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第4部・それぞれの「家」(2)自主避難/札幌で団結、支え合い/「孤立」の不安 和らぐ
 | 設立に関わった避難者の育児サークルで母子を見詰める宍戸さん=1日、札幌市 |
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小さな子どもを連れた母親が次々に入ってくる。札幌市郊外の雇用促進住宅の一角にある集会場で11月1日、避難者の育児サークルが設立された。 不安げだった母親も同じ境遇の母親たちと徐々に打ち解け、表情を和らげる。「みんなで居るだけで楽になるでしょ。母子だけでこもっていると切なくなるよね」。設立に関わった宍戸隆子さん(39)がほほ笑んだ。
<「母子」7割> 団地には福島や宮城、関東などから避難した約160世帯、500人が暮らす。ほとんどが福島第1原発事故による放射能から逃れるためだが、政府の指示ではない。いわゆる「自主避難」だ。 仕事の夫を残し、母子で避難してきた人が7割に上る。住み慣れた土地を離れ、帰るめども立たない。男手のない心細さや二重生活による経済的な不安に、親類を残してきたなど自主避難ゆえの葛藤も加わる。 宍戸さんがローンの残る伊達市の自宅から子ども2人と避難したのは6月中旬。札幌を選んだのは原発から遠く、自主避難への支援が充実していたから。仕事を辞めた夫とは8月に合流した。 いろんなしがらみが避難をためらわせ、踏ん切りがついた時には事故から3カ月もたっていた。子どものために一刻も早く福島を離れたかったが、PTAの役員を務める宍戸さんは周囲から「責任を捨てて逃げるのか」と引き留められた。 放射能の危険性を説けば「風評被害をばらまくのか」「除染して頑張ろうとしているのに何だ」とののしられ、孤立した。自主避難者は多かれ少なかれ同じような疎外感を抱え、避難先でも頼る人がいない。宍戸さんは「二重の孤立」を心配していた。 そんな時、事件が起きた。7月7日、団地の1棟で廊下やドアに動物のふんが塗りたくられた。団地は震災前から廃止が決まっており、元からの住人はほとんど退去して自治会もない。明らかに避難者に向けられた悪意に、不安は増大した。 誰もが防犯上も自ら身を守る必要性を感じ始めた。宍戸さんは「みんなで乗り越えるにはつながりが大事」と呼び掛け、7月19日に約120世帯が参加して自治組織を結成、代表に就いた。
<イベントも> 自治体との折衝や支援物資の受け入れ、情報収集が格段にやりやすくなった。ハローワークの出張就業相談会や地域交流イベントなども行われた。避難者による避難者向けの託児所も作り、支え合いは広がった。育児サークルもその一環だ。 10月20日、東京・霞が関の文部科学省。原発事故の損害賠償指針を作る審査会で、宍戸さんは自治組織の代表として意見を述べた。「補償は自主避難の権利を認めることにつながる。お金だけでなく、正当に避難する権利を下さい」 自主避難者が今世間に訴えたい思いを伝えることができた。自ら「心臓に毛が生えている」という陽気な宍戸さんの声が、涙で少し詰まった。
2011年11月11日金曜日
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