日本映画批評家大賞

第21回受賞作品



黒部の太陽 石原プロモーション

「黒部の太陽」には忘れられない思い出がある。
公開されたのは1968年2月。私は毎日新聞記者として岡山支局にいた。
映画の評判が非常によかったので、ぜひ観たいと熱望していた。
しかし支局勤めの生活はハードで、休みもろくろくとれなかった。
そこである晩デスクに「体調がすぐれない」と嘘をついて、
映画館に行ってしまった。映画は3時間12分。
夜遅くなって下宿へ帰ると、
「野島さん、支局から何度も電話がありましたよ」とおばさん。
あわてて支局に駆けつけると、デスクが「もうええ。すんだ」と一言。
聞けば備前町で子供が数人、
手作りの筏で海に遊びに行き、転覆して溺死したそうだ。
実は当時支局で無線がついた
ランドクルーザーを運転できたのは、私一人。
現地の通信部の記者は応援が来ないのでてんてこ舞いしたようだ。
嘘をついたのがはばかられ、なんとも苦い思いを噛み締めたのだが、
そんな思いをしてまでも映画を観てよかったという気持ちが強かった。
この映画は熊井啓監督が大変苦労して作られた。
そのいきさつは、熊井監督の著書
「黒部の太陽 ミフネと裕次郎」(新潮社)に詳しい。
当時は五社協定があり、専属の俳優やスタッフが
自由に他社作品に参加できなかった。
無理にやろうとすれば、仕事をホサれた。
その取り決めを破ったのが石原裕次郎だ。
日活をやめフリーになった裕次郎は、三船プロの三船敏郎と意気投合し、
毎日新聞に掲載された木本正次原作の本作を映画化しようと計画、
監督は熊井啓と決めた。
しかし熊井監督が日活専属だったため話がこじれ、もめにもめた。
関電黒四ダムの建設というスケールの大きい作品のため、
製作資金もかさんだ。トンネル出水の撮影では、
裕次郎ほか数人が重傷を負った。しかし映画は大ヒット。
裕次郎が「スクリーンで見てほしい」と言ったためビデオ化されなかった。
44年ぶりのオリジナル版公開は
故人になった三船、裕次郎、熊井監督がさぞかし喜んでいるだろう。

デビュー作は製作を再開した日活初のカラー映画『緑はるかに』。
まだ中学生だった浅井家の次女は、当時読売新聞に連載中の
北条誠の小説『緑はるかに』の主役オーディションに応募し、
見事に第1位に選ばれて主役の少女ルリ子役を射止めたのだ。
この小説のさし絵を担当していた人気画家・中原淳一描くところの
大きな瞳の美少女に「そっくりだから」と
知人に強くすすめられての応募だったが、
中原画伯にも大いに気に入られて
メークや衣裳まで自ら手がけて下さったという
ラッキーなスタートだった。
だが男性映画路線を敷いていた当時の日活では女優の活躍の場は少なく、
添え物的な女性の役ばかりが続き
「早く大人の女役を演じたい」という不満をつのらせていくようにもなる。
この時代、石原裕次郎の相手役が37本、
小林旭の相手役が42本あるが、
彼女自身が代表作としてあげるのは添え物でない本物の相手役を演じた
『憎いあンちくしょう』(裕次郎)と『絶唱』(旭)の2作である。
その後出演映画100本記念の『執炎』や
『愛の渇き』の蔵原惟繕監督のように、女優。浅丘ルリ子を理解し、
応援してくれる人もいたが、何といっても
山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズに
11代目のマドンナとして出演したことが、
彼女の女優生活の白眉となった。
ドサまわりの歌手リリー役は寅さんとの相性も抜群で、
シリーズ最多4作に共演、最高の相手役となった。
最近の活躍は舞台が多くなっているが、
寺尾聰と共演した、『博士の愛した数式』(小泉堯史監督)の
妖気ただよう義姉役は実に見事であった。
昨年も『デンデラ』にノーメイクで出演して話題を集めたばかりである。

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