少年法「改正」に向けて、法務大臣が法制審に諮問を行ったと報じられています。
「
少年法 有期刑の上限20年に」(NHK 2012年9月4日)
少年に対する有期刑の上限を20年にまで引き上げようというものです。
少年犯罪に対する厳罰化は、強権的な治安政策に基づくものでしかありませんが(
少年犯罪に対する厳罰化は、少年を切り捨てるだけの社会)、その根拠とされたのが、元裁判員の声でした。
「
法務省は、少年法について、裁判員を経験した人たちなどから「成人と比べて量刑が軽すぎる」といった指摘が出ていることを踏まえ、有識者による会議を開くなどして検討を行い、改正案をまとめました。」
一般的「市民」感覚は、成人だろうと少年だろうと、やった犯罪が同じであれば同じように処罰すべきだ、というもののようです。
2008年にアンケート調査が行われましたが(
少年事件で死刑求刑 裁判員裁判)、
裁判官 軽くする要素になる 90.7%
重くする要素になる なし
国民 軽くする要素になる 24.7%
重くする要素になる 25.4%
という結果です。
これらの「市民感覚」は、石巻事件その他の事件においても、発揮されています。
少年事件ではなく障がい者に対しても同様です(
発達障害者に対する差別判決 これは裁判員裁判だからでしょ)。むしろ、一般に比べても重くすらなっています。
少年法の「改正」は、「市民感覚」の暴走に歯止めを掛けてきた量刑の上限ですら、緩和しようというのですから、滅茶苦茶です。
少年法の理念を実現するためにはどうすべきか、どうあるべきかという視点で従来、関係者によって努力が積み重ねられてきたことを一気に押し潰し、強権的な取締によってのみ対処していこうというものです。
もちろん、これまでの努力といってみても、現場の担当者の努力を無にするような制度そのものが不十分という問題はありますが、それ以上に学校や家庭から切り捨てられた少年たちですから、最初から矯正システムには限界を持っていたということでもあります。
従って、少年を切り捨てる学校や家庭の在り方など、社会の根本的な在り方そのものが問われているということでもあります。
家庭の在り方と言ってもみても、その家庭そのものが社会から切り捨てられているという状況があり、家庭の責任に帰着させることは正しくありません。
また学校現場の在り方と言ってみても、文科省による教育予算削減のための「ゆとり教育」であったり、管理職の権限を強化し、教員に対する組織的統制を強め、教育を政治的に支配することだけに奔走してきたことのつけが少年を切り捨てている元凶ですから、学校現場に責任だけが押しつけられている現状は、はっきり間違っています。
これらは、政治による責任として考えなければならないものです。
しかし、支配層は、このような政治責任についての反省がないだけでなく、なお一層の構造改革を推進するため、教育に対する官僚的支配を強化し、教育予算削減をしようとしています。
そのため、
切り捨てられる家庭、学校現場は、ますます追い詰められていくことになります。
その犠牲を強いられるのは、児童、生徒です。その結果、「理解できない少年」による犯罪が増加していく可能性が高くなるということです。
これに対して、支配層は、学校現場に対する統制をなお一層強め、児童、生徒を管理しようとし、
その管理から漏れた「理解できない少年」に対しては厳罰をもって処罰し、社会から排除していく、というものです。
そこには、最初から児童、生徒が健全に成長していくためにはという視点が全く欠如していますし、支配層にとっては、そのような視点は必要はなく、
従順に言われたことに従う人間育成しか念頭にはないのです。
日の丸、君が代の学校現場への強制も、この延長線上にあります。
さらに、この少年に対する厳罰化を実現する手段として、裁判員制度があります。
少年を厳罰化するにあたって、元裁判員の量刑の上限が低いという「感想」が利用されています。
ここに裁判員制度の狙いと危険性が、より一層、明らかになったといえます。
裁判員制度は、国民を司法権行使という権力の内部に取り込み、「市民感覚」の名のもとに刑事裁判における治安維持体制を強化し、より一層の厳罰化によって、社会からはみ出した者を排除していくシステムですが、
少年や障がい者に対する犯罪に対する厳罰化は、裁判員制度の要請そのものなのです。
「理解できない少年」による犯罪に対し、強権的な治安対策によって対象しようとしても、管理教育によって押さえ込まれていた少年たちが、
いきなり「切れる」ことによって「理解できない少年」となっていく、このことによって第二、第三の「理解できない少年」が出現するのは不可避になります。これを強権をもって押さえ込もうというのですが、そのようなことができようはずもありません。
このような力による政策は、米国の力による政策が限界を示しているのと同様の事態となることは間違いなく、
「理解できない少年」におののき、力によってしか対処し得ないという末期的症状といえます。
今こそ、この悪循環を断ち切るためにも構造改革路線そのものと決別しなければなりません。
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