ありがとうございました。
>この娑婆世界に世世番番に出現して衆生を済度する仏はただひとり、釈迦牟尼世尊である。「今此三界皆是我有・是悉衆生悉是吾子・唯我一人能為救護」との原則は変えられない。 もし、「勝釈迦」を論じて報身如来に人格を付与すれば真言≠ノなってしまう。
日蓮非本仏論一から四まで、終始一貫。ありがとうございました。
>本因妙抄と百六箇抄には相反する思考が具わっており、両書は同一人の著作ではない。
つまるところ、前々から思っていたことは、日興→日寛系は総括して、後世に行き過ぎ、(自分的には造られたもの)が多すぎますね。ありがとうございました。
しかし、立川流で、えへへって。笑 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
憚りながら波木井坊竜尊@日蓮宗葵講さん
簡潔な文章、ありがとうございます。しっくりきます。 本尊という語は特定の密教経典以外にはあまり見ることができないようですね。曼荼羅も密教的概念ですものね。天台はやはり、密教(台密)も含む。ですね。 天台宗の本尊って何だろうって、ふと思い立ち本を開いてみたら、こんなことが書いてありました。 近年制定された宗憲には、天台宗の本尊は、法華経に説かれる久遠実成無作の本仏をもって本尊とする。という趣旨でした。 根本中堂には伝教作の薬師如来が安置され、各寺院の本尊も様々ありますが、つまり、他の諸仏(菩薩、明王、諸天も含む)はこの本仏たる釈尊が縁に随って衆生救度のために様々に身を変えて現れた姿であるから、個々の本尊は応現というかぎりにおいて、何尊でもよいのだそうでした。縁や機に応じて修行すれば。てことでしょうね。それは、ともかく。結局、天台教学では、仏は自己の心に現れてくる。心の中に具現する。これがいうなれば本仏であり本尊というものでした。波木井坊さんの文章読んで、本当に、日蓮って天台の流れを汲むものなんだって。思いました。しかし、私は止観みたいな高度なことができないので、専修題目しか手段なし。仕方がにですね。ホント
|
|