楕円球コラム 「スタンドから」
Vol.113「誇りと品格なきチームに明日はない!」投稿日時:2012/09/04(火) 09:11
少し時間が経っている。頭は冷やされたはずだ。
だが、あの日以来、怒りと屈辱感はまったく晴れることがない。
菅平に行ってきた。早稲田対帝京のゲームを見た。(ちなみに、誰も取材費などくれないので自腹である)。
帰りの新幹線の中で、筆者は悔しいやら情けないやらで、一人涙していた。いいオヤジが新幹線で涙する姿に、隣の席の青年は驚いたことだろう。
涙の理由は、0-43でワセダが敗れたからではない。
早稲田大学ラグビー部が「誇りと品格」を自ら捨て去った瞬間に立ち会ってしまったからだ。
いや、捨て去ったのではないのかもしれない。「誇りと品格」。彼らはそんなものが世の中に存在することすら知らなかったのかもしれない。
読者のみなさんは、何を言っているのかさっぱりわからないだろう。筆者が新幹線で一人涙したわけを語ろう。
最大のものは、早稲田側から帝京側へ発せられたヤジである。
「五流大学!」
スタンドからではない。選手から発せられたヤジである。
最低だ。
早稲田とかいう大学が何流なのかは知らないが、品格が五流以下であることだけは確実だ。
さらに、試合のさなか、夏合宿での練習で真っ黒に日焼けした帝京の選手に対して、
「くろんぼ!」。
これに至っては、何が言いたいのか、何がしたいのか、さっぱりわからない。
君たちは幼稚園児か!
いや、これは幼稚園児に失礼だ。いまどきの幼稚園児は、こんなバカなことは言わない。
そして、帝京のキャプテンが試合後、早稲田ベンチにあいさつに行ったところ(後藤監督は早々にグラウンドを後にしていたらしい)、あいさつを受けた早稲田のコーチはその帝京のキャプテンを「あいさつなどいらない」と追い払ったという。
なるほど。あいさつもできないコーチに指導されているのでは、選手に何を求めても無駄である。
筆者は縁あって帝京の取材もさせてもらっているが、本コラムの執筆者であることを知っている帝京関係者から「早稲田ってそういうチームなんですね」と言われるこの屈辱。
「あなたはあんなチームの関係者なんですね」
「あなたがいつも『すばらしい』と言っている後藤監督率いるチームにしては、品格に欠けますね」
そう言われたも同然だ。
少なくとも、筆者にはそう聞こえた。幻聴ではあるまい。
はっきり言おう。
早稲田大学ラグビー部の諸君よ。自ら、その誇りと品格を捨て去った者に、明日の栄光など絶対にない!
筆者の知っている早稲田大学ラグビー部は、こんなチームではなかった。相手チームをリスペクトし、自分たちの誇りと品格を胸にグラウンドに立ち、勇猛果敢に目の前のプレーにのみ集中し、試合後はノーサイドの精神でお互いを称え合う。そんな集団だった。
ところがいまの早稲田大学ラグビー部はどうだ。
相手を「五流大学」などとさげすみ(そんなことを言うあなたこそ五流以下である)、さっぱりわからないヤジ(くろんぼ)を発し、そして指導者はあいさつの仕方すら知らない。
はたして、こんなチームが「荒ぶる」を歌うにふさわしいチームなのか!
もちろん、筆者が言いたいのは、「五流」とか「くろんぼ」などと言うな、ということではない。そんな発言を許す組織の風土を問うているのだ。
「すべてはほんの一握りの部員のバカな行為で、ほとんどの部員は真面目に頑張っています」
それはそのとおりだろう。だが、それではいけないのだ。
そのほんの一握りを許す風土が、組織全体を腐らせてしまうことに気づかなければならない。
相手を不当にさげすむのは、自分たちの自己肯定感が低いからだ。自己肯定感とは自分自身への評価のことだ。自分への評価が低く、しかも高めることができないから、相手を不当におとしめて、自分を高く見せようとする。不当におとしめないと、自分自身の評価の低さに耐えられないのだ。
しかし、相手をさげすんでも、自己肯定感は高まらない。むしろ、いっそう低くなるだけだということに、一刻も早く、気づいてほしい。
誇りと品格を捨て去ったものに、勝利などけっしてないのだということに、一刻も早く気づいてくれ。
まだ間に合う。君たちは「ワセダ」なのだ。その誇りと品格を取り戻してくれ。誇りと品格なくして、勝利などありえないことに気づいてくれ。常に、「自己肯定感」を高めることを意識してくれ。
「荒ぶる」とは勝利を称える歌ではない。勝利するにふさわしい人間たちを称える歌だ。
怒りと悔しさに任せてここまで書いてしまったが、筆者には一つだけ落ち度がある。ワセダの面々のコメントを取っていないことだ(だって、あっという間に誰もいなくなってしまったから)。
反論があればぜひ言ってきてほしい。後藤監督、もしくはワセダクラブに言えば、筆者への反論を述べることができる。
誇りと品格を取り戻すための反論を期待する。
その反論を次回の本コラムで紹介できることを期待している。
誇りと品格を取り戻す手段として、本コラムが生かされるならこの上なくうれしく思う。