った。
「そんな目で見ないでよ……」
感情は無化し、力だけが強さを増すばかりだった。何故こんなことしているのに、目をそらしもしないで純粋な瞳で何かを訴えかけているのだろう。
「そんな目で見ないでよ!」
純粋無垢な瞳を私は直視することは出来ず、自分の剥がれかけた紅いネイルに目をやりながら、何処で汚れたのだろう、何処で間違ったのだろう、何処まで戻ったら良いのだろう、高校の頃?中学の頃?小学校の頃?考えてみても目の前にあるのはネコの首を絞めているという事実だけで、何も生まれてはこなかった。自分を止めることは出来なかった。誰か私を止めてよ。
壊れたガラスが同じようには戻らないのと一緒で、このネコも同じようには二度と戻らないのだ。あんなに溺愛していたのに何故見られるのは笑顔じゃなく苦しむ顔なのだろう。何故自分は壊すことしか出来ないのだろう。
科学技術は発達しているのに何故時間を取り戻せる技術は生まれないの。
ネコはぐったりとし、目は閉ざされた。私はそれに安心もしたし、不安も覚えた。物体と化した死体を眺めながら崩れ落ち、呟くかのように言った。
「誰か愛してよ」
![なうで紹介](/contents/097/650/592.mime5)
![mixiチェック](/contents/097/650/593.mime5)
-