長尾上杉家 家臣団
長尾能景 (1459〜1506年 48歳没)
長尾重景の子。信濃守、弾正左衛門尉。越後守護代。文明十四年二月二十五日、父重景が死没。文明十五年から十九年にかけて越後中郡の検地を行う。長享元年四月二十一日、聖護院道興から越後府中来訪時の御礼状を送られる。明応三年、日朝寺に禁制を出す。明応五年七月二十四日、山内上杉顕定から関東の情勢を伝えられる。明応六年七月五日、越後上杉家家臣の段銭定納帳を作る。七月二十一日、父重景の菩提を弔うため曇英慧応を招き、林泉寺を建立。明応七年閏十月十日、家臣に対して奥州に下向する使者三十名、荷物七つを関所や船の渡し場で押しとどめてはならないと伝えた。文亀三年八月八日、上杉房能の娘に腫物が出来たため、上条定実との婚儀を延期したと中条藤資に伝えた。永正元年十月三日、関東管領山内上杉顕定を支援し、越後守護上杉房能と共に上杉朝良の籠もる武蔵河越城を攻めた。武蔵国椚田城、相模実田城を攻め落とす。永正三年七月、越中守護畠山尚順に加勢するため越中に出陣。能登の富樫政親が一向一揆に敗れたこともあり、一揆勢を早々に討伐しようと考えたのだろう。八月十八日、婦負郡寒江蓮台寺で神保慶宗と戦う。九月十九日、越中般若野にて一向一揆と戦い、討死した。四十八歳。京の公家は越中一向一揆勝利、長尾能景討死の報を受け、言語道断であると批判した。子は為景。
長尾能景の子供
長尾為景 (1471〜1543年 73歳没)
長尾能景の子。上杉謙信の父。六郎、弾正左衛門尉、信濃守。黄博、張恕、絞竹庵譲恕。文明三年生。永正三年九月十九日、父能景は越中般若野で一向一揆と争い、討死。これにより、家督を相続。十一月、大須賀氏、五十嵐氏らの反乱を鎮圧。永正四年八月一日、上杉定実を擁立し、越後守護上杉房能に挙兵。翌日、房能は伝来の重宝と共に関東方面に逃れ、八月七日未刻に天水越で自刃した。八月九日、房能の葬儀を行う。揚北衆は房能の弔い合戦として、為景に挙兵。反為景派は本庄時長、色部昌長、竹俣清綱が中心となった。一方、中条藤資、安田長秀、築地資茂は為景に味方した。中条藤資は伊達氏、蘆名氏らに協力を求めた。十月、中条藤資らに本条城を攻めさせた。永正五年五月二十四日、家臣に色部昌長を攻めさせる。六月二十九日、竹俣清綱の岩谷城を攻め落とす。本庄時長、色部昌長、竹俣清綱は為景に敗れ、蘆名盛隆の仲介により降伏した。八月、定実の越後守護継承を幕府に公認させるため八千疋を献上。十一月六日、幕府は上杉定実の越後守護就任を正式に認めた。為景は越後守護代となる。永正六年七月二十八日、関東管領上杉顕定、養嗣子憲房は八千余騎を率いて越後を攻める。顕定は上杉房能の兄であり、弔い合戦と、越後の山内上杉領保護の意図があった。長尾房長が顕定に加勢し、坂戸城が山内上杉軍の拠点となった。上条上杉定憲、色部昌長、本庄房長、竹俣清綱らも顕定に加勢。中条藤資、山吉久盛、安田長秀、斎藤昌信らは為景に加勢した。八月、山内上杉勢に敗れ、越中に逃れる。為景は伊達氏、蘆名氏、信濃の国人衆に協力を要請し、反撃の体制を整えた。その間、山内上杉家は越後国内の長尾家の勢力を駆逐するため、為景に属した者の所領を没収したり、処刑するなどしていた。永正七年四月十五日、為景は兵を率いて佐渡に入る。四月二十日、蒲原津に上陸。六月六日、山内上杉顕定は長尾房景の蔵王堂城を攻め落とす。六月十二日、上条上杉家が為景に属し、山内上杉家は寺泊を退いた。関東でも白井長尾景春が伊勢宗瑞と結び、武蔵に攻め込んだ。古河公方家の内乱もあり、山内上杉顕定は関東へ戻ろうとした。六月二十日、長森原にて山内上杉顕定を討ち取る。上州白井城に逃れた憲房は、越後守護と関東管領を討った悪人と為景を罵っている。七月、管領細川高国から越後国内の山内上杉家残党討伐の許可を受ける。上杉憲房は幕府に為景征伐の許可を得ようとしたが、許可が下りることはなかった。永正九年、反乱をした鮎川氏を征伐。永正十年七月二十四日、上杉定実側の宇佐見房忠が小野城に籠もる。為景が小野城を攻めた隙に、上杉定実が挙兵し、春日山城を奪う。同年、上杉定実が為景に対して挙兵。為景は定実側の島津貞忠に恭順を誓わせ、同時に定実に対して叛意無きことを伝えた。流石に国内情勢を不安に思ったのか、中条藤資、安田実秀に敵対しないことを誓わせた起請文を提出させている。八月八日、信濃勢が越後を攻める。十月十三日、上杉定実は春日山城に籠もった。十月二十一日、為景側の長尾房長らが大勝し、十月二十二日に定実は捕らえられ、府内の館に押し込められた。宇佐見房忠は同年九月、安田城攻めを行うなど、為景側に揺さぶりをかけていたが、定実が幽閉されたために作戦は失敗した。十月二十四日、宇佐美房忠征伐に出陣。十一月、安田実秀が安田城に籠もると、中条藤資等に攻めさせる。永正十一年一月十六日、上田庄合戦で守護上杉軍を打ち破る。以後、長尾為景は実質的な越後守護として越後を統治。長尾一族、長尾家臣だけでなく、上杉定実の重臣を政権に組み込む事で統治を円滑にした。また、越後の国人衆にも配慮している。五月、小野城を攻め、宇佐見房忠を岩手城に退却させた。五月二十六日、岩手城攻めで宇佐美房忠を討つ。こうして為景は越後守護上杉定実から実権を奪うことに成功。永正十三年、越中を攻めるも撤退。永正十五年、神保慶宗は一向一揆の協力を得て、越中守護畠山卜山から独立しようとする。越中国内は混乱し、多くの国人が周辺国に逃れることとなった。畠山卜山は越中平定のため挙兵。長尾為景や中条藤資にも応援要請があった。永正十六年、為景は長尾房景に越中出陣を求めた。二月二十六日、信州島津貞忠と和解。三月、越中への出陣を予定していたが、能登守護畠山義総が越中を一時的に平定したため中止された。九月、越中に向けて出陣。自身の家臣でのみ越中征伐の軍勢を構成し、周辺の国人衆に参戦は求めなかった。同年九月九日、越中境川で神保慶宗を破る。この頃、畠山義総は一向一揆攻めが畠山領に攻め込んだため撤退。冬の訪れと共に越後への帰国を決め、翌年の再出陣を畠山尚順に約束した。十月、能登守護畠山義総、神保慶明、越中守護代遊佐慶親と共に越中を攻める。しかし、畠山義総の動きが鈍く、畠山勢が大敗したため、冬に合わせて越後に戻った。永正十七年、畿内の畠山卜山に越中への出陣を求めたが、畿内の動乱により出陣は見送られた。一方、卜山は加賀一向一揆に対し、神保慶宗に加勢しないよう約束をさせた。神保慶宗は畠山卜山に和解を申し入れたが、卜山は為景に決定を任せ、為景は和解を拒否した。六月十三日、越中境川城を攻撃。神保家の本拠二上城も攻めた。同月、神保慶宗が降伏。六月十九日、畠山尚順は神保慶宗の処分を為景に一任すると伝えた。七月二十三日、越中新川郡で椎名勢を破る。八月三日、境川城が落城。相次ぐ勝利を喜んだ畠山尚順は、長尾為景に畠山義総と協力して二上城を落とすよう求めた。同月、越中新川郡を平定し、新庄城に入る。十月、越中新川郡新庄に入り、新庄城攻めを開始。神保慶宗らは意を決して長尾勢と戦うも敗北。十二月二十一日、神保慶宗は新庄城を攻めるが、逆に為景に討たれた。これにより為景は越中を平定した。永正十八年、越中平定の報を受けた畠山卜山は大いに喜び、為景に太刀等を贈った。為景は畠山義総に対し、加賀、能登、越中を協力して統治するよう持ちかけた。義総はこれに賛同し、越中では神保慶明を、加賀では一向一揆を重視すること条件に同意した。二月、越後国内で一向宗禁制を発布。四月、越中で旧神保慶宗派が蜂起すると、越中に向けて出陣の準備をする。十二月七日、畠山卜山から越中新川郡の守護代に任命された。為景は新川郡に目代として椎名長常を派遣した。大永元年二月、無碍光衆禁止令を出し、一向宗を信仰することを禁止した。既に亡父長尾能景は越後国内の一向衆信仰を禁じ、領内の一向門徒を越中や加賀に追放した。為景はこの禁制を強化し、家臣に一向門徒を見つけ次第、捕縛するよう命じた。禁制に逆らう者、領内に一向門徒の居住を許す者、一向門徒がいる事を知りながら黙認した者は処罰する。一向門徒が一揆を起こすことを報告すれば褒美を与えると定めた。二月十三日、畠山義総は長尾為景に加賀、能登、越中の政治について、為景と協議の上で行うと伝えた。四月、神保家残党が越中で挙兵。残党勢は二上城攻めを開始。長尾為景は残党征伐に向かうことを決意。しかし、出陣したという記録が無いため、出陣前に残党勢は敗北したのだろう。十二月七日、畠山尚順から越中平定の功により、越中新川郡守護代に任じられた。大永二年、畠山卜山が死没。大永三年、足利義晴と細川高国の仲介で越中勢、加賀一向一揆と和睦。大永四年四月、高梨政頼の要請で信濃に出陣。四月二十日、北条氏綱から名画を贈られるが、為景はこれを受け取らなかった。十一月二十三日、北条氏綱から蜜柑や酒樽を贈られ、為景好みの横絵を探しているとも伝えられた。これは山内上杉家、扇谷上杉家に備えるため越後長尾家との関係を強化しようという氏綱の戦略であった。大永五年、北条氏綱はかねてより探していた為景好みの名画を見つけたとして、後日、贈ると為景に伝えた。一方、扇谷上杉朝興も対北条家のため為景に援軍を要請した。朝興は関東有事の際に越後勢が越山し、救援してくれたと過去の例を挙げている。為景は扇谷上杉家からの援軍要請に応えることは無かった。四月二十六日、幕府は上杉家雑掌神余昌綱に新第造営の段銭を求めた。同年六月二十六日、神余昌綱は長尾為景に書状を送り、幕府が新第造営のために段銭を求めていると報告。為景は家臣に段銭の負担を求めた。閏十一月二十一日、足利義晴に太刀、馬を献上。十二月十三日、幕府の命により伊勢神宮に神馬を奉納。大永六年、新津景資、豊島資義、千田憲次、色部昌長、本庄房長、黒川盛重、中条藤資に起請文を提出させ、忠誠を約束させた。この中で中条藤資には長尾家と親類であり、為景の子孫にも背かず、出陣の際には中条父子のうち一人は加わることを誓わせた。仮に中条藤資の子孫が叛意を示しても、藤資自身は必ず為景に加勢すること。色部昌長、本庄房長らと徒党を組み、軍役を果たすことを求めた。その一方で裁判では贔屓せず、府内の裁定に従うよう求めた。為景が中条藤資との関係を如何に重視していたかを物語っている。大永七年、足利義晴に越後上布を贈った。幕府重臣大館常興は為景に京の治安回復を依頼した。長男弥六郎は将軍足利義晴から一字を賜り、晴景を名乗った。十月、幕府新第造営の段銭徴収に際し、未納の家臣に領地を没収すると伝えた。これは納付を促すための威しであり、遅れても納付を済ませれば領地を没収されることはなかった。しかし、家臣らは段銭の工面に悩み、大熊政秀など富裕な同輩に借金を申し出るなど資金集めに苦心した。長尾為景も家臣からの借金要請に応じ、その利息を得ていた。この時、家臣らは長尾為景に不満を抱き、後に天文の乱で為景に背く要因となった。大永八年十月、古河公方足利高基の嫡子亀王丸の元服に際し、関東管領上杉憲寛から将軍の偏諱を受けられるよう仲介を依頼された。為景の斡旋で亀王丸は将軍義晴の一字を賜り、晴氏を名乗った。十二月二十七日、足利晴氏の加冠式で剣、馬、鷹を献上。元服の費用も負担した。十二月十二日、足利義晴から毛氈鞍覆、白傘袋を許された。また、嫡子に一字を賜り、長尾晴景を名乗った。享禄二年、嫡子への一字拝領、毛氈鞍覆、白傘袋の許可の御礼として足利義晴に一万疋もの大金を献上。幕府政所執事伊勢貞忠にも太刀、鳥目を贈った。享禄三年、足利義晴が大納言に昇進すると、任官の際の御服の下賜を願い出た。二月五日に許可されたが、為景はさらに義晴の妻佐子上臈局に唐織物の下賜を願い出た。佐子上臈局はこれを拒否すると、為景は御服拝領の御礼として再び金品を義晴等に献上。佐子上臈局には五千疋を献上した。九月二十八日、義晴は為景に自筆の観音の絵を与え、唐織物も下賜しようとした。しかし、佐子上臈局はこれを拒否し、為景への御礼として堆朱の香箱と盆を贈った。十月六日、上条定憲が反乱。大熊政秀が為景、定憲の関係を疎略にさせたと云う。長尾房長、中条藤資、色部清長、宇佐見定満、大熊朝秀らが定憲に加勢。為景側には安田長秀、安田景元、山吉政久、北条光広らが加勢。十一月、上条定憲征伐に出陣。蘆名氏には越後から逃れていった者を成敗するよう求めた。また、幕府には上条定憲への加勢を禁ずる命令を発給してもらうよう働きかけた。本庄房長が上条定憲に属すとの噂を耳にすると、色部憲長に叛意の有無を質させた。本庄房長は叛意無きことを伝え、起請文を提出した。享禄四年一月、家臣らは「越後衆連判軍陣壁書」に連署し、上条定憲と戦う事を示したしかし、その直後に家臣等は離反。将軍足利義晴は上杉定実に対し、上条定憲への合力を禁止する御内書を発給。八月、本庄房長、色部憲長、鮎川清長、小河長基らが書状を交わし、上条定憲に加勢し、長尾為景と戦うことを確認した。十月、国人衆に上条定憲征伐に参加すれば過分な恩賞を与えると伝えた。天文二年九月二十六日、上条定憲が再び謀反。安田景元らに上条定憲討伐を命じる。十月二十四日、定憲側の長尾房長、中条藤資らが居田神社を焼き払う。これを知った為景は同日、上条定憲、長尾房長、中条藤資、新発田綱貞を三ヶ月以内に成敗出来れば、御礼として新たに社殿を造営すると居多神社に祈願した。居田神社は越後有数の神社であり、後に越後守護上杉定実も隠居の際、余生の無事を居田神社に祈っている。為景も居田神社を厚遇しており、それを焼き払うことで為景への対立の意志を明確にした。天文三年一月、信濃高梨氏に応援を要請。安田景元に上条城を攻め落とせば、越中守の受領名が拝領出来るよう幕府に取り次ぐことを約束。三月、安田景元に上条城焼き討ちを命じた。五月、安田景元は上条勢と納下で争い、勝利した。同年、居多神社の社殿、神門、御橋、御手洗を造営。天文四年、居多神社遷宮。五月、上田長尾氏の一党や宇佐美定満が上条定憲に属すと、朝廷にかつて賜った御旗を紛失したため、その新調を願い出た。六月十三日、後奈良天皇から御旗を下賜される。以後、「天賜の御旗」は長尾上杉家の重宝となった。枇杷島城の宇佐美定満を攻める。六月十九日、上条定憲は蒲原津で本庄氏、色部氏、水原氏ら揚北衆を味方とした。七月二十五日、上田長尾勢の攻撃により、下倉城は籠城を余儀なくされる。八月十二日、上条勢は平子氏を味方に勧誘。九月、上条定憲は出羽の大宝寺氏、砂越氏を和解させ、中条藤資は蘆名家に使者を派遣し、上条定憲への援軍派遣を要請する。蘆名盛舜はこれに応じ、伊達氏、大宝寺氏も上条定憲に加勢した。長尾為景は越後の内乱に乗じ、他国の大名が領地拡大に乗り出してきたことに脅威を感じた。上条勢との合戦は長期化し、停戦の糸口が見えない。そこで、長尾為景は朝廷に使者を派遣し、内乱平定の綸旨を懇請した。朝廷の権威によって上条定憲との停戦交渉の切っ掛けを作ろうとしたのだ。天文五年二月十日、朝廷は為景に治罰の綸旨を発給。四月、上条勢は春日山城を攻撃。四月十日、三分一原合戦で上条勢と争い、これに勝利。八月三日、嫡子晴景に家督を譲り、隠居する。上杉定実の斡旋によるものと推測されるが、越後の内乱は治まらなかった。九月、御旗と治罰の綸旨の発給御礼として広橋家に一万疋を献上。上田長尾家家臣に対し、為景側に寝返れば恩賞を与えると伝えた。天正六年一月十八日、福王子氏は長尾房長と争う。同族や国人衆の謀反を警戒し、長尾房長の嫡子政景、揚北衆への備えとして加地春綱にそれぞれ娘を嫁がせる約束を取り付けた。天文七年、上杉定実は老齢のため、伊達稙宗の三男時宗丸を養子に迎えようとした。時宗丸は定実の外孫であり、中条藤資が養子入り斡旋に動いた。伊達稙宗は積極的に他家への婚姻政策、養子入り政策を行っており、越後での発言力を高める狙いがあった。天文八年九月初旬、伊達家は越後小泉荘に攻め込んだ。上条定憲はこれを長尾為景に伝えた。為景は中条藤資に状況を尋ねたが、藤資は何事も無いと答えた。十月三十日、為景は何事も無いならば為景に忠誠を誓い、自身の立場を明確にするよう求めた。越後小泉荘の国人衆が伊達家の介入に危機感を抱いたため、稙宗は養子入り反対派の本庄房長に先制攻撃を仕掛けたのだ。本庄房長は伊達家に敗れ、大宝寺領に逃れた。やがて房長の弟小河長資が本庄城を奪い、房長も病死するという事態になった。天文九年、伊達家の越後侵攻を防ぐため、為景は以前の治罰綸旨下賜の御礼として五千疋を献上。さらに八月から九月にかけて晴景名義で治罰綸旨の下賜を願い出た。九月二十七日、朝廷から敵追討を認める綸旨が下賜された。同月、色部勝長らは中条藤資を攻め、中条城を攻め落とした。これにより、伊達家は越後から撤退した。天正十年、伊達稙宗は田村氏、大崎氏、葛西氏、蘆名氏に娘を嫁がせ、婚姻関係を結んだ。六月、稙宗は岩城重隆に時宗丸の上杉家養子入りは上杉定実の願いであり、反対派は色部勝長のみであるから加勢して欲しいと依頼。長尾晴景は時宗丸入嗣に反対しており、稙宗から使者が来ても国人衆と相談して決めると返答した。天文十一年四月、上杉定実は出家を願い出る。これに驚いた晴景は時宗丸入嗣を進めることとした。六月、上杉定実は時宗丸に一字を与え、実元と名乗らせた。さらに家紋「竹に雀」、そして重代の名刀長光を与えた。実元の越後行きは六月二十三日と決まった。六月二十日、伊達晴宗は父稙宗を幽閉。奥州伊達家天文の大乱の始まりである。晴宗は実元の上杉家養子入りを中止し、稙宗に加勢しようとする中条藤資を牽制した。天文十一年十二月没。法名「大龍寺殿喜光道七」。子は晴景、景康、景房、景虎。
長尾為繁 (?〜?)
長尾能房の子であろうか。子は謙忠。
長尾為景の子供
長尾景康 (?〜1545年)
長尾為景の子。謙信の異母兄。天文十四年十月、黒田秀忠によって殺害される。謙信十六歳のことである。この時は討伐軍を結成するも秀忠を許す。が、翌年になり再び背いたため一族を悉く自刃させる。果断な行動によって謙信の武名は高まり、後年、家をわずかながら再興できたと回想している。
長尾景房 (1527〜?)
長尾為景の子。三条西実隆の日記「実隆公記」大永七年六月十日の頁に、為景に男子が産まれたため太刀を贈ったとある。謙信より三歳年上の兄がいたことになる。「上杉三代日記」には晴景、景康、景房、景虎の四兄弟であると記され、この兄は景房であると推測される。
快叟良慶 (?〜?)
長尾為景の猶子。謙信の義兄。竹鶴丸。仏門に入る。大中寺六世。永禄六年五月、福地昌寧に招かれ、下野阿蘇郡春日岡にて曹洞宗春昌寺を開山。同寺は後に上州館林に移された。
長尾晴景の子供
長尾猿千代 (?〜?)
長尾晴景の子。早世。
上杉謙信の養子
長尾虎房丸 (?〜?)
上杉謙信の養子。長尾一族と思われる。永禄七年、上杉家は野州唐沢山城を包囲。城主佐野昌綱は降伏し、佐竹義昭や宇都宮広綱の助命嘆願で許された。謙信は佐野氏の背信を警戒し、虎房丸に佐野氏を継がせた。そして色部勝長らを唐沢山城に入れて守らせた。同年十月、佐野昌綱はまたも謙信に背いた。そこで謙信は十月二十七日に唐沢山城を攻め落とした。十一月二十一日、虎房丸は佐野氏の人質三十余名と共に越後に戻った。
上杉景勝の一族
上杉道満丸 (?〜1579年)
上杉景虎の子。母は長尾政景の娘。天正七年三月十七日、御館は落城。山内上杉憲政は道満丸を連れ、和議のため春日山城に向かう。しかし、両名は四ツ屋で殺害された。
畠山景広 (?〜?)
上条義春の長男。母は長尾政景の娘。弥五郎。景勝に仕える。
上杉長員 (1582〜1623年 42歳没)
上条義春の次男。父が畠山姓に復したとき、謙信から受けた恩義に報いるために次男を別家を興させた。これが畠山上杉家で、長員の母は長尾政景の娘のため血縁上の問題は無かった。源四郎。慶長六年十一月、家康に拝謁。千四百九十石余。同九年、秀忠に仕える。元和九年八月二十四日没。四十二歳。法名「宗林」。しかし、この享年が正しいとなると義真との順が逆になるのではないか。
畠山義真 (1579〜1674年 96歳没)
上条義春の三男。母は長尾政景の娘。弥三郎、長門守、下総守、一庵。上杉景勝の養子となるが、天正十一年に人質として豊臣家に送られる。同十五年には越後に戻るが、父義春のいる河内国へ向かう。慶長六年、家康に拝謁。元和三年五月二十六日、大和国宇智郡三千百二十石。万治二年二月九日、致仕。延宝二年九月二十八日、九十六歳で没す。一説に父義春も九十九歳という長寿だったという。法名「紹閑」。
小山田義広 (?〜?)
上条義春の四男。母は長尾政景の娘。源兵衛。小山田姓。紀州頼宣に仕える。
上杉景勝の子供
上杉定勝 (1604〜1645年 42歳没)
上杉景勝の子。米沢蕃二代藩主。慶長九年五月五日、米沢城に生まれる。生母は四辻大納言公遠の娘で、その妹は後水尾天皇の中宮。こうした関係から四品の位(親王の位)、公家となる。景勝は元和九年三月二十日、米沢城で死去。享年六十九歳。法名「覚上院殿空山宗心大居士」。父の死により家督を継ぐ。従四位下、左近衛少将。寛永検地や税法改定などを実施。開拓事業として西根堰、谷地川原堤防修築などを行う。寛永六年一月十二日、藩士を含む領内の切支丹を処刑。寛永二十年、会津若松城主加藤明成の改易処理を行う。直江兼続の未亡人貞心尼に三千石を与え、手紙で連絡し合うなど親密な関係を築いた。貞心尼が病に臥すと自ら見舞いに赴き、伊勢神宮に病気平癒を祈願した。その一方で直江家の菩提寺を破却している。正保二年九月十日没。妻は鍋島勝茂の長女。次男綱勝が跡を嗣いだ。次女は鍋島光茂に、四女が吉良上野介義央に嫁いでいる。
長尾上杉一門
長尾顕吉 (?〜?)
栖吉城主。娘は長尾為景に嫁ぎ、長尾景虎を産む。
長尾孝景 (?〜?)
栖吉長尾氏。弥四郎、豊前守。明応四年十二月、隠居。子は房景。
長尾房景 (?〜?)
長尾孝景の子。弥四郎、小法師丸、豊前守。明応四年、家督を継ぐ。永正十一年一月十六日、上田庄合戦で守護上杉軍を打ち破る。長尾為景は一族の中でも戦功格別であると賞賛した。永正十六年二月二日、長尾為景から越中への出陣を求められる。その際、畠山義英からの書状の写し、加賀三ヶ寺から送られた書状の写しを渡される。為景は父能景が越中攻めで討死した恨みを述べ、畠山家と加賀の国人衆によって越中攻めの準備が出来たからには報復のため、雪解けを待って出陣すると伝えた。同年四月二日、畠山家から出陣の催促があったと長尾為景から伝えられた。大永元年二月、長尾為景は無碍光衆禁止令を出し、一向宗を信仰することを禁止した。長尾房景はその書状に連署した。大永元年十二月、長尾為景は越中平定の功により畠山尚順から越中新川郡守護代に任じられた。長尾為景は長尾房景に書状を送り、守護代就任を伝えた。子は景信。
長尾景満 (?〜?)
栖吉城主。栖吉衆を束ねる。御館の乱で景虎を支持し、滅亡した。
長尾謙忠 (?〜?)
長尾為繁の子。上杉謙信の従弟。景連。永禄二年、長野業正に属し武田家と戦う。永禄四年、謙信から厩橋城を預けられる。永禄五年、北条家の進軍を止められなかったとして誅殺されたと言う。
長尾景直 (?〜?)
上州長尾氏の一族とも、上杉謙信の従兄弟と云われる。小四郎。謙信の直臣となる。永禄三年八月二十五日、柿崎景家らとともに春日山城留守将に命じられる。永禄7年以前に越中国椎名康胤の養子となる。越中の情勢を謙信に報告するよう命じられたらしく、元亀二年四月二十三日付の書状で、同月二十二日に塩谷秋貞が猿倉城を普請したと記している。元亀三年五月、一向一揆に攻められた越中日宮城の神保覚広の救援に向かった。天正三年の軍役帳では八十一人を負担。天正五年の名字尽手本の中に名がある。天正六年十月四日、織田家臣斎藤新五との合戦で大敗。三百六十もの首を取られた。この敗戦により、上杉家は周辺国人衆の離反という危機に陥った。御館の乱で景虎を支持したため滅ぼされる。
琵琶島弥七郎 (?〜?)
長尾一門だが、謙信とどのような関係であったのかは不明。広員、長尾景通。琵琶島城主。弘治元年一月十四日、長尾景虎は柿崎景家や琵琶島衆と共に北条高広と戦うよう安田景元に命じる。琵琶島弥七郎も北条討伐に参加したと思われる。第四次川中島合戦では旗本左備。天正元年四月、一向一揆に備えるため越中に派遣された。天正三年二月十六日、謙信は家中の軍役表を作成。これは上杉家家臣団研究の第一級史料で、弥七郎は一門衆として高い地位にいたことがわかる。軍役は鑓百六挺、手明十五人、鉄砲十挺、大小旗十本、馬上十五騎の百五十六人。天正五年、名字尽手本のなかに名がある。天正六年、御館の乱で上杉景虎に属す。
琵琶島善次郎 (?〜?)
琵琶島弥七郎の子か。天正六年十一月四日、上杉景虎から野尻城警備を命じられる。
長尾長景 (?〜?)
三条長尾氏。平六、中務少輔。永正十一年十一月三日、長尾肥前守に書状を送る。天文十三年、黒滝城主黒田秀忠と共に長尾晴景に謀反。
長尾俊景 (?〜1544年)
三条長尾氏。下越後を制圧。天文十三年、討死。
長尾藤景 (?〜1568年)
下田長尾氏。遠江守。高城城主。新四郎。謙信七手組の一人。永禄二年、謙信第二回上洛に供奉。他に本庄慶秀、直江景綱、柿崎景家らが供奉した。同年十二月、長尾景虎は湧光寺領の郡司不入を認め、斎藤朝信、北条高広、柿崎景家、長尾藤景の連署の証文を広泰寺に与えた。永禄四年、川中島合戦の軍議中、上杉謙信の戦術を批判。永禄六年九月二十八日、椎名方から会津に向かう使者十五名、馬三頭を足止めさせてはならないと家臣に伝えた。永禄十一年春、上杉謙信は本庄繁長に長尾藤景、景治兄弟の誅殺を命じた。本庄繁長は祝宴の名目で長尾兄弟を誘いだし、殺害した。その際、本庄繁長も手傷を負ったと云う。上杉謙信から長尾藤景誅殺の恩賞が与えられず、本庄繁長は武田信玄に寝返った。
長尾景治 (?〜1568年)
長尾藤景の弟。右衛門尉。永禄十一年春、上杉謙信は本庄繁長に長尾藤景、景治兄弟の誅殺を命じた。本庄繁長は祝宴の名目で長尾兄弟を誘いだし、殺害した。
長尾興里 (?〜1568年)
下田長尾家家老。外記入道。山内上杉憲政と共に越後に落ち延びた。長尾藤景に仕え、その姉を娶った。永禄十一年、長尾藤景、景治兄弟は本庄繁長に誅殺された。知らせを聞いた長尾興里らは軍議を開き、高城の守りを固めるため堀の普請などを行った。上杉謙信はこれを謀反として、本庄実乃に高城攻めを命じた。長尾興里は敗れ、高城を落ち延びた。その途中で自刃した。
長尾時宗 (?〜?)
永禄七年二月十七日、唐沢山城攻撃の戦功により上杉謙信から感状を賜る。永禄十三年二月、佐野氏との合戦で戦功のあった下平右近亮らに感状を与えた。
長尾憲正 (?〜?)
弥六郎。大永元年二月、長尾為景は無碍光衆禁止令を出し、一向宗を信仰することを禁止した。長尾憲正はその書状に連署した。
長尾景慶 (?〜?)
新七郎。大永元年二月、長尾為景は無碍光衆禁止令を出し、一向宗を信仰することを禁止した。長尾景慶はその書状に連署した。
長尾備中守 (?〜?)
永正十六年、越中攻めに参戦。
長尾肥前守 (?〜?)
永正十一年十一月三日、長尾長景から書状を送られる。
長尾景長 (?〜?)
永正十年八月五日、長尾房長宛の書状に斎藤昌信と連署する。
長尾平次 (?〜?)
享禄四年二月二十七日、大館常興から奉書を送られる。
長尾伊勢守 (?〜?)
天正五年、富山城守将。
長尾市右衛門 (?〜?)
永禄十一年、高城落城後、高城城代となる。
長尾右京 (?〜?)
天正六年六月十七日、上杉景勝から御館攻めを命じられる。
加地春綱 (?〜?)
彦次郎。妻は長尾為景の娘。長尾景虎の義兄。長尾一門としての扱いは受けていない。為景は幼少の謙信を春綱の養子にしようとしたと云う。享禄四年一月、「越後衆連判軍陣壁書」に連署。長尾為景に加勢し、上条定憲と争う事を示した。しかし、その後、上条定憲に属した。天文七年、伊達実元の守護上杉家養子入りに反対。永禄七年八月の第五次川中島合戦では飯山城を修築し、守将となる。永禄十二年の本庄繁長攻め、天正元年の越中攻めに参陣。軍役百五十八人。天正五年、子の宗七郎に家督を譲る。
有名家臣の一門
武田時信 (?〜?)
武田信玄の六男武田信清の子。上杉家に仕えた。
武田信秀 (?〜?)
武田時信の子。
前田慶次 (?〜1612年)
加州大納言前田利家の兄、前田利久の養子。父は滝川一益とも、その甥(従弟か)滝川益氏とも伝わる。また、滝川一益の弟とも言う。宗兵衛、慶次郎。利太、利卓、利益。無苦庵。武勇に優れ、当代随一の傾奇者として知られる。「源氏物語」、「伊勢物語」を三条大納言公光に、連歌を里村紹巴に、茶道を千利休、古田織部に学ぶなど、一流の教養人でもあった。新井白石は「藩翰譜」の中で、「世にかくれなき勇士なり」と慶次を絶賛している。織田信長の命により、前田利家が前田家を継ぐと、義父と共に荒子を去る。後に利家に仕官し、越中河尾城二千石。天正十八年九月、前田利家と共に津軽検地を行う。奥州検地の後に出奔。「米沢史談」によると、冬のある日、慶次は利家を自宅に招き、茶で持て成した。さらに体を温めて欲しいと、慶次は風呂を沸かした。良い湯加減と聞いた利家は、早速、湯に浸かる。しかし、風呂の中は冷水であり、怒りと寒さに震えた利家は怒鳴り声を上げるも、慶次は愛馬「松風」と共に出奔していたと言う。京に移り、上杉景勝に仕官。重臣直江兼続と親交を深めた。この頃の話であろうか、慶次は松風に水を飲ませようと鴨川にやって来た。慶次の従者は烏帽子、赤衣、赤袴を身に纏い、謡曲を歌った。人々がその異風に驚き、馬主は誰かと聞くと、従者は「赤いちょっかい革袴、鳥のとさかに立烏帽子、前田慶次の馬にて候」と舞った。周囲は大いに盛り上がり、慶次の名は京の都に知れ渡ったと言う。「米沢史談」には、会津での慶次の傾きぶりが記されている。会津に移ったある日、酒宴で傲慢な林泉寺の和尚を殴りつけてやりたい、と愚痴を洩らす者がいた。これを聞いた慶次は、早速、林泉寺を訪ねた。庭園を鑑賞し、茶室に招かれた慶次は、碁盤を見つけ、和尚に一局勝負を申し入れた。和尚は大の囲碁好きで、これを喜んで承諾。慶次は勝負の面白味を増すため、勝った方が負けた方を殴ることを提案。和尚もこれを承知した。一局目は和尚が勝ち、約束通り慶次を殴った。二局目は慶次が勝つが、和尚を殴ることに躊躇いを見せる。和尚は気になさらずにと言うと、それでは、と気合いを入れて和尚を殴り飛ばした。鼻血を出して倒れる和尚を後目に、慶次は寺を離れ、先日の同席者たちに和尚をぶん殴ったと伝えた。これを聞いた者は総じて笑い転げたと言う。慶長五年、徳川軍が会津に迫ると、大旗に「大ふへん者」と記し、朱槍を手に馳せ参じる。「大ふへん者」とは大武遍者のことであり、さらには戦うに値する敵のいない大不便者をも意味したと言う。他の兵が、慶次郎の武装は誰にでも許されるものではないと訴えるも、直江兼続はこれを問題にすることはなかった。直江兼続と共に出羽合戦を戦う。戦後、徳川家と和議を結ぶため景勝が上洛すると、これに従う。前田利長らを介し、上杉家の存続に尽力したと言う。慶長六年十月二十四日、米沢に向かうため伏見を出立。途中、「前田慶次郎道中日記」を記す。また、信濃善光寺にて有名な一文を詠む。「そもそも、この無苦庵には孝を勤むべき親もなければ、憐れむべき子もなし。心は墨に染まねとも、髪結ぶむつかしさに頭を剃り、手の使い不奉公もせず。足のため駕籠かき小揚をやとわず。七年の病なければ、三年の艾も用いず。雲無心にして岫に出ずるもまたおかし。詩歌に心かけねば、月花も苦にならず。寝たければ昼も寝て、起きたければ夜も起きる。九品蓮台に至たんと思う欲もなければ、八万地獄に落ちる罪もなり。生きるまで生きたら、死ぬるであろうと思う」。同年十一月十九日、米沢到着。慶長七年四月二十七日、亀岡文殊堂に直江兼続主催として和歌、漢詩百首が奉納されると、慶次も歌を奉じている。「《椎路躑躅かりこめて》 山紫の 岩根の躑躅 かりこめて 花のきこりの 負い帰る路」、「《船過江》 吹風に 折江の小船 漕消えて 鐘の音のみ 夕波の上」。慶長十七年六月四日、会津堂森の肝煎太郎兵衛宅にて没す。享年、七十歳前後。一華院に葬られるが、後に廃寺となり墓は現存していない。また、善行寺にて没し、埋葬されたとも伝わる。妻は前田安勝の娘。男子に加賀藩士となった前田正虎がおり、他に五人の娘がいた。
柿崎晴家 (?〜?)
柿崎景家の子。和泉守、弥次郎、左衛門大輔。元亀元年の越相講和の際、北条氏秀と交換に人質となったというが疑問符がつけられている。軍役二百六十人。天正三年、織田内通の疑いにより誅されるというが、天正五年の名字尽手本の中には名がある。元亀四年の一向一揆との合戦で、股を撃たれた柿崎源三は一族か。
柿崎憲家 (?〜1633年)
柿崎晴家の子。千熊丸、弥次郎、能登守。御館の乱で景勝に属し、柿崎家を再興。天正六年八月二十二日、景勝から所領を安堵される。「上杉定納員数目録」に知行二千八百六十一石八斗三升五合五勺、軍役百七十一人とある。慶長二年、改易。寛永元年、上杉定勝の侍組となり、二千石を知行。寛永十年没。
本庄秀綱 (?〜?)
本庄慶秀の子。永禄二年、謙信上洛を祝い太刀を献上。上州沼田城を守る。軍役二百四十人。御館の乱では景虎を支持。景虎死後も抵抗を続けるが、栃尾城を攻められ会津方面に敗走。父本庄慶秀は謙信七手組の一人であり、謀叛した長尾政景を、親類といえど許すわけにはいかないと主張した経歴を持つ。
河田岩鶴丸 (?〜?)
河田長親の嫡子。母は北条安芸守輔広の娘。父の没後、天正九年八月に家督を相続。天正十四年八月五日、十三歳にて早世。
下条忠親 (?〜1617年)
河田長親の次男。駿河守、采女正。越後蒲原郡下条を領す。「上杉定納員数目録」に知行千七百三十四石四斗、軍役百四人とある。慶長三年、秋山定綱と共に二本松城代となり、四千七百石を知行。慶長六年、米沢にて千三百三十三石。慶長十三年二月二十三日、鮎川城代。慶長十九年、大坂冬の陣に参加。元和三年没。
河田重親 (?〜?)
河田長親の伯父。永禄八年、信玄が上野国に侵入したという報告により、出陣の準備をする。上州沼田城を預けられる。永禄十二年、北条家との同盟交渉の窓口となる。御館の乱では景虎を支持。関東軍先鋒として景虎救援に向かう。上州宮野城守将に阻まれるが、援軍の北条勢と共に越後に侵攻。天正六年九月、北条氏照の命により樺沢城を守る。天正七年、こうした活躍により北条家から八崎城を与えられる。後に武田家に仕えた。
折下土佐 (?〜?)
河田長親の従兄。子の貞親は長親の養子となった。
河田貞親 (?〜?)
河田長親の養子。折下土佐の子。八左衛門。長親が松倉城に在った時、織田家から佐々成政が使者として派遣された。当時、長親は実子が無かったため、貞親を養子として人質に出した。後に志賀清親の跡を継いだ。
河田源七郎 (?〜?)
河田長親の従弟。河田長親の養子となる。天正二年八月六日、長親から所領を賜る。この時、源七郎は十三歳ほどであった。慶長二年、河田長親の後継として家督を相続。
河田孫五郎 (?〜?)
土肥孫十郎の弟。河田長親と関係を深めたらしく、名字を河田に改めている。元亀三年十月十五日、謙信から右衛門佐の官途名を受領。
河田猿千代 (?〜?)
河田孫五郎の子。天正九年二月五日、河田長親から知行を安堵された。
河田吉久 (?〜?)
河田長親の一族と思われるが詳細は不明。対馬守。謙信の直臣。元亀三年の越中侵攻では山吉豊守らと春日山城留守居役。能登侵攻では吉江景資らと石動城を守る。軍役百三人、御館の乱では景虎に属す。
登坂清高 (?〜?)
加賀守。子は甘粕景継、登坂式部。
登坂式部 (?〜?)
登坂清高の次男。甘粕景継の弟。兄景継が甘粕継義の跡を継いだため、登坂家当主となった。慶長五年七月二十四日、伊達政宗は上杉家の白石城を攻めさせた。白石城を守る登坂式部は開城を決意するが、城兵は助命されないと考え、徹底抗戦するよう求めた。登坂式部は石川昭光、片倉景綱に使者を派遣。城兵の助命を約束する起請文を求めた。石川昭光らは連署で起請文を作成。これにより城兵も開城に合意。こうして七月二十五日、白石城は落城した。
甘粕継義 (?〜?)
越後の名族。某年、討死。甘粕家が絶える事を惜しんだ上杉謙信は、武勇名高い登坂清長を甘粕家当主に迎え、甘粕景継を名乗らせた。
大関親信 (?〜?)
水原親憲の父。阿波守。
水原景家 (?〜1506年)
永正三年七月、長尾能景の越中一向一揆征伐に参戦。九月十九日、越中般若野にて一向一揆と戦い、討死した。
水原政家 (?〜?)
伊勢守。永正十七年五月十二日、長尾為景から知行安堵の書状を受ける。天文四年九月十六日、砂越氏維宛の書状に連署。同年九月十九日、色部家臣田中長義に書状を送る。享禄四年一月、「越後衆連判軍陣壁書」に連署。長尾為景に加勢し、上条定憲と争う事を示した。しかし、その後、上条定憲に属した。
水原満家 (?〜1582年)
天正十年四月十日、新発田征伐で討死。家督は大関親信の子、弥七が嗣いだ。後の水原親憲である。
安田景元 (?〜?)
百丸、弥八郎、毛利景元。永正十二年閏二月七日、長尾為景から知行安堵の書状を受ける。天文二年九月、北条光広と共に北条城に籠城。九月二十日、長尾為景から書状を送られる。九月二十六日、城を出て上条勢と交戦し、これを打ち破る。天文三年三月十日、長尾為景から上条城に放火するよう命じられる。為景は恩賞望み次第と伝えたが、結局、放火は行われなかった。同年五月二十一日、北条光広と共に上条勢を打ち破る。
岩井昌能 (?〜?)
岩井信能の父。備中守。満長。永禄六年、安田惣八郎と共に飯山城警備を命じられる。天正十一年、隠居。慶長四年、国境沿いの警備に問題が無いことを景勝に伝えた。二月二日、国境警備の件について景勝から返書を出された。慶長五年八月五日、直江兼続から徳川家康が小山に在陣していることを伝えられた。また、先に石田三成らから受け取った連状の写しを受け取った。慶長六年八月二十日、直江兼続から米沢移封に際しての五ヶ条の条書を受け取る。
島津利忠 (?〜?)
岩井昌能の次男。岩井勢三。玄蕃。慶長四年、長沼城主島津義忠が病没。直江兼続は勢三に義忠の娘を娶り、跡を継ぐよう命じた。慶長十九年十一月二十六日、鴫野表合戦で功があった。
須田満胤 (?〜?)
須田満親の長男。右衛門尉、光義。越後須田城主。
須田満統 (?〜?)
須田満親の子。後に武蔵八王子城将。須田郷は真宗の寺院が多く、須田氏は本願寺と親密な関係にあった。特に満親は本願寺光佐から信州一向門徒の指揮権を委ねられている。そのため、謙信は満親を越中松倉城将として北陸一向一揆を抑えようとした。
須田景実 (?〜?)
慶長二年、景勝によって改易される。
須田信正 (?〜1585年)
須田信頼の子。須田氏は上杉家に仕官した満親の家系と、武田家に仕官した信頼の家系に分かれた。後に上杉家に仕える。信濃福島城主。天正十年、景勝から信州旧井上領を賜る。天正十三年、千見城攻めへの出兵を拒否。五月八日、真田昌幸に通じたため上杉軍に討たれた。
上泉泰綱 (1552〜1600年 49歳没)
上泉秀胤の子。信綱の孫。主水佐。後北条家への人質となる。父が没すと、京の祖父にその報告をする。そのまま京に残り、祖父の下で新陰流を学ぶ。後に北条家臣となる。北条家滅亡後、浪人。慶長二年、上杉家に仕え三千石。山上道久らと共に出羽合戦出陣。最上家臣斎藤五郎右衛門配下の足軽に討たれる。四十九歳没。上泉憲元とされることもあるが、これは誤伝である。
上泉秀綱 (1582〜1615年 34歳没)
上泉泰綱の嫡子。主水、源五郎。母は北条氏忠の娘。天正十年、小田原に生まれる。北条綱成、北条氏忠は上泉信綱の曾孫が一門に生まれたことを喜んだ。そして、信綱の許しを得て、旧名秀綱を生まれたその日に名付けた。北条家滅亡後、父泰綱と共に上州館林に移住。後に信州井上、出羽米沢に移る。十七歳の時、泰綱は長尾上杉家への忠誠の証として、秀綱を会津城に送った。父の死後、上泉家を相続。千五百石を賜り、百余名を預けられた。慶長五年七月二十五日、伊達家と大館古城で争う。この合戦は二十六日まで続いた。七月晦日、大館古城の合戦で得た首級百六の頸注文を作成。関ヶ原合戦後、上杉家減封によって知行五百石となる。慶長十二年、江戸城普請で中奉行。慶長十九年、大坂冬の陣に鉄炮隊を率いて参戦。出陣時、景勝の所望により父泰綱の形見の旗差物を献上。褒美に白梵天の旗差物を賜る。慶長十九年十一月二十六日、志宣野表合戦で上泉勢は奮闘。須田長茂隊潰走後もその場に踏みとどまり、遂に豊臣勢を撃退。重傷を負った秀綱は、褒美に金子を与えようとする景勝に子孫まで伝えられる物を望んだ。景勝は金屏風を秀綱に与えた。元和元年、この傷が元で死没。三十四歳。法名「鑑翁道机大居士」。
小林有綱 (?〜?)
上泉信綱の次男。母は北条綱成の娘。右近介。後北条家の剣術指南役となる。上州小林を領したため、小林右近介を名乗った。これは兄秀綱の家系を重んじ、己を傍流としたためと云う。後北条家滅亡後、浪人。慶長二年、上杉景勝に仕える。甥の上泉泰綱に属した。会津移封に従う。某年没。
小林重信 (?〜?)
小林有綱の子。父同様、小林を苗字とする。上泉秀綱に属し、大坂の陣に出陣。
石森行綱 (?〜?)
小林信綱の三男。母は北条綱成の娘。宗家に憚り、石森を苗字とした。源左衛門尉。上杉景勝に仕え、甥の上泉泰綱に属した。越後にて没したと云う。
石森秀秋 (?〜?)
石森行綱の子。大学。柳生兵庫介と互角の勝負をしたほどの腕を持つ。
石森義郷 (?〜?)
石森秀秋の子。上泉秀綱に属し、大坂両陣に参戦。後に芸州池田家に仕え、家系は池田家臣として続いた。
石倉勘兵衛 (?〜?)
上州の士豪。上泉泰綱の娘を娶る。義弟上泉秀綱に属す。慶長十九年、大坂冬の陣に参戦。
神保隠岐守 (?〜?)
上州の士豪。上泉泰綱の娘を娶る。義弟上泉秀綱に属す。慶長十九年、大坂冬の陣に参戦。
長景連 (?〜1582年)
与一。長連之は大永年間、能登棚木氏から長氏に入嗣し、後に越後へ移ったという。景連はその子孫であり、越後黒滝に勢力を持った。元亀三年、織田信長が武田信玄と結ぶのではないかと考えた謙信は、景連を派遣し、織田信長に信玄と義絶することを確認するための血判付き起請文を求めた。天正四年、謙信に従い海路から能登に攻め込み、正院川尻城主となる。副将は鳥倉伊勢、熊倉吉蔵。天正十年五月二十日頃、再び海路から奥能登に攻め込む。棚木城を落とすが、長連龍の攻撃によって落城。落ち延びる際、能登川尻村で討たれた。
長尾上杉家 家臣団
中条藤資 (?〜1574年)
越前守。楊北衆、鳥坂城主。謙信七手組の一人。長尾為景の下克上に協力した重臣。永正五年五月、平林城主色部昌長を破る。この功により長尾為景から加増を受けた。永正六年、関東管領上杉顕定が越後に攻め込むと、長尾為景に属して応戦する。永正十年十月十七日、新発田能敦は中条藤資に書状を送り、長尾為景、上杉定実のどちらに加勢するべきか意見を求めた。中条藤資は新発田能敦を説得し、長尾側に加勢させた。永正十年十一月、安田実秀が上杉側に寝返ったため、築地忠基らと共に安田城を攻める。永正十一年一月十六日、上田庄合戦で守護上杉軍を打ち破る。永正十五年七月十日、畠山義英から長尾為景に越中への出陣を求めたと伝えられた。享禄三年十一月、守護上杉家に味方するも敗れ、再び長尾家に仕える。享禄四年一月、「越後衆連判軍陣壁書」に連署。長尾為景に加勢し、上条定憲と争う事を示した。しかし、その後、上条定憲に属した。天文四年九月、中条藤資は蘆名家に使者を派遣し、上条定憲への加勢を依頼。天文八年十一月二十一日、上杉定実から伊達実元の入嗣斡旋を依頼される。上杉定実の姉妹の一人が上杉房定の養女として伊達尚宗に嫁ぎ、尚宗の嫡子稙宗と中条藤資の妹との間に伊達実元が生まれており、その血縁から斡旋の依頼をされた。本庄房長がこれに反対したため、本庄城を攻める。色部勝長も反対し、天文九年九月、家臣田中長義に中条城攻めを行わせている。長尾晴景も反対派であり、勝長の行為を褒めている。晴景の命令に背くが、謙信時代には重臣として国政に参加。永禄二年十月二十八日、長尾景虎の上洛祝いのため太刀を献上。永禄四年、小田原城攻めに参戦。同年九月十日、第四回川中島合戦に参戦。血染めの感状を受けた。第五次川中島合戦では遊軍。甘粕景持とともに信玄本陣に攻め込み、八十余りの首を取った。永禄十一年三月、本庄繁謙長から謀叛に誘われるが、逆に書状を謙信に送り、本庄繁長謀叛を知らせる。天正二年没。娘婿の吉江景泰が跡を継ぐ。
中条景泰 (1558〜1582年 25歳没)
吉江景資の次男。中条藤資の娘婿。与次、越前守。中条家を継ぐ。天正元年の一向一揆との合戦で、鉄炮弾の飛び交う中を十六歳ながら奮戦。剛毅な性格だったと思われるが、討死させるのを惜しんだ謙信により合戦から外される。天正二年、中条家の家督を継ぐ。しかし、中条家中は反対したらしく、景泰が中条へ向かった様子は見られない。軍役は百四十人。魚津城に父景資、祖父宗信らと籠もり織田家に備えるが、城を包囲され景勝の援軍も望めないため、守将は自刃を決意。耳に名前を記した紙を括り付け、吉江家三代は自刃した。
中条三盛 (1573〜1607年 35歳没)
中条景泰の長男。一黒丸、与次、資盛。父の死により、十歳にして家督を継ぐ。「上杉定納員数目録」によると、千八百六十五石九斗六合五勺、軍役百十六人。慶長二年、三盛を名乗る。慶長三年、会津鮎貝城代一万石。慶長六年、米沢移封により、知行を三千三百三十三石に減ぜられた。慶長七年、知行千八百石。
中条資種 (?〜?)
中条景泰の次男。帯刀。慶長七年、七百石。
中条資春 (?〜?)
中条景泰の三男。七蔵。慶長七年、五百石。
中条盛直 (?〜?)
中条三盛の子。市正。
中条玄蕃充 (?〜?)
中条一族か。天文二十年二月二十四日、長尾政景との合戦の功により長尾景虎から感状を賜る。三月十三日、知行を安堵された。
安田実秀 (?〜?)
弥太郎。安田城主。永正十年八月二十二日、中条藤資に書状を送り、長尾為景に忠誠を誓うと伝えた。そのため、上杉側の宇佐美房忠に安田城を攻められた。永正十年十一月、上杉側に寝返る。長尾為景は中条藤資、築地忠基らに安田城を攻めさせた。大永七年十月二十二日、幕府新第造営のための段銭を長尾為景に納める。同月二十九日、再び段銭を納めた。子は長秀。
安田長秀 (?〜1582年)
安田実秀の子。治部少輔。楊北衆。越後守護上杉定実より安田庄を与えられる。安田城主。為景時代から長尾家に仕え、永正年間には本庄房長、色部昌長、竹俣清綱らと戦う。その功により永正五年、知行を賜る。永正六年、関東管領上杉顕定が越後に攻め込むと、長尾為景に属して応戦する。永正十年九月、守護上杉家側の宇佐見房忠らは安田長秀討伐軍を結成。が、為景に鎮圧される。享禄三年十一月、守護上杉家に味方するも敗れ、再び長尾家に仕える。享禄四年一月、「越後衆連判軍陣壁書」に連署。長尾為景に加勢し、上条定憲と争う事を示した。天文七年、伊達実元の越後上杉家養子入りに反対。天文十三年十月十日、天正の乱での戦功に対し、長尾晴景から知行を賜る。永禄四年、小田原城攻めに参戦。同年九月十日、第四回川中島合戦で旗本右備先陣となる。武田信繁を追いつめ、武田義信を退けた。この活躍により、有名な血染めの感状を受ける。これは安田長秀の他、色部勝長、中条藤資、垂水源二郎、本田右近充、松本大学忠繁、岡田但馬の七名が賜った。安田、色部、垂水に宛てた三通は現存している。永禄十二年二月、本庄繁長謀叛の動揺を抑えるため、謙信は長秀らから人質と誓詞をとった。御館の乱では景勝を支持。天正十年、新発田征伐の陣中で病没。
神余親綱 (?〜1580年)
譜代旗本衆。京にあって公家、幕府要人との折衝にあたる。越後の特産物である青苧の販売権を確保するため、青苧奉行として活躍。青苧による取引は、長尾上杉家の重要な資金源として謙信の大遠征を支えた。天文二十一年四月八日、景虎からの贈り物として細川晴元に信太鷹と馬を届ける。天文二十二年、謙信上洛のために奔走し、無事に天皇、将軍への謁見を成功させるなど外交面でも優れていた。永禄元年、帰京した義輝を祝うための使者に。山吉豊守病死後、三条城主。御館の乱では景虎を支持し、景虎死後も抵抗を続けるが旧山吉家中の者により暗殺されたという。
千坂景親 (1536〜1606年 71歳没)
越後守護上杉家家老の家柄。対馬守。女堂城主、鉢盛城城主。永禄二年十月二十八日、長尾景虎の上洛祝いのため太刀を献上。軍役五十八人。御館の乱では景勝を支持し、武田勝頼との同盟締結のための使者となる。天正十年、斎藤朝信と共に武田家救援の先陣として信濃海津城に入る。天正十四年、上杉景勝の上洛に供奉。六月十六日、直江兼続と共に千利休から茶を勧められる。天正十四年八月十八日、新発田征伐に際して先陣に加わり、笠堀に布陣。文禄三年の「上杉定納員数目録」に知行二千百七十六石二斗九升八合五勺、軍役百三十人とある。伏見御留守居役。文禄四年、伏見城普請総奉行。慶長三年、会津大沼郡五千五百石。関ヶ原合戦後は徳川家との和睦のために奔走。慶長八年、米沢藩初代江戸家老。
千坂長朝 (?〜?)
千坂景親の子。慶長七年二月二十七日、亀岡文殊堂の連歌会に出席。
千坂高信 (?〜?)
千坂景親の子。慶長十四年七月七日、直江兼続から十万石分の役儀が免除されたことなどを記した八ヶ条の条書を送られた。この免除は本多正信の取りなしによるものである。
千坂憲清 (?〜?)
弘治元年、佐竹義昭への使者となる。これは同盟締結交渉のためである。
山吉行盛 (?〜?)
三条城主。天文年間中期、長尾家に従わない越後の国人衆が栃尾城を攻めると、長尾景虎と共に応戦、撃退する。
山吉政久 (?〜?)
三条城主。享禄四年八月十日、越後一の宮である居多神社に起請文を出す。天文の乱に際し、本成寺衆徒と共に上条定憲勢と戦う。天文二年六月二十四日、長尾為景が本成寺に宛てた大面庄の寄進状に名がある。本成寺が長尾勢に加勢したことへの恩賞である。天文四年八月、下倉城の救援に駆けつける。子は豊守、景長。
山吉豊守 (1541〜1577年 37歳没)
山吉政久の子。孫次郎。上杉謙信の重臣。譜代旗本衆。十四歳で父政久が没し、叔父親章の世話になる。永禄四年、小田原城攻めに参戦。同年九月十日、第四回川中島合戦に参戦し、旗本左備を務める。永禄十二年八月初旬、中条藤資と黒川氏の所領争いで中条藤資に加勢する。北条氏康との同盟締結のための交渉役となり、北条三郎を人質にすることで話をまとめた。上杉景虎が北条家に書状を送る場合、遠山康光に書状を提出。山吉豊守が内容を確認し、問題がなければ小田原に届けられた。もし、山吉豊守が書き直しを命じた場合、上杉景虎はそれに応じなければならなかった。天正三年の軍役帳では、家中最大の三百七十七人を負担。そのなかに鉄炮二十挺とある。
山吉景長 (?〜1611年)
山吉豊守の弟。玄蕃亮。兄の死後、家督を継ぐ。天正九年六月二十二日、新発田重家に備えるため木場城守将。天正十一年三月二十日、同年四月十九日と新発田勢を破り、景勝から感状を賜る。天正十一年七月二十九日、新発田勢を破る。天正十四年十月二十九日、上杉景勝から戦功を賞賛される。会津移封、米沢移封に従う。米沢での知行は四百五十石。
竹俣慶綱 (1524〜1582年 59歳没)
三河守。楊北衆。竹俣城城主。父清綱は守護上杉家に属し、為景と争った。天文七年までに長尾家に仕える。上杉謙信の側近として奉行となり活躍。永禄二年十月二十八日、長尾景虎の上洛祝いのため太刀を献上。同年九月十日、第四回川中島合戦に参戦。馬一頭と鎧一領を賜る。軍役は九十八人。天正九年から越中松倉城を預けられる。同族新発田重家に所領を攻撃される。天正十年六月三日、魚津城にて自刃。名刀竹俣兼光の伝説で有名。
竹俣昌綱 (?〜?)
筑後守。永禄四年、小田原城攻めに参戦。
竹俣利綱 (?〜1613年)
長尾景人。左京亮、三河守。文禄二年、断絶していた竹俣家を継ぐ。「上杉定能員数目録」に、知行九百二十一石七斗、軍役五十五人とある。慶長三年、会津守山城代二千百石。慶長六年、米沢移封に従う。慶長十八年没。遺領は市川左衛門尉が嗣ぎ、大坂両陣に参戦した。
吉江景宗 (?〜?)
織部。永正十年八月三日、長尾為景から知行宛行状を送られる。
吉江宗信 (1505〜1582年 78歳没)
常陸介。謙信に仕え、関東侵攻などに従軍するが、老齢となったため留守居役となった。越中魚津城守将となり、織田軍の包囲のため子孫とともに自刃した。子は景資。孫は中条景泰。
吉江景資 (1527〜1582年 56歳没)
吉江景資の子。吉江城主。譜代旗本衆。織部佐。関東侵攻や一向一揆討伐に功があった。永禄二年の謙信上洛では旗本武者奉行として供奉。同年十月二十八日、長尾景虎の上洛祝いのため太刀を献上。永禄五年三月十五日、謙信から春日山城などの火の用心を命じられる。一族の吉江民部少輔景淳、吉江内務丞景忠も同じ命令を受けている。織田軍に備えるため越中魚津城守将となるが、景勝は越後侵攻を警戒して援軍を送ることが出来ず、魚津城守将は自刃した。子は中条景泰。
吉江茂高 (?〜?)
天文二十一年六月二十日、景虎の関東攻めが近いことを平子孫太郎に伝えた。
吉江景淳 (?〜?)
中務丞。永禄五年三月十五日、謙信から春日山城などの火の用心を命じられる。
吉江資堅 (?〜?)
天正元年四月三十日、河田長親から武田信玄の死は確定情報だと伝えられた。天正三年二月九日、上杉景勝は自身の軍役帳を吉江資堅を通じて上杉謙信に提出した。
吉江忠景 (?〜?)
元亀三年五月、椎名康胤らが挙兵すると、これに対抗するため太田保本郷に布陣。
吉江景忠 (?〜?)
永禄五年三月十五日、謙信から春日山城などの火の用心を命じられる。
荒川長実 (?〜?)
伊豆守。永禄四年九月十日、第四回川中島合戦に参戦し、旗本先陣を務める。この時、武田信玄に切りつけたのは上杉謙信ではなく荒川長実と云う。本陣にまで突撃をかけ、信玄に三太刀を浴びせるが討ち取ることは出来なかった。後の合戦で討死したという。屋敷跡は現在も伝えられている。軍役五十二人を負担した荒川弥次郎は子か。
狩野秀治 (?〜1588年)
上杉景勝の重臣。天正十年以降、直江兼続と共に上杉家の執政として景勝を支え、共に豊臣家との交渉を行った。直江兼続と共に石田三成から秀吉に臣従するよう書状を送られる。天正十六年没。
金津新兵衛 (?〜?)
上杉謙信の傅役。七歳になった謙信は他家への養子入りを拒み、為景に手討ちにされかかった。新兵衛は身を挺して謙信を守り、天室光育和尚に預けた。春日山城で胎田常陸介に謀叛をすると、再び謙信を守った。永禄五年三月十五日、春日山城などの火の用心を命じられる。御館の側に「金津立」という屋敷があった。新兵衛と関係があるのだろうか。
松本景繁 (?〜?)
謙信の旗本。小木ノ城城主。沼田城守将となる。永禄年間、奉行人となる。永禄十二年、北条家から同盟の書状を携え、天用院という使僧が沼田を訪れる。天候悪化のため越山出来ずにいたため、景繁が先に越山し、上杉謙信に書状の内容を伝えた。このように松本景繁は北条家との同盟交渉の窓口となった。
松本忠矩 (?〜?)
松本忠繁の嫡子。大炊介。年友城主。
志田義時 (1542〜1561年 19歳没)
源四郎。三島郡夏戸城主。第四次川中島合戦に出陣し、謙信本陣を強襲する武田義信軍と戦い、十九歳で討ち死にした。
志駄春義 (?〜?)
山城入道。永正四年八月八日、長尾為景から書状を送られる。永正五年、合戦での戦功により長尾為景から加増を受けた。
志田義秀 (1559〜?)
志田義時の子。修理亮。わずか二歳で父を亡くす。謙信、景勝、定勝の三代に仕える。出羽合戦時、大宝寺城より東禅寺城に移り五千五百石。池田讃岐守らを破った。最上家の攻撃に十四日間耐えるが、援軍到着の見込みが薄く、最上家臣志村光安の説得に応じ開城した。慶長六年、荒戸城代。
山崎秀仙 (?〜1581年)
元亀・天正年間の奉行人。専柳斎。書生から登用された経歴を持つ。越中との連絡役となる。元亀三年九月、織田信長への使者となる。天正二年、上杉謙信の上州金山城攻めに対し、徳川家康は武田家を牽制するため駿河に攻め込んだが、織田信長は甲斐を攻めなかった。これは同盟の違反であり、上杉謙信は山崎秀仙を派遣。信長は畿内平定のため出陣出来なかったと秀仙に伝えた。天正四年、本願寺との和睦を決めた謙信は、本願寺への使者として秀仙を派遣した。天正六年十二月、上杉景勝は河田長親への使者として秀仙を派遣。加勢を求めた。御館の乱では景勝に属す。天正九年六月、河田長親の妻が毛利秀広の領地について訴訟を起こした。天正九年九月一日、御館の乱での論功行賞に不満を持った毛利秀広は、山崎秀仙を春日山城内で殺害。秀仙と同席していた直江信綱が秀広に切りかかるも、返り討ちにされた。
栗林政頼 (?〜?)
上杉景勝の後見人。元亀二年、武田家が北条家の駿河深沢城を攻めると、北条家への援軍として沼田に向かう。武田軍撤退の連絡を受け、越後へ戻った。五月、武田軍が西上野を攻めると、その警戒のために派遣される。元亀三年二月、北条家が厩橋に布陣すると、上田衆と共に上州に派遣される。元亀三年七月二十三日、上杉景勝と共に厩橋城の援護を命じられた。九月、上杉謙信から越中攻めの作戦を指示された。天正元年正月、椎名康胤は栗林政頼を介して上杉謙信に降伏した。天正五年、能登石動山城の普請を命じられた。
蔵田五郎左衛門 (?〜?)
譜代旗本衆。主に春日山城留守役。元は商人といい、越後青苧座の管理を任される。青苧は謙信の重要な資金源であり、五郎左衛門は神余親綱とともに青苧販売を支えた。永禄三年八月二十五日、景虎から府内の町人が府内掟を守るようにすることを命じられた。これは景虎が関東出兵で越後から離れることを懸念したためだろう。永禄四年、府内の治安維持の徹底を命じられた。同年、謙信の鶴岡八幡宮関東管領就任式の調度を調達。永禄五年二月、関東の謙信より、側近の住む春日町(春日山城山麓一帯)、有力町人らの住む府内(直江津一帯)の火の用心及び春日山城普請を命じられる。三月、萩原伊賀守と共に春日山城普請を命じられる。永禄七年三月には信玄国境接近により、春日山城の普請、武器弾薬の実城移動、そして春日山城死守を命じられる。同年八月二十四日、信玄と対陣中の謙信より大門、大手門の建設を命じられる。同十年、謙信から甲斐に塩を輸送するよう命じられる。この塩贈りの逸話自体は創作だが、越後から信濃方面に塩が輸出されていたことは事実である。天正六年二月、上杉謙信の命で京より画工を招き、謙信の法体の画像を描かせた。しかし、その完成と同じ三月十三日に謙信は死去した。
蔵田左京助 (?〜?)
天正十一年正月十二日、秀吉への使者となる。秀吉は柴田勝家に対抗するため、景勝と協力することを約束した。
佐野清左衛門尉 (?〜?)
旗持城将。御館の乱で景勝に属す。上越と中越を結ぶ要所旗持城に籠もり、上杉景虎と戦う。天正六年十月十五日、遠藤藤宗左衛門尉らとともに北条景広を抑え、帰城を阻んだため感状を賜る。清左衛門尉の家臣、西村隼人佐、西村五郎左衛門なども同じく感状を賜った。同年十月二十四日、敗走する本庄勢を蓼沼友重とともに追撃するよう命じられた。天正七年二月十一日、旗持城を出て景虎軍を撃破。蓼沼友重とともに鯨波の景虎軍を降伏させる。同月二十五日、景勝はこの働きを褒め、琵琶島城攻撃で十分用心するよう助言した。同年三月三日、琵琶島城将前島修理亮が御館に輸送しようとした食糧を奪う。四日には琵琶島城、上条城を攻撃。上条城を攻め取り、琵琶島城と御館を切り離した。これにより景虎は追いつめられ、やがては自刃した。
上野九兵衛尉 (?〜?)
御館の乱で景勝に属す。猿毛城守将篠宮出羽守は上杉景虎に味方するが、九兵衛尉らはこれを奪う。猿毛城は上越から柏原地方につながる街道に接する要所である。天正六年六月九日、景勝はこの功績を褒め猿毛城守将に任じ、知行桃木安堵、諸役免除とした。以降、同じ猿毛城守将遠藤宗左衛門尉、旗持城守将佐野清左衛門尉らと共に戦う。北条景広が北条城に戻ろうとすると、その帰城を阻む。同年十二月十六日、景勝から河田長親が越中から援軍に来たことを報じられる。天正七年一月、景虎より内応を迫られるが、逆に使者を討っている。同月十一日、景勝はこれを喜び、直峰城衆と相談して戦うよう命じる。島ノ塁攻略。同年二月十八日、応下に出陣し御館への兵糧輸送を阻むよう命じられる。三月、町田城を攻撃し、七日には戦功を褒められ御館攻撃に加わるよう命じられた。
小森沢政秀 (?〜?)
坂戸城守将。琵琶懸城主とも言う。刑部少輔。天正六年五月二十三日、金子忠重と共に、信州市川からの敵を撃退するよう景勝に命じられる。九月八日、忠重と共に武田勝頼への援軍依頼を周旋し、駆けつけた武田軍に城を明け渡し、犬伏城に移った。景勝はこの判断を褒め、九月二十七日に移動に必要な人夫を直峰城から出すよう命じた。景勝は政秀、忠重を秋葉山城勤番とした。
金子忠重 (?〜?)
今井城主。次郎右衛門。謙信、景勝に仕える。御館の乱では小森沢政秀と共に重用された。天正年間、琵琶懸城勤番。子孫の記録によると、御館の乱の功により琵琶懸城を与えられたと言う。
清水藤左衛門 (?〜?)
天正六年以降、浦沢城主。御館の乱では景勝に属し、北条軍を破るなどの功があった。このため、景勝から何通もの感状を賜った。
小日向隼人佐 (?〜?)
直峰城守将。天正六年十一月十一日、御館の乱での功を景勝から褒められる。十二月一日、景勝は同じく直峰城防衛で功があった北村孫兵衛、山田彦右衛門に土地を与えることを約束した。
鯵坂長実 (?〜?)
元亀・天正年間の奉行人。元亀三年、越中国新庄城守将。一向一揆と結んだ椎名康胤と戦う。五月二十三日、越中日宮城の神保覚広は一向一揆に攻められたため、鰺坂長実に援軍を求めた。五月二十四日、弾薬の補給を直江景綱、山吉豊守に依頼している。同日付の書状で、越中一向一揆に備えるため河田長親が着陣したことを報告。天正五年の能登国七尾城攻略後、七尾城守将となる。同年十月二十五日、能登の治安維持のため、遊佐盛光と共に十三箇条の制札を出す。天正六年三月、上杉景勝に誓詞を送り、家督相続の際に加勢することを伝えた。天正七年八月頃、織田家に通じた能登衆により追放される。
庄田隼人 (?〜?)
越中宮崎城在番。天正元年五月十四日、河隅三郎左衛門忠清とともに椎名浪人の取り締まりを命じられる。浪人らは海賊行為をしていたため、海岸を警護し、浜へ上がったところを討つよう命じられた。隼人は鉄砲十五挺を用意することとなった。同日、春日山城の実城、二の郭、三の郭に堀を築くよう命じられる。
庄田定賢 (?〜1561年)
譜代旗本衆。永禄年間、奉行人として政権を支える。天文二十三年、本庄実乃と共に本誓寺に長尾景虎上洛の便宜を図ったことの謝意を伝えた。天文二十一年、山内上杉憲政が謙信を頼ると、庄田定賢、平子孫四郎らを沼田城に派遣した。弘治二年八月十四日、出奔した大熊朝秀に対処するため、西浜口に派遣された。第四次川中島合戦で、謙信本陣を強襲する武田義信軍と戦い討死。
平子右馬充 (?〜?)
天文五年四月十三日、長尾為景から感状を賜る。
平子孫太郎 (?〜?)
天文十八年、松本河内守と領地争いをする。この領土は平子孫太郎に与えられた。天文二十年七月二十三日、長尾景虎から長尾政景との合戦への参加を求められる。天文二十一年、景虎が弾正少弼に昇進すると祝賀の品を献上。同年六月二十日、景虎の関東攻めが近いことを吉江茂高から伝えられた。七月三日、山内上杉憲政から同様の内容を伝えられた。八月上旬、関東出陣を慰労する書状を贈られた。天文二十一年、松本河内守との領地争いが長引いたため、長尾景虎から領地を安堵され、所有の正当性を確保した。しかし、松本河内守はこれに納得せず、遂に天文二十二年四月二十一日、将軍足利義輝に訴えた。
芋川正親 (?〜?)
信濃の国人芋川正章の子。楠木氏を称す。越前守。武田信玄に仕える。永禄十二年、信玄から雪解け後に越後に攻め込むという書状を受ける。天正三年、武田家を離れ、上杉家に仕官。武田滅亡後、織田軍に対して一揆を起こし飯山城を落とす。大倉古城に籠もるも攻め落とされる。上杉景勝を頼り落ち延びる。天正十年四月十九日、牧之島城守将。天正十八年、九戸征伐に参加。天正十八年、大宝寺城を守る。しかし、検地反対の一揆によって開城。入城直後のため、防備が不十分だったようだ。「上杉定納員数目録」に知行四千四百八十六石一斗八升六合、軍役二百六十九人。慶長三年、会津白河城代六千石。慶長六年、米沢大森城代二千七百七十三石。
平林蔵人 (?〜?)
蔵人佐。文禄三年、山田修理と共に伏見城掘普請の奉行となる。慶長五年七月十九日、白川在番衆は平林蔵人、芋川越前守、西方次郎右衛門の指示に従うよう命じられた。八月二十三日、上杉景勝は白川小峯城普請の横目として石川惣左衛門、小田切豊前守を派遣すると蔵人に伝えた。慶長六年十月十六日、景勝から知行目録を発給される。
松本助義 (?〜1600年)
信州松本の国人。大炊助、伊賀守。上杉謙信とは姻戚にあたると言う。「上杉定納員数目録」に知行千五百八十石、軍役百十四人とある。慶長三年、会津小国城代。後に尾浦城代三千二百石。慶長五年十月十一日、庄内一揆との合戦で討死。
松本猪兵衛 (?〜1600年)
松本助義の子。慶長五年、父と共に討死。慶長七年三月二十八日、篠井高次が松本家を嗣ぎ、三百石を知行した。
村山義信 (?〜?)
与七郎。永正十六年、椎名長常から長尾為景に越中出陣催促の取次を依頼される。同年、越中攻めに参戦。
村山盛義 (?〜?)
永正六年、関東管領上杉顕定が越後に攻め込むと、長尾為景に属して応戦する。
村山直義 (?〜?)
中務丞。享禄四年十月十八日、長尾為景から書状を送られ、天文の乱での軍功から加増の約束を結ぶ。
村山與七郎 (?〜?)
長尾晴景の近臣。天文十四年、黒田秀忠が二度目の謀反を起こすと、長尾景虎は村山與七郎に黒田征伐に加わるよう命じた。
石田惣左衛門尉 (?〜?)
天文十八年四月二十七日、越後府内大橋場の橋銭の権益を惣左衛門尉に与え、破損した橋の修復を命じた。この橋とは応化橋である。
垂水孫次郎 (?〜?)
第四回川中島合戦の戦功により血染めの感状を受ける。
本田右近允 (?〜?)
第四回川中島合戦の戦功により血染めの感状を受ける。
岡田但馬 (?〜?)
第四回川中島合戦の戦功により血染めの感状を受ける。
海野隼人正 (?〜?)
謙信の側近。永禄九年三月二十四日、臼井城攻めで苦戦した謙信に、敵城には白井浄三という軍師がいることを伝えた。
村田秀頼 (?〜?)
謙信の馬廻衆。大隅守。雷城在番。雷城は神戸城と共に蘆名家の侵攻を阻む目的があった。後任は丸田高俊。天正元年七月、越中新庄一帯の状況を報告。同年十月十九日、謙信から越中太田下郷を与えられる。
黒金泰忠 (1564〜1635年 70歳没)
島倉泰明の長男。吉蔵孫左衛門。慶長二年、黒金景信の遺領を継ぐ。会津移封後、六千二百石。慶長四年三月、神刺原築城総奉行。慶長六年、米沢移封により二千六十六石。慶長十九年十一月二十六日、鴫野表合戦で功があった。元和元年一月十七日、秀忠から感状、呉服二着、羽織一着を賜る。感状に姓が「鉄」と記されていたため、以降、鉄を姓とした。元和六年、江戸城石垣普請を監督。寛永六年、江戸城堀普請を監督。
黒金尚信 (?〜?)
安芸守。佐渡平定後、景勝は尚信を佐渡羽茂郡に配置。「上杉定納員数目録」によると、知行千二百一石二斗五升七合。会津移封後も佐渡は上杉家の所領であり、羽茂城代二千五百石となった。
今城治右衛門 (?〜?)
木村造酒丞らと共に川中島四郡の代官。慶長三年の上杉家会津百三十一万八千石転封の際、直江兼続から新領主えの引き継ぎに手抜かりのないことを命じられる。
満願寺仙右衛門 (?〜?)
神指城建設では材木奉行となる。
後藤勝元 (?〜?)
左京入道。天正二年、上州金山城主由良成繁との合戦に勝利。首級を北条高広に送った。天正十二年、羽茂本間氏と河原田本間氏とが争うと、調停役として佐渡に派遣される。天正十三年春、再び佐渡に渡海。天正十六年、佐渡の国人衆に対し、上杉家に属さねば征伐すると恫喝。
秋山定綱 (?〜1615年)
伊賀守、式部丞、時綱。落水城主、後に糸魚川城主。天正十年二月二十六日、景勝から水原親憲と共に新地普請を命じられる。この新地とは勝山城とする見方がある。天正十一年四月十七日、糸魚川城横目役。二十三日、糸魚川城在番。同時に普請を命じられる。文禄三年の「上杉家定納員数目録」によると、糸魚川衆四百九十石一斗七升五合七勺。 慶長三年、会津移封に従う。二本松城代千石。慶長六年、米沢移封に従い、三百二十石九斗六升九合。慶長十四年四月、大滝土佐守と共に常州海上船入普請の総監と務める。元和元年没。
丸田高俊 (?〜?)
蔵王城主。謙信の馬廻衆。周防守。雷城在番。御館の乱では上杉景虎に属す。天正七年、景勝の攻撃を受ける。後に許され再び雷城在番となる。神戸城将登坂藤右衛門らと共に蘆名家に備えた。
丸田右京之助 (?〜?)
見附城主。御館の乱では上杉景虎に属す。天正八年、景勝の攻撃により落城。
丸田伊豆守 (?〜?)
大面城主。御館の乱では上杉景虎に属す。天正八年、景勝の軍門に屈した。
菅名綱輔 (?〜1582年)
源三、但馬守。天正三年の「上杉家軍役帳」に、鑓四十七丁、手明十人、鉄炮六丁、大小旗六本、馬上九騎とある。天正五年「上杉家家中名字尽手本」に名がある。御館の乱では上杉景虎に属す。天正八年、栃尾城攻めでは加茂城に布陣。敵の援軍を牽制し、その功を景勝から賞されている。天正十年二月十八日、直江兼続に戦況を報告。同年、新発田征伐で討死。
来次氏秀 (?〜?)
庄内観音寺城主二千五百石。来次時秀の子。知勇に優れるという。天正十年、最上義光からの誘いを受ける。十四年、主家武藤義興から疑いを受け攻められる。十六年、本庄繁長が庄内を攻めるとこれに従い、上杉家臣となる。天正十八年、上杉景勝と共に小田原攻めに従う。文禄年間、九州名護屋在陣。慶長五年、出羽合戦で最上義光に攻められると、家臣を帰農させ観音寺城を明け渡し、会津に向かった。
横田旨俊 (?〜?)
式部少輔。会津移封後、中山城一万四千石を与えられた。他に泉沢河内守久秀が荒砥城一万四千石、栗田刑部少輔国時が大森城一万千石を領した。慶長三年、出羽中山城代となる。五年、出羽合戦で木村親盛と共に中山口から最上勢を攻撃。直江兼続は萩野中山から攻め入った。
福王寺掃部助 (?〜?)
永正十年十月二十一日、上杉勢との合戦に勝利。同年十月二十三日、長尾為景から書状を送られ、府中が安定している事、信濃衆の動向に注意する事を命じられる。
福王寺孝重 (?〜?)
下倉山城主。彦八郎。天文四年一月十三日、長尾為景から下倉城を守るよう命じられる。七月二十五日、穴沢新右兵衛尉に下倉城を攻められる。八月四日、長尾為景から下倉城への援軍派遣を約束した。八月、山吉政久らが救援に駆けつける。八月二十八日、上条勢を打ち破った。弘治元年八月二十二日、第二回川中島合戦の戦功により長尾景虎から感状を賜る。
福王寺重綱 (?〜1581年)
福王子孝重の子。掃部介。天文四年、父と共に長尾為景に味方し、下倉山城籠城に参加。天正六年、御館の乱で景勝に属す。北条家との合戦で負傷し、これが原因で没した。
福王子景重 (?〜?)
福王子重綱の子。「上杉定納員数目録」に知行四五石七斗三升五合、軍役三人とある。
泉沢久秀 (?〜1615年)
河内守。上田衆。御館の乱で景勝に属す。以後、奉行職。天正八年七月十三日付の書状で穴沢善左衛門尉と食料、衣類の売買等について連絡を取り合っている。天正九年六月一日、竹俣慶綱は新発田重家に所領を横領されたことを泉沢久秀を介し、上杉景勝に訴えた。天正九年九月十七日、出雲崎など料所の賦税徴収を監督。天正十四年八月十八日、新発田征伐に際して御鉄炮大将として笠堀に布陣。文禄三年、「上杉定納員数目録」を作成。同書によると、久秀は知行五千六百四十三石。軍役三百三十八人。文禄三年、伏見城掘普請の総指揮を直江兼続と共に執る。会津移封後、荒砥城代一万一千石。慶長六年、米沢移封により二千八百十五石三斗六合。嗣子無く、久秀の死後、泉沢家は改易された。
板屋光胤 (?〜?)
藤九郎、修理亮、佐渡守、英胤。永禄十三年八月、武田家が上州厩橋へ向けて進軍すると、それに対抗するため沼田へ向かった。元亀三年、北条家が厩橋に布陣すると沼田に移る。天正元年、小木城代。御館の乱で景勝に属す。戦後、吉水、富岡を賜る。出雲崎料所の代官職となる。「上杉定納員数目録」によると、二百十八石、軍役十一人。嗣子が無いため、弟胤信が家督を継いだ。
蓼沼泰重 (?〜1582年)
天正九年七月十七日、魚津城守将。天正十年、魚津城籠城に加わる。同年六月三日、織田軍に攻められ討死。
蓼沼友重 (?〜1609年)
蓼沼泰重の弟。藤七、日向守。天正六年、御館の乱で景勝に属す。天正六年十月二十四日、米山峠での上杉景虎勢追撃で功を挙げる。天正七年二月二十五日、鯨波を攻め、景虎勢を破る。こうした功績から感状を賜る。天正九年六月二十二日、新発田重家に備えるため、木場城主将となる。天正十年四月上旬、新発田勢と争う。天正十五年六月一日、上杉景勝から掟七ヶ条を出された。新発田重家征伐に功があり、感状を賜る。馬廻宰配頭となる。慶長十四年没。
黒川盛実 (?〜?)
永正六年、関東管領上杉顕定が越後に攻め込むと、長尾為景に属して応戦する。永正十年九月二十九日、宇佐美房忠から書状を送られる。
黒川清実 (?〜?)
黒川城主。四郎次郎、備前守。享禄四年一月、「越後衆連判軍陣壁書」に連署。長尾為景に加勢し、上条定憲と争う事を示した。永禄四年、小田原城攻めに参戦。同年九月十日、第四回川中島合戦に参戦。天正三年、「上杉軍役帳」に鑓百二十五丁、手明十五人、鉄炮十一挺、大小旗十一本、馬上十七騎とある。御館の乱では上杉景虎に属す。子は為実。
黒川為実 (?〜1619年)
黒川清実の子。左馬介、豊前守。文禄元年、三十四名を率いて朝鮮に渡海。「上杉定納員数目録」に、千六百六十五石一斗五升二合、軍役百人とある。慶長三年、会津にて三千八百石。慶長六年、米沢にて千二百九十二石八斗四升一合。慶長十九年、大坂冬の陣に参加。
黒川義周 (?〜?)
黒川為実の子。源三郎。
志駄春義 (?〜1563年)
夏川城主。子の義時が第四次川中島合戦で討死すると、孫の義秀の後見人となる。永禄六年八月十九日没。
志駄義時 (?〜1561年)
志駄春義の子。夏川城主。永禄四年九月十日、第四次川中島合戦で討死。子の義秀は直江兼続に属した。
築地忠基 (?〜?)
修理亮入道。永正四年十月、本庄城主本庄時長を破る。永正五年五月、平林城主色部昌長を破る。この功により長尾為景から加増を受けた。永正六年、関東管領上杉顕定が越後に攻め込むと、長尾為景に属して応戦する。永正十年十一月、安田実秀が上杉側に寝返ったため、中条藤資と共に安田城を攻めた。同年十二月二十八日、水原に布陣。永正十一年一月十六日、上田庄合戦で守護上杉軍を打ち破る。同年一月二十六日、長尾為景から書状を送られる。
築地資豊 (?〜?)
揚北衆の中でも特に力を有していた。御館の乱で上杉景勝に属す。天正十年三月十日、上杉景勝は築地資豊に、武田家への援軍に向かう途中、勝頼自刃の報を受けて引き返したと伝えた。新発田重家が反乱すると、態度を明確にしなかったが、直江兼続の説得により景勝に属した。この時、兼続は望み次第の恩賞を与えるとまで言っている。上杉景勝は他にも多数の書状を送り、筑地資豊の勧誘に努めた。慶長六年二月三日、警備する柳川城が火災に遭った。六月五日、直江兼続から近日中に上洛すると伝えられた。
桃井義孝 (?〜?)
飯山城主。伊豆守。享禄四年一月、「越後衆連判軍陣壁書」に連署。長尾為景に加勢し、上条定憲と争う事を示した。しかし、その後、上条定憲に属した。永禄四年、小田原城攻めに参戦。天正六年五月十六日、上杉景虎に加勢するため御館に入る。
萩田孫十郎 (?〜?)
主馬。父与五郎は近江の浪人で越後へ移り、為景に仕えた。御館の乱では景勝に属す。天正七年二月一日、北条景広を討ち取る。この功により糸魚川城将となる。後に勝山城に移った。家系は越後高田藩主松平光長の家老として続いた。
堀江宗親 (?〜?)
駿河守。越前より来たと云う。鮫ヶ尾城主。駿河守。天正五年の名字尽手本の中に名がある。天正六年五月十六日、上杉景虎に加勢するため御館に入る。形勢不利となり、庇護を求める景虎を見捨てて開城。景虎夫妻は自刃した。天正七年三月二十四日のことである。
岩舟長忠 (?〜?)
藤左衛門尉。永禄五年三月十五日、謙信から春日山城などの火の用心を命じられる。
桐沢具繁 (?〜?)
但馬守。天正九年四月、黒金景信から河田長親の妻が起こした、毛利秀広の領地に関する訴訟の取次を任される。天正十二年、御館の乱で背いた北条高広の代わりに北条城主に。景勝に従い会津に。
波々伯部三河守 (?〜?)
加賀一揆を指揮。本能寺合戦の後、上杉景勝に加賀、能登、越中を取るよう進言した。
外山茂右衛門 (?〜?)
寺泊の商人。天文十二年、佐渡鶴子銀山を開発。
上野内匠助 (?〜?)
永正十年十月十八日、長尾為景から書状を送られる。享禄四年十月十八日、長尾為景から書状を送られ、天文の乱での軍功から加増の約束を結ぶ。
上野秀方 (?〜?)
節黒城主。彦九郎。大永五年九月三日、所領である波多岐庄興徳寺領から段銭九段分を長尾為景に納めた。これは新第造営の費用として長尾為景が幕府から求められたものである。享禄二年八月二十七日、段銭の未納分を納付。
上野家成 (?〜?)
節黒城主。長尾晴景から長尾景虎への政権委譲が無事に行われたことを本庄実乃から伝えられた。弘治二年八月二十三日、出奔した大熊朝秀との合戦に勝利。八月二十五日、長尾景虎から感状を賜る。永禄十二年、北条家との同盟交渉の窓口となる。
上野長安 (?〜?)
節黒城主。中務。会津移封に従う。
南雲治部左衛門 (?〜?)
弘治三年八月二十九日、長尾景虎から第三回川中島合戦での戦功により感状を賜る。
宮島惣三 (?〜?)
永禄七年二月十七日、野州唐沢山城攻撃の戦功により上杉謙信から感状を賜る。
栗林房頼 (?〜?)
二郎左衛門。永禄七年二月十七日、野州唐沢山城攻撃の戦功により上杉謙信から感状を賜る。
栗田刑部 (?〜1600年)
慶長五年、藤田信吉と共に出奔。直江兼続に捕らえられ、誅殺された。
山名義季 (?〜?)
天正十年、上州中山城が北条家に寝返るなど上州の結束が乱れた。下川田城主山名義季は責任を取り知行三分の一を没収され、沼田城に移された。子の主水、弥惣は下川田城に残る。天正十二年九月、北条勢との合戦で主水は討死。弥惣は沼田に移った。
小中彦兵衛尉 (?〜?)
上州小中城主。謙信の関東侵攻に従う。永禄十二年、沼田城にて奉行となる。天正六年、武田家臣跡部勝資からの内通を受ける。
尻高左馬助 (?〜?)
御館の乱では景勝に属す。上州宮野城守将。天正八年五月、武田家臣海野輝幸の攻撃により討死か。
大胡民部左衛門 (?〜?)
上州大胡一族。上杉謙信に属し、山上城主となる。後に山上城は由良家の属城となった。
清水大炊 (?〜?)
「有尾長者」と呼ばれる。天正十一年、岩井信能の命により飯山城普請、城下町の町割を行う。この功により信能から増村姓を賜ったと伝わる。
吉益伯耆守 (?〜?)
天正六年六月十七日、上杉景勝から御館攻めを命じられる。
佐藤平左衛門 (?〜?)
天正六年六月十七日、上杉景勝から御館攻めを命じられる。
左近司伝兵衛 (?〜?)
天正十四年八月十八日、新発田征伐に際して第二陣に加わり、御鉄炮大将として笠堀に布陣。
東条佐渡守 (?〜?)
御館の乱で上杉景虎に属す。天正六年五月十六日、春日山城城下町に火を放ち、三千軒を焼き払った。
本田右近充 (?〜?)
永禄五年三月十五日、謙信から春日山城などの火の用心を命じられる。
小中大蔵丞 (?〜?)
永禄五年三月十五日、謙信から春日山城などの火の用心を命じられる。
岩船長忠 (?〜?)
藤左衛門尉。永禄五年三月十五日、謙信から春日山城などの火の用心を命じられる。
島垣隼人佐 (?〜?)
天正十四年十月一日、上杉景勝から戦功を賞賛される。
島垣宗兵衛 (?〜?)
天正十四年十月一日、上杉景勝から戦功を賞賛される。
宮島将監 (?〜?)
三河守。天正八年四月、上杉景勝は栃尾城を攻め落とす。以降、宮島将監や清水蔵之助が栃尾城代となった。
清水蔵之助 (?〜?)
天正八年四月、上杉景勝は栃尾城を攻め落とす。以降、宮島将監や清水蔵之助が栃尾城代となった。
斎木四郎兵衛 (?〜?)
天正十二年四月二十五日、上杉景勝から春日山城付近の信州口、越中口、大手口の寄居を守るよう命じられた。
山田雅楽助 (?〜?)
慶長二年二月十六日、上杉景勝から春日山城普請を命じられる。
松本杢助 (?〜?)
「米沢雑事記」は謙信の命で才野伊豆守とともに、紀州根来で鉄炮製造を学んだと記す。
結城治部 (?〜?)
元伊達家臣。天文年間、深沼西館主。慶長年間初めに春日元忠に仕え、西谷地二百石を開拓した功から三十石を賜る。慶長五年、出羽合戦で足軽大将。
荒川義次 (?〜?)
庄内田沢館主。玄備。天正十八年、庄内一揆のため討死した。子孫は酒井家に仕えたという。
奈良沢主殿助 (?〜?)
慶長三年、小国城代。小国城の土手や堀を改修するなどした。
川村兵蔵 (?〜?)
慶長六年、最上家が東禅寺城を攻めると、城をより堅固なものにするため縄張りをした。
川村彦左衛門 (?〜?)
天正十八年七月、景勝が出羽の検地を行うと、庄内三郡の検地を任される。
力丸中務少輔 (?〜?)
天文二十一年五月、長尾景虎が弾正少弼に昇進すると祝賀の品を献上。
平賀重資 (?〜?)
永禄六年十一月、色部勝長と争論を起こす。色部勝長は上杉謙信から小旗の文字を賜ったが、平賀資重の小旗の文字がそれに似ていたことを問題とした。争論は色部勝長の主張が認められた。
市川対馬守 (?〜?)
天正十八年、庄内菅野城を預かる。しかし、検地に反対する一揆に敗れた。一揆勢が菅野城に入ると、景勝は兵を送り鎮圧した。
菅野大膳 (?〜?)
上杉家臣。慶長六年、菅野城主。最上家臣鮭延秀綱、志村光安らの攻撃により開城。東禅寺城に撤退した。
川村吉久 (?〜?)
彦左衛門。天正十七年、佐渡平定後、加茂郡湊に派遣される。慶長六年からは家康に仕え、佐渡代官となる。
行方六右衛門 (?〜?)
永禄十一年八月、中条藤資と共に本庄繁長征伐の先鋒となる。また、同時に本庄領攻撃のため広巌城、下渡島城の築城を命じられている。
三潴長能 (?〜?)
上関城主。天正八年頃まで笹平城を守る。一時、景勝に城を追われるが、後に許されている。会津移封に従った。父は三潴長政か。
今井源右衛門 (?〜?)
御館の乱以降、笹岡城在番。
山岸秀能 (?〜?)
黒滝城在番。永禄二年、京から戻った謙信を祝う。天正七年三月二十四日、上杉景虎を討った景勝から「去年以来の鬱憤を散らした」と伝えた。十月二十八日、未だに服属しない越後中郡の諸将を討つため、来春に出陣すると景勝から伝えられた。
山岸中務少輔 (?〜?)
黒滝城代、府本城番。二千二百七十七石。軍役百三十六人。文禄三年の「定納員数目録」に名がある。
酒井新左衛門 (?〜?)
篠岡城主。天正十一年、御館の乱で下条氏が滅んだことから、下条城を加増される。
森岡五郎左衛門 (?〜?)
天文十三年以降、越後高柳城主。子の高柳監物が跡を継ぐが、後に家臣が武田家に通じたとして改易された。
松郷景盛 (?〜?)
大隅守。享禄二年九月二十四日、長尾為景に段銭納付のため銭三十五貫文を借りる。利子は銭百文に付き四文で、享禄三年二月中に返済する事を約束した。
飯田小二郎 (?〜?)
享禄四年十月十八日、長尾為景から書状を送られ、天文の乱での軍功から加増の約束を結ぶ。
大源伊豆守 (?〜?)
天文四年一月二十四日、福王寺彦八郎に宛てた長尾為景の書状に名がある。
多功肥後守 (?〜?)
天文四年八月四日、福王寺彦八郎に宛てた長尾為景の朱印状に名がある。
中島内蔵助 (?〜?)
天文四年八月四日、福王寺彦八郎に宛てた長尾為景の朱印状に名がある。
芹沢弥四郎 (?〜?)
天文五年四月十三日、長尾為景から感状を賜る。
山村藤蔵 (?〜?)
天文五年四月十三日、長尾為景から感状を賜る。
五十嵐式部 (?〜?)
五十嵐館主五十嵐氏の一族。御館の乱では、同族の五十嵐与二郎と共に上杉景虎に属す。
山田大膳 (?〜?)
天正年間、新城に籠もる。景勝に攻められたというから、これは御館の乱によるものだろうか。落城後、景勝軍に捕らえられた。
松川修衡 (?〜?)
大隅守。御館の乱の後、蔵王城主となる。
佐藤弥太郎 (?〜?)
天文四年九月三日、長尾為景から軍忠状を送られる。
佐藤平左衛門 (?〜?)
小平尾城将。御館の乱では景勝に属す。下倉城を守り、本庄秀綱らを退けた。
下平次郎太郎 (?〜?)
天文四年七月、上条側に属する古藤清雲軒に敗れた。
下平修理 (?〜?)
天文年間、千手城主。現存する記録から天文二十三年までは城主を務めている。永禄年間の千手城主は下平吉長で、永禄二年まで城主であると確認されている。天正九年の記録では今井国広が千手城主だが、国広は下平一門と言う。修理の孫だろうか。
斎藤平八郎 (?〜?)
組頭。元亀年間、五分一城主。御館の乱で上杉景虎に属し、赤田城に逃れた。
青海川図書助 (?〜?)
青海川城主。御館の乱で上杉景虎を支持。天正七年二月、景勝側の佐野清左衛門尉に敗れた。
中条玄蕃允 (?〜?)
天文二十年二月、長尾政景の軍を撃退したため長尾景虎から感状を賜り、知行を安堵された。
河内玄蕃頭 (?〜?)
天正年間、越後山本城を築いたと伝わる。
梅津半左衛門 (?〜1578年)
佐渡梅津城主梅津氏の一族か。また、常陸佐竹家臣梅津氏と関係があるとも言う。須田長義、元井玄蕃頭と共に二田城を守る。天正六年、御館の乱で上杉景虎を支持したため、景勝の攻撃を受けて討死した。
松之山大隅守 (?〜?)
藤原城主。謙信に仕える。子の刑部左衛門は御館の乱で上杉景虎に属し、景勝の攻撃を受けた。
西片房家 (?〜?)
根知城主。芋川親正、平林正恒と共に牧之島城城番。天正十年、武田家臣信州黒川城主菅原利秀を攻め、上杉家に従属させる。同年六月、根知城在番。天正十一年、新城建築のための資材調達を命じられる。天正十二年、芋川正親の副将となる。
島倉孫左衛門 (?〜?)
慶長五年六月、神指城築城普請奉行。
木村造酒丞 (?〜?)
今城治右衛門らと共に川中島四郡の代官。慶長五年八月四日、直江兼続は先に石田三成らから受け取った連状の写しを渡した。
車丹後守 (?〜?)
慶長五年八月四日、直江兼続は先に石田三成らから受け取った連状の写しを渡した。
河隅忠清 (?〜?)
天正元年五月十四日、椎名浪人の取り締まりを命じられる。また、春日山城の実城、二の郭、三の郭に堀を築くよう命じられた。
大崎三次 (?〜?)
慶長五年七月、白石城籠城に参加。
葛西長三郎 (?〜?)
慶長五年七月、白石城籠城に参加。
西方新五郎 (?〜?)
文禄元年五月、名護屋在陣中に山本忠左衛門と共に体調を崩し、帰国した。
西方次郎右衛門 (?〜?)
慶長五年八月二十三日、上杉景勝は白川小峯城普請の横目として石川惣左衛門、小田切豊前守を派遣すると次郎右衛門に伝えた。
登坂甚兵衛 (?〜?)
天正十九年、上杉景勝から佐藤甚助と共に春日山城留守居役を命じられる。これは朝鮮渡海に備えてのことである。
小田切安芸守 (?〜?)
慶長五年八月四日、直江兼続は先に石田三成らから受け取った連状の写しを渡した。
小田切豊前守 (?〜?)
慶長五年八月二十三日、上杉景勝は白川小峯城普請の横目として石川惣左衛門、小田切豊前守を派遣すると平林蔵人らに伝えた。
石川惣左衛門 (?〜?)
慶長五年八月二十三日、上杉景勝は白川小峯城普請の横目として石川惣左衛門、小田切豊前守を派遣すると平林蔵人らに伝えた。
進藤家清 (?〜?)
永禄十二年五月十八日、北条家からの使僧天用院への応対をする。同年六月初旬、広泰寺昌派と共に北条氏康、氏政に血判付き起請文を求めた。
下平右近亮 (?〜?)
永禄十三年二月、佐野氏との合戦で戦功があった。上杉謙信、上杉景勝、長尾時宗から感状を賜った。
小山弥兵衛 (?〜?)
永禄十三年二月、佐野氏との合戦で戦功があった。上杉景勝から感状を賜った。
広井忠家 (?〜?)
永禄十三年二月、佐野氏との合戦で戦功があった。上杉景勝から感状を賜った。
桜井晴吉 (?〜?)
三助。天正十二年以降、根知城主。会津移封に従ったと思われる。
吉田景親 (?〜?)
段銭奉行。大永七年十一月五日、只見助頼に段銭未納分七貫五百十八文を納め、大熊政秀から請取状を貰うよう伝えた。
吉田肥前守 (?〜?)
天正十四年、京より越後に戻った景勝は、吉田肥前守を大坂に派遣。秀吉に対し、歓待を受けたことの御礼を伝えた。
嶋垣隼人佑 (?〜?)
天正十四年十月一日、新発田征伐の戦功から「免船壱艘」の朱印状を賜った。
富所小太郎 (?〜?)
某年八月十六日、長尾為景から書状を送られる。恐らく天文年間頃の人物だろう。
冨所定重 (?〜?)
天正十年四月上旬、新発田勢と争う。
大石芳綱 (?〜?)
天正九年七月、魚津城、松倉城の横目となる。
冨里三郎左衛門 (?〜?)
天正九年二月三日、上杉景勝から粗砥城の守りを任される。
樋口與三右衛門 (?〜?)
天正九年二月三日、上杉景勝から粗砥城の守りを任される。
村山慶綱 (?〜?)
黒滝城守将。天正七年正月六日、上杉景勝から書状を受ける。雪解けにより北条家が上杉景虎救援に駆けつける前に、御館の乱に決着を付けるというものだった。御館の乱以降、上杉景勝に中郡出陣を求めており、天正八年正月十一日には必ず出陣すると景勝から伝えられた。
須賀大炊助 (?〜?)
天文二年九月二十九日、長尾為景から軍忠状を送られる。
須賀与三左衛門尉 (?〜?)
天文二年九月二十九日、長尾為景から軍忠状を送られる。
須賀蔵人丞 (?〜?)
天文二年九月二十九日、長尾為景から軍忠状を送られる。
須賀雅楽助 (?〜?)
天文二年九月二十九日、長尾為景から軍忠状を送られる。
和田六右衛門 (?〜?)
天正三年、謙信から大崎郷荒井町の問屋に任じられた。
須賀盛能 (?〜?)
勝山城主。修理亮。天正十年二月、織田軍侵攻を景勝に報告。天正十七年、佐渡沢根城代。天正十三年、羽柴秀吉は越中佐々成政征伐を終えると、勝山城を訪れた。そして上杉景勝との会見を求めた。驚いた須賀盛能は春日山城に使者を派遣。上杉景勝は直江兼続と共に勝山城に入り、羽柴秀吉と会見した。文禄三年の「上杉定納員数目録」に、知行千百七十三石四斗四升七合三勺、軍役七十六人とある。慶長三年、上杉家は会津に移されるが、佐渡は上杉領として領有を認められたため、沢根城代として佐渡に残った。一説に文禄年間に没したと言う。
広田直繁 (?〜?)
長尾景長死後、上州館林城を任される。景長の婿養子、顕長は館林城も継ぎたかっただろうが、謙信は忠勤のあった直繁に与えた。越相同盟決裂後に攻められ館林善長寺で自刃。これにより館林城は長尾顕長に与えられた。
桐生助綱 (1512〜1570年 59歳没)
上州桐生城主。大炊助。天文十三年三月、細川内膳を滅ぼす。七月、膳因幡守を破る。永禄三年、上杉謙信に従い山内上杉憲政、近衛前嗣の護衛役となる。五年、京に戻った前嗣から護衛に対する礼状を贈られる。九年、由良成繁と共に北条家に属す。元亀元年五月、五十九歳で没した。
倉賀野直行 (?〜?)
上州倉賀野城主。尚行。幼少で家督を継ぐ。永禄三年、上杉謙信に属す。永禄四年三月、小田原包囲に参加。同年十二月、武田家、北条家に攻められるも重臣橋爪若狭守の活躍により撃退。永禄六年十二月、武田家に攻められるも撃退。永禄八年六月、武田家の攻撃により落城。上杉家を頼って落ち延びた。
橋爪若狭守 (?〜?)
上州倉賀野家の重臣。永禄四年十二月、武田家、北条家を撃退。上杉謙信から戦功を賞賛されている。永禄六年十二月、武田家に攻められるも撃退。同年閏十二月三日、上杉謙信から感状を賜る。
飯森春盛 (?〜1557年)
十郎。信州平倉城主。信州の豪族を上杉家に内応させようとした。話を持ちかけられた田原主馬は山県昌景に報告。弘治三年、武田家は平倉城を攻め、飯森春盛は討死した。
三田綱秀 (?〜?)
武州勝沼城主。曾祖父三田氏宗、祖父氏政は連歌師柴屋軒宗長を迎えて連歌を楽しんだ。上杉謙信に属す。一時期、北条家に属したが、永禄四年三月に上杉家に戻った。永禄年間初期、辛垣城を築き、北条氏照に備えた。永禄六年三月、北条氏照に攻められた。家臣塚田又八が北条家に寝返り、城に火をかけたため落城した。辛垣城に入るも落城。太田資正を頼るも死亡した。
原島善六郎 (?〜1563年)
武州勝沼城主三田綱秀の家臣。永禄六年三月九日、北条氏照の攻撃で討死。
木戸忠朝 (?〜?)
武蔵羽生の武将。玄斎。羽生衆。永禄四年、謙信は武州行田に皿尾城を築くと忠朝を城主とした。天正四年、上州山上城攻めの際、菅原為繁と共に活躍。武蔵の地では救援に不利であり、上州膳城に移される。謙信死後、膳城は北条家の属城となる。後に越後に移り、天正十八年、小田原征伐に上杉勢として参加。武蔵、上野の地理に明るいこともあり、北陸諸将の案内役となる。小幡吉秀、則信の守る宮崎城を藤田信吉と共に攻め落とした。戦後、武蔵騎西城主となり木戸右衛門佐に名を改めた。
佐藤備中守 (?〜?)
武藤義勝に仕え清水城に在城。天正八年、武藤義氏が前森蔵人に討たれると、義勝は父の下に戻る。備中守も従ったのだろう。その後、庄内が上杉領になると再び清水城に入る。慶長五年、出羽合戦で清水城の守りを固めた。
野呂信満 (?〜?)
斎藤朝信の家臣。滝谷城将か。天正十二年二月六日、朝信が八文字屋に宛てた書状に署名する。一族に野呂一薄がいる。
平子房長 (?〜?)
ひ生城主。大楽氏。永正六年、関東管領上杉顕定が越後に攻め込むと、上杉軍に加勢。天文十八年、山内上杉憲法の使者となり、謙信に救援を求めた。天文二十一年、時水城主曾根宗能を滅ぼす。
五百川弘春 (?〜?)
天正十八年、小田原征伐に参加。八王子城攻めで先鋒。
村松平右衛門 (?〜?)
天正九年四月、潟上本間氏への使者となる。景勝は御館の乱に勝利すると、潟上本間氏に書状を送っており、佐渡における友好勢力として潟上本間氏を重視した。
椎野与市 (?〜?)
景勝の佐渡平定後、佐渡雑太郡沢根を領す。
富永備中守 (?〜?)
天正十六年五月、佐渡に渡海。天正十七年、佐渡平定後、羽茂郡小木を管理。
石井監物 (?〜?)
景勝の佐渡平定後、佐渡加茂郡貝塚を領す。
北村孫兵衛 (?〜?)
景勝の佐渡平定後、須賀修理と共に佐渡加茂郡湊を領す。湊陣屋は河村彦左衛門が領した。
矢尾板久左衛門 (?〜?)
元和七年八月十五日、成島八幡神社の屋根の葺き替えの際に奉行を務める。
鈴木彦兵衛 (?〜?)
元和七年八月十五日、成島八幡神社の屋根の葺き替えの際に奉行を務める。
鉄泰利 (?〜?)
慶長二十年正月十七日、鴨野表合戦での戦功により景勝から感状を賜った。
鉄孫左衛門 (?〜?)
元和六年二月五日、江戸城城塁修理の総監を務める。
嶋田庄左衛門 (?〜?)
元和六年二月五日、江戸城城塁修理の総監を務める。
坂次郎右衛門 (?〜?)
元和六年二月五日、江戸城城塁修理の総監を務める。
坂庄次郎 (?〜?)
元和六年二月五日、江戸城城塁修理の総監を務める。
大橋弥次郎 (?〜?)
第三回川中島合戦の戦功により長尾政景から感状を賜る。
下平弥七郎 (?〜?)
第三回川中島合戦の戦功により長尾政景から感状を賜る。
萩田長繁 (?〜?)
天正十六年、豊臣秀吉から従五位下主馬充に叙任される。
片切内匠助 (?〜?)
上田衆。天正十一年十一月十八日付の書状によると、柿崎家に派遣され、当主没後の混乱を鎮める役目を担った。
楠川将綱 (?〜?)
天正十年、越中魚津城守将。上杉景勝の越中出征を求める書状を送っている。
板倉式部 (?〜?)
天正十二年、伊達家への使者となる。これは新発田重家討伐のための出陣が遅くなることを伝えるためである。
佐藤庄左衛門 (?〜?)
天正八年八月十五日付の書状で、御館の乱の恩賞として加藤二郎三郎の没収地を与えられている。
皆川式部丞 (?〜?)
天正八年八月十五日付の書状で、御館の乱の恩賞として穴沢七右衛門の没収地を与えられている。
加藤二郎三郎 (?〜?)
御館の乱で上杉景虎に属す。戦後、所領を没収された。
穴沢七右衛門 (?〜?)
御館の乱で上杉景虎に属す。戦後、所領を没収された。
穴沢善左衛門尉 (?〜?)
越後広瀬郷を領す。天正八年七月十三日付の泉沢久秀と書状で食料、衣類の売買等について連絡を取り合っている。
駒沢主税助 (?〜?)
天正十一年、虚空蔵城攻めで討死。直江兼続、狩野秀治は島津忠直に代わりの代官を推薦するよう求めた。
唐沢某 (?〜?)
新発田重家との合戦で討死。直江兼続は遺族に対し、跡継ぎを春日山城に派遣すれば取り立てるとの書状を送った。
板倉式部少輔 (?〜?)
天正十六年四月、佐渡に渡海。
斎藤勘解由左衛門 (?〜1589年)
沢根一族。天正十七年六月、河原田城攻めで討死。
駒沢主税介 (?〜?)
天正十七年、佐渡攻めに参加。河原田城の兵士内藤清兵衛と一騎討ちをした。
発知源六 (?〜1583年)
天正十一年四月、新発田城攻めで討死。
藍浦長門 (?〜1577年)
天正五年三月、謙信により能登富木城守将となる。同年五月、能登勢の攻撃を受け自刃。
島倉泰明 (?〜1579年)
孫左衛門。天正五年十一月、能登攻めに加わり、能登町野郷に所領を賜る。天正七年、能登勢の反撃を受け、越中魚津城で自刃。
大井田監物 (?〜?)
天正十七年、佐渡平定後、羽茂郡小木に派遣される。
籠沢某 (?〜?)
謙信に仕えるが、由良成繁に寝返る。成繁は謙信を鉄炮で狙撃しようと考え、謙信の顔を知る籠沢某を一団に加える。しかし、籠沢某は謙信の下に走り、身の危険を伝えたために暗殺計画は失敗。謙信は大いに感謝したという。
小野主計 (?〜?)
天正元年四月二十日、上杉謙信が上条政繁に出した書状によると、糸魚川へ出陣した際、山から鉄炮の音が聞こえた。小野主計は武田軍だと言い、全軍が警戒した。しかし、調べてみると猟師の鉄砲だったと記されている。
佐藤筑前 (?〜?)
関東諸侯への使者を務める。天正二年三月二十七日、北条氏政は上杉謙信に加勢する武蔵羽生城を攻めた。上杉謙信は木戸右衛門大夫に羽生城の守りを固めさせた。また、佐藤筑前に羽生城に兵糧や玉薬を搬入するよう命じている。搬入は船で行われることになり、上杉謙信は佐藤筑前に船の徴発を許可した。その際、上杉謙信は渡船中に北条家の攻撃を受けることを危惧したが、佐藤筑前は攻撃を受けるような地形はないと返答。三十艘もの船を集めて一気に搬送し、護衛の兵も乗せるため応戦も可能であると伝えた。しかし、兵糧搬入は失敗。北条氏繁はその様子を「頓速被乗向候之條、兵糧一粒も城中へ入るを得ざる」と白河義親に伝えている。増水した利根川は流れが速く、船が流されたために搬入出来なかったのだろう。上杉謙信は木戸伊豆守に書状を送ったが、その中で兵糧搬入の失敗について「一世中の不足を欠き候事、無念に候」と嘆き、佐藤筑前を「ばかもの」と罵った。また、同じ書状の中で武田信玄や北条氏康も失敗したことがあり、自分の失敗も仕方のないことだと自己弁護した。謙信は武田信玄、北条氏康を名将と認めており、だからこそ両名を引き合いに出したのだ。また、利根川が増水したために北条氏繁は川を渡ることが出来ず、上杉謙信の有利に働いていた。北条氏繁は白河義親に一戦交えることが出来ずに無念であると伝えている。
駒木根右近 (?〜?)
蒲生家臣。主家改易後、小川藤次、月岡八右衛門と共に上杉景勝に砲術指南役として召し抱えられる。慶長五年、伊達家、最上家との合戦で功があった。
小川藤次 (?〜?)
蒲生家臣。慶長三年、上杉家に仕え、鉄炮師範となる。
月岡八右衛門 (?〜?)
蒲生家臣。慶長三年、上杉家に仕え、鉄炮師範となる。
林右京 (?〜?)
天文四年五月七日、長尾為景から書状を送られる。
林丹波守 (?〜?)
天正年間、桑山佐左衛門と共に越中宮崎城在番。
轡田肥後守 (?〜1579年)
大村城主轡田豊前守の子か。新庄城主と伝わる。天正四年頃、謙信の能登攻めに加わる。天正五年、能登甲山城に平子和泉、唐人式部と共に入城。天正六年、謙信が没すると能登勢の反撃に遭い、翌七年に次男新八郎と共に討死。長男監物は海路越後に逃れた。
井上肥後守 (?〜?)
轡田肥後守と共に新庄城主と伝わる。元亀三年、上杉軍に敗れる。「上杉家家中名字尽」に名があり、天正五年には上杉家に属したとわかる。
志賀兵部 (?〜?)
塩谷秋貞が飛騨に逃れると、越中今泉城守将となる。
江口与三郎 (?〜?)
永正十一年一月二十日、長尾為景から書状を送られる。永正十一年一月十六日、上田庄合戦で守護上杉軍を打ち破る。
江口藤五郎 (?〜?)
天文四年二月二十七日、長尾為景から書状を送られる。
長沢光国 (?〜1578年)
越中森寺城主。筑前守。元亀三年、上日寺に石仏を寄進。天正四年十一月、謙信は能登穴山城を落とすと光国、白小田善兵衛を守将とした。天正五年、謙信に属す。能登穴水城守将。同年九月、松波義親と戦う。天正六年、能登勢と戦い討死。
村田縫殿助 (?〜?)
修理亮、与十郎。元亀二年頃、越中津毛城を守る。佐々成政に属した塩谷秋貞を攻め、越中と飛騨との境にまで追撃をかけた。
青柳隼人 (?〜?)
信濃出身。景勝の佐渡平定後、佐渡雑太郡河原田を領す。後に越後に戻るが、一族の一部は佐渡に残った。慶長五年八月四日、直江兼続は先に石田三成らから受け取った連状の写しを渡した。
井上清政 (?〜?)
左衛門大夫。元信濃村上家臣。晴信に信濃を追われ、越後に逃れる。上杉景虎に仕え、千二百石を知行。
松田盛直 (?〜?)
仁科姓。日岐姓。小笠原家臣。後に上杉家に仕え、弟盛武と共に信州日岐城を守る。天正十年、小笠原貞慶に攻められ撤退。天正十二年、小笠原残党に備えるため稲荷山城守将。信州八幡神領を領す。慶長三年、会津に移り千五百石。
泉重歳 (?〜?)
信州飯山城主。弥七郎。永禄年間、謙信から城の守りを固めるよう命じられる。
坂木磯八 (?〜?)
柿崎景家の家臣。第四次川中島合戦で山本勘介の首を取る。
西村隼人佐 (?〜?)
佐野清左衛門尉に仕える。天正六年十月十五日、上杉景勝から感状を賜る。
西村五郎左衛門 (?〜?)
佐野清左衛門尉に仕える。天正六年十月十五日、上杉景勝から感状を賜る。
近藤甕二郎左衛門 (?〜?)
佐野清左衛門尉に仕える。天正六年十月十五日、上杉景勝から感状を賜る。
安達清蔵 (?〜?)
村田縫殿助の家老。越中津毛城を守る。
兵法者
人見宗次 (?〜?)
弁斎。佐竹家に仕えるも、切支丹であることを理由に追放され、上杉家に仕官。馬術指南役となる。直江兼続に人見流馬術を教授。慶長十六年、馬場造営。慶長十八年、馬場造営を行う。子は伊達家に仕えるも、切支丹であるために処刑された。
岸和田重房 (?〜?)
肥前守。薩摩の商人であったが、豊後の猟師が鉄炮を打つ様を見て、これを学んだ。やがて岸和田流砲術を興した。岸和田流は北条領でも興隆した。上杉謙信から足利義輝より賜った「鉄放薬方並調合次第」を拝領する。文禄三年二月付の岸和田流砲術秘伝書は信濃守田神社に伝来する。
唐人親広 (?〜?)
式部大輔。武部兵部正。小出城主。岸和田肥前守重房に岸和田流砲術を学ぶ。師の岸和田重房から「鉄放薬方並調合次第」を譲り受ける。天正十年三月、神保覚広や小嶋職鎮らと共に神保長住を押し込める。織田軍の攻撃を受けたため長住を解放したが、長住は追放処分となった。佐々成政と戦うも、小出城は落城したと言う。慶長年間初期に越後で没した。
唐人広親 (?〜?)
丹波守。砲術岸和田流を学ぶ。唐人という姓は「唐から来た人」を意味し、北陸の国々の大陸貿易の痕跡である。事実、能登や越前、若狭などは大陸渡来の品々が発掘されている。とすれば、中世の日本海側では大陸の言葉を話す日本人がいたことになる。佐々成政の越中平定に抵抗。後に浪人に。関ヶ原直前、上杉家に鉄炮指南役として招かれる。特に早込を教授したと言う。
清水秀政 (?〜?)
式部少輔。上杉家の砲術家。唐人式部少輔から砲術を学び、「鉄放薬方並調合次第」を譲り受ける。
清水重政 (?〜?)
造酒丞。上杉家の砲術家。清水秀政から「鉄放薬方並調合次第」を譲り受ける。
豊野繁政 (?〜?)
庄兵衛尉。上杉家の砲術家。清水重政から「鉄放薬方並調合次第」を譲り受ける。後に上杉家に「鉄放薬方並調合次第」を献上した。
丸田盛次 (?〜?)
甲斐武田家臣。九左衛門。文禄年間、京に在住していた際に直江兼続に招かれる。鉄炮百挺を上杉家に売ろうとしたが、上杉家臣が試射したところ、大半が壊れてしまったと云う。この件は不問にされ、米沢に扶持を賜り、上杉家の鉄炮鍛冶となる。砲術種子島流を学んでおり、砲術指南役となる。後に丸田流砲術を興す。丸田流は霞流とも呼ばれた。
鉄炮鍛冶
鉄炮屋本五郎 (?〜?)
文禄三年の「上杉定納員数目録」に、御鍛冶奉行衆百石とある。部下二十八人も、それぞれ七石ずつ与えられた。慶長四年、百五十石を賜った鉄炮屋勝五郎は一門か。越後舟井村が上杉家の鉄炮製造地であり、造られた鉄炮は「舟井張」と呼ばれた。しかし、舟井村が越後のどこに該当するのかは不明である。
吉川惣兵衛 (?〜?)
近江国友村の鉄炮鍛冶。慶長九年、直江兼続に二百石で召し抱えられる。会津における鉄炮の製造は、吾妻山白布で行われた。兼続は射撃に長けたものに加増を行い、惣兵衛らも予定以上の鉄炮製造を行えば、褒美を賜ることが出来た。惣兵衛は年間、七十二挺の鉄炮製造が義務付けられた。これに部下を加えると、年間、二百挺を製造することになる。これ以上の数を生産すれば、別途恩賞が貰えた。慶長十年、鉄炮五百挺を製造した。
和泉屋松右衛門 (?〜?)
和泉堺の鉄炮鍛冶。慶長九年、直江兼続に二百石で召し抱えられる。年間、七十二挺の鉄炮製造が義務付けられ、これ以上の数を生産すれば、別途恩賞が貰えた。慶長十年、五百挺を製造。
神官、僧侶
曇英恵応 (?〜?)
明応六年、長尾能景は父重景の十七回忌法要を営み、恵応を招いて林泉寺を開山。
微笑珍慶 (?〜?)
林泉寺六世。天室光育の師。
天室光育 (1492〜1563年 72歳没)
上杉謙信の師。長尾家菩提寺林泉寺七世。林泉寺は謙信の曾祖父重景の法名に由来する。明応元年生。七歳になった謙信は、林泉寺に預けられる。光育はここで禅の修行、武の修行を施した。出家を考える謙信を引き留めるため尽力している。後に柿崎景家に招かれ、楞厳寺三世となる。弘治元年、中条藤資と黒川下野守との争いの調停役となり、無事に和解させている。弘治二年、長尾景虎から隠居を告げられる。永禄六年六月二十三日、七十二歳没。墓は猿毛城入り口付近の楞厳寺にある。楞厳寺は柿崎景家が建立した柿崎家菩提寺で、景家の墓もここにある。林泉寺には米沢に移り、長尾家累代の墓、直江兼続夫妻の墓などがある。謙信は林泉寺八世益翁宗謙にも深く帰依した。
益翁宗謙 (?〜?)
天室光育の弟子。上杉謙信とは兄弟弟子の関係になる。天文二十年三月二十七日、林泉寺八世となる。天室光育は長慶寺に移った。後に謙信は林泉寺で益翁宗謙と禅問答をしている。
花ヶ前盛経 (?〜?)
天文二年十月二十四日、定憲側の長尾房長、中条藤資らに居田神社を焼き払われる。天文三年、為景は社殿、神門、御橋、御手洗を造営。天文四年、遷宮。
花ヶ前盛貞 (?〜1584年)
居多神社宮司。孫三郎、宮内大輔。永禄十二年十一月五日、河田長親から越中宮津八幡宮社職を兼ねるよう依頼される。天正六年、御館の乱で上杉景虎に属す。そのため、景勝に追われ、能登に移る。天正十一年、越中魚津八幡宮に移る。天正十二年没。
花ヶ前家盛 (?〜?)
花ヶ前盛貞の子。居多神社宮司。智光院頼慶。永禄八年八月、一乗院覚慶への使者となる。天正六年、能登に移る。天正十一年、越中魚津八幡宮に移る。天正十二年、父盛貞が没す。慶長三年、上杉家の会津移封により、越後に帰郷。慶長四年二月二十一日、堀秀治から社領三十石を賜る。
花ヶ前孫四郎 (?〜?)
居多神社神官花ヶ前氏の一族。永正十二年閏二月七日、長尾為景の奉書に名がある。
広泰寺昌派 (?〜?)
永禄十二年閏五月十五日、北条家への使僧として沼田に、六月初旬には小田原に向かった。北条氏康、氏政に血判付き起請文を求めた。
鴎閑斎 (?〜?)
上杉家の使僧。天正十年、蘆名家臣須江光頼の記した上杉家宛の書状の宛先人として名がある。
教庵 (?〜?)
上杉家の使僧。伊達家への使者となる。天正十七年、伊達家から上杉家に教庵派遣への礼状が送られる。
養蔵坊清順 (?〜?)
天正十九年、庄内一揆平定後、直江兼続の命により出羽羽黒山の山主となる。
繁慶寺護岳 (?〜?)
明応七年八月、越後を襲った大地震によって大量の死傷者が出た。死者は埋葬する余裕が無いため、そのまま放置された。そうした状況において、普光寺護岳は遺体の埋葬を続けていた。力丸慶忠はこれに感じ入り、普光寺護岳を城内鎮守の牛頭天王社に招き、国家安全の祈祷を行わせた。さらに越後三島郡西古志荘根小屋村に繁慶寺を建立し、護岳を住職とした。
霊岩寺九山 (?〜?)
那須霊岩寺の学僧。慶長年間末期、直江兼続の命により、下野足利学校に入学。元和四年、米沢禅林寺(法泉寺)の僧となる。持参した書籍と、兼続の蔵書二千余冊で禅林文庫を開く。
三島是政 (?〜?)
越後二田物部神社神官。物部太夫。慶長四年、堀秀治に反抗する一揆に加わり、上条城を攻め落とす。赤田城、二田城に籠もるが、一揆の敗北により会津に逃れた。子の是道も二田物部神社神官となる。
三島是道 (?〜?)
三島是政の子。二田物部神社神官。吉野正安が後見人となる。
大乗寺長海 (?〜?)
春日山城大乗寺住職。謙信の真言密教の師。
清源寺是鑑 (?〜?)
上杉家の易者。越後安国寺住持。直江兼続と占いに関する書状のやりとりをした。
涸轍祖博 (?〜?)
野州足利学校で易学を学んだ。直江兼続に招かれた。文禄の役では直江兼続に従い渡海。医学書の出版のため涸轍書院を興す。
忍び
中西某 (?〜?)
伊賀の忍び。北信濃で武田側に寝返った楽岩寺光氏、有下新左衛門、依利、和田の四将が、実は上杉に寝返るとの偽書を作成。それが武田に渡るようにし、この四将は後日誅殺されたという。永禄三年には風魔忍びを捕獲、翌年の川中島合戦では武田忍びを捕獲。
加藤段蔵 (?〜?)
飛び加藤。常陸の生まれで、風魔小太郎に技を習い、始め箕輪城主長野業正に仕えたという。長野氏滅亡後、謙信に仕えようとするが逆に恐れられ失敗。殺されることを察知し武田信玄のもとへ。ここでも信玄に恐れられ、熊若という忍びに切られたという。
【付記】
上杉謙信の血液型は血判からAB型と判明。中風による歩行不自由、腫れ物、腹痛など病気がちであった。
【上杉九将】
上杉謙信、長尾政景、直江兼続、柿崎景家、北条丹後守、甘粕景持、宇佐美定満、柴田上野、本庄秀綱。
【謙信七手組】
長尾遠江守藤景、本庄美作守慶秀、北条丹後守高広、直江大和守実綱、柿崎和泉守景家、斎藤下野守朝信、中条越前守藤資。
【毘沙門天の化身】
毘沙門天は須弥山の北方を守護する戦神。京(須弥山)の天皇、将軍を護るため、謙信は自らを毘沙門天に見立てたのだろう。出陣の際には毘沙門堂に籠もり、戦勝を祈願。神前に供えられた花水を水刀(腰筒)に入れる。先鋒は「毘の軍旗」、次鋒は山内上杉家伝来の「八幡の御弓」、大善院松本坊は父為景が下賜された「天賜の御旗」を掲げる。天賜の御旗は「日の御旗」とも呼ばれ、重宝として毘沙門堂に納められていた。戦場では御旗堂が築かれ、安養院の僧が守った。謙信は馬上にて左手に数珠、右手に軍配を持つ。突撃の際は「懸り乱れ龍の旗」を先頭に掲げた。
【謙信、信玄の家督相続についての見解】
武田家滅亡後、旧臣の多くは徳川家に仕官した。武田信玄の実力は確かに抜きん出ていたが、同程度の実力や領地を持った戦国大名は他にもいた。毛利元就などは所領、影響力など様々な面で武田信玄を凌駕している。しかし、信玄の名声は天下に鳴り響き、戦国時代から今日に至るまで屈指の名将という評価は揺るがない。その信玄と宿敵上杉謙信の家督相続は同じ方法だった。
信玄の父、信虎は武田家当主としての権威を高めるため、専制政治を行おうとした。当時の大名は、独自に勢力を持つ家臣を統制しきれないでいた。武田家も同様であり、信虎はこれを是正しようとしていた。重臣らはこれを危惧した。専制政治を許せば、その過程で自分が粛正される可能性があるからだ。だからこそ、重臣らは政変により信玄を武田家当主とした。これは「押し込み」と呼ばれる政治手段である。
通常は家臣は当主に諫言をするが、諫言が聞き入れられないなどの事情があったとき、家臣は当主を押し込め、新たな当主を迎え入れる。陶晴賢は大内義隆を討つと、その甥に当たる大内義長を当主とした。この一件は下克上と言うよりも、押し込みの要素が強い。
武田信虎は専制政治を行おうとして押し込まれた。信虎は悪行のため追放されたと言うが、悪行と言うのは専制政治である。家臣からすれば自分の権力を守ることが第一であり、権力を奪われかねない専制政治は危険なものと考えていた。信玄は武田家の統制を取れないまま没したが、信虎の一件があったからこそ専制政治体制が取れなかったのだ。
謙信の兄晴景は長尾家をまとめるほどの器量が無く、越後は内乱状態だった。謙信は合戦を繰り返しながら家中をまとめ、家臣は晴景を見限り謙信を当主へと考えた。そして、家臣は晴景を押し込んだ。謙信の家督相続は押し込みによるもので、信玄と同じである。謙信は父親を追放したと信玄を罵ったが、信虎が武田領内に幽閉され、正式に家督を譲られていたなら謙信も罵ることは出来なかっただろう。
【川中島合戦と善光寺如来】
謙信にとって川中島合戦は甲斐武田家からの防波堤としての北信濃の確保、宗教的権威である善光寺の掌握という目的があった。信濃善光寺周辺を武田信玄に掌握されると、十数里先にある越後まで攻め込まれる危険があったのだ。だからこそ、謙信は武田家の勢力を抑えるため川中島に出陣した。弘治元年、信州善光寺別当栗田寛明が武田家に寝返ると、同年七月に長尾景虎は栗田寛明の籠もる旭山城を攻めた。武田晴信は救援のため援軍を派遣。こうして第二回川中島合戦が起きた。景虎はこの時、善光寺から大本堂本尊などを直江津に持ち帰り、如来堂を建立。門前町は大いに栄えたと云う。
また、謙信が川中島合戦を行った理由のひとつとして高梨氏の救援がある。信州高梨政頼の妻は謙信の叔母であり、救援の必要があった。
【上杉謙信の見た夢】
永禄三年、謙信は関東侵攻のため宮野城に一泊するが、この時歯が八本抜ける夢を見た。直江景綱はこれを関八州を手に入れる吉兆と諭した。永禄三年は申年だが、謙信も申年生まれである。そのため宮野を申が今日と改め、後に猿ヶ京に訛ったと伝わる。しかし、謙信は寅年生まれである。これは関東侵攻に際し、謙信が陣を張った場所に名を付け、それに伝説が加わったものではないか。
【上杉謙信と人買い】
関東在陣中の永禄年間に飢饉が発生。謙信は関東で人の売り買いを認めている。捕虜として捕らえた「人」は、越後で下人や遊女となったことも、さらにそこから輸出されたことも想像できる。「上杉謙信=清廉潔白な聖将」という印象が先行し、一般にこうした面はあまり知られていない。
【上杉謙信と女性】
直江景綱の娘(侍女として出仕。が、信濃善光寺にて出家)、近衛稙家の娘(前嗣の妹。第一回上洛時、婚姻をすすめられるが辞退)、関東の武将の娘(関東侵攻時、侍女として出仕)などが謙信に接した女性である。謙信は生涯不犯というが、それは途中からであったとも考えられる。
【上杉謙信と歌】
上杉謙信の辞世の句:四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒
「日本外史」の名句:鞭声粛々夜過河 暁見千兵大牙擁 遺恨十年磨一剣 流星光底逸長蛇 (鞭声粛々夜河を過る 暁に見る千兵の大牙を擁するを 遺恨なり十年一剣を磨き 流星光底長蛇を逸す)
霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征 (霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 さもあらばあれ家郷の遠征を憶ふは)
【青苧、塩販売の利益と輸送ルート】
青苧は「あおお」、「からむし」と読む。麻のことであり、越後上布という衣料の原料に使われた。西暦七百年代ごろからの越後特産。魚沼郡一帯と東頸城郡松代が代表産地。府内から越前朝倉家まで海上輸送。そこから陸路で近江佐々木家に渡り、三条西家の許可を得て販売。摂津天王寺青苧座が存在し、彼らの利が越後にも行きわたるよう三条西家と交渉。恐らく、謙信の上洛には三条西家、青苧輸送ルートにある越前朝倉、近江佐々木との直接交渉(利益問題、販売の継続など)も含まれていたのだろう。郷津港(新潟県上越市)は謙信の軍港で、海賊衆船頭八人、水夫三百人が常駐していた。
謙信は第一回上洛時、この海賊衆を使い、越前三国湊に上陸。そこから京を目指した。彼らも青苧販売に携わったはずだ。商人から営業税である青苧役を、苧船から入港税である船道前を徴収。永禄三年の諸役免除でも青苧役は徴収した。船道前だけで年間四万貫(約四万石から六万石に相当)の利益があった。
青苧は春から夏にかけて栽培。2m近くまで育つ。夏に収穫するのだが、これは稲作の時期と重なる。つまり、青苧原産地の「百姓」は稲作以上に青苧栽培を重視していたことになる。「百姓」とは稲作をする農民という意味ではなく、あらゆる職種に携わる者、平民という意味が正しい。この地方の「百姓」は青苧栽培を職業としていた。また、直江山城守兼続の「四季農戒書」にも青苧の記述がある。女房や娘が青苧生産に携わり、一家総出で稲作をする百姓像とは異なる。会津に移されても青苧生産を続けていたことからも、十分な利益があったことがわかる。「百姓=稲作」というイメージは撤回する必要がある。
越後では日本海沿岸で塩を生産。河川(信濃川、阿賀野川、糸魚川、荒川など)を使い、内陸部(信濃、上野、岩代など)に輸出した。また、糸魚川から信濃への塩輸送ルートに位置する根知城には、五万四千石で村上義清を配置。こうすることで間接的に信濃と関わりを持たせた。塩は越後の資金源であり、同時に輸送ルートを通じた情報源でもあった。塩の生産も「百姓」の仕事だった。これが沿岸の「百姓」であり、塩の生産が十分な収入になっていたことがわかる。他に紙なども代表的な越後の特産物である。
上野は越後、信濃、武蔵、下野、岩代などの貿易ルートに位置し、謙信が上野を含む関東を攻めたのもこのためではないか。領土欲がないというイメージも見直す必要がある。天正九年頃、上杉景勝は越中方面への塩合物の輸出を禁じている。輸出を押さえるという手段は、自給自足社会ではなく物流が盛んな社会であることを意味している。
謙信は永禄三年の凶作により、青苧や茶、酒などに影響が出ると五年間の租税を免除している。こうして府中の商業を安定させた。また、永禄年間に全戸を板屋葺きにするよう命じ、従わない者は立ち退かせた。これは火事に対する用心からである。謙信の城下町「府中」は押出小路、押戸小路など京都を意識していたと言う。春日町は、御館の乱で景虎により三千軒が焼き払われたという。景勝は府中六千軒を焼き払った。数が多すぎるため疑問が残るが、大都市であったことは間違いない。謙信は政治に力を入れなかったというが、財政家としての一面を持っていた。
【塩贈りの美談についての見解】
上杉謙信が武田信玄に塩を贈ったという美談があるが、この逸話は元禄年間頃までしか遡れない。永禄十年頃、今川家、北条家は武田家への塩輸出を禁じた。これは事実であるが、謙信は塩を贈ってはいない。元禄年間、瀬戸内産の塩が富士川を通じて甲信地方にまで輸出されるようになった。日本海側、特に越後の製塩業者は販売競争に勝つため美談を創作し、「越後の塩」を宣伝したのだ。ちなみにこの逸話では、永禄十二年一月十一日に第一便の塩が信州松本に到着したとされる。
【上杉謙信時代の越後国の金銀山】
高根金山は鎌倉時代から存在した。鶴子銀山は天文十二年に開発。西三川砂金山は弘治二年に開発。上田銀山は永禄七年以降に支配した。天正六年、謙信が没するとその遺産が莫大なものとわかった。黄金二千七百十四枚五両六分(二万七千百四十両)。金一枚を十両、一両を銭三貫(三石から五石に相当)とすれば、二万七千百四十両は約八万千貫、つまり約八万千石から十三万五千石となる。これらは貿易や金銀山からの収益の他、町人や家臣への貸付金、運上金、贈答用、貯蓄などの資金である。
家督相続時の謙信には、父為景時代からの借金があった。それを返済し、貯蓄をしたことは財政家としての彼の一面である。慶長三年の「伏見蔵納目録」に越後金山千百二十四枚四両一匁四分二厘、佐渡金山七百九十九枚五両一匁六厘とある。合わせて千九百二十三両二匁四分八厘で、上杉領内の金の産出高は全国産出高の約六割を占める。謙信時代もさしてかわらない生産量だったと推測できる。
【越後の百姓と海上貿易ルート】
二度の上洛、関東出兵を支えていたのは謙信の経済力だった。金銀、米、青苧、塩、紙などは百姓が生産している。越後の百姓は農閑期だから特産物を生産したのではなく、特産物の方が利益が大きいから生産したのだ。越後は日本海に面しており、貿易も盛んだった。御館跡からは越前焼など越前との貿易を示す物、珠洲焼きなど能登との貿易を示す物、天目や青磁、白磁など大陸との貿易を示す物が見つかっている。越前とは青苧貿易でもつながっているし、能登の珠洲焼きは大陸の新羅焼きがルーツと言われる。実際、若狭や越前には大陸貿易の痕跡が多く残っており、越中神保家には「唐人」を姓とする武将がいた。若狭武田家と蝦夷蠣崎家は同族であり、北海の幸は日本海経由で中央まで届いた。越後もこの貿易に参加していただろう。日本海の貿易の幅を物語っている。
こうした貿易業に従事する者は、土地を持たない「水呑百姓」で表されることがあり、「田畑の小さい百姓は貧乏」という考えから過小評価されてきた。それが誤りであることは言うまでもない。また、明治以前の日本が農業主体国家であったというのも誤りである。繰り返すが、「百姓=農民」で考えてきたためこうした誤認が生じたのだ。
【天文二十二年第一回上洛】
天文二十二年九月下旬頃、長尾景虎は軍勢を率いて京に向かった。従五位下弾正少弼の叙任御礼のためである。上洛のため、天文二十年十二月には近江佐々木定頼に太刀と鷹、翌二十一年六月には越前朝倉宗滴に大鷹と鳥屋を贈っている。越前、加賀、能登の一向門徒を抑えるため、越後に滞在していた本誓寺超賢(本願寺一門)に協力を要請。超賢はこれを証如に伝え、門徒の協力を得ることに成功。自ら三国湊まで謙信を警護したという。三国湊までは海賊衆を使い、郷津港から海路で向かった。
後奈良天皇に黄金(量不明)、内裏修理資金、剣、巻絹などを献上。天盃と御剣(豊国瓜実の剣)、隣国戦乱平定の綸旨を賜る。これにより長尾景虎の合戦は天皇の綸旨によるものという大義名分を得た。将軍足利義輝に銭三千疋(三十貫)、長光の太刀一振、河原毛の馬一頭、大鷹一羽を献上。返礼は太刀一振。将軍婦人には樽代五百疋(五貫)。叙任奏請大覚院義俊には千疋(十貫)を献じ、返礼として鷹の足革を結ぶ大緒二筋を贈られる。渡辺盛綱に二百疋(二貫)、津崎光勝に二百疋(二貫)、富森信盛に二百疋(二貫)、大館晴光に五百疋(五貫)と太刀一振、大鷹一羽を献じた。
十一月十三日、本願寺証如に千疋、樽代、太刀、馬、鴇の羽毛を献じた。返礼として太刀、緞子十反、絹織物二十反を贈られる。十一月十四日、堺へ向かう。鉄炮、羅紗の陣羽織、ビードロのマントなどを購入。十二月八日、大徳寺参詣、比叡山延暦寺を参詣した。
【永禄二年第二回上洛 将軍帰京祝賀・山内上杉家養子入りの布石】
永禄二年四月三日、長尾景虎は再び京に向かった。越前朝倉氏、近江佐々木氏に上洛することを伝え、両家に協力を要請している。途中、越中では椎名康胤や一向門徒から歓待を受けた。四月二十一日、足利義輝は前日、近江坂本に到着した長尾景虎に入京を強く要請。三好長慶、松永久秀、公家、僧侶の表敬を受ける。四月二十七日、入京。直江景綱、柿崎景家、本庄慶秀、長尾藤景らが供奉した。武者奉行は吉江景資、北条高常。先陣千騎、本隊三千騎、後陣千騎の五千騎を率いたと云われる。
正親町天皇に内裏修理資金、幣物などを献じ、天盃、御剣「五虎退兼光」を賜る。将軍足利義輝に黄金三十枚、太刀一振、馬一頭、銀、青銅、衣服、綿燭などを献じた。足利義輝はこれを大いに喜び、文の裏書、塗輿、菊桐の紋章、朱柄の傘、屋形号の使用を許した。前年に使用を許された毛氈の鞍覆、白傘袋と合わせて上杉七免許と言われる。足利義輝は長尾景虎の山内上杉家相続、関東管領就任を見越して格式を調えたのだろう。文の裏書は三管領家一族にのみ許された。塗輿は将軍・三管領家、相伴衆にのみ許された。長尾景虎は三管領家並みの家格として扱われたのだ。
長尾景虎は足利義輝の生母にも白銀千両、綿三百把、蝋燭五百梃を献じている。比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺、石清水八幡宮、洛中洛外の寺社に参詣し、金、銀、衣服、紅燭、白布などを贈っている。
五月一日、正親町天皇に拝謁。五月十五日、関白近衛前嗣に隼を贈り、歌懐紙と「三智抄」という歌書を求めた。近衛前嗣は歌懐紙を贈り、隼の礼を伝えた。同時に「三智抄」については判らないと伝えている。近衛前嗣の父近衛稙家は、長尾景虎に和歌の奥義を伝授した。近衛前嗣は長尾景虎の熱意を喜んでいる。こうして長尾景虎は近衛前嗣と昵懇になっている。六月十八日、比叡山延暦寺根本中堂を参詣。高野山にて無量光院阿闍梨清胤から伝空海筆「綜芸種智院式並序」一巻を贈られる。これば現在、重要文化財として扱われている。長尾景虎は高野山にて密教の奥義に近付こうとした。特に清胤に深く帰依し、後に春日山城に四度招いている。天正二年十二月十九日には清胤を師として剃髪。法印大和尚となった。後に能登攻めの最中、密教の修現者らは上杉謙信を支援している。
六月二十日、石清水八幡宮参拝。六月二十六日、足利義輝から山内上杉家を任せるという御内書を受ける。六月二十九日、足利義輝は大館輝氏を遣わし、腫れ物を患った長尾景虎を見舞い、鉄炮と共に「鉄炮薬之方并調合次第」を贈る。長尾景虎の帰国に際し、足利義輝は太刀、絵画を贈った。近衛稙家は「詠歌大概」の自筆写本を贈る。関白近衛前嗣、智恩寺岌州上人は越後行きを約束。九月十九日、前関白近衛前嗣は越後へ下向した。
【永禄四年閏三月十六日 関東管領就任】
永禄三年、長尾景虎は上野国に侵攻。厩橋城で年を越し、永禄四年二月には武蔵国に攻め込んだ。三月十日、関東諸侯は大磯に置かれた長尾景虎の本陣に参集。こうして長尾景虎は十万もの大軍を率いて小田原城を攻めることになった。北条氏康は小田原城に籠城するしか術が無く、その様子を無念であると悔しがった。小田原城を攻め落とすことは出来ず、長尾景虎は遂に撤退を決意。
帰途、鶴岡八幡宮で関東管領職を継承。山内上杉憲政より一字賜り上杉政虎を称す。鶴岡八幡宮に黄金百枚を献じた。
関東管領上杉政虎は足利藤氏こそが正統な古河公方であると喧伝。北条氏康の擁立した古河公方足利義氏に対抗し、関東管領としての権威を補強するためである。一説に関白近衛前嗣を関東公方に就任させようとするが、関東衆の反対により断念したと云う。これは近衛前嗣が関東に来ていたことから、後世に創作された逸話とされる。
永禄四年十二月、上杉政虎は名を輝虎に改めた。将軍足利義輝の偏諱である。上杉輝虎が越後に戻ると、北条氏康は領土拡大のために関東攻めを再開。関東諸侯は上杉輝虎に救援を要請。こうして上杉輝虎は毎年のように関東に攻め込み、北条家と戦うことになった。
【足利義輝の死】
永禄八年五月十九日、将軍足利義輝が三好三人衆、松永久秀に殺害された。幕府奉公衆安見宗房は上杉家に書状を送り、足利義輝が上杉輝虎と共に三好三人衆征伐を計画しているという噂が流れており、それが将軍殺害の要因になったと伝えた。
「今度、上意様御腹召され候儀、其方上杉御家替りに成り申され、御礼として御在京候て、三好御成敗の段、仰せ合わさる由風説故、此の如き旨世上申す事候」
【越相同盟】
永禄十年十月十九日、武田信玄は今川家との断交に反対する長男武田義信を自刃させた。武田信玄が駿河攻めを計画していると知った今川氏真は、上杉謙信に武田信玄を牽制するよう求めた。しかし、上杉謙信は今川氏真の書状に非礼があるとして返事を出さなかった。当時、書状の遣り取りには書札礼という仕来りがあった。書き手と受け手の身分の違いを考慮し、上下関係を厳粛に示さなければならなかった。今川氏真は上杉謙信に非礼を詫び、助勢を懇願した。上杉謙信は今川氏真を許し、共に武田信玄と戦うことを約束。同年十二月二十一日、今川氏真は家臣朝比奈泰朝らを越後に派遣した。武田信玄は今川義元の娘を今川に送り返し、今川氏真に断交を伝えた。北条氏康は武田家と今川家の調停役になろうとしたが失敗。永禄十一年七月、武田信玄は本願寺顕如に使僧を遣わし、越中の一向門徒に一揆を起こすよう求めた。この頃、上杉謙信の重臣本庄繁長が謀反を起こしており、上杉謙信は越中攻めを中止。本庄家の村上城を包囲した。武田信玄はこれを好機と考え、信越国境方面に軍勢を派遣。上杉謙信も軍勢を派遣し、両軍は信越国境付近にて睨み合った。同月、武田軍は越後攻めは無謀と考え撤退した。十月十六日、上杉謙信は本庄繁長と武田信玄の連絡路を断つため、上州沼田の関所に対し、会津から来る者を押し留めるよう命じた。本庄繁長は会津の者を甲斐に遣わし、武田信玄と連絡を取っていたのだ。十一月六日、上杉謙信は本庄城攻めのため岩船に着陣。十一月八日、上杉軍は村上城を攻撃。十一月下旬、上杉謙信は村上城の囲いを解いて撤退した。十二月九日、武田信玄は上杉謙信が村上城攻めのために動けないと確信し、北条氏康と絶縁をした上で駿河に攻め込んだ。武田信玄は駿河征伐の大義名分として、今川氏真が上杉謙信と結んで武田家と戦おうとしたため、先に駿河に攻め込んだと喧伝。北条氏康は三国同盟が破綻したため、上杉謙信と結ぶことで武田信玄を牽制しようと考えた。北条氏康の娘は今川氏真に嫁いでいたが、武田家の駿河侵攻によって自ら歩いて落ち延びていった。後に北条氏康は愛娘の受けた仕打ちを上杉謙信に伝え、武田信玄は両家の大敵であると伝えている。十二月十九日、北条氏照は上杉謙信に書状を送り、武田信玄が敵対した今、上杉家と同盟を結びたいと伝えた。十二月二十四日、本庄繁長は北条氏照に書状を送り、上杉謙信は村上城攻めのために自ら出陣しており、越後の諸侯もそれに加わっている。今、越後が攻められても上杉謙信に兵を差し向ける力はないと伝えた。しかし、武田信玄は駿河攻めの最中で越後を攻めることが出来ず、北条氏康は上杉謙信との同盟締結に積極的になったため、越後侵攻が行われることはなかった。永禄十二年正月二日、北条氏康は沼田三人衆に対し、上杉謙信が同盟締結に同意するよう取り計らって欲しいと伝えている。上杉家では越相同盟の是非について議論が繰り返された。山吉豊守は太田資正に北条家からの書状の写しを送った。太田資正は佐竹義重の客将であり、太田資正を通じて佐竹義重に越相同盟を受け入れること伝えたのだ。太田資正はこれに驚き、二月十一日、上杉謙信に北条征伐を続けるよう求めた。関東諸侯からすれば北条氏康の危機こそ、失地回復の好機である。しかし、上杉謙信は北条氏政に不信を抱きつつも、越相同盟の締結に前向きだった。二月二十九日、上杉謙信は里見義弘に書状を送り、越相同盟の打診が北条家からあり、その際の書状の写しを里見家に送ったことを伝えた。その中で上杉謙信は北条氏政は信用出来ず、仮に越相同盟を結んでも里見家との約定を反故にすることは無いとしている。同日、上杉謙信は太田資正にも書状を送り、越相同盟を結んでも関東諸侯を見捨てるような事はしないと約束。同盟を結んだとしても、佐竹家や里見家と相談無しに物事を決めることはないと伝えた。佐竹義重や里見義弘は上杉謙信が敵であるはずの北条氏康と結んだことに失望。上杉謙信を見限り、自力で北条氏康と戦うことを決めた。三月、武田家や北条家からの援軍が期待出来ないため、本庄繁長は伊達家と蘆名家の仲介を受けて上杉謙信に謝罪。再び臣従することを約束した。北条家は上野国金山城主由良成繁に同盟交渉の仲介を依頼。さらに使僧として天用院を上野国沼田に派遣し、交渉を進めた。一方、上杉家では沼田三人衆と呼ばれた河田重親、上野家成、松本景繁が天用院との交渉役を務めている。松本景繁は越後に戻り、交渉内容を上杉謙信に報告。上杉謙信は松本景繁に返書を渡し、同盟の際の条件を提示。北条氏康は同盟締結を急ぐため、上杉謙信が提示した条件を受け入れると伝えた。提示された条件は不明だが、古河公方問題の決着、武田信玄との合戦における援軍派遣、上杉家と北条家の国境の確定、両家の人質の取り交わしなどと推測される。三月十八日、本庄繁長は嫡子を上杉謙信への人質として送り出した。四月二十一日、太田資正は山吉豊守と河田長親に書状を送り、武蔵国、上野国、常陸国、下野国の全域は上杉家と関東諸侯の領地と主張。北条家に譲ることは出来ないと主張した。この頃、上杉家臣山吉豊守と北条氏康は両家の国境線の策定を進めていた。西上野一帯と利根川以北、藤田、秩父、成田、岩槻、松山、深谷、羽生、梁田、安房国が上杉謙信と関東諸侯の領地と決まった。北条氏康はこの地域にも親北条派がおり、彼等の領地は安堵して欲しいと依頼した。そして上杉謙信が古河公方に擁立した足利藤氏は永禄九年に没しており、古河公方は足利義氏であると認めて欲しいと伝えた。上杉謙信はこれを認め、関東管領として足利義氏に仕えることを認めた。こうして上杉謙信、北条氏康は越相同盟を締結することに合意した。上杉謙信は佐竹義重と太田資正に対し、下野佐野の陣に来て欲しいと伝えた。しかし、佐竹義重は越相同盟に反対しており、下野に向かうことはなかった。上杉謙信は梶原政景に宛てて、佐竹義重の様に「腰の重い仁」は初めて見たと伝えている。
【人質上杉景虎】
越相同盟の証として上杉謙信は北条氏政の次男国増丸を、北条氏康は上杉重臣柿崎景家、またはその子柿崎晴家を人質に望んだ。上杉謙信は国増丸を養子に迎えることを伝えている。永禄十二年六月九日、北条氏康と北条氏政は連署の書状を上杉謙信に送り、国増丸が上杉家の養子に入ることで家中も合意したと伝えた。しかし、北条氏政は国増丸を人質に送ることを惜しむようになり、一族の別の者を人質にしたいと交渉を重ねた。十月十六日、北条氏政は幼い国増丸を人質に出すことを惜しみ、由良成繁に書状を送って相談をしている。上杉謙信は人質の変更を求める北条氏政に不信感を抱いた。十月、北条軍は小田原城攻めから退却する武田軍を追撃し、三増峠で交戦。「三増峠合戦」である。しかし、上杉謙信は兵を動かさず、北条氏康はその事を強く罵っている。永禄十三年二月十二日、北条氏邦の書状に「三郎殿御用意」とあり、国増丸の代わりに北条氏政の弟三郎が人質に出されることが決まった。上杉家も柿崎晴家を北条家への人質に送ることを決めており、懸案であった人質の交換が漸く実施されることになった。三月十六日、北条氏政は北条氏邦に書状を送り、三郎が人質になることを承諾したので、遠山康光を越後に向けて出立させると伝えた。当初、三郎は人質になることを拒んでいたが、北条氏康の説得により漸く応じたのだ。しかし、北条三郎の護衛を務めるはずの北条氏照が病に伏してしまい、三郎の出立は遅れてしまった。上杉謙信は不信感を強め、北条氏康に三郎が出立する日を知らせるよう求めた。三月二十六日、北条氏康は上杉謙信に書状を送り、四月五日には必ず三郎を出立させると約束した。上杉軍は下野佐野に陣を置いており、人質の交換は佐野の陣中で行われることになった。北条三郎が到着するまでの間、北条氏邦が上杉家への人質になった。上杉家は柿崎晴家を北条家に引き渡している。北条三郎が佐野に到着すると北条氏邦は解放され、人質の交換が終了した。北条三郎が四月九日に厩橋城に入ると知った上杉謙信は、山吉豊守にその警護を命じた。四月十一日、上杉謙信は沼田城で北条三郎と対面。上杉謙信は約定通り北条三郎を養子に迎え、上杉景虎を名乗らせた。四月二十五日、上杉謙信は上杉景虎に長尾政景の次女を娶らせた。五月十二日、北条氏康は三郎の上杉家養子入りと婚姻を大いに喜び、祝儀の使者を派遣することを上杉謙信に伝えている。
【地下鑓】
永禄十二年、上杉謙信は百姓に「地下鑓」として参集するよう命じた。地下鑓は鑓、縄、鉈、鍬を持って戦場に向かった。
【越相同盟の亀裂】
武田信玄は北条氏政が下総に出兵すると、その隙を突いて伊豆に攻め込んだ。北条氏康は病に倒れ、意識を保つことも難しい状態に陥っていた。北条家は名将北条氏康を欠いたまま、武田家への応戦と上杉謙信への援軍要請を行わなければならなくなった。永禄十三年八月九日、上杉景虎は北条家を助けるため、直江景綱に上杉軍の越山を奏上している。上杉景虎はその立場上、奉行を通さなければ上杉謙信に進言することが出来なかった。上杉謙信は大石芳綱と須田弥兵衛を小田原に派遣。北条氏邦らと交渉を行わせた。大石芳綱は北条氏邦に対し、越山の条件として北条一門の一人を上杉家に人質に出すよう伝えた。しかし、北条氏邦は既に上杉景虎を人質に出していると反論。なかなか進まない援軍派遣交渉について、大石芳綱は北条氏康が健康であれば意見を述べてくれただろうと嘆いている。大石芳綱は相役の須田弥兵衛を越後に戻し、状況を報告させている。業を煮やした北条家は大石芳綱に越後に戻るよう伝えたが、芳綱は上杉謙信の命令が無ければ戻れないと反論。交渉は決裂し、大石芳綱は九月二十一日に小田原を退去させられた。武田軍が西上州を攻めるとの情報を得た上杉謙信は、自領を守るため越山を開始。その際、北条氏邦に同陣を求めた。しかし、北条氏邦は同陣を拒否。十月二十日、上杉謙信は沼田城に入った。
【法号謙信】
上杉輝虎は元亀元年十二月十三日、春日山城看経所に越中平定の祈願文を納めた。その際、法号「謙信」を称した。また、禅の「達磨不識」から不識庵を号している。不識とは全ての対立概念を忘れさることと云う。
【北条氏康の死 越相同盟の破綻】
元亀二年十月三日、北条氏康が五十七歳で没した。北条氏政は上杉謙信との同盟に不安を抱き、武田信玄との同盟締結を考えた。織田信長が甲相同盟の仲介役を務めている。武田信玄は北条氏政に越相同盟の破棄を強く求めたと思われる。十一月、上杉謙信は小田家の要請により越山。上杉景虎も共に関東に入った。元亀二年末、北条氏政は上杉謙信に越相同盟の破棄を通告。人質の柿崎晴家を越後に帰した。上杉謙信は越相同盟に賛同し、佐竹義重ら関東諸侯の離反を招いた事を後悔した。越相同盟の仲介役を務めた由良成繁は驚愕し、北条氏政に事実確認をしている。元亀三年一月十五日、北条氏政は由良成繁に書状を送り、由良家の面目を失わせて申し訳ないと非礼を詫びた。そして甲相同盟の締結は昨年十二月二十七日、初めて北条一門や家老衆に報じた事であり、秘密にしていたのではないと弁明した。書状が送れた理由として、喉を痛めたため針治療を行っていたためと伝えている。甲相同盟によって、武田信玄は関東を北条家の領国と認め、干渉しないことを約束した。西上野は同盟締結以前に武田家が切り取ったため、北条家は武田家の所領であると認めた。上杉謙信は北条氏政征伐を神仏に祈り、弟上杉景虎と忠臣遠山父子を見捨てて同盟を破棄したと罵った。その一方で上杉景虎と遠山父子が不憫になり、遂に成敗する事が出来なかった。上杉謙信は上杉景虎を政治の中枢から遠ざけたものの、養子としての扱いを変えることはなかった。また、上杉謙信は北条氏政が東将軍を切腹させたと糾弾している。東将軍とは上杉謙信が擁立した古河公方足利藤氏である。足利藤氏は病死したと云われるが、上杉謙信はそれを信じることが出来ないほど激怒していた。
【対武田同盟】
上杉謙信は甲相同盟に対抗するため、武田信玄の敵である徳川家康と同盟を結んだ。織田信長も武田信玄が同盟を破棄し、足利義昭と結んだことに激怒していた。上杉謙信に宛てた書状の中で、信長は武田信玄を罵っている。
「信玄所行まことに前代未聞の無道にて、侍の義理をしらず」
こうして上杉謙信、徳川家康、織田信長の利害が一致。武田信玄に対抗するために同盟を締結した。元亀三年十一月二十日、織田信長は上杉謙信の使者に対し、未来永劫に渡って武田信玄と結ぶことはないと血判を捺して誓約している。
【武田信玄の死】
元亀四年四月十二日、武田信玄が信濃駒場で病死した。享年五十三歳。
【佐竹義重の離反】
天正二年九月、上杉謙信は北条軍に攻められた関宿城を救援するために越山。佐竹義重に共闘を呼びかけている。関宿城に籠もった足利藤政は、上杉謙信にとって新たな古河公方に擁立出来る数少ない人物である。簗田父子は古河公方の重臣であり、上杉謙信はなんとしても関宿城を救援しようと進軍を急いだ。この時、佐竹家中では北条氏政と講和を結び、不利な体制を立て直すべきとの意見があった。そのため、佐竹義重は出陣をせずに情勢を見守っている。上杉謙信は上野国の北条軍と戦い、武勇を見せることで腰の重い関東諸侯に参陣を呼びかけるしかなかった。それでも参陣しない佐竹義重に対し、上杉謙信は自身の越山がなければ佐竹家は独力で北条家と戦うことになり、関東諸侯も滅亡するだろうと伝えた。佐竹義重が漸く出陣すると、上杉謙信は共に関宿城の救援に向かい、北条軍と雌雄を決すべきと述べた。この頃、佐竹家中では外交方針が決まったようである。十一月十六日、佐竹義重と北条氏政は講和を結んだ。佐竹義重は関宿城の簗田氏を説得し、北条家に開城させている。十一月十九日、足利藤政は情勢を悲観し、関宿城開城後に自刃した。北条氏政の勢力に圧され、上杉家は武蔵国における拠点であった羽生城も失っている。羽生城主木戸忠朝は城を落ち延びた後、自刃している。閏十一月十九日、失意の上杉謙信は厩橋城に入った。そして、羽生城から落ち延びた者を上州膳城の守りに就かせた。
【長尾顕景の改名】
天正三年正月十一日、上杉謙信は養子の長尾顕景を上杉姓に改めさせ、景勝の名を与えた。また、弾正少弼の官途も与えている。
撰吉日良辰、改名字官途、上杉弾正少弼与成之候、彼官途者、先 公方様江深忠信之心馳依有之、被仰立被下候条、不安可被思事、目出度候、恐々謹言
正月拾一日 謙信
長尾喜平次殿
弾正少弼の官途について、上杉謙信は足利義輝への深い忠節の想いを吐露している。
任今日吉日、改名乗、景勝与可然候、恐々謹言
正月拾一日 謙信
上杉弾正少弼殿
後年、この二通の書状は上杉景勝が家督相続の正統性を主張するため、自ら書いた偽作と云われる。しかし、上杉謙信が抱いていた足利義輝への想いが書かれており、一概に偽作と考えることは出来ない。上杉謙信の書状が経年劣化したため、記録を残すために複写したと考えるべきではないか。
【御館の乱】
府中は春日山城城下町であり、その中心には山内上杉憲政邸兼謙信政権政庁である「御館」があった。天文年間末期から弘治年間に建設されたのだろう。御館の内郭は東西135m、南北150m、堀は18〜20mで、全国屈指の館城であった。上杉景虎が御館に籠もったため府中は灰燼に帰し、御館も炎上した。
【剣聖上泉信綱の子孫】
文久三年五月、米沢藩上泉家に男子が産まれる。後の海軍中将上泉徳弥である。広瀬武夫少佐の朋友となった。明治二十五年頃、仁礼景範海軍大臣の息子仁礼景一少尉が「葛城」に赴任。父が大臣であるため、上泉徳弥艦長に非礼を働いた。これに激怒した上泉艦長は少尉を殴り飛ばし、その頭に小便を浴びせた。当然、仁礼少尉は仲間と共に上泉殺害を決意。しかし、齋藤実大尉(後、海軍大将)が間に入り、報復を中止させたと云う。広瀬武夫からこの話を聞いた柔道講道館の西郷四郎(姿三四郎のモデル)、横山作次郎は上泉の剛勇に感嘆し、後に四名で酒宴を開いたと云う。日露戦争では海軍作戦参謀となり、旅順閉港作戦に賛同。大正三年、海軍中将。大東亜戦争開戦に反対。昭和二十一年十一月二十七日、八十二歳没。法名大徹院殿呑海真徳大居士。
【鬼小島弥太郎】
鬼小島弥太郎は実在を疑われているが、越後や越中には領有したと言われる城、館が伝わっている。鬼小島弥太郎、山崎甚内は飛騨江馬氏に備えるため、越中庵谷館に居住した。松原館は鬼小島弥太郎の所領と伝わる。越後には乙吉城主小島三郎兵衛貞徳、小島弥太郎貞弘の名が伝わっている。乙吉扣城も小島氏の所領とされる。