8人の個人的経歴をもっとも正確につたえる文書は、あとで紹介する尋問調書での当人たちの供述であると考えられる。なぜ
なら、なかば非公然の活動を余儀なくされていたアメリカでのかれらの直接の発言や間接の記録・伝聞には事実の隠蔽が大いにありえたことが推定されるーーそ
のことはいくつかの変名で活動していた事実から歴然ーーが、かれらがみずからの「祖国」と信じて亡命したソ連で、「祖国」の官憲による尋問に虚偽を供述す
る理由は考えられないからである。したがってかれらの閲歴にかんする個々の詳細は尋問調書にゆずることにし、そこではあまりのべられていないかれらのアメ
リカでの活動について、ここでまず間接的な証言によってではあるが、そのおよその輪郭を明らかにしておきたい。
かれらのアメリカでの活動にかんするもっとも貴重な記録は、移民労働者でアメリカで労働運動・革命運動にかかわったかれらの仲間のひとりである宮城与徳
がゾルゲ事件に連座して逮捕されたあとの「供述」であり、ついで同じくそのアメリカでともに活動していたカール・ヨネダ(日本名は米田剛三、1906年生
まれ)の回想記である。
なにゆえに革命運動に? 宮
城与徳の供述
宮城は、1919年頃、東部ニューヨーク中心に、片山潜、田口運蔵、西村義雄が、また1923-24年頃には西村義雄、矢田某、石垣榮太郎、鬼頭某、矢
野某等が初期的な党活動に参加していた模様であるとのべたあと、みずからもかかわる1925年頃からのサンフランシスコやロスアンゼルスを中心とする運動
の進展についてつぎのように記している。(『現代史資料』3「ゾルゲ事件」3、みすず書房、pp.337-341ページ)
1 1925年頃、宮城は、(のちのツオイ)や屋部憲伝、幸地新政、中村幸
輝とともに「社会問題研究会」を組織した。週に1回、会合をもっていた。
2 1カ月ほどたつと、そこへニューヨークからきた矢野、高橋や、ロス在住の山口東栄、(のちのシェヌ)、(のちのエン)、堀内鉄二、柳井、大畑孝一、サンフランシスコの健物貞一、本願寺派の樹心院真道、前ロス日本人会長近藤長衛が参加
してきた。
3 やがて研究会は「黎明会」と改称され、共産主義者の指導により社会思想問題を研究するようになる。マルクス主義の世界観、経済学の講義がおこなわれ
るようになる。
4 1927年(昭和2年)になると、会は完全に共産主義者の指導下におかれるようになり、内部に対立を生じ、黎明会は分裂、屋部・又吉・宮城(与徳)
をのぞくメンバーは新たに「階級戦社」を組織し、機関誌「階級戦」を発行。新組織は判然と共産主義宣伝に従事することとなる。箱盛や健物はこちらに属し
た。
5 1928年(昭和3年)、階級戦社は「労働協会」と改称、機関誌「階級戦」と週刊紙「労働新聞」を発行するようになる。26年、アメリカ共産党のロス
支部が設置され、労働協会のメンバーがこれに入党する。日本人党組織の本部はサンフランシスコに移され、健物がその組織者となって同地に日本人労働協会を
組織、「労働新聞」もサ市で発行されることとなる。サ在住の党員のなかに吉岡某がいる。
6 1928年末、赤色救援会日本人支部が組織され(サ、ロ)、また29年夏にはプロレタリア芸術会が組織され(ロ)、「プロレタリア芸術」が発刊され
た。吉岡がこれに参加、宮城も。屋部、又吉も、その会員。
7 1928ー29年の党員獲得運動で、のちのユク)、(のちのパ
ク)、(のちのニュ;原文では昭屋)、又吉等が入党。
8 29年、健物、小林がサ市で検挙される。ニューヨークの党本部より新たに組織者として矢野(または武田)がサ市にくる。
9 30年、党活動が活発になり、それとともに官憲の弾圧もはげしくなり、ロングビーチ市でのロ市党支部大会が襲撃され、箱森、福永、西村、宮城(与三
郎)、長浜、島、又吉、吉岡、照屋が検挙され、党日本人支部はその中心メンバーを失い壊滅におちいった。
このロングビーチ事件で逮捕された党員たちについて、宮城は、約1年後、裁判の結果、国外追放に決定、ドイツ大使の保証でハンブルグに送
られたこと、それ以後の行動は不明だが、入露したことは事実である、と付記している。
以上の宮城の供述から、ロスアンゼルスでは、箱盛・福永・山口・堀内がもっとも先進的な共産主義者として活動していたことがわかる。
では、かれらはなにゆえに共産党に入るようなことになったのか。後述するNKVDの尋問調書にはかれらの直接の回答が断片的にではあれ、のべられるが、
宮城与徳のつぎのような供述もかれらの声なき声を代弁しているように思われる。(仮名遣いはあらためた)
「私は郷里沖縄県国頭郡名護町の尋常高等小学校を卒業後沖縄県師範学校に入学しましたが1年半位で病
気の為退学し大正8年アメリカに渡り最初サンフランシスコの加州美術学校に入学し次でサンディーゴ官立美術学校に転じ大正十4年同校を卒業し大正十5年ロ
スアンゼルスに行きアーチィスト・リーグ(絵画研究所)に入りましたがその頃からマキシム・ゴリキー、トルストイ、バクーニン、クロポトキン等のロシヤ人
の文学書等を読んで無政府主義思想を抱く様になり、その後共産主義者と成り昭和4年頃共産主義思想を抱く様になりました。
共産主義に関する本は余り読んで居りませんが、昭和4年頃私が共産主義を信ずる様になった頃の根本観念は、働く者の食える社会にしなければ
ならないと云うことでありました。
資本主義社会はブルジョア階級とプロレタリア階級との対立があり、資本家は富を増大しプロレタリア階級を搾取して居るのでこの弊はプロレタリヤ階級によ
る革命とプロレタリヤ独裁を通じて共産主義者社会を建設することにより取り除かれる。革命に際しては資本家の私有して居る生産手段を収奪し即ち私有財産制
度の否認を行い之を社会有とする。之が共産主義の概要でありコミンテルンは共産主義を世界的に実践することを目的として居ります。
共産主義社会実現の過程に於て日本でプロレタリヤ革命を実行する場合には、日本の天皇制を打倒すると云うことも聞いて居りました。従ってコミンテルンは
世界革命の一環として日本に於ても共産主義社会の実現を目的とし、其為に日本の天皇制打倒、私有財産制度否認、プロレタリヤの独裁等を企図して居ることも
昭和4年頃から承知して居りました。私が共産主義思想を抱く様になった頃アメリカでは日本の労働運動が非常に高く評価されて居りましたから、私は日本に間
もなくプロレタリヤ革命が起るだろうと云う予想を持って居りました。然し次第に判ったことは日本の労働運動や日本共産党の活動が過重評価されて居ること、
アメリカに於ける日本人の共産主義者が共産主義運動に真面目でないと云うことであります。私は共産主義を正しいと信じても之を実践し得るものでなければ価
値がないと考へて居たので、アメリカ共産党日本支部に加入を勧められても右の理由で断って居りました。其後警察官に申した通りプロレタリヤ芸術会赤色救援
会日本人支部に入会し、昭和6年秋頃にはアメリカ共産党東洋民族課日本人部員矢野某の勧誘により同部に加入しました。」
働く者が食える社会ーーそれがひとり宮城のみならず、アメリカで革命運動にとびこんでいった、そしてのちにソ連に
亡命するわが同胞たちの願だったとみていいであろう。
日系アメリカ人革命家の回想
カール・ヨネダはやがてソ連で粛清される右のロングビーチ事件関係者をはじめとする在米の日本人共産主義者について個々のリアルな消息を
つたえている。(カール・ヨネダ『がんばって・日系米人革命家60年の軌跡』大月書店、1984年、p.30以下)
まず山口栄之助について。かれはのちにレニングラードの東洋専門学校で日本語を教えることになる。ヨネダによれば、山口は両親とともに「黄金のなる木」
を夢見て10年まえ(1916年?)アメリカに渡った鹿児島の寒村出身の日本人だったが、事業に失敗、日雇い労働者の仕事を求めて、ロスアンゼルスにやっ
てきたのであった。マルクス主義を学ぶなかでアメリカ資本主義の悪をさとり、労働運動にとびこんでいった。ヨネダにとってその山口は「私の目を政治に開か
せてくれた同志、恩師」であり、以来、2人の親交がはじまる。
ついで問題の福永。1927年4月、ヨネダは羅府日本人労働協会の集会で福永麦人を知る。かれは「分厚い眼鏡をかけた学者ふうの大柄な男」
で、集会の司会をしていた。協会きっての理論家といわれた農場労働者であった。麦人(バクニン)という名はもちろんロシアの無政府主義者バクーニンに由来
するものであった。この協会は1925年に、バークレーに住む共産党員学生の剣持貞一(宮城の供述では健物という表記)の力添えで結成された。(剣持は
「階級戦」の主筆であった) メンバーはほとんど共産党員かそのシンパであった。1930年には会員は100名近くになっていた。庭師、農場労働者、家事
労働者、日雇い、学生などがメンバーで、とくに沖縄出身者が多かった。
つづいて箱盛。協会は1927年11月、ロシア革命10周年の記念集会を計画する。そこに箱守(ママ)改造が登場する。かれは柳井ジム
と、ロシア革命の教訓、アメリカ帝国主義のもとでの日本人の運命について、また「階級戦」など日本人労働者階級の定期刊行物を読む重要性について説いた。
1928年1月、箱森(ママ)改造は協会の会計係、福永は教育係、ヨネダは宣伝係に選ばれる。
最後は農園労働者の堀内鉄治。かれは、ロスアンゼルス寄港の日本海軍の練習艦の乗組員に反戦ビラをくばる活動で箱森とヨネダと行動をともにする。
1929年7月のある日のこと、箱森の部屋でその相談をしているとき、「アカ狩り隊」に踏み込まれ、浮浪罪で告訴される。モップル(国際労働者救援会のこ
と)が保釈金を用立ててくれたおかげで釈放され、起訴は結局、却下される。
かれらのたたかいについてヨネダはつぎのようなエピソードをつたえている。
1930年3月、アメリカ全土で125万にのぼる失業者デモがおこなわれた。ロスでも1万人近い人々が集会に参加
した。そのさいに山口、箱森、福永が逮捕された。ほとんどの逮捕者は罰金か半年の禁固刑ですんだが、山口だけは1年8カ月投獄されたあげく、共産党員とい
うことで国外追放になった。
堀内も1930年4月、労働者のストライキ集会で逮捕され、刑務所に送られ、刑期満了後に、共産党員という理由で国外追放になる。堀内の名を世に残すた
めに、モップルのロスアンゼルス支部は「ホリウチ支部」と名づけられた。
それからほどなくして、サンフランシスコで西村銘吉と小林勇・ジョンが逮捕される。「剣持と堀内の国外追放反対」、「アメリカ帝国主義打倒」などのプラ
カードをかかげて1000名以上の人々が集まったのであった。2人は「外国人共産党員ということで軍国主義日本へ送還されることになった」。(ヨネダはか
れらもソ連に渡ったことを知らないようである。)
1932年1月15日の夜、ロングビーチで共産党員会議が赤狩り隊に襲われ、100人以上が逮捕される。そして80人が刑務所にぶちこまれた。いわゆる
ロングビーチ事件として世につたえられる事件である。
そのあとの経緯についてヨネダはつぎのようにつたえている。
「国際労働者救援会地域本部は、すぐ集まりをもち、救援対策を練った。逮捕者の釈放や告訴が不当に延ばされたとき
には、人身保護令状を入手すること、警官の暴行と集会の自由の侵害にたいする抗議を集中すること、裁判中「法廷を埋める」よう支持者に訴えること、そして
当然必要になる保釈資金を集めること、などが決まった。私たちは保釈保証書ブローカーを利用せずに、会員や支持者たちから現金を借用した。私たちはまた、
労働問題や政治的権利にかかわる事件の保釈に進んで私財を提供してくれる、地域の資産家たちのリストを作成した。一斉逮捕のときには、十分な資金を集める
のに1、2週間かかった。私たちはいつでも、だれから先に保釈させるかを決めた。ふつうは、婦人や負傷者、党の機能を動かすうえで重要な人たちを優先させ
た。
逮捕者のうち45名が、〃不法集会〃のかどで告訴された。そこには1世が9名いた。5週間にわたる裁判で陪審が行きづまり、地方裁判所判事は、被告にた
いする告訴を却下した。しかし、外国人11名が国外追放ということで移民局に引き渡された。9名の1世とは次の人々だった。庭師で日本人労働協会の設立者
の箱森改造、農園労働者で農業労働者産業別組合オルグの福永麦人、召使いで『日本人プロレタリア芸術』主筆の吉岡北次郎、運転手で国際労働者救援会活動家
の長浜敬次郎、および沖縄出身の庭師で活動家の5名、又吉純、官城与三郎、照屋忠盛、山城次郎、島盛栄、だった。これにヒンドウ−教徒の労働者1名、ギリ
シャ人活動家1名を加え、計11名が追放されることになった。
国外追放命令にたいして、救援会はすぐ上訴した。共産党員として告訴された者たちは、日本やギリシャへ帰国すれば、死刑をまぬがれたとしても長年の刑務
所入りが科されるだろう、という理由もつけた。法廷は上訴を却下したが、〃自由意志による出国〃を認めた。つまり、自分を受け入れてくれる国を自分でえら
び、自費で出国することになった。ただし、1933年末までに合衆国を退去しない場合は、それぞれの本国へ強制送還する、という条件がついていた。」
結果的には本国へ送還されたほうがよかったわけである。刑務所には入れられたであろうが、少なくとも闇から闇へ葬 られるということはなかったどろう。
沖縄からの渡米日本人について研究している比屋根照夫・琉球大学教授の『羅府の時代』には、福永麦人と又吉淳についての詳しい記述がある。
それによれば、福永は「ロサンゼルスにおける社会主義運動の中で、もっとも先鋭的な人物の1人であり、リーダー的な存在であっ
た」という。(『羅府の時代』11ページ。) 同教授は福永がロングビーチ事件で逮捕されたあと獄中から書き送られたプロレタリア革命をへの思いをうたっ
た1連の詩を紹介している。また又吉は「当時の移民社会のタブー、常識、諦念に対する挑戦的な生き方」提示し、「旧習、習俗にとらわれた生き方の打破を求
める」先進的な作家であったとされる。(同46ページ。)そこでは又吉の作品活動についても詳しく論じられている。
さて、アメリカを追放されたわが同胞たちは、どんな気持ちでソ連へ向かったのであったろうか。尋問調書からはそれ
をうかがい知ることができない。ソ連の官憲にとってかれらの入ソ理由はどうでもよかったのであろう。なにしろはじめからスパイと決めつけての逮捕なのだか
ら。
しかし、かれらの思いを代弁する貴重な手記が別に残されていた。皮肉なことに日本側の官憲がそれを正確に記録していた。
なにゆえにソ連へ? 剣持の
手記
それは、「ロシアへ旅立つに望んで」と題された剣持の手記である。(仮名遣いと使用漢字は改め た。)
「過去2ケ年戦ってきた送還問題もここに終りを告げ出国することになった。
執拗に日本へ送還せんとする支配階級の意吐(ママ)に対し我が救援会及び同情者諸君の支持により日本への送還より救われ僕は今労働者農民の支配するソビ
エットロシアへ旅立たんとしている。
私は同志及び同情者諸君に対して言うべき言葉を見出だしえない。是と共に私を奮い立たしめたのは救援会を通じ或は天使島に直せつに私に慰めと激励を与え
られた労働者の支持であった。私は諸君の支持と激励に何をもって答えんとするか?
それはここに喋々する必要はない。今後に於ける行動を以て答えんと思う。
私はこれから労働者の祖国計画は異状な成功りに4ヶ年に終んとするロシア労働者農民が支配し社会主義建設は日と共に建設されて行くソビエットロシアへ出
発する。あらゆる帝国主義国家の破壊せんとする資本家国家の憎悪の的たるソビエットロシアへ行く。
日本資本主義政府は既に支那大衆に砲火ををあびせソビエットロシア攻撃の機をつくるにいたった。此の秋にロシアへ行く私は諸君と共にロシア擁護のために第
2、第3のソビエットロシア実現のために働くことを誓う。
アメリカ帝国主義は一介の労働者の追放に成功した。
**し(然し?ーー判読困難)共産党運動者の『追放』も『送還』も出来ない。資本主義内の矛盾、資本主義経ざいと社会主義経ざい(ロシヤ)の矛盾は資本
家の欲すると否とにかかわらず共産主義革命への運動は必然だ。諸君健闘を希いつつ左の言をもってカク筆する。
★ I.L.Dの大衆化万歳!
★ ソビエットロシアを守れ!
★ 帝国主義戦争と闘え!」
(『特高警察関係資料集成』不二出版、第16巻<外事警察関係>、
1992年、409ー410ページ。)
ソ連に渡った同胞の氏名
宮城の供述やヨネダの回想には、アメリカから追放されてソ連に亡命した日本人たちの氏名が正確な形ではのべられて いない。それは革命運動にかかわる同胞たちがいくつかの変名を用いて活動していたり、必ずしも仲間の本名を知っていなかったりしたせいであろう。又吉、福 永、島(または沖縄名の島袋)、照屋、箱盛、宮城、山城の7名は、宮城やヨネダの上記の記録に登場する。つまりNKVD記録と一致する。では、あとのひと り山下尚のばあいははどうか。
の名は、実は別の官憲記録に登場する。「昭和八年に於ける外事警察概要欧米
関係」と題された内務省警保局の極秘文書がそれである。そのなかの「在外邦人共産主義者の動静」という章に「羅府方面に於ける邦人共産主義者」
という節があり、そこにロシアに渡った日本人のリストがかかげられている。そのリストは不完全なもので、照屋とか宮城などの名は見あたらないが、逆に、宮
城与徳やヨネダの記録には出てこなかった山下尚の名が見えるのである。与徳やヨネダはおそらく山下尚とそのアメリカでの変名を一致させることができなかっ
たのであろう。ヨネダがアメリカからソ連に渡ったとして名をあげているロングビーチ事件関係者から先の7名をのぞいた吉岡北次郎、長浜敬次郎のいずれかが
山下尚の可能性があるが、長浜は妊娠中の妻を帯同してソ連に向かったとあり、後述するように、長浜は山下ではないと考えられる。たぶん吉岡北次郎は山下尚
のアメリカでの変名だったのであろう。それにしても『闇の男』がキム=山下を吉岡仁作とする根拠はなんなのであろうか?
ともあれ、尋問記録で判明する8名のほかに、長浜敬次郎夫妻がいっしょにソ連に渡っているという事実をここで確認しておきたい。宮城与徳の供述では長浜
という姓のみだったが、ヨネダは敬次郎という名まで明確にしている。
さらにジェームズ・オダはつい最近、1930年代のはじめにアメリカ太平洋岸で逮捕され、法廷闘争の結果、ソ連に 避難所をもとめた日本人共産主義者は17名いたとして、そのリストを作成している。(James Oda, Secret Embedded in Magic Cables, 1993,USA, KNI, Inc., pp.28-29;日本語版『スパイ野坂参三追跡』彩流社、1955、p.40. ただし、オダは山下尚に該当する人名をマサイチ・ヨシオカとし、さらに 日本語版ではおそらく『闇の男』に依拠して、吉岡仁作という姓と名をあてている。)
そこではオダは、ナガハマの名をマルヤとしたうえで、その妻の名までつきとめてる。ただし日本語版
では、永浜丸也・永浜さよという文字をあてている。これもやはり『闇の男』に依拠したせいか。官憲記録でも宮城・ヨネダの記録でもナガハマの漢字名は長浜
である。そしてマルヤとか丸也はどこから出てきたか。ナガハマ夫妻の身元はまだ確定したとは言いがたい。
なお上記のロングビーチ事件の直接の関係者以外にアメリカからソ連に亡命した日本人のリストも示しておこう。それらの同胞もほとんどーー無事帰国できた
小林勇を例外としてーーソ連で悲惨な運命をたどることになる。上記の諸記録によれば、それは少なくともつぎの人々である。
剣持貞一
小林勇
西村銘吉(官憲記録)、別名、惣一(ヨネダ)
堀内鉄治
山口栄之助
谷登(ヨネダ)
平礼二(官憲)、礼次(ヨネダ)
東ジョー(ヨネダ)
森ジョー(ヨネダ)
<追記>
永浜さよさんの身元と、日本にいる親族が判明(別記)。