1990年代初頭、日本にはまだチョークアートという言葉は持ち込まれていませんでした。このアートと、この言葉を最初に日本に持ち込んだ弊社AASTは自社のホームページにその記録と現在に至る経過を載せる事に致しました。
【チョークアートとは】
チョークアートは地面や床に絵を描くタイプのものと、レストランやカフェにある黒板を使用して看板を描くタイプがあります。1990年代オーストラリアでは看板タイプのチョークアートが、それまでの旧いスタイルの看板と大きく変わり楽しいポップアートに進化されていました。旧いスタイルのチョークアートは粉を固めて作ったチョークで黒板にメニューや金額を書くもので粉チョークでは発色が悪く最小限度の情報しか伝わらない実用的な看板です。欧米では今もこの古いスタイルのチョーク看板が主流です。オーストラリアでは1990年代には新しいスタイルのチョークアートが編み出されていました、新しいスタイルのも呼び方はチョークアートと言いますが内容は大きく異なり画期的な技法を用いて魅力的に描かれた絵画のようになりました。
【新しいスタイルのチョークアートはゴールドコースト生まれ】
新旧の大きな違いとして旧式では描く時使用するものは粉チョークです、新しい技法ではその代わりにオイルパステルを使用しています。オイルパステルは色が豊富にありグラデーションも効果的に表現できて本物のような香りや感触が伝わってくる描き方ができます。この為、新しいスタイルは旧いスタイルとは一線を画し色彩もゴールドコーストらしいポップ感がある組み合わせ方です、この方法が目を引きつけ広告として印象に残るのです。ポップでキュートでカラフルで、そしてハッピーで、と言う表現がピッタリの新しいチョークアートはゴールドコーストで生まれたポップアートです。1990年代、世間ではこの画期的な技法を【魔法の技法で描いているみたい】と言いました。その頃ゴールドコーストに新しいポップアートを編み出し活躍していた工房がありました。この工房では二人の女性アーティストが看板を描いていて、一人は工房のオーナーでした、もう一人はチョークアート・アーティストのリサ・ポロック氏です。このアーティスト達が描くチョークアート看板にはオーストラリア全国から有名企業の名前も連ねて一時期、制作依頼が殺到していました。このハッピーで楽しいポップアートはゴールドコーストでは300日が晴天といわれ大自然に恵まれている環境の中で旧いチョークアートをもっと楽しく描きたいと思った地元の二人のアーティストとの感性からコラボされて生まれたと言われています。これらの理由により新しいチョークアートはゴールドコースト生まれと、いわれるようになりました。
世界で最初の【AASTチョークアート・スクール】
このアートが日本で知られるようになったのはゴールドコーストの一企業AASTが1990年代にチョークアートの【魔法の技法】で看板を描いていた二人のアーティストを探した事から始まります。その後、日本に紹介させてもらえる様に説得して、この新しいスタイルのチョークアートが受講できる学校として【AASTチョークアート・スクール】第1校目が設立されました。学校設立までの道のりは長く、当時この工房のオーナーは他人に【魔法の技法】を伝授する事を頑なに拒み続けアイディアと技法の流出を恐れていました。当時はチョークアートを教えている所は他にありません、この工房では他人に技法を教えることは絶対禁止・門外不出だったのです、今後も自分達だけで看板制作を行う、と考えですから教室や学校という構想は皆無でした。そのような状況の中でAASTはアーティストで工房のオーナーに日本人を対象にしたチョークアート・スクールの設立を提案しました、しかし、オーナーはアイディアの流出を恐れていた事の他に別の理由として日本人とのビジネスには好意的ではなかったのでした。その為、スクール設立の結論に時間が掛ったのでした。説得を重ね話し合った結果、工房側は「教える事」を担当し、AASTは「マーケティングとその一切のオーガナイズ業務を行う事」として、それぞれ独立した企業がパートナーとして役割を分業する形で合意し世界初のチョークアートを教える学校が設立されたのでした。この場合、AASTはアーティストの代理店ではなく、AASTとアーティストの共同事業であり両者はパートナー同士、双方には代理店関係や上下関係は無く収益は折半という独立した直接営業の契約を交わしていました。
【チョークアートが日本に広まった事で。。。】
一工房が編み出した技法ですから、どこにもない新しいチョークアートです。学校としても世界でたった一つです。ちょうど、インターネットが盛んになる時代でした、当時AASTはインターネットを通じて日本にチョークアートの情報を発信し、このアートの普及と日本人アーティストの養成に努めていきました。聞きなれない新しい名前に直ぐ日本の若い女性達が関心を示し、その後も、たくさんの方がゴールドコーストにチョークアート留学をするようになりました。その結果、当時魔法の技法と呼ばれていたチョークアートが日本に持ち帰えられ、広まり各地に学校や教室カルチャースクールが作られ、個人事業で看板を描くビジネスが行われるようになりました。現在この業界で活躍されているチョークアーティストの方々は殆ど【AASTチョークアート・スクール】の卒業生とそのお弟子さま達です、そして今では大勢の方々がチョークアートで新しいビジネス業界を作り独立したマーケットとなって日本の経済効果と活性化に貢献するようになりました。
【チョークアートは時代とともに変化しています】
それから十数年たった現在はチョークアートの内容も変化しおります。
AASTは2008年に第一校目を撤退しました。日本では現在もチョークアートが盛んです、特に湘南方面で人気がありアーティストの激戦区になっているようです。当地ゴールドコーストのカフェーやレストランでは、かつてのポップでキュートなメニューボードや看板が見られなくなりましたが一方ではチョークアートで描かれたインテリア商品が多数販売されています。AASTも時代のニーズが変化してきたことで従来の用途よりもっと多目的に活用できるチョークアートを目指し2008年2校目の学校を設立しました。この学校の講師は1990年代初めに出会った工房のもう一人のチョークアート・アーティストのリサ・ポロック先生です。先生は2003年に工房を辞められて自社を設立しチョークアート・アーティスト兼インテリア・デザイナーとして活躍されていました、チョークアートで描くオリジナルデザインを自社で制作し各種のホーム・デコレーション用インテリアグッズを自社工場で制作し全国で販売されているのです。AASTではメニュボード以外にもインテリア全般が学べて製品を制作することができる最初の学校としてリサ・ポロック先生と2008年に2校目の学校【オーストラリアン・チョークアート】を設立しました。かつての職場チョークアート第1校目でリサ先生が講師に任命されたのですが開校当初には受講生の指導方法がきちんと確立されておらず、リサ先生が教授法を開発しながら試行錯誤し殆ど一人で生徒を指導していたのでした。この指導法が基本となって受け継がれ、日本の学校でも伝えられているのです。当時のAASTのホームページには講師としてリサ先生を紹介しておりました。
【チョークアート・アーティストと空間デザイナーを目指して】
この学校ではチョークアートを基本にしながらプロになるためのインテリア・デザイナーやカラー・コーディネーターを目指す指導をしています。日本では地域によってはインテリア・デザインという言葉はまだ身近ではないようです、当コースでは建築図面・工学・設計などに携わるのではなくインテリアセンスを磨く為のコースです、例えば欧米では主婦が部屋の壁を塗り替え、それに合わせて壁を飾る額やクッションなども一緒にコーディネートさせてしまう事が日常的に行われています、オーストラリアでも、同様で、現地ではこのようなスタイルのインテリア・デザイナーの方がたくさん働いています。AASTはこの学校でインテリアセンスが磨かれ、少し手を加えるだけで家庭や職場が【心地ち良い空間】として生まれ変わる事ができればと応援しています。
【振り返って考えたこと】
学校設立した事でこれまで多くの受講生にチョークアート以外にもオーストラリアという国に興味を抱くきっかけを作り、チョークアート留学が縁で現在も交流が続いている方や日本以外の社会や文化に触れる機会を得て、その後の人生の進路を変更された方も多いと思います、それが良い場合や悪い場合など夫々ですが国際交流に繋がりました。またこのアートを紹介した事により日本に新しいビジネスが生まれた事も確かです。日本人は長所短所を含めて類まれな人種と言われています、その中の長所として世界の中でも正直で平均的に素養の整った国民、そして一般的に協調性を重んじ律儀で忠誠心がある、お互い様の精神で人に合わせ、自己主張せずトラブルを避けようとする傾向がある、などと言われていますが本当にそのように思える事がたくさんあります。こういう考え方は世界の人々にとってはめずらしい事のようです。例えば、当地は欧米風の契約社会ですがその契約の内容を無視したり守れない事はめずらしくありません。そういう背景の人々にとって忠誠する心が理解できなかったり、過小評価される事が多くありますが1985年前後からワーキングホリデーや留学や観光などで日本人との交流が盛んになり今は日本人は安全で正直だと歓迎されている事も事実です。一方ではそういった日本人の性格を利用し物事を自分に有利に運ぼうと持って行く傾向があり、このような状況の日本人は相手に屈しないように向き合って行かないと損な役回りになる、と日本人の現地法律の専門家も指摘しています。工房のオーナーは素敵なアートを日本に広めることができ、たくさんの人をハッピーにしファンにできた事は、かつてのローカル中心のビジネスより少しは成功できたと言えるのではないでしょうか。開校した事で日本人から恩師として忠誠され、ビジネスを支えられ、チョークアートとアーティストの名が日本で知られて日本に招待され特別扱いの光栄な機会を得て日本人の違いを感じてもらえているでしょうか。はっきりしている事は日本人と関わった事がラッキーだったのです。自分の周りから人が離れて行かないようフェアーな精神を行動で示して行けばこのアートの考案者として恩師として尊敬され今後もチョークアートビジネスは続いていくのではないでしょうか。
2010年10月
【チョークアート・ストーリー】文章の転用・引用を固くお断りいたします。
AAST【Australian Chalkart】