支那事変の開戦原因

日華事変は、盧溝橋の一弾で開始された偶発戦争だという見方が現在でも主流である。これは誤りである。つまり戦争に至るには、片方の軍事計画が必ず存在し、その発動を以って開戦となる。宣戦布告や最後通牒の手続きによるのではない。

日華事変直前外交

偶発戦争など個人間は知らず、近世以降の国家間の戦争では考えられない。

この戦争は、蒋介石がファルケンハウゼン軍事顧問団長が作成した戦争計画に承認を与えることにより開始された。

ハプロ条約

蒋介石=ファルケンハウゼンの作戦計画は上海にいる海軍陸戦隊(上陸「しゃんりく」と呼ばれた)を挑発し、本国からの陸軍部隊とともにゼークトラインに呼び込み、攻撃させ死体の山を築かせることにある。この作戦計画は結果がわかっている現在から見れば、愚かに見えるかもしれない。しかし第1次大戦中準備された防禦線にたいし攻撃に出た側は、イタリー戦線のカポレットー突破戦を除いて全て失敗、大損害を出している。作戦計画自体は一流と見なさざるを得ない。

張治中(第4路軍長)の軍命令

この蒋介石の戦争計画発動の決定は19世紀の外交用語では侵略の決断である。現在の日本政府はこの用語・侵略を別に解しているようだ。単純に旧社会党左派の敵領土で戦うのを侵略と言う説をとったのだろう。(社会主義政権またはその国家との戦争を侵略戦争だと言う定義もある。また日本の国家主義的な人々は他国を植民地にすることだ、とも言う。それでは戦争を伴わない方法で植民地としたらどうなるのか。侵略は侵略戦争であり、国家間の戦争に関する国際法上の定義にすぎない。経済侵略などはマルクス主義者の従属経済論にもとづいて、招待されて行った直接投資などを呼ぶもので第3世界=労働者論などを踏まえねば、政治的プロパガンダに過ぎない)

だが敵国の領土で戦うことを否定すれば沖縄戦の米軍も第1次大戦でタンネンベルグで戦った帝政ロシア軍も侵略軍となってしまう。国際法上、侵略者とは相手方の占有地・野戦軍などを武力攻撃した側である。これは予防戦争否定でもある。つまり防衛戦争のみ肯定し予防戦争への軍備を禁止するもので、ロカルノ条約や不戦条約、また日本国憲法などもこれを前提にしなければ解釈できない。

日華事変のような予期せぬ攻勢に出られた場合、誰でも混乱するだろう。しかし、当時の大国(列強)として反撃に出ないという選択枝があったように思えない。それが蒋介石の狙いでもあった。つまり、第1次大戦のファルケンハインの消耗戦理論である。ファルケンハウゼンはゼークト直系で、旧ファルケンハイン一派でもあった。

8月14日付け朝日新聞朝刊に掲載された上海海軍陸戦隊本部周辺の地図

記事は「突如支那兵の発砲、我陸戦隊断乎応戦す、閘北一帯の形勢緊迫」とキャプションがつき詳細が次のように報道されている。

13日朝9時20分頃宝楽安路海軍武官室より凡そ1町南の道路空屋より突如機関銃を発砲しつつあり。弾丸は武官室門前にも落下したので陸戦隊では直ちに同方面に出動家宅捜査を行っているが、これは便衣隊出現とみられ空気はいよいよ緊迫を呈するに至った。支那得意の遊撃戦術、南京虫のように支那の空室にへばりついた便衣隊は執拗に射撃を加えつつ我が軍に誘いの手を打っているが上海北四川路付近吟桂路、東宝興路一帯に便衣兵が出没我が陸戦隊は直ちに出動して現場一帯に散開し包囲の形でぢりぢり前進し家宅捜索を行っている。13日午後0時15分から支那空軍秘蔵の単葉、双発のマーチン爆撃機は租界の上空に飛来700メートルの高度をとりつつ西方より虹口方面を示威飛翔中である。支那爆撃機は13日午後0時15分より約30分にわたり租界上空を示威飛行した後そのまま北方に飛び去った。八字橋方面においても支那側は不法射撃に出て午前10時50分彼我の間に戦闘開始されつつあり。

この前日の新聞には支那中央軍列車10台以上を連ねて上海北駅に向かうと報道されている。従って新聞社はこの攻撃が蒋介石の指示にもとづくと把握していた。にもかかわらず、便衣隊と表現しているのは陸軍や外務省がまだ蒋介石と交渉できると考えていたからだろう。石原莞爾に牛耳られていたとはいえ、陸軍も臆病を通り越している。この閘北一帯は第一次上海事変後の協定で中立地帯とされ、支那中央軍の侵入は禁止されていた。

具体的には上海租界と日本砲艦への空爆、閘北にあった上陸本部への8月13日の攻撃から開始された。現在の中国ではこれから数年の事態を8・13抗戦と呼んでいる。前日から第1次上海事変で中立地帯と協約された上海北停車場(站)へ88師を集中させていた。

8・13外務省機密日誌

また中国軍は閘北の攻勢発起点を、10月28日までの日本軍による大場鎮占領まで維持しており、1点防禦には成功している。そしてこの考え、1点防禦が蒋介石=ファルケンハウゼン計画の根本的な失敗原因である。ドイツ軍事学に機動防禦の考えはない。

第1次大戦開始の直接原因がシュリーフェンプランであるように、日華事変の原因は蒋介石=ファルケンハウゼン計画である。このドイツ人により編み出された二つの計画はなぜ失敗したのだろうか。根本は実戦での結果を重視しない、そのあまりの抽象性にある。すなわち、実際に存在する部隊の具体的殲滅計画がない。両方とも包囲または殲滅する対象はそう動くと予想される敵部隊である。しかも恐ろしいことに両方ともこの予想自体は的中した。

ところが、最後の場面では敵に意表をつく作戦を実施され敗北している。

日華事変の場合は日本が無作為のまま上海を撤収することもありえた。すると上海はドイツと蒋介石の支配に置かれる。蒋介石の目的は日本の野戦軍を消耗に追い込むことで、これでは戦争目的が達成されない。こう言った場合の対処方法がないのもドイツ流の特徴だ。

1937年7月17日、蒋介石は廬山で演説した。

最後関頭一到。我們只有犠牲到底。抗戦到底。(最後の関頭に立ち至った。我々は徹底的に犠牲を払わねばならず、徹底的に抗戦しなければならない。)という言葉が含まれており、日本に対し開戦を意思表示した。3日後華北で動員を下令し上海=南京への集中を命じた。

また、外交的な争論と関係がなく蒋が戦争を開始したことを不思議に思うかもしれない。しかし、ドイツ流の軍事計画とは常に当座の外交争論と無関係に一方の意思で開始される予防戦争を特徴としている。長期の国家安定などと言う抽象的なものはさておき、ドイツ流はクラウゼビッツの論…戦争は他の手段においてする政治(外交)の延長…の最悪の弟子である。つまり同盟や復讐などによる国家間の対立を修復不可能なものと捉え、それらを前提に作戦計画を樹立、軍人が発動の主導権を握ると言うものである。

ただ日華事変が中国(国民)の侵略的意図で作戦を発動し開始されたとしても、満州事変は板垣・石原らによる私戦を以って開始され、政府が追認したもので日本の侵略戦争である。しかしこの二つの戦争を連結させる、または始めが日本の侵略だからその復讐のための戦争は前と一体と考えることは誤りである。それでは普仏戦争から第2次大戦まで一体になってしまう。永久戦争論にすぎず一方の国家主義にすぎない。この意味から日中戦争と言う呼称は誤解を生じやすい。また事件・事変・動乱・戦争がスケールを示すものとして考えることはない。決定的に誤り、または差別的でなければ歴史的呼称を使用すべきだろう。自分の造語を広げたいと考えるのは歴史家の悪い癖である。

また太平洋戦争は海軍を中心とした作戦計画の発動で開始された。誤った同盟観に従った日本側の予防戦争すなわち侵略戦争である。

形容詞を多用して追い詰められたとか、事実上の宣戦布告などと唱えても戦争を後で語る言葉として意味がない。山本五十六はきっと苦笑するだろう。

なお第2次大戦(欧州)の直接の原因はドイツとソ連共謀によるポーランド侵略だが、同盟義務(集団安全保障義務)により最後通牒でヨーロッパ戦争を開始したのは英仏である。ただこの時点で陸戦は開始されなかった。つまり不自然な戦争開始となった。これは英仏の作戦計画が蒋=ファルケンハウゼン作戦に酷似していたためである。すなわち国境を越えるという挑発行為こそしないが、第1次大戦と同じくドイツがベルギー=フランス国境を通過するものと予想し、ベルギーで防衛戦を挑もうとしたのだ。

D計画

この例は英仏が侵略戦争(ヨーロッパ戦争)を開始したことを示すが、善悪の判断は極めて難しいこともまた示す。つまり英仏の決定を侵略とするなら集団安全保障は成立しない。

また陸軍の主張により日華事変を含む太平洋戦争を大東亜戦争と呼ぶことが政府決定されたが、太平洋戦争は誤った同盟観に基づいて第2次大戦の一部として開始されたもので、これによって日本がヨーロッパ戦争を世界戦争にしたものである。日華事変とは直接の関係を有しない。従って被侵略国のアメリカ・イギリスの呼称太平洋戦争がより正しい響きをもつ。真珠湾以降決戦は全て太平洋のうち、または縁辺部で戦われた。


上海攻防戦に戻る