従軍慰安婦、消せない事実 政府や軍の深い関与明白
1997年03月31日 朝刊 017ページ 特設ニュース面
四月から中学校で使われる歴史の教科書に、旧日本軍の従軍慰安婦についての記述が登場する。それをきっかけに、従軍慰安婦問題が注目されている。
従軍慰安婦とは、その名の通り、戦争中に軍隊とともにあって、兵士たちの性欲のはけ口にさせられた女性たちのことだ。慰安婦の出身地は日本や朝鮮半島だけでなく、現在の中国や台湾、フィリピン、インドネシア、オランダなどにも及び、その実態は地域や時期によってさまざまだ。その徴集(募集)から移送、管理まで政府や日本軍が深く関与したことに否定の余地はない。
問題の本質を突きつめていけば、日本軍の体質はもちろん、植民地政策、そしてあの戦争の意味まで問い直される。戦場で繰り返される女性への重大な人権侵害は、現代に通じる問題でもある。
重要なのは、何より歴史的な事実だ。まず日本軍の慰安婦をめぐる事実関係を整理する。(従軍慰安婦問題取材班)
経緯 新学期から教科書に 戦後、長く問題置き去り
従軍慰安婦の存在については、戦後、雑誌に公表された手記などで触れられていたが、そのほとんどは兵士らの体験談や伝聞の域を出なかった。元慰安婦や軍関係者の証言を発掘した千田夏光氏の「従軍慰安婦」(一九七三年)などが話題を呼んだことはあったものの、日本の社会は長く、この問題に正面から向き合うことはなかった。
マスメディアで繰り返し取り上げられるようになったのは、韓国人の元慰安婦らが九一年末、日本政府に補償を求める訴えを東京地裁に起こした前後からだ。とくに、原告の金学順(キム・ハクスン)さんがテレビや新聞に実名で登場し、その体験が大きな反響を呼んだ。
戦時中に山口県労務報国会下関支部にいた吉田清治氏は八三年に、「軍の命令により朝鮮・済州島で慰安婦狩りを行い、女性二百五人を無理やり連行した」とする本を出版していた。慰安婦訴訟をきっかけに再び注目を集め、朝日新聞などいくつかのメディアに登場したが、間もなく、この証言を疑問視する声が上がった。
済州島の人たちからも、氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない。吉田氏は「自分の体験をそのまま書いた」と話すが、「反論するつもりはない」として、関係者の氏名などデータの提供を拒んでいる。
政府の見解も吉田氏の証言をよりどころとしたものではない。九二年一月、加藤官房長官(当時)は政府として初めて「軍の関与」を認めた。これは直前に防衛庁の防衛研究所図書館で日本軍が慰安所の設置などを監督、統制していたことを示す通達や陣中日誌が発見されたのを受けたものだった。河野官房長官(当時)の九三年八月の談話も、政府資料や韓国人元慰安婦の証言などを総合的に判断した結果だった。
九七年四月から中学校で使われる歴史教科書七冊すべてに慰安婦の記述が登場することになった。検定結果が発表された直後の九六年夏ごろから、一部の日刊紙や月刊誌でこれらの教科書に「反日的」などという批判が加えられ始めた。政府見解も「謝罪外交」と批判された。
強制性 人権の観点が必要 本人意思に反し自由侵害
教科書を批判する人たちの多くは「強制」の意味を事実上、軍や官憲による「強制連行」に限定した上で、強制連行を示す資料がないと強調する。
しかし、このように意味を絞っても「強制連行」の事例は公文書に記録として残されている。日本占領下のジャワ島スマラン(現インドネシア)では、強制的に抑留所に入れられたオランダ人女性のうち二十五人が軍の指示で、「欺まん、暴力、脅迫」によって慰安所に連行されたとするバタビア軍事法廷(オランダによるBC級戦犯裁判)の判決が九二年に公表された。これに対しては「例外的事件」などという反論があったが、インドネシアや東ティモールでこのほかにも、軍による現地の女性の「強制連行」を示す資料があった。
具体的な体験が公表されている元従軍慰安婦約百四十人の証言を分析してみると、占領地の中国、フィリピン、インドネシア、マレーシアでは約八割の人が「連行の際に何らかの強制があった」と話しているのに対して、植民地だった朝鮮、台湾ではこの比率は約二割にとどまる。植民地に比べると、占領地では軍などがかなり乱暴な集め方をした傾向がうかがわれる。
朝鮮、台湾では、「だまされた」と話している人が多い。軍による強制連行を直接示す公的文書も見つかっていない。当時の植民地の人々は大日本帝国の「臣民」とされ、建前としては「人身の自由」などを定めた帝国憲法の保護を受けた。甘言などによって自ら契約を結んだ形を整えた事例も多い、という見方がある。
「強制」を「強制連行」に限定する理由はない。強制性が問われるのは、いかに元慰安婦の「人身の自由」が侵害され、その尊厳が踏みにじられたか、という観点からだ。
「よい仕事がある」とだまされて応募した女性が強姦され、本人の意思に反して慰安所で働かされたり、慰安所にとどまることを物理的、心理的に強いられていたりした場合は強制があったといえる。
一方で、当時、公娼(こうしょう)制度があったとして「慰安婦は売春婦で、していることは商行為にあたる」などとする論者もいる。しかし、三一年の満州事変の少し前から廃娼を決議する県議会が続出、秋田県など十数県が公娼制度をやめていた。
また、「親が娘を売っただけだ」とする主張もあるが、大審院(現在の最高裁)は「人身売買」を認めていたわけではない。借金を理由に働くことを強要してはならないとしていた。
●徴集(募集) 「無理やり」を認める供述
従軍慰安婦はだれが、どのように集めたのか。
軍が徴集(募集)にかかわっていたことを裏付ける資料は、政府が一九九二年に公表した公文書の中にも含まれていた。例えば、内地での募集にトラブルがあったことを受けて、陸軍省副官が中国大陸に駐留している軍隊の参謀長あてに出した「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(三八年三月)という通牒(つうちょう)に、(1)募集は派遣軍が統制し、担当者の人選を周到にする(2)募集する地域の憲兵と警察当局と連携を密にすること、という記述がある。
募集の仕方を分析すると、(1)前借金でしばる(2)「よい仕事がある」などとだます(3)軍の威圧のもとに脅す(4)誘拐・拉致、などのケースがある。(1)や(2)の事例があったことは広く認められているが、最近は強制的募集の極限的な姿である、軍や官憲による「強制連行」の有無を問う主張が出てきている。
国立国会図書館所蔵の極東国際軍事裁判(東京裁判)の関係資料を調べたところ、日本軍人の戦争犯罪を立証するための尋問調書などが見つかった。
モア島(現インドネシア)指揮官だった日本陸軍中尉が、連合国のオランダ軍の取り調べの中で、「現地在住の女性を無理やり慰安婦にした」と供述している(四六年一月)。次のような問答があった。
問 ある証人はあなたが婦女たちを強姦(ごうかん)し、その婦人たちは兵営へ連れて行かれ、日本人たちの用に供せられたと言いましたがそれは本当ですか。
答 私は兵隊たちのために娼家(しょうか=売春宿)を一軒設け、私自身もこれを利用しました。
問 婦女たちはその娼家に行くことを快諾しましたか。
答 ある者は快諾し、ある者は快諾しませんでした。
問 幾人女がそこに居りましたか。
答 六人です。
問 その女たちの中、幾人が娼家に入るように強いられましたか。
答 五人です。
問 どうしてそれらの婦女たちは娼家に入るよう強いられたのですか。
答 彼らは憲兵隊を攻撃した者の娘たちでありました。
問 ではその婦女たちは父親たちのした事の罰として娼家に入るよう強いられたのですね。
答 左様です。
モア島のすぐ西にあるチモール島のポルトガル領(現東ティモール)では、進駐した日本軍が、地元の首長に慰安婦募集への協力を強要していた。その様子を目撃したポルトガル人の医院事務員が証言している(四六年六月)。
「私は日本人が酋長(しゅうちょう)に原住民の女の子たちを娼家に送る事を強要した多くの場所を知っています。彼らはもしも酋長が女の子たちを送らないなら、彼ら即ち日本人が酋長の家に行って彼らの近親の女たちをこの目的で連れ去ると言って脅迫しました」
オランダ領東インド(現インドネシア)における慰安婦募集の状況については、オランダ政府が九四年一月にまとめた調査報告書の中に書かれている。
ボルネオ島では、海軍が慰安所を直接管理し、「特警隊(憲兵隊に相当)が慰安婦を集める責任を負っていた」という。
アジア各地に広がった慰安婦の総数については、資料がない。六万人とも二十万人とも言われるが、実態は不明だ。
●輸送・移動 「指示」「便宜」文書残る
従軍慰安婦は占領地などで集められると同時に、日本国内や当時植民地だった朝鮮、台湾から戦場に送りこまれた。
慰安婦の輸送や移動に軍や国が関与していたことは、政府がこれまでに発表した当時の公文書でも明白だ。
小笠原諸島の父島にあった要塞(ようさい)司令部は一九四二年、東部軍参謀部と慰安婦の輸送人数や日程を打ち合わせた。「陣中日誌」にそのやりとりが残されている。
「慰安婦は出発準備完了しある由、何日頃(ごろ)出発せしめて可なりや」
「設備完了次第報告、(中略)五月中旬の予定」
昨年十二月、警察庁から初めて慰安婦関係の文書が出てきた。その「支那渡航婦女に関する件伺」(三八年十一月)によると、内務省警保局は五府県に、慰安所設置に必要な婦女を業者を使って集めるよう指示。計約四百人を中国南部に送るよう通知し、その輸送については次のように述べている。
「内地(日本)より台湾高雄まで抱主(経営者)の費用をもって陰に連行し、同地よりは大体、御用船に便乗、現地に向かわしむる」
渡航手続きにも政府機関が便宜を図っていた。中国に渡るためには領事館警察署の発行する「渡支事由証明書」が必要だった四〇年九月。部隊長と憲兵分遣隊長の証明書をもち、慰安婦六人を連れて台湾から中国に入ろうとしていた経営者らについて、台湾総督府は「本件慰安所従業員の渡航は急を要するものなるにつき」、特別に許可するようにと通知した。六人の女性は十四―十八歳だった。
日米開戦後まもない四二年一月、南方とよばれたアジア・太平洋地域に渡る慰安婦、経営者らの扱いについて外務大臣が回答した文書もある。
「この種渡航者に対しては、(旅券でなく)軍の証明書により渡航せしめられたし」
外務省はもともと慰安婦の渡航に消極的だった。この時期以降、軍が勝手に送り出せるようになったとみられる。
●設置・管理 軍が民営に物資、直営も
「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支百ケ、中支百四十、南支四十、南方百、南海十、樺太十、計四百ケ所」
四二年九月、陸軍省人事局恩賞課長が中国、アジア・太平洋地域などでの方面ごとの設置数を会合で発言したことが、医事課長の業務日誌に残されている。このころには陸軍省自体が慰安所開設の前面に出てきたことがうかがえる。
軍が直営した慰安所もあった(中国にいた独立攻城重砲兵第二大隊長の三八年一月の状況報告)。民営の慰安所でも、軍はその管理に深く関与し、実際には軍が経営しているのと同一視できるようなケースも目につく。
戦時中、海軍の軍政地域だったオランダ領東インドのセレベス島では、海軍大尉や陸軍中佐が慰安所の維持責任者を務めた例がある。このほか、民間人が責任者でも、軍が食料や化粧品などを提供している慰安所も多かった(四六年、「セレベス民政部第二復員班員復員に関する件報告」)。
軍が作成した慰安所の「利用規定」は相当数、文書で残されている。兵士の階級によって利用時間や料金を決め、性病予防の方法などを決めていた。売上高を毎月、駐屯地司令部に報告させていた例もある。
このように軍が慰安所管理に深くかかわったのは、兵士による強姦を防ぎ、性病を予防するという目的だった、と参謀長や軍医の記録にあるが、そういう効果があったかどうかははっきりしない。
管理される側の慰安婦は、どんな状況の下に暮らしていたのか。
連合国軍がビルマで捕虜にした経営者、朝鮮人慰安婦に尋問してまとめた報告(四四年)では、一カ月三百―千五百円の稼ぎを得て、五〇―六〇%は経営者の取り分だった。「都会では買い物も許された」という。
一方で、慰安婦たちが厳しい条件、監視の下に置かれたことを示す文書もある。東京裁判に提出された証拠資料の中に、ボルネオ島の慰安所状況について、オランダ軍が作成した報告書があった。
「日本人と以前から関係のあった婦人たちは、鉄条網の張りめぐらされたこれらの性慰安所に強制収容されました。彼女らは特別な許可を得た場合に限り、街に出ることができたのでした。慰安所をやめる許可は守備隊司令からもらわねばなりませんでした」(四六年七月)
日本軍側の文書からも女性を管理下に置いた状況は分かる。フィリピンの軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所は、利用規定で、慰安婦の外出を厳重に取り締まることを定めた。「慰安婦散歩は毎日午前八時より午前十時」と明文化し、散歩できる区域も地図つきで示していた。こうして慰安婦たちは兵士や将校の相手をさせられた。日本政府を相手どって訴訟を起こしている金学順(キム・ハクスン)さんの訴状では、「少ないときで一日十人、多いときで三十人」だったという。
○65人、謝罪・補償訴え 各地から多数が名乗り 日本政府の主張と対立
アジアの各地では、すでに数多くの元従軍慰安婦が名乗りでている。日本政府に謝罪や補償を求めて計六十五人が訴えている。「当時の国際法に違反しており、国家が補償すべきだ」とする原告側と「個人は国際法上の権利主体ではない。賠償・財産請求権問題は解決済み」とする日本政府側の主張が対立している。
一方、日本政府の肝いりでできた民間団体「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)が償い金一人当たり二百万円と橋本龍太郎首相の「おわびの手紙」を元慰安婦に渡す支援事業も始まっている。が、「日本政府の責任をあいまいにさせるもの」との批判も強い。
韓国政府に元慰安婦として登録した女性は百八十人、うち二十三人が亡くなった。在日韓国人一人を含む十二人が訴えている。基金の償い金は今年一月以降、七人が受け取った。
フィリピンでは当初、百人以上が名乗りでた。提訴は四十六人。償い金については、九六年八月以降、十一人が受け取った。
インドネシアでは民間団体の呼びかけに対し、二万人以上が、「慰安婦にされた」「強姦された」などと名乗り出ている。同国政府と基金は今年三月、元慰安婦を優先する福祉施設建設の覚書に調印。日本政府が基金を通じて経費を出資する。インドネシアは「元慰安婦の特定は困難」などとして、個人対象の支援事業には応じていない。このほか、ジャワ島にいたオランダ人一人が提訴している。
中国では山西省の六人が提訴している。中国政府は「日本政府がこの問題で責任のある態度をとることを求める」としている。
台湾では現地の民間団体が約三十人を元慰安婦と認めている。マレーシア、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)などでも、元慰安婦が日本の研究者らに証言している。
◆慰安婦たちの思い
◇フィリピン
フィリピンのレメディオス・バレンシアさんは二十歳過ぎのころ、マニラ首都圏で、慰安婦になることを強いられた、と話した。日本軍が一九四二年一月にマニラを占領して、しばらくしてのことだった。日本兵に小屋の中で強姦された。
「『ハヨプカ(けだもの)』。そう叫ぶと、日本兵は両ほおを殴り、『バカエロ(ばか野郎)』と言った」。バカエロは当時の現地の言葉で水牛を世話する人のことを意味したので、バレンシアさんはこの言葉を鮮明に記憶している。
その後、兵士にトラックで軍の施設に連れて行かれ、毎夜、兵士の相手をさせられた。数カ月後、さらに別の場所に移された。そこでは医師が定期的に下半身を診察し、病気になっていないか調べたという。
逃げ出せたのは四四年だった。米軍の爆撃が始まり、見張りがいなくなったからだ。
◇インドネシア
インドネシア・ジャワ島チマヒ出身のスハナさん(七〇)は一九四二年、無理やり慰安婦にされたとしている。家の前で遊んでいると、日本の軍服を着た五、六人の男に車に乗せられた。両親は留守だった。男たちは刀を持っており、抵抗できなかったという。
連れて行かれたのはオランダ軍の旧兵舎だった。ほかにも多数の女性と通訳兼雑役係がいた。
一週間は何もせず、八日目から兵士の相手をさせられた。
「食事と衣料の支給はあった。現金をもらったことはない。いつも『お金は、あとで』と言われ続けた。一人の将校から二度、軍票をもらったが、額は覚えてない」
外出はいっさい許されなかった。二年半ほどたって、突然家に帰るように言われた。両親はすでに死んでいた。
◇韓国
韓国忠清道のキムさん(七〇)は、十六歳のころ、だまされて慰安婦にさせられたと語る。平壌の大同江の近くで、友人と一緒に黄色っぽい服を着た男に朝鮮語で「工場で働けば食べ物をたくさんくれる」と誘われた。男とともに平壌駅から汽車で釜山に行き、船に乗った。約百人の若い女性と軍人が船の中にいた。着いた場所は「シンガポールだ」と軍人がいった。
「軍の部隊へ連れられて行った。工場でなかったので、聞いたら『黙っていろ』と言われた。次の日から兵士の相手をさせられた。泣くと軍人にたたかれた」
その後、部隊とともに各地の戦線を移動した。終戦時、軍隊は逃げ、取り残された。釜山に戻ったが、その後、朝鮮半島は南北に分断され、平壌には戻れないままだ。
(本人の希望によって姓だけにしました)
■4月から中学校で使われる歴史教科書の「慰安婦」に関する記述
【日本書籍】戦局が悪くなると、これまで徴兵を免除されていた大学生も軍隊に召集されるようになった。さらに、朝鮮から70万人、中国からは4万人もの人々を強制的に連れてきて、工場や鉱山・土木工事などにきびしい条件のもとで働かせた。朝鮮・台湾にも徴兵制をしき、多くの朝鮮人・中国人が軍隊に入れられた。また、女性を慰安婦として従軍させ、ひどいあつかいをした。
【東京書籍】また、国内の労働力不足を補うため、多数の朝鮮人や中国人が、強制的に日本に連れてこられ、工場などで過酷な労働に従事させられた。従軍慰安婦として強制的に戦場に送りだされた若い女性も多数いた。
【教育出版】労働力不足を補うため、強制的に日本に連行された約70万人の朝鮮人や、約4万人の中国人は、炭鉱などで重労働に従事させられた。さらに、徴兵制のもとで、台湾や朝鮮の多くの男性が兵士として戦場に送られた。また、多くの朝鮮人女性なども、従軍慰安婦として戦地に送り出された。
【清水書院】また、朝鮮や台湾などの女性のなかには戦地の慰安施設で働かされた者もあった。さらに、日本の兵力不足にさいし、朝鮮や台湾の人びとに対しても徴兵制をしき、戦場に動員した。戦後、戦犯となって処刑された人たちもいる。
【帝国書院】しかし、満州事変のあと、日本軍が中国に侵攻する重要な軍事基地とし、さらに朝鮮の人々も「日本の天皇の赤子(天皇を父とする子供たち)」であるとする政策により、日本語の使用が強制され、神社への参拝を強要し、姓名を日本式に改めさせました。戦争にも、男性は兵士に、女性は従軍慰安婦などにかり出し、耐えがたい苦しみを与えました。
【日本文教出版】植民地の台湾や朝鮮でも、徴兵が実施された。慰安婦として戦場の軍に随行させられた女性もいた。
*
今回の教科書批判が特異なのは、批判する人たちが文相に訂正勧告を繰り返し求めている点だ。教科書は国が書かせるものではない。現在の検定制度では、出版社がそれぞれに記述した内容を、文部省が検定基準に照らして審査している。基準に合っているかどうかの判断にはかなりの幅がある。
問題とされた七冊の歴史教科書には、慰安婦に関して直接、「強制連行」したという記述は出てこない。慰安婦を働かせたり、随行させたりした主体を明示しないなど、慎重な表現が目に付く。内容はいずれも、河野官房長官談話の範囲内といえる。
◆資料や引用部分には、差別的な表現や現在では不適切な表現も一部含まれていますが、記録としての意味を尊重し、原文のままとしました。仮名づかいや句読点などは現代風に改めました。
◎被害者でなければ語り得ない証言 「談話」当時の官房長官・河野洋平氏に聞く
――河野さんが官房長官だった当時の宮沢政権にとって従軍慰安婦問題はどんな意味を持ちましたか。
戦争から半世紀近くたち、冷戦も終わり、日本のアジア外交はこれまで以上に重要な段階に入っていた。日本の国際的地位は非常に高くなったが、一方でドイツのシュミット前首相やマレーシアのマハティール首相からは、もっとアジアの国々から理解されるように努力すべきだとの指摘もあった。
宮沢内閣は、日本はもっと品格のある国にならなければならないと考えていた。したがって、九一年十二月に訴訟を起こした元従軍慰安婦の方々の問題にも、やはり道義的に取り組む必要があると考えていた。
――談話発表までにどんな苦労がありましたか。
関係する多くの役所の、半世紀近く前の資料を集める点だった。日本側資料は一方の側の資料なので、元慰安婦といわれる方の証言も聴く必要があると考えました。関係者は高齢な方々ですから、できるだけ急がなければいけないという気持ちもあった。
――政府が公表した文書資料の中に強制連行を示すものはありましたか。
「政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に女性を駆り出した」と書かれた文書があったかといえば、そういうことを示す文書はなかった。けれども、本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明らかだった。
――昨年末の朝日新聞社とのインタビューでは「残された書類にもとづいて調査してみると、そういう事実(全般的な強制)は確かにあった」との答えでしたが、未公開の文書がまだあるのですか。
それはありません。「残された書類」とは、戦後残された資料のうち、私の官房長官談話を出すまでに見つかった書類のことだ。
――文書がもともとなかったのか、あるいは処分してしまったのですか。
こうした問題で、そもそも「強制的に連れてこい」と命令して、「強制的に連れてきました」と報告するだろうか。
――「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」とは、どういう意味ですか。強制性を認めた根拠は。
「募集、移送、管理等の過程を全体としてみれば」という意味だ。管理については、自由行動の制限があった。移送も関係機関の許可をとってどの船に乗せろ、という指示があった。
――募集については。
政府が聞き取り調査をした元慰安婦たちの中には明らかに本人の意思に反してという人がいるわけです。つまり、甘言によって集められた、あるいは強制によって集められた、あるいは心理的に断れない状況下で集められた、といったものがあったわけです。
当時の状況を考えてほしい。政治も社会も経済も軍の影響下にあり、今日とは全く違う。国会が抵抗しても、軍の決定を押し戻すことはできないぐらい軍は強かった。そういう状況下で女性がその大きな力を拒否することができただろうか。
――「甘言」「強圧」とはどういうことですか。
「甘言」とは、例えば「工場で働いてもらう」と言われて連れていかれたところが、慰安所だった。つまり「だまされて」ということだ。「強圧」とは、植民地統治下にあって、軍が背後にいることがはっきりしているという状況の中で、その指示とか、申し出とかは断れる状況ではなかった、ということだ。
――元慰安婦の証言が、強制性を認める心証となったのですか。
連れていった側は、ごくごく当たり前にやったつもりでも、連れていかれた側からすれば、精神的にも物理的にも抵抗できず、自分の意思に反してのことに違いない。それは文書には残らないが、連れていかれた側からすれば、強制だ。
――元慰安婦の証言の信ぴょう性について疑問の声もありますが。
半世紀以上も前の話だから、その場所とか、状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる。相当な強圧があったという印象が強い。
――政府が聞き取り調査をした軍人・軍属の中にも強制連行があった、と証言した人はいたのですか。
直接強制連行の話はなかった。しかし、総合的に考えると「文書や軍人・軍属の証言がなかった。だから強制連行はなかった。集まった人はみんな公娼だった」というのは、正しい論理の展開ではないと思う。
――韓国側と事前に文面をすりあわせたのですか。
談話の発表は、事前に韓国外務省に通告したかもしれない。その際、趣旨も伝えたかもしれない。しかし、この問題は韓国側とすりあわせをするような性格のものではありません。
――韓国側が金銭的要求を放棄するかわりに強制性を認めるという密約があったという人もいますが。
そんな密約はなかった。金泳三大統領はその前から「日本が真相を明らかにすることが重要だ。物質的補償は日本に求めない。韓国の政府予算で行う」と語っていた。
――歴史認識について、日韓間でしばしば摩擦が起きる政治状況をどう思いますか。
政治家の発言は仲間内だけで通用すればいいというのではなく、国際社会で通用する発言であるべきだ。イデオロギーではなくて、史実に正確かどうか、が大事だと思う。教科書にどう書くかということと、歴史的な事実があったかなかったかということとをごっちゃにしてはいけない。事実はまず認める。その事実をいつ教えるのかという教育技術の問題は、別に議論すればいい。
――ドイツにも慰安婦がいたのに、なぜ日本だけが教えるのか、という批判もあるが。
歴史は正しく教え、二度と間違いは起こさないということをきちんと自ら確認して、進むのが一番正しいと思います。
――中学校の教科書から慰安婦の記述の削除を求める動きが自民党でも広がっています。
むしろ全体の流れが少し変わってきたために、非常に保守的な人たちが、危機感をもってきている、ということじゃないか。
――九五年十一月の日韓外相会談で歴史の共同研究を支援することで合意しましたが、そのねらいは。
共同研究を支援して、歴史認識が一致すれば一番いい。一致しなくても、どこが一致しないのかについてお互いがわかりあうことも意義がある。
――アジア女性基金の事業が難航していますが、どこに問題がありますか。
多くの方々から約四億七千万円が寄せられていますが、今後も、日本国民のまさに道義的な気持ちを表現するということでやっていきたい。日本の男性も女性ももう少し、アジアの女性の問題をきちんととらえて、協力していただきたい。政府もまた道義的責任を感じ、一層バックアップすることが大事ではないか。さらに言えば、例えば学校でももっと中国語とか韓国語とかを教え、若い世代が直接交流することが大事なんでしょう。遠回りなようだけれども、そういうところが一番大切じゃないだろうか。
▼慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話 1993年8月4日(全文)
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多(あまた)の苦痛を経験され、心身にわたり癒(いや)しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫(わ)びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
▽慰安所と慰安婦訴訟
日本国内で提訴されている元従軍慰安婦関連の訴訟。
数字は現在の原告数。カッコ内の数字は提訴期日。
(地名は、当時住んでいたところ。原告は追加起訴を含む)
朝鮮半島 8(1991年12月)
3( 92 12 )
1( 93 4 )
中国 6( 95 8 )
フィリピン 46( 93 4 )
オランダ領東インド 1( 94 1 )
<地名> 公文書(日、米、英、オランダの各政府資料)の記述から。年月は文書の報告時期
*
<沖縄> 沖縄本島に朝鮮人慰安婦40人、それ以外の琉球諸島に同110人が朝鮮への出航待つ(45年11月)
<広東> 周辺を含め慰安所の「人員」約500人(39年4月)
<海口> 慰安所の「人員」180人(39年4月)
<イロイロ> 慰安所2カ所でのべ約110人の検査報告(42年5月など)
<ケンダリー> 海軍部隊に慰安所があり、「淫売婦」15人(46年6月)
<ラバウル> 海軍の慰安所6軒、階級によって区別(45年11月)
<上海> 海軍慰安所7軒、「陸軍慰安所臨時酌婦」300人(1938年)
<南京> 陸海軍に専属の慰安所を陸海軍の直接経営監督するものと規定(38年4月)。のべ1,556人の「特殊慰安婦」の検査報告(43年2月)
<ミッチーナー> 朝鮮人慰安婦20人(44年10月)
<シンガポール> マレー半島、スマトラを含む在留邦人737人のうち慰安婦194人(42年8月)
慰安所の存在が公文書(同)で確認された主な場所
沖縄 上海 南京 蕪湖 漢口 南昌 広東 海口 香港 ミッチーナー マンダレー シンガポール マラッカ ベラワン スマラン ケンダリー ラバウル イロイロ マニラ
※地名は当時の日本軍資料などに基づく