<おおさか発・プラスアルファ>=社会部・石戸諭

 ◇今度こそ、応えたい
 東京電力福島第1原発事故による放射性物質飛散対策に取り組む神戸市のビル経営者、藤田正樹さん(37)は阪神大震災での苦い経験を活動の原点にしている。助けを求める声を無視し、逃げてしまったのだ。駆り立てたのは「今度こそ『声』に応えたい」という強い思いだったという。
 
 ■下敷きの人残し

 昨年12月、神戸市内で開かれたイベントで藤田さんは声を張り上げていた。「福島で農地ごとの除染、測定結果の公開に取り組んでいます。ぜひ現状を知ってください」

 藤田さんは、もとは「理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター」(神戸市)で研究職にあった科学者だ。神戸生まれ、神戸育ち。甲南大で生物学を学び、神戸大大学院に進学した。遺伝子分野の研究を進め理学博士号を取った。遺伝子の機能を調べるために、実験の中で放射線を直接扱った経験も少なくない。その後、02年から理研で研究職を得た藤田さんは5年間務めたが、実父の死去で家業であるビル経営を継ぐことになり、科学の世界を離れた。仕事は変わっても、根底にあるのは「あの一日」だ。

 95年1月17日、当時、甲南大の学生だった藤田さんは下宿先の神戸市内のマンションで被災した。「揺れと同時に顔の横にテレビが落ちてきた」。着の身着のまま、街に飛び出すと周囲の景色は一変していた。道路はひび割れ、建物は倒れていた。

 何が起きているか分からないまま、藤田さんは必死に走って逃げた。途中、倒壊した近所の木造住宅からは、そこに住んでいた高齢男性の声が聞こえた。「助けてくれ」。振り返っても姿は見えない。押しつぶされた住宅の隙間(すきま)から、腕だけが出ていた。

 果たして助けることができるだろうか。いつまた地震に襲われるかも分からない。怖くなった藤田さんは、男性を助けることなく、必死になって逃げた。神戸市内の実家も被災していると考えた。ひとまず大阪府内の友人宅まで避難する。無事、避難できても、いつまでも男性の腕と声が頭の中に焼き付いて離れない。「なぜ助けなかったのか」。自責の念にさいなまれた。

 ■測定、除染、公開

 昨年3月11日、地震と津波被害を伝えるニュースが続々と流れた。加えて原発事故も起きた。「災害時に必要なもの、放射線を理解するのに必要な最低限の知識はある。自分が今、動かないでどうする」。藤田さんは神戸から福島県、宮城県など被災地に食料や物資を届けるプロジェクトを知人らと始める一方で、インターネットを通じ、「福島県の農家、消費者支援を考えよう」と広く呼びかけた。

 5月、藤田さんは除染方法を検証するため福島県南相馬市を訪ね、農家から切実な声を聞く。「知りたいのはうちの農地はどうなっているか。自分たちの畑の数値も分からない。耕さないと土質が変わってしまう。一体どうしたらいい」

 この声で方針は決まった。一農地ごとに決まった方法で土を集めて測定し、表土を削り取り除染する。その成果を地図に落とし込んで、除染前後のデータ、収穫した作物に含まれている放射性物質の量もすべて公開する。

農家は自分たちの農地の状況が、消費者は地区ごとの細かい汚染状況が把握でき、購入時の参考になる。プロジェクト名は「HOPE-Japan」(http://hope‐japan.tv/)とした。

 ■データで農家支援

 今月12日、福島市内で県産野菜の販売などを手がけ、「HOPE-Japan」のプロジェクトに参加する竹内容堂さん(33)は、福島市内でトマトやネギを出荷している農家、須藤満さん(42)の農地に向かった。昨年行った1回目の測定結果を手渡すためだ。

 竹内さんは「できました」と測定結果を手渡した。数値は二つのネギ畑内5地点をはかり、その平均を出す。須藤さんの畑は土壌1キログラムあたり約8000ベクレルと4300ベクレル。屋内のハウスでトマトの手入れをしていた須藤さんは「思ったより高いね」とつぶやいた。

須藤さんの農地は出荷制限こそなかったものの、野菜は値崩れを起こし、減収は必至だ。2人は今後の除染方法や対策を話し合っていた。須藤さんは言う。「数値は出していかないと消費者の信頼を勝ち取れないです。測定して相談に乗ってくれるだけで、やろうって気になりますよ」

 藤田さんたちの活動は英科学誌「ネイチャー」にも取り上げられた。

 12月からホームページ上では既に約80件の測定データを並べた農地マップを公開している。土壌1キログラムあたり5000ベクレル以上なら白、2000~5000ベクレル未満は薄い緑、2000ベクレル未満は濃い緑で色分けした。プロジェクトはまだ始まったばかり。除染した農地は数カ月後に効果をはかるため再計測する。

 計測のニーズは高い。南相馬市内に農地を持ち、現地で除染活動を進める南相馬市の会社経営、小沢洋一さん(55)はこう話す。「藤田さんは計測の仕方を含めて丁寧に説明してくれるので、信用できる。私たちに必要なのは正確でオープンな数値だ。除染して下がったことをみんなで確認していかないと暮らしができない」

 藤田さんは「現地のニーズに基づく息の長い支援が必要なのは神戸の人が一番よく分かる。まだまだこれからなんです」と語る。東日本大震災後、初めて迎えた1月17日。神戸を原点にした藤田さんの行動は重要性を増していると私は思う。