父は戦前からの時代劇の大スター市川右太衛門。
上に兄と姉が一人づついるが、末っ子の将勝(まさかつ)君だけが
13歳の時に父の主演する『父子鷹』で
少年時代の勝海舟の役でデビューした。
まだ俳優になる〝自覚″もめざめてはいなかったが、
ちょうど適当な子役が周囲にいなかったので、
本物の父と子で親子の役を演じることとなったのだ。
父の右太衛門は当時、今年創立60周年を迎えた東映の重役で、
もう一人の重役スター片岡千恵蔵は山の御大とよばれ、
父は北大路の御大とよばれていた
(それぞれの住いがあった場所から)ので、
それにちなんでの芸名なのである。
千恵蔵の息子(植木基晴)と娘(千恵)も
早くから子役になって活躍してたので、
これもごく自然な流れだったのだ。
しばらくは同じ二世スターの松方弘樹らと
東映京都の時代劇に出ていたが、
中学から東京の暁星学園に転校し、
早稲田大学へ入学した頃から自分の希望で現代劇出演を多くしていった。
『千曲川絶唱』、『仁義なき戦い・広島死闘篇』、
『八甲田山』、『空海』、『火まつり』など出演作は数限りなく沢山あり、
舞台も若き日に加賀まり子と共演した『オンディーヌ』ほか数え切れない。
テレビも初期のNHK大河ドラマ、
『竜馬がゆく』をはじめ沢山のドラマに出演。
最近も『華麗なる一族』、『江』、『運命の人』と
立て続けに貫禄ある見事な演技を見せてくれている芸能界の重鎮である。
また、『旗本退屈男』、『子連れ狼』、『銭形平次』という、
偉大なる先輩の父、錦之助、橋蔵の演じた役を
引き継いでくれているのも本当に立派。
平成22年には時代劇『桜田門外ノ変』のほか
2本の現代劇映画の3作に出演した。
このところ、日本映画を観るにつれ、個性的で存在感のある
ワキ役スターがずい分少なくなったような気がする。
そういう意味でも、最近は出番がめっきり減ったとはいえ、
蟹江敬三の存在は、少々オーバーにいえば、
絶滅危惧種みたいな希少価値のある貴重なものといえる。
昭和19年に江戸川区小松川に生まれた蟹江敬三は、
高校卒業後「劇団青俳」を経て、演出家の蜷川幸雄らと
「現代人劇場」「櫻社」などの旗揚げに参加する。
当時のことを、「僕は口下手で引っ込み思案な子供だったけれども、
高校時代に学内での芝居に参加。
たまりにたまっていた自己顕示欲みたいなものが一気に噴出、
それが俳優稼業への第一歩になった」と述懐している。
舞台活動の一方、映画やテレビの時代劇や刑事ドラマにも数多く出演、
その野性的な魅力は、例えば日活ロマンポルノ
「赤線玉の井ぬけられます」「犯す!」などの演技で
「強姦の美学」とまで称賛された。
30代半ばぐらいまでは、「Gメン‘75」などに代表される
刑事ドラマの凶悪犯など、
猟奇的でエキセントリックな悪役としての出演がつづいた。
しかし水谷豊主演「熱中時代」シリーズの巡査役で善人役を好演したことで、
それまでの役柄から一転、
「スケバン刑事」シリーズの一見気弱な教師役など、
近年は悪役を演じることはほとんどなく、
ベテラン刑事や気のいい頑固親父役などが多くなっている。
‘05年の「MAZE-南風」で初主演。
交通事故で両親をなくした孫をひきとる祖父役で、
家族のあり方をもう一度考えさせてくれる作品だ。
台本を読んだ時には、涙がしたたり落ちて止まらなかったという。
家庭では、むしろ、青俳同期生だった奥さんの方が
子供のしつけに厳しかったようだが、
その子供たちも、今はともに役者として活躍中。
子供たちに負けずに、オヤジも頑張れ!とエールを送りたい。
若い頃、週刊誌記者としてピンク映画の現場を取材していた。
昭和53年(1978)から3年ばかり、
わたしはさながらピンク映画記者だった。
学生時代、ヤクザ映画とピンク映画を観て
人生を勉強していた者にとって、それは楽しい青春の思い出である。
撮影現場に出向き、撮影終了後の宴会で女優さんと
話が出来るのも嬉しかったが、スタッフの人たちのピンク映画から
ロマンポルノに活躍の場を移した女優さんの話が聞けたのも
いま思うと楽しい思い出となっている。
皆、成長し嫁に出した可愛い娘を語るように、
ピンク映画時代の白川和子さん、宮下順子さん、
谷ナオミさんの話をして聞かせてくれた。
わたしがよく顔を出した、S組の撮影部のカメラマンNさんの話に
頻繁に登場したのが白川和子さんだった。
この人に酒が入り語る白川さんのことを聞いているうちに、
いつしかわたしも白川さんのファンになっていた。
白川さんといえばにっかつロマンポルノの記念すべき第一作、
昭和46年(1971)11月10日公開の
『団地妻 昼下がりの情事』(西村昭五郎監督)の
主演女優として知られるが、
ロマンポルノ女優として活動したのは1年半で、
主演作品は20本である。
引退作は昭和48年(1973)2月公開の
『実録白川和子・裸の履 歴書』(曽根中生監督)。
この映画で、演劇少女が、どのようにしてピンク映画に出るようになり、
足掛け5年で200本ものピンク映画に出演、
そしてその後どうしてにっかつロマンポルノへと転身していったのかが
事細かに描かれているのだが、ピンク映画に入って知り合った
カメラマンと親しくなり同棲するシーンがある。
そう、そのカメラマンこそ、わたしに白川さんの魅
力を教え、ファンにしてくれたカメラマンのNさんだったのである。
そんなこともあって、白川さんが出演する作品を観ると、
その度にいまもわたしはNさんのことを思い出す。
野村證券の若きOLが、1963年に日活ニューフェイスに合格。
女優・山本陽子が誕生する。
彼女は1964~69年にかけて、脇役からヒロインまで、
わずか6年の間に60本以上のプログラム・ピクチャーに出演している。
何と一年に平均10本の映画に顔を出していたことになる。
そんな売れっこの女優ではあったが、銀幕の大スターの道は歩まず、
次第にその主軸をテレビ界に置くようになる。
その愛らしく上品な顔立ちと、ナチュラルな演技が、
テレビ向きだったのだろう。
NHKの大河ドラマ「国盗り物語」を始め、
「白い影」「となりの芝生」など、あらゆる放送局の
あらゆるジャンルのドラマからひっぱりダコとなる。
一つ一つ番組名を紹介していくと、
どれだけスペースがあっても足りないので、割愛する。
某社の海苔のCMは、1967年から45年も続き、
ギネスブックに載るほどの国民的CMとなっている。
ルックス、演技力、人がらのすべてが備わってこその
快挙と言えるだろう。
1980年代からは舞台にも積極的に参加し、
その演技力に磨きをかけていく。
サバサバとしただれからも愛される性格で、
清楚なルックスとは対照的に、ゴルフ、麻雀、
スポーツカーの運転が趣味という元祖オヤジギャル的な一面も持っている。
東日本大震災以降は、東北の避難所の一角での朗読会にも精を出し、
その誠意あふれる地道な活動にも頭が下がる。
まさにゴールデン・グローリー賞に
相応しい日本を代表する女優の一人である。