致命的ナ欠陥アリ

ゼロ戦は2度、空中分解する事故が発生しています。

2005年に三菱重工のゼロ戦設計者、曽根嘉年が記録した十冊前後のノートが公開されました。
軍部とのやり取りが記録され、軍部は根本的な見直しは行わず、応急措置で乗り切ろうとする姿勢、更には問題先送りへの苦悩が記録されていました。

−初回空中分解事故−
1回目の空中分解事故は、1940年3月11日、海軍横須賀基地で試作機の飛行実験中、突然空中分解しました。 
急降下から反転急上昇に転じたときに事故が発生しました。

尾翼中央部の
昇降舵マスバランサーが飛び散って、機全体が異常振動を起こし空中分解しました。

マスバランサーが飛び散った原因は、尾翼
昇降舵バランサー中央のマスバアランサー取付腕が金属疲労で折れて飛び散り、バランサー機能が喪失して尾翼が激震を引き起こし、機体に振動が増幅され、機体強度の限界を超えて空中分解しました。

金属疲労した原因は、マスバアランサー取付腕を軽量化するのため、肉抜き穴を開けました。肉抜き穴によってバランサー強度は想定以上にもろく、結果的に金属疲労を起しました。

事故機を引き上げ調査した設計者たちは海軍への報告書のなかで、「激烈ナル振動」 「機体強度不足」などの調査報告を海軍に報告しています。

しかしながら、1940年4月5日 軍部から突きつけられた改善要求は攻撃第一とし、マスバランス部品材料を超超ジュラルミンから鋼鉄製に造り替えるもので、機体補強対策は無視した応急措置であって、人命を顧みないものでした。

この、人命を軽視した攻撃第一とする海軍の方針は、技術的な問題以外に、それからの、戦局に大きくのしかかる障害となりました。 
やがて戦局は悪化し、特攻隊を編成展開するまで米軍に追いこまれ、ゼロ戦運用に暗くて重い影を落とす前例となりました。

そして、日本は
日本時間1941年12月8日未明、(ハワイ時間12月7日)第二次大戦へ突入します。

−2回目の空中分解事故−
1941年4月17日、テスト飛行中に突如バランスを崩し、空中分解事故が発生したとの知らせが曽根嘉年のもとへ届けられました。
空中分解した飛行状況は、急降下から反転して上昇しようとしたとき、突如バランスを崩し突然空中分解しました。

曽根の報告書によると、残骸の主翼表面には2本の縦ジワがあると記されています。
シワは金属板の薄い部分に顕著に起きていました。
更に、主翼にシワができる現象は前線のパイロットからも報告されていました。シワは最も力のかかる主翼の付け根部分に向かって大きくなっていました。

設計者曽根は、以前から主翼の金属板の薄さに懸念していました。1940年9月の報告書、強度試験で強度余裕が皆無であると記しています。しかし、海軍はこの問題を取り上げませんでした。

急降下して反転上昇するときに、主翼の金属板が薄いとかかる力に耐え切れず主翼はねじれます。主翼の変形により空気抵抗が増大し、異常な振動が発生して空中分解に至ったのです。

一方、現在の
航空機は運用上予想される最大荷重(制限荷重)を想定して設計します。 したがって、主翼の構造は終極荷重(Ultimate load)に少なくとも3秒間は耐えられるものであることとされています

縦ジワができた原因に話を戻します。
四角形の超超ジュラルミン板を菱形に傾けて固定します。その金属板を上下方向に力を加えるとシワが発生します。
力を弱めるとシワは解消します。
上下運動を繰り返してもシワは元の平らな状態に戻ります。
更に、強い力で上下方向にに引っ張ると、ある限界点を超えた段階で、発生したシワはもとに戻らなくなります。

飛行訓練程度の反転上昇でも、主翼には下方向にG負荷を受けて、主翼は湾曲して空気抵抗が増大します。しかし、「湾曲などのれじれ」現象は軽微なものか、シワに起因する振動発生現象は平常飛行の範囲内に収まっていたと推定できます。

この現象を事故機に当てはめてみます。
実戦モードの飛行は限界速度で急降下して反転上昇します。最大限のGは主翼の薄い金属板を容赦なくねじ曲げました。やがて薄い超超ジュラルミン板は、かかる力に耐えかねて大きなシワができました。
このシワが主翼の空気抵抗を増大させて、異常振動が機体全体に広がり、
終極荷重に耐え切れず空中分解したのです。

さて、主翼に縦ジワが発生する要因を生む根本問題は、低出力エンジンを使わざるを得えず、加えて海軍の過剰な旋回性能要求を満たすため、設計段階から機体全体の軽量化を図るため、主翼の超超ジュラルミン板の厚みを1mm以下までそぎ落せざるを得なかったことと、肉抜き穴を開けざるを得なかったことです。

事故発生要因は、海軍の旋回能力、最高速度、上昇高度、航続距離、兵装の世界トップクラスを超える背伸びした要求に応えるには、実戦での高速急降下の反転上昇時のGに耐えうる機体とする設計者の要求は受け入れられず、攻撃と堅牢な機体、更には防御装置であるべきであったはずの戦闘機造りが、実に偏ったバランスを欠いた戦闘機を造ってしまったことです。

ガダルカナル島奪還への海戦と、それ以降の戦局では、グラマンF6F-3ヘルキャットは頑丈な機体に物言わせて900kmの急降下と反転上昇で一気にゼロ戦の上空に駆け登り、再び急降下で背後に回りこみ銃撃しています。ゼロ戦キラーと呼ばれ、ゼロ戦を最も多く撃ち落としています。

加えて言えば、旋回性能を発揮できるのは、敵機との距離が至近距離のときです。
そして、敵機もドッグファイトで臨んで来たときに、身軽な旋回で敵機の背後に回り込みます。

戦闘する空は限りなく広い。高速機は限りなく広がるスペースを使い、敵機の背後につくチャンスを狙い、間合いを保ちます。
ですから、高速になった戦闘では敵機との間に相当な距離があり、至近距離になるのは敵機に背後を取られた時か、すれ違いや、互いの正面から撃ち合う時のみに限られます。


結論として、
空中分解事故を引き起こした根本原因は、日本人が古い昔から共有する犠牲的精神を発揮してもらうことを前提にした精神構造が根底にあります。
この、自発的な自己犠牲の上に組織人たる海軍があぐらをかき、罪悪感を伴わないまま、人命軽視を容易に持ち出すに至り、攻撃第一主義を貫いた結果であったと思います。

2011年3月11日の東日本大震災で引き起こした人災、福島原発の放射線放出事故後の東電の対応とダブって見えてきます。
福島原発の作業現場で身の危険と隣り合わせの作業員の処遇は、軽く扱われマスコミに何度も取り上げられました。
海外メディアは 「彼らは自発的に自己犠牲をして働いている。英雄的な行為だ」 と賞賛しましたが、実際の現場内部の実情は、まるで人命を軽視しているように、私には見えました。

参考に、ロ戦とアメリカ戦闘機の比較表とゼロ戦のエンジン開発遅々と進まずを見てください。

000     海軍は全面的な見直しを怠った

海軍は開戦初期で好成績を上げたドッグファイトに固執し、旋回性能を維持したいがため、応急措置で主翼表面の超超ジュラルミン板の厚さを0.5mmから0.6mmに0.1mm増やしました。
主翼表面だけ超超ジュラルミン板を0.1mm増やしても、高速急降下から反転上昇するときの、かかるGに耐える強度を補えず、結局、制限速度を650kmに抑える方針を出しました。

1943年(昭和18年)8月頃、量産型が完成した52型は主翼表面板を厚く補強して、急降下の最速は740kmになりました。
しかし、設計当初の急降下制限速度は900kmには遠く及びず、応急処置対応で済ませてしまったのです。

        米軍の対ゼロ戦戦法の変更

米軍はアラスカの孤島で不時着したゼロ戦の捕獲に成功し、米本土で徹底したテスト飛行を繰り返し、以下の弱点を見い出します。

1 機体が軽く、急降下すると400Kmから430Kmで操縦桿が
  凍りついたように動かなくなる。
  482Km(300Mile)の降下速度が限界。
2 防弾装置が全く無い。

戦法の改良
1 ドッグファイトを避ける
  2機編隊で並行飛行する。
  ABの2機のうち、A機の背後にゼロ戦が付いたらA機は
  直ちに急降下して回避する。
  B機は旋回しながらゼロ戦を銃撃する角度を探る。これ
  の波状攻撃。
2 一撃離脱戦法
  ゼロ戦の2000フィート上空から急降下でゼロ戦の背後
  に回り込みながら銃撃して直ちに離脱する。
3 標的の広い両翼の燃料タンクを狙い撃つ。
ゼロ戦が
  撃墜された原因の大部分が被弾による火災であった。

米軍のパイロットは【急降下するとゼロは追って来なかった】
【翼に命中すると、すぐ火を噴いた】と証言しています。

ゼロ戦のパイロット達は山本五十六元帥との対話集会で防御装置の必要性を切実に訴えています。

1943年年4月18日 山本五十六元帥以下11名を乗せた一式陸上攻撃機の一番機は、ブーゲンビル島上空で米軍のP−38と支援戦闘機の襲撃を受け、撃墜する数日前のことでした。

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