『そうして戦は始まった〜開戦二日前。転がる時間〜』


「いろいろと思うところはあるけど……やっぱり俺、小難しく考えるのは無理みたいだから、兄貴の花嫁になる人だけは、精一杯守ることにした」

俺を「大好きだ」と言って憚らない弟分は、そう言って邪気のない笑みを浮かべた。
心根の清らかさを表すような澄んだ瞳に見つめられ、体にまとわりついていた汚い思惑が落ちていくのを感じる。

(……どれだけ俺の助けになっているのか、お前は分かってない。こんなにもお前の存在に救われてるっていうのに)

軍部と議会の関係は離れているようで、実は密接に絡まっている。
どちらか一方の立場が下であれば単純な上下関係で終われたのだろうが、ナスラの軍部は司令官を頂に据えた、独立した一つの機関になっていて、発言力が強い。対抗できるとしたら、王一人くらいだろう。
だから歴代の王は、政務補佐と同じく、軍事司令官を自分の息のかかった者にする。
この面倒な図式が、議会の爺どもにとっては面白くないらしい。
王と議会の意見が微妙に対立している今は、それに拍車がかかった状態だ。
俺にゴマをする者もいれば、あからさまに「平民出が」と言って貶しにかかる者もいる。
今日相手にしてきたのは後者のほうだったから、余計に疲れていた。
その疲れが、ナランのまっすぐな想いで軽くなる。

(なあ、ナラン。戦になんか出なくても、お前は俺の背中を守ってるんだ)

との言葉は、いつも思うだけで胸の内に閉じこめる。
言えば、精神的に弱っているのを悟られてしまうだろう。
くだらない男の見栄とも言えるが、俺はナランの前では「格好いい兄貴」のままでいたかった。

「なに?」
(いつでも、誰にでもまっすぐにぶつかっていけるお前が、俺は羨ましい)

口には出さないが、いつも感謝をしている。
そんな可愛い弟分に、早いところ人並みの幸せを掴ませてやりたいものだと、これから始まる戦に思いを馳せた。

「お前の嫁も、つれてくる女の中にいればいいな」
「んー……ないとは思うけど、誰かに好きになってもらえるのなら、嬉しいかも。まあ俺は兄貴が幸せなら、それが一番なんだけどさ」
(ほんと、お前には敵わねーなぁ)

つい口元が綻んでしまったのを誤魔化すように、くしゃりと頭を撫でる。
なのに結局は、へへ、と嬉しそうに笑うナランにつられて、俺も笑ってしまった。

(……ありがとうな、ナラン)

こうして俺を慕う者達を守るためになら、いくらでも身を削ろう。
……そう決意はした。したが、翌日に受けた知らせは、あまりにも酷すぎた。



「ノールッ!」

立場でいえば俺と同等か、それ以上の男の名を呼ぶ。
というより、怒鳴るに近い音量だったかもしれない。

「ス、スレン様、ノール様はただいまお休み中でして……」

後ろから困り果てた様子のノールの従者が追いかけてきていたが、知ったことか。
蹴破る勢いで、入室の合図も無しに扉を開く。と、中でのんきに茶をすすっている男が小さく首を傾げた。
その優美な仕草が余計に癪にさわって、今すぐ殴りとばしたい衝動に駆られた。

「おや、スレン殿。このような夜更けに挨拶もなしに訪ねてくるとは、よほどお急ぎのようで」
「ああ、急いでるさ。今すぐそのお綺麗な顔に拳をぶち込んで変形させるためにな」
「まったく、相変わらず野蛮なお方だ。貴方には再教育の必要がありそうですね」
「師なら、もっとまともな振る舞いをしろよ」

ノールは一時期、とある人物の命令で俺の師をしていた。
つまり歳は近くても、一応師弟の関係にあたるわけだ。
まあこのクソ野郎を師と思った時は一度もないが。

「しているつもりですが?」

しれっと言う顔にますます苛立ちが募る。
だが感情に任せて怒鳴ったところで、この男が動かないのはわかりきっている。
俺は腹の内で煮えたぎる怒りをなんとか抑え、交渉の姿勢をとった。

「……トーヤに出陣しろと、進言したそうだな」
「ええ、しました。もっとも、私が言わなくても陛下は御自ら動かれたでしょうが」

俺を怒り狂わせたのは、これだ。こいつの、この態度だ。
胸ぐらを掴みたくなるのを、既のところで堪える。

「お前の役割は、止めることだろう」
「なぜ?」
「なぜって……」

本当に分からない、というわざとらしい顔をされて怒りが沸点を越える。
一気に距離を詰め、噛みつく勢いで怒鳴った。

「今回の戦は、いつもとは勝手が違う! 奪わなきゃいけないもんがあるのに、あいつは
『極力人を殺すな』とか無茶苦茶なことを言ってんだぞ!?」
「それがご不満ですか」
「ああ、不満だね。だがこの際、それはどうでもいい。今軍部と王が決裂したら国が揺れるのは分かりきってる、だからアイツを支えるためにも、死を命じるような命令にも頷こう。けどな……」

強く噛みしめすぎた奥歯が痛む。
ぎりぎりと擦り合わせるそれの隙間から押し出すように、低く唸った。

「そんな難しい戦に、しかも敵地ど真ん中に、王自らが行く? 馬鹿げてるのにもほどがある……」
「難しい戦だからこそ、陛下が皆に道を示す必要があるのでは?
貴方の大好きな先代様も、そうして戦われてこられたでしょう」
「っ、あの方にはトーヤがいた! でもトーヤには、後を託せる王子がいないだろうが!
今あいつが死んだら、誰が玉座を継ぐんだ!?」

腐死や戦が原因で、今のナスラにはトーヤの他に王位継承権を持つ者がいない。
つまりトーヤが死ねば、古より続いていた正統な血筋が絶えてしまう。
それは俺の恩人でもある先代様も案じていたことだから、どうしても避けたかった。
使命感以前に、トーヤという男を失いたくないというのもある。

「今なら、まだ間に合う。政務補佐であるお前が反対して議会の過半数の同意を得れば、
トーヤの出陣を止められる」
「止める必要がありません」
「トーヤが死んでもいいのかよ!?」
「いいえ。ですがそうしたら、貴方が玉座を継げばいい」
「は……?」

あまりに予想外で、開いた口が塞がらなかった。
こいつは一体、何を言っている……?
困惑して眉根を寄せれば、目前にあった湖色の瞳が、すうっと細められた。

「お前……なに、言ってんだ……?」
「どちらも私の、大事な生徒です」

――大事な『研究結果』です。だからどちらでもいい。そう聞こえた。
ふわりと綺麗に微笑まれた瞬間、嫌悪感で胃がひっくり返ったみたいに痙攣する。
体の芯からくる震えが、握りしめた拳にまで広がった。

「っ……ふざけんなっ!!」

本気で繰り出した拳は、頬に触れる直前でかわされる。
空を切り裂く音がした後、白い頬には一筋の赤い跡ができていた。
悔しさで歯噛みする俺に向かって、ノールは出来の悪い生徒を窘める調子で言う。

「貴方は私以上に強い人ですが、いかんせん、行動が読めるのが惜しいところですね」
「……百回死んでこい」
「お断りします。『完成』を見るまで、私はトーヤ様を支え続けるし、離れもしない」

昔から気に食わない奴だったが、こんなにも忌々しく思ったのは初めてだ。
嬉しくない感慨に乾いた笑いがこみ上げてくる。

「はっ。なんだ、結局はトーヤに固執するんじゃねーか」
「おや、寂しければ貴方にも固執してあげますよ」
「結構だ」

こんな厄介な男に付きまとわれるくらいなら、国を出たほうがマシだ。
そう心からの溜息をついたら、椅子に腰かけたノールが何かを投げてきた。
茶を飲むついでのような動きだったから、うっかり見過ごしそうになる。
ほぼ反射的に受け止めると、掌に硬い感触を覚えた。

「これは……」

投げられたのは、指の先ほどの小さな石。
それの中央には「了承」の意味を持つ文字が掘られていた。
すぐさま意図を察し、悔しさ半分、感嘆半分で流し見た。

「……買収できたのか」
「ええ。計画通りに進めば、ほぼ無傷で川を越えることができるでしょう」

ノールは国境線沿いを守る部族に金を送り、かねてより裏切りを唆してきた。
この石は、あちらに潜り込ませておいた間者が放った鳥の足にでも括られてきたに違いない。
交渉の成立を示す小石が、実際以上に重く感じた。

「これで貴方が共にいけば、陛下が死ぬことはないでしょう。
軍神の名にかけて、頑張ってください」
「皮肉な信頼だな」
「いえいえ、貴方ならばやり遂げると本当に信じているのですよ。最も危険な王城に進む道……王道を進むのは陛下ではなく、貴方ですから。これほど優秀な『囮』はいない」
「……その作戦は、初耳だな」
「そうでしたか? では、今聞けてよかったですね」
「やっぱり殴っていいか」
「構いませんが、明日の朝陽を拝みたければ、止めたほうがいいですよ」
「お前は昔からそうだな。結局は俺も、お前にとってはいつでも殺せる存在か」
「ふふ、貴方らしくもない謙遜だ」
「謙遜?」
「そうでしょう? この私が、役に立たない、目障りな男を生かしておくと思います? 陛下を除いて、貴方ほど優秀な男はいないと思っているから、最高に目障りでも頼っているのです」
「頼る側の台詞とは思えねぇな」
「でも、頼られてくれるのでしょう? 貴方にとっても大切な、陛下のために」
「……俺が大切なのは、あいつじゃない。あいつが自らに課した誓約を守らせることだ」
「ふふ……」
「んだよ」
「そう言いつつも、貴方は陛下の身を案じ続ける。
なぜならアレを知った瞬間から、貴方は陛下に同情しているから」
「俺は……」
「お優しい軍事司令官殿。故にこそ、貴方は王になれない。
トーヤ様ほど非情になれたら、もう少し愛して差し上げたのに」
「お前の愛ほど恐ろしいもんはない。それに……国は大切だが、犠牲になる気はねぇんだよ」

吐き捨てるように言って、踵を返す。
扉に手をかける直前、ふと思い出して懐を探った。

「……土産だ」

先ほどの仕返しも込めて投げ返す。
憎らしいほどの反応の良さでそれを受け取ったノールは、手の中に転がった小石を眺め、目を眇めた。

「……ルス王都の入り口を?」
「ああ。そこを守る部族を引き入れた」

ルスは元々、多部族が集まってできた国だ。
だから部族によっては、王に対する忠誠心が低いままの者達がいる。
そこを突き崩せば、被害を最小限に止められると考えた。

(いっそ併合でもしちまえれば楽なんだが……)

だが戦に勝ったとしても、それは賢い選択だとは思えない。
女がいる、という点を除けば、ルスの地には甘みがないからだ。
それに今の、多くの部族から信頼されているルス王だからこそ成り立っているのであって、
支配者がナスラ王になれば数知れない内紛が勃発するだろう。

(これ以上厄介ごとを抱えたら、ナスラが危うくなるからな……)

要するに、女だけ持ち帰れたほうが、こちらにとっても都合がいい。

「……私が川沿いの部族を懐柔すると知っての行動ですか」

投げた石には紋様が描かれている。
ノールから渡された石に刻まれていたものと、よく似た印だ。
――「本家の了承を得た」という、俺が説得した分家の印。

「上が崩れれば、下にもひびが入るかと思ってな」
「貴方には、私の行動を説明していなかったはずですが?」

先を読まれたのが面白くないらしく、久しぶりに思い切り眉を顰められた。
いい気味だ。もっと不快になればいい。

「俺が、文句を言うためだけに来たと思ってるのか?
あいにく、誰かさんのおかげで暇じゃないんでね」

言うと、舌打ちの後に小石が投げ返される。
合わせた二つを弄びながら、腹いせの意趣返しをした。

「お前は俺より賢いが、いかんせん、行動が読めるのが惜しいところだな。
……なあ、先生?」

手の中で踊る小石。
一つ、二つ、転がり落ちて――開戦までの時間を告げる。





『そうして戦は始まった〜開戦三日前。祈りを得る紋様〜』


月が中天に昇った夜半、廊下のほうから従者が走り抜ける音がした。
たぶん兄貴が――俺の師であり、主であるナスラ軍事司令官のスレン様が帰ってきたからだ。
寝台に横になっていた俺は、その音から逃げるように掛け布を頭から被った。

(いいんだ。俺はすっごい怒ってるんだからな)

いつもだったら誰よりも先に玄関に向かって、出迎えている。だけど今日は別だ。

(兄貴のうそつき……)

掛け布にくるまったまま、蓑虫のように丸まる。
こんな風に抗議を示したところで何の効果も得られないのは分かっていたから、尚更悲しくなって涙が滲んだ。

(やっと、兄貴の横で戦えると思ったのに……)

昨夜ルジのところから帰ってきて、兄貴に「攫われてきた女の人はどうなるんだ?」と聞いたら、じっと見つめられて……直後、なぜだか留守番を言い渡された。
もう戦支度は万全で、てっきり昨夜は作戦の内容について教えてもらえると思っていたのに……。

(兄貴のばか。ばか、ばか、ばか。兄貴なんて大嫌いだ。……ごめん、うそ、大好きだけどさ……)

兄貴に救われた時から、俺の夢は兄貴の力になることだった。
留守番を言い渡されるまでは、やっと夢を叶えられると舞い上がっていたから、いきなり約束を反故にされた時の衝撃といったら……思わず自室に戻ってから悔し泣きしたくらいだ。

「今回に限っては、俺は悪くないからな。約束を破った兄貴がいけないんだ」

誰にともなく言い訳をして、また寝台の上をごろごろと転がる。
そうして何回転かした頃、呆れたみたいな溜息が降ってきて飛び起きた。

「!?」
「いつまでそうして拗ねているつもりだ、ナラン。スレン様がお帰りだぞ」

いつ入ってきたのか全く分からなかった。
誰かいると知っても、纏っている衣が夜闇よりも黒いせいか、幻にでも話しかけられている気分になる。

「……俺の部屋に入ってくる時まで気配殺すの?」
「スレン様ならば、すぐに気が付く」

軍神と謳われる者と一緒にしないでほしい。
思わず唇を尖らすと、この屋敷で一番年長の従者はやれやれといった風に首を振った。

「……役立たずの俺なんかがいかなくても、皆がいるだろ」
「子供じみたことを言うな。スレン様はお前のためを思って決断されたのだぞ」
「なんで俺のためなんだよ」
「それは自分で聞け」

現れた時と同じくらい物音を立てずに去っていく背中を、眉間に力を入れて見送る。
やがて一人きりになると、静寂に責められている気がしてきて、たまらずに立ち上がった。

「ま、まあ、ずっとさぼってるわけにもいかないし」

また一人言い訳をしている。
本当にガキだなとの自覚はあったけれど、認めるのは悔しすぎた。

「……俺は、謝らないんだからな」

悪いと思ったことは、いつだってすぐに謝ってきた。
でも今回ばかりは、どこからどう考えても納得できない。

(やっぱり、役に立たないと思われたのかな……)

朝から引きこもっていたことを、兄貴は怒っているかもしれない。
それでも絶対に謝らないぞ、と心に決めて部屋を出た。


兄貴の部屋の前で、第一声の内容を考える。
だけど考えている間に段々と恐くなってきて「やっぱり謝ろうか、いやでも……」と思考が堂々巡りになり始めた。
怒られるのは構わない。ただ嫌われるのだけは嫌だ。

(なんて、ほんとにガキだな……)

大人として認められたい、そう願いつつも真意を聞くのが恐くて子供っぽい拗ね方をした。
そんな自分自身に呆れていたら、

「……ナランか」

不意に扉の内側から話しかけられて、小さく飛び上がる。

「えっ、あ、俺……」
「話があるんだろ」
「……うん」

物音は立てなかったし、気配だって殺したつもりだった。
なのにどうして悟られたのだろう。と首を捻った瞬間、さっき聞いたばかりの言葉が頭を過ぎる。

(やっぱり、兄貴には敵わないなぁ)

悔しいのに嬉しい、みたいな複雑な気分。
兄貴の強さを目の当たりにする度に、まだまだ追いつけないと絶望し、同じ分だけ憧れた。

「……入ってもいい?」
「好きにしろ」

言葉はぞんざいだけれど、声音の柔らかさで怒ってはいないのだと窺えた。
少しほっとして、そろりと扉を開ける。

「……おかえり」

第一声に選んだのは、いつもと何ら変わりない言葉だった。あれこれ考えたところで、結局は子分の根性が染み着いてしまっているのだなと思う。
帰ったばかりの兄貴はまだ軍服を着ていて、それに覆われた逞しい肩が小刻みに揺れる。……背を向けられていても、笑われたのだと分かった。

「なんだ、もう籠城戦は終わりか?」

からかう声に、忘れていた悔しさが蘇る。
つい頬を膨らませると、見えていないはずなのに指摘された。

「そうむくれた顔すんなよ」
「してないよ」
「ふーん? あ、そこにある布をとってくれ」

するりと流されてしまえば、拗ね続けるのが難しくなってくる。
命令されるのに慣れた体は、気が付けば言われた通りの行動をとっていた。
布を渡した後になって、はっと我に返る。

「ありがとな。……ふう、まったく問題だらけで嫌になる」

軍服を脱ぎ捨て上半身裸になった兄貴は、俺が渡した布で汗を拭い始めた。
男らしさを体現した、筋肉で引き締まった体。その上を流れる玉の汗が、入れ墨――護りの紋様の上をなぞった。
浅黒い肌に刻まれたそれは、兄貴の動きに伴って生きているみたいに形を変える。

「……いいなぁ」

無意識にぽろりと本音がこぼれる。振り向いた兄貴は目で「なにが」と聞いてきた。

「その入れ墨は、戦場で兄貴を守れる。だけど俺は、それすらできない。俺……その入れ墨になりたい」
「……お前、ほんとに俺が大好きだな」
「いけないのか?」

きょとんとして聞くと、兄貴は苦笑して窓枠にもたれた。
顎で「来い」と命じられ、言われるままに近づく。

「いけなくはねぇが……憧れるだけじゃ、追い越せねーだろ」
「追い越すって……俺が、兄貴を?」
「弟子は師を越えるもんだ」
「無理だよ。兄貴を越えるなんて、三回生き直しても無理だ」
「情けねぇな。そんな調子じゃ、次の戦で女を捕まえてきても、一人身のままだぞ」
「……俺はまだ、お嫁さんを迎えられる身分じゃないから」

「捕まえる」という言葉を聞いた瞬間、胸の奥にずきりとした痛みが走った。
思い出したのは、ルジの家で目にした体験談。――昔のナスラ人が、ルスの女の人にした酷い仕打ちだ。
なんとなく息苦しくなって胸元を握ったら、大きな手が頭に乗せられ、くしゃりと撫でられた。

「……これだけで、そんな顔してるんだ。自分でやるのは、もっと無理だろ」

慰めるような響きで、すぐに察する。

(今、わざと『捕まえる』って言った……?)

たぶん、あえて乱暴な表現をして、俺の反応を確かめた。

「……酷いよ兄貴」
「なにがだ」
「俺に頑張る機会も与えてくれない。確かに今回の戦には思うところがあるけど、それでも俺は兄貴と国のためなら――」
「無理だ」

きっぱりと、いっそ冷たい響きで遮られる。
押し黙った俺をまっすぐに見つめる瞳の中には、軍事司令官の厳しさがあった。

「お前、泣きわめく女を拘束できるのか? 刃物をもって必死に抵抗してきたら、どう対処する? 相手が女じゃなくても、その女の夫が守るために斬りかかってきたら?」
「そ、れは……」

言われたことで、より鮮明になる想像。決意していたはずなのに、畳みかけるように言われると何も答えられなかった。
情けない。結局俺は、ルジのように大きな夢を目指すことも、すぐ近くの大切な人のために思い切ることもできないのか。
しばらく俯いていたら肩に手を置かれて、俺は自分が震えているのを知った。

「正直に言うとな、お前にそんな惨いことはさせたくないんだ。それに……女達の恨みを負うのは、俺の仕事だ」
「兄貴……」

全てを覚悟したような笑みに胸が締め付けられる。
同時に、兄貴がこうするしかない世の中が恨めしくなった。

「これで……最後?」
「そう願いたい。長期的な目でみれば、この方法は有効じゃねぇからな」
「どういう意味?」
「こういう戦を繰り返せば、民の倫理感が薄れて、いずれは治安を保てなくなる。だから……そうならないために、俺たちの世代で確実に子を増やす必要がある」
「……ルスの女の人に同情する俺は、甘い? 間違ってる?」

答えの分かっている問いは、罪悪感となって胸に沈んだ。

(ルジの言ってることは、当たってる)

こう言っている今でさえ、俺は女の人を救いたい、救えるとは思っていない。
間違っていると知りつつ……ルジの言う残酷な「岸辺」で、ただ哀れんでいるだけだ。

「かもな。でも俺は、そういうお前を気に入ってる。俺にはないその優しさが、きっと……多くの女を救う」
「兄貴は……優しいよ。優しすぎるから、俺は心配なんだ」
「はっ、お前に心配されるほど弱かねぇよ」

兄貴が鼻で笑い飛ばして剣の手入れを始めると、室内は虫の声で満たされた。
俺は向けられた広い背中を見つめながら、真剣に祈った――ここに圧し掛かっているものが少しでも軽くなるように、と。
そして叶うならば……

「兄貴を支えてくれるお嫁さんが、きてくれればいいのに……」
「は?」

手を止めて顔を上げた兄貴は、今日一番の「面白くなさそうな顔」をした。
突然何を言い出すんだ、とでも言いたげな目で睨まれる。

「ルジがセフに言ったらしいんだけどさ。兄貴にも、そういう存在が必要だよ」
「選択法があるんだぞ? この俺様に、わざわざ女を口説けっていうのか?」
「兄貴はかっこいいし強いし……こういうのも何だけど、お金持ちだから、口説かなくてもきてくれるんじゃないかな」
「お前、馬鹿だろ」
「まあ、兄貴に比べたら馬鹿だけど」
「はあ……そういうお前こそ、早いとこ身を固めろよ」
「兄貴よりも先に結婚なんてできないよ。それに……俺は兄貴と違って、モテないし……」
「一ついいことを教えてやる。こういう時は、お前みたいな警戒の必要がなさそうな男のほうがモテるんだよ」
「そうかなぁ」
「ああ、そうだ。それに、俺の理想がいるとは思えねぇしな」
「兄貴の理想の女の人って、どんな人?」
「男を負かすくらい強くて、俺相手でも怯まないような、最高にいい女」
「……それ、どこか一つ妥協したほうがいいんじゃないかな」
「無理だな、その三つは外せない。……ああ、妥協できる点があるとすれば、乳の大きさだな。あれの具合がよければ、そこはどうでもいい」
「うわー……」
「なんだよ、その反応は」
「ちょっと兄貴の花嫁探しは難航しそうな気がしてきた」
「だろ。だから俺は外野でいいんだ」
「うーん……」

とはいえ、やっぱり兄貴には幸せになってほしい。
いつも自分の身を削って皆を守る人だから、心安らかに帰れる場所を作ってあげたかった。

(兄貴の心には、男の俺じゃ、ちょっと踏み込めない領域があるからなぁ……)

長い付き合いの中で知った、どうしても踏み込めない場所。
そこに入れる者がいるとしたら、きっと……

「どうか、来てくれますように」
「? なにしてんだ、お前」

兄貴の肌に描かれた紋様に手を当てて、戦の精霊にお願いをする。
たぶん、一生分くらい祈った。

「うん、これで大丈夫」
「だから、なにが」
「いろいろと思うところはあるけど……やっぱり俺、小難しく考えるのは無理みたいだから、兄貴の花嫁になる人だけは、精一杯守ることにした」
「……」
「なに?」

無言でじっと見つめられて小首を傾げる。
昨日留守番を言い渡された時とも違う、凪いだ湖面みたいな瞳だった。
それがゆっくりと瞬いて、ふわりと柔らかく細められる。

「お前の嫁も、つれてくる女の中にいればいいな」
「んー……ないとは思うけど、誰かに好きになってもらえるのなら、嬉しいかも。まあ俺は兄貴が幸せなら、それが一番なんだけどさ」

兄貴が戦に出る三日前。この時の俺は、兄貴の幸せだけを護りの紋様に祈った。
――それがどう変わるのか、考えもせずに。





『そうして戦は始まった〜開戦四日前。時を刻む黄金〜』


「――俺好みの気が強くて、優しくて、きれいで、でも可愛い……なーんて女の子が現れたら、どうなるか分からないけどな」

人気のない路地裏には自分以外に聞いている者はなく、左右に聳える高い壁が緊張感のない声を反響させた。
常以上に静かな状況だからか、その内容は予言めいた奇妙さで耳の奥に残った。
だからつい、祈りにも似た想いが口からこぼれてしまったのだろう。

「……現れるかもしれませんよ」

見つめる背中――セフ殿が、軽く鼻で笑い飛ばした気配がする。
結構本気だったのだが、彼には響かなかったらしい。

(というより、こうなったらいっそ現れてくれたほうが有利になるんだけどな)

もはや女性達を攫う行為を止められないというのなら、その女性達の中で、停滞した男達を引っ張っていってくれる者が現れてくれないかと思う。

(セフ殿は一度抱え込むと決めたら見捨てられない性格だろうから、結婚をすれば良い方向に転ぶ気がする)

怠惰な振る舞いのせいで、ほとんどの者が気が付いていないが、本当のセフ殿は恐ろしく賢いのだ。
学び舎にいた昔、卒業生である彼の論文を目にした。あの時の衝撃が未だに忘れられない。
あんな理路整然とした素晴らしい論文を書ける――しかも何かきっかけがあれば、こちら側についてくれそうな――優秀な男を放っておくのは実に惜しい。
セフ殿がちゃんとオルテ大臣の跡を継いでくれたら、俺とトーヤ様の夢も叶いやすくなるのに……

(とか考えるあたり、俺はやっぱり善人ではないんだろうなぁ)

たまに俺を優しいと言う人間がいるけれど、それは間違った表現だ。
俺はある理由があって、苦しむ女性達を見ていたくないだけで、つまりは全て自分のためなのだから。
セフ殿の背が完全に曲がり角の向こうに消えると、無意識に我慢していた溜息を吐いた。

「……本当に、嫌だ」

呟いた分だけ、攫われる女性の数が減ればいいのに。と、その「女狩り」の先頭に立つ軍事司令官の屋敷に向かう道中で、一人愚痴をこぼした。


……そんな調子だったから、スレン様の屋敷に薬を届けた翌日も、気分は優れなかった。

「また失敗か……」

薬の調合をしている最中、耳に入った自分の声が予想以上に疲れていて驚く。
注意力が散漫な状態で無理矢理仕事をしたせいか、いつも以上に疲れを感じるのが早い。
未熟さに苦い笑みが浮かび、脱力した体を休憩用の寝台に投げ出した。

「……あと四回あれが沈めば、戦が始まる」

ごろりと仰向けになったら、窓枠の中に鎮座する月が見えた。冴やかな光が、研究所兼自宅として買った室内を照らしている。
研究をする上での機能性を重視して改築した結果、生活の匂いが希薄になったこの空間は、俺自身と同じくらい面白味のない部屋に仕上がっていた。

「これじゃあ、お嫁さんは来てくれないなぁ」

もとより結婚するつもりもないけれど。
普段は心安らぐ光に急かされている気になって、また重い溜息が漏れる。と、その息が吐き終わるか終わらないかのところで、扉が叩かれた。

(急患かな……)

夜半に訪ねてくるくらいだから、よほど急いでいるのだろう。
緩んでいた気を意識して立て直し、扉へと向かった。

「今開けますねー」

言いながら開けた途端、冷えた夜気と共に明るい声が滑り込んできて、半歩後ずさる。

「あっ、夜遅くにごめんな! 兄貴が急いでもらってこいって言うからさ」
「ああ、ナラン君でしたか……」

扉の外に立っていたのは、大きな瞳が印象的な少年……いや、もう青年か。
「兄貴みたいに逞しくなれる薬をくれ」と言ってきたのはほんの一、二年前のことなのに、今ではすっかり同じ目線になっていて、早い時の流れを感じた。

「ルジ?」

つい感慨に耽っていたら、丸い瞳が訝しげに細められた。彼の気性をそのまま表す両眼は、ころころと変化を繰り返して、見ている者を飽きさせない。
こういう内外ともに素直な性格であったなら、純粋な心で女性の未来を憂うことができただろうな、と羨ましくなる。

「ああ、えっと……何か足りないものがあったのかな」

小さく首を振り、再びわいてきた年寄りくさい感慨を落とす。
彼の背に手を添えて入室を促すと、前を行く形の良い頭が右に左にと揺れた。
好奇心を隠せない様子が微笑ましくて、自然と顔が綻ぶ。

「薬以外だったら、好きに触っていいですよ」
「え!? あ、ごめん、こんな風に見てたら失礼だったよな」

すぐに謝れるところも彼の美点だ。
もっとも、見られて困るものは一つとしてなかったから、微笑みで許可を示した。

「えっと、足りない……とかじゃなかったんだけど、傷薬がもう少し必要になったんだ」
「傷薬が?」

先日の注文では相当な量を持っていったから、足りないと言われて少し不思議に思った。
そもそもあの軍神と謳われるナスラ軍事司令官殿は、あまり怪我をしないのだ。
いくら戦だといっても、警戒が過ぎる気が……

「ちょっと難しい命令が、陛下より下されたみたいでさ」

思考の先を読んだように答えられ、そういうことかと控えめに頷く。

(……なるべく殺すな、とか無茶な命令が出たんだろうな)

王であるトーヤ様はとても賢い人だから、それがいかに無理難題であるかは承知しているはずだ。
それでも優しい彼は、言わずにはいられなかったのだろう。

(それで、部下の命を守るための『傷薬』か。スレン様も気苦労の多い方だ)

との内心は口には出さず、薬をしまっている部屋の奥へと向かう。

「今持ってくるので、適当にくつろいでいてください」
「ありがとう。……あ、この辺にある本とか、読んでもいいか?」
「ええ、ご自由にどうぞ」

薬を用意する間、後ろのほうで何冊かの本を手に取っている音がした。
まあ本といっても、ここにあるのは「記録書」がほとんどだから、関係のない者から見たら詰まらないものばかりだ。
彼もすぐに飽きて、座っているだけになるだろう。と思いながら振り向いたら、

「……?」

熱心に、一冊の記録書を読んでいる姿が目に入った。
少し驚いて近づいていくと、さらに意外なものに気が付いて息を飲む。

「……どうしました?」
「え?」

食い入るように文字を追っていた目が上向けば、一粒の雫がぽろりと落ちた。
頁の端に染みて、薄い紙をふやけさせる。

「あっ、ご、ごめん! 大切なものに……!」

衣を使って拭おうとするも、染みは涙――彼の心を離すまいとするかのように広がった。
苦笑して、慌てふためく彼の手を止める。

「それは複写なので、構いませんよ。内容もすでに頭に入っていますし」
「そ、そっか……。でも、ごめん……」

しょんぼりとうなだれる様に庇護欲を掻き立てられる。
相手が誰であっても「つい手をさしのべたくなる」心境にさせられるのは、彼の才能の一つだ……と俺は思う。

「……そういう記録を見るのは、初めてだった?」

少しくだけた口調で問い、彼の隣に腰を落とす。
近づいた距離に心の壁が薄くなったのか、いつもよりもさらに人懐っこい、それでいて縋るような目が向けられた。
戸惑いを表し震える唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「なんていうか……俺、単純に戦を喜んでたんだ」
「戦を、喜んで……?」
「実は……『次に戦が起こったら、俺もつれていってくれ』って兄貴にお願いしててさ」
「それが、今回?」
「うん。ずっと子供扱いされてたから、これでやっと一人前の男として認めてもらえる! ……そう、思って」

そこまで言って、彼はきゅっと唇を噛んだ。
落ちた視線があの記録書の上に留まり、懊悩を表す眉間には深い皺が刻まれた。

「でも、こんな……」

ふやけた文字が示すのは――十年ほど前にあった戦の真実。
俺の師にあたる人が、腐死の研究の一環として、ルスからつれてこられた女性に聞いた体験談の一部だ。

「つれてこられた女の人が、こんな扱いを受けて、こんなに傷ついていたなんて……ぜんぜん、知らなかったんだ」
「……子供に説いて聞かせる話でもありませんから」
「っ、俺……最低だ」
「どうして?」
「だって、喜んでたんだ! ただ単純に、兄貴のかっこいい姿が見られる、兄貴を支えられるって!」
「……知らなかったことが罪なのだとしたら、君と同じ年頃の人間のほとんどが責めを負わなければいけない」
「でも……!」

何か、叫ばずにはいられない。そんな調子で身を乗り出してくる。潤んだ瞳の色は、自分と同じようで、全く違う。
その少年の純真さが残る瞳を見据え、あえて厳しい言い方をした。

「それに知った今でも、君は『攫ってくる』という実感を持っていない。戦に出る君がルスの女性を『かわいそうだ』と思うだけなのは、極寒の湖に自ら突き落としておいて、その様を岸辺から哀れむのと同じだよ」
「俺……」

ますます意気消沈して落とされた肩に手を乗せる。
そして久しぶりに、自分の内側を晒した。

「なんて、俺もそうなんだけどね」
「え?」
「俺も、結局はナスラ人の血を捨てられない。女性達を哀れみつつ、遠くの夢を追うことしかできないんだ。そうして開き直ってすらいるから、君よりもずっと性質が悪い。……最低というのは、俺みたいな善人ぶった人間のことだよ」
「違う!」

思っていた以上に強く返されて、若干のけぞる。
必死さ故に呼気を荒くした彼は、衣に皺が寄るほど俺の腕を掴んだ。

「ルジは優しいよ!」
「……どうして?」
「俺、ルジがどんなに心を砕いて、患者に接してるか知ってる。今だって、腐死をなくすために寝る間も惜しんで頑張ってるじゃないか!」
「頑張れば、優しい人間になれるの?」
「それは……」
「俺からしてみるとね、君みたいに目の前の難題から逃げずに悩む人間のほうが、よほど優しく見える。夢を追うといえば聞こえはいいかもしれないけれど、でもそれは『今戦う』ことから逃げているともいえるんじゃないかな」
「……ルジは頭でっかちだ」
「は?」

これまた予想外の評価が返ってきて目を瞬かせる。
はて、と首を傾げると、子供っぽく頬を膨らませた彼が腕組みをしていった。

「ルジは優しいったら優しい。俺がそう思うんだから、そうなんだ」
「ぷっ、ははっ……」

理屈も何もない言い方は、だからこそなのか……やけに心に響いた。

「……ありがとう。少し心が軽くなった」
「ルジも、悩んでたのか?」
「君いわく、頭でっかちだからね。どうにもならない問題を考えすぎて、迷路にはまってたのかも」

苦笑して頭を掻く。すると一緒に笑っていた彼が唐突に真面目な顔をして、拳一つ分の距離を詰めた。

「決めた」
「何を?」
「とりあえず、兄貴の嫁になる人を守る。俺はルジや兄貴ほど頭がよくないし、目の前のことにしか一生懸命になれない。だから、できうる限りの範囲で、俺の全力を尽くすよ」
「それはまた、思い切ったね」
「だめかな……?」
「方法は人それぞれだよ。君は君のやり方で、この時代を考えればいいと思う。どう向き合うかは、君の自由だ」
「うん……。ありがとう、ルジ」
「お礼を言われるようなことは何も……」

と言いかけた口の前に掌がかざされる。
驚いて停止していると、彼は片腕を突きだしたまま立ち上がった。

「だから、俺が感謝してるんだから、それでいいの。ルジは、たまに俺くらい馬鹿になったほうがいい」
「! ははっ……君は十分、賢い人間だよ」

事実、今までにも彼の頭の回転の早さに驚かされた時が幾度もあった。
本人が思っているよりも、彼は多くの可能性を秘めている。

「うーん、ルジに言われると慰めに聞こえる」
「これでも、人を見る目は結構あるんだよ?」
「じゃあその目に聞きたいんだけどさ。四日後の俺は、ちゃんと戦場で兄貴を支えられてると思う?」
「んー……うん」
「えー、なんだよ、その間」
「はは、俺は皆の無事を祈ってるよ」

正直に言えば、彼は今回の戦に行けないだろう。
戦以外で心が揺れ始めた者を、あの司令官殿が連れていくとは思えない。
迷いが生じれば、それだけ彼が死ぬ確率が高くなるからだ。
大切だからこそ、恐らくは……置いていこうとする。

(……そのほうが、俺もいいと思うけどね)

もし本当に司令官殿が花嫁を迎えるとしたら、その時は彼が世話を任されるだろう。
世話人は、できれば戦に参加していない者のほうがいい。
心に傷を負った女性にとって、そうした彼の存在は救いになる。

「ふーんだ。四日後の戦では、兄貴の次に勇敢に戦って、他の男が女の人を傷つけないように見張って……とにかく完璧に兄貴を支えてみせるんだからな」
「うん、そうだね。応援してるよ」

微笑んで見上げたのは、時を刻む黄金の光。
――あと四回、あれが沈めば俺と彼の苦悩が始まる。




『そうして戦は始まった〜開戦五日前。巻かれないゼンマイ〜』


コン、と酒杯を机上に置く音がやけに耳に残る。ほろよい気分で呆けた頭を働かせ、その理由を考えた。
「あー、もうすぐだもんな。どうりで静かなわけだ」
呟きつつ身を起こせば、いつもより客が少ない店内が見渡せた。
呆れ顔をした酒場の主人が、やれやれといった風に肩を竦める。
「そんな暢気に構えてていいのかい、セフ。親父さんは大変なんだろ?」
「親父は親父、俺は俺。それに俺が緊張したり慌てたところで、戦局が有利になるわけでもないしね」
だらしなく机上に突っ伏し、一人遊びをするように指を折る。
一、二、三、四……
「五……」
――ルスとの戦までに残された日数。公には一応伏せられているそれが周知のものとなるのは時間の問題だろう。
なにせ軍部に無関係な、こんな小さな酒場にまで噂が広まっているくらいなのだから。
そうぼんやり考えている内にも、酒場の前を軍人と思われる男達が走り抜けていく。
ぴりぴりとした空気に浸食されるのが嫌で、大げさに杯をあおった。
「軍部はどのくらい連れてくるつもりなんだろうねぇ」
「……さあね」
国の重鎮であるオルテ大臣、もとい俺の親父は、今頃戦前の調整で忙しくしているに違いない。
それが分かっているから、いつも以上に帰宅を避けていた。
どうせ顔を合わせた瞬間、やれ嫁がどうだこうだと説教をされるに決まっている。
「まったく、相変わらずだな。他の男どもは、嫁を得られるかもしれないっつって、大騒ぎだっていうのにさ」
「嫁ねぇ……。俺には無縁のものだな」
「無縁って……そう言ってもいられないだろう? お前の家は国で一番古い貴族の家柄なんだから、血を絶やしたら親父さんも責められちまう」
「だから、無理矢理攫われて来た女の人を口説いて、子を産ませろって? あー、やだやだ、そんな面倒なことをするくらいなら、家なんて潰れちまったほうがいいよ」
「はあ、お前さんが言うと冗談に聞こえない」
「本気だからな」
さすがに目を剥いた店主の反応を、半笑いで流す。
むしろ驚かれるほうが意外だ、と肩を竦めて見せた。
「俺が自ら進んで、傍近くに『厄介ごと』を置くと思うか?」
「女を厄介ごと扱いするのは、大陸広しといえどお前くらいだな」
「誤解を招く言い方するなって。『女を』じゃなくて『攫われてきた女の人』を、だよ。俺だって他の男と同じく、可愛い女の子は大好きさ」
ただ、わざわざ敵意を持った人間を娶ろうとは思えないだけで。
「もったいない。お前、その髭を剃って、真面目に仕事して、お貴族様っぽい喋り方をすれば、進んで嫁にきてくれる女がいるかもしれないのに」
「それ、俺じゃなくない?」
「まあそうだな」
あっさり肯定されても全く怒る気にならない。むしろ軽口を叩きあえる関係が心地よく、これが「お貴族サマ」口調とやらで崩れるくらいなら、ずっといい加減な奴でいいと思う。
そのくらい、堅苦しい空気やら、勤めやら、使命やら……とにかく責任が絡むことが苦手。
どうせ俺一人が頑張ったところで世の中は変わらないのだから、必死になるだけ馬鹿らしい。と、あの時に悟った。
「ほんと、もったいない。もう少し頑張ってみようとかさ」
「あの時の親父の努力が報われていたら、考えたかもな」
「セフ……」
窘める声が一変、慰める調子になって逆に居たたまれなくなる。
「さてと、そろそろ帰るかね」
沈みかけた陽に「たった今気付いた」風を装って立ち上がる。
代金を渡して入り口に向かう途中、後ろから呼び止める声がかかった。
「あ、そうだそうだ。お前に持っていってもらいたいもんがあったんだ」
戸棚を探った店主は、そう言って小走りに駆け寄ってきた。
ぐいと手を引かれ、掌の上に何かが乗せられる。
「これ……」
小さな人形……に見えるそれの背には、木製のゼンマイがついている。たしか以前観光できた西国の男から、店主が酒代として受け取ったとかいう、珍しい外国製の玩具だ。ゼンマイ部分を回すと、人形がかくかくと動き出す仕組みになっている。
「……どうして俺に? これはあの子の形見だろ」
見つめる内に、これを持って楽しそうに遊んでいた幼子の顔が思い出される。今はもういない、腐死で死んだ店主の子供。
「あの子は、セフに懐いてただろ」
「だからって……」
「今だから言うけどな、あの子は大きくなったらお前の嫁になりたいって言ってたんだ」
「え……?」
「はは、笑っちまうだろ。セフは大貴族だから、お前なんか嫁さんにはもらってくれねぇよって笑い飛ばしたんだが……こうなると分かってたら『きっとなれるさ』と言ってやればよかったなぁ、とか……最近は、ずっと後悔しててさ。だから、なんていうか……せめて、これだけは傍にいさせてやりたいというか……」
坊主頭の店主の目尻に、うっすらと光るものを見た。
胸の奥がぐっと締め付けられて、つられて泣きそうになる。
(……だから、嫌なんだ)
祈っても、頑張っても、救われないこんな世じゃ、大切な存在なんか作れない。
「……わかった。受け取っておく」
「ありがとう」
「俺こそ」との言葉が、胸苦しさのあまり喉に詰まる。
言う代わりに店主の肩を叩いて、今度こそ外に出た。

「お前、俺のところにくるか?」
軍人が走り抜けた後の、砂埃が舞う中。物言わぬ人形に語りかけて苦笑する。
動く、という本来の目的を欠いた様は、どこか自分に重なって見えた。
そんな風に下ばかりを向いていたのがいけなかったのか、
「うわっ!?」
「!」
突然曲がり角から飛び出してきた誰かとぶつかりそうになった。
人の気配を読むのは得意だとの自負があったから、直前まで気が付けなかったことに驚いて目を瞠る。
相手はどんな軍人かと思いきや……
「ああ、セフ殿でしたか。驚かせてしまって、すみませんでした」
口調も醸し出す空気も柔らかい、我が国随一の薬師――ルジが、ぺこりと頭を下げた。
「いや、俺こそぼーっとしてて悪かったな。急患か?」
ルジは腕利きの薬師だから、時間を問わず多くの者に頼られる。
先日、俺の屋敷で急病人が出た時にも来てくれた。
「いえ、今はスレン様のお屋敷に薬を届けにいく途中です」
軍部の頂に立つ司令官の顔が脳裏を過ぎる。
あの男は粗野に見えて用心深いところがあるから、戦前に色々と揃えているのだろう。
「ああ、戦前だからなぁ」
ルジは国王とも繋がりがあるようだから、今更隠す必要もないか。との気安さで口にしたら、思いのほかルジが暗い顔をして俯いた。
「なんだ、ルジも『女狩り』に反対か?」
「そういう貴方は?」
ルジが質問に質問で返してくるのは珍しい。
常にはない反応に興味を引かれ、首を傾げて茶の瞳の奥を覗いた。
そこには予想以上に強い意志の光があって、また驚かされる。
「……意外と熱い男だったんだな」
「え?」
「はは、いやいや、なんでも。じゃ、気をつけて」
こんなしなびたオッサンには、若者の持つ光は強すぎる。
手を振って横をすり抜けようとしたら、少し堅い声が追いかけてきた。
「セフ殿も、どなたかを娶られるのですか」
「……俺にそんな気概があると思う?」
肩越しに振り向けば、ルジが苦しげに下唇を噛んでいるのが見えた。
「俺は、嫌です。こんなことでしか解決できないなんて、嫌だ」
路地裏とはいえ、外で語るにはあまりにも物騒な本音だ。
それに国政の中心にいる人物の息子に向かって言うべき台詞だとは思えない。
「俺、一応大臣の息子なんだけど?」
「セフ殿は、誰かを傷つける人じゃないですから」
「はは、買い被りは危ないよ。……と忠告をしたいところだけど、告げ口をするほどの根性もないから、正解だな」
「……さっきの答えは?」
「んー……俺は攫ってきた女の子を口説くくらいなら、酒でも飲んでたほうがいいや。だからといって、君みたいに助けたいと思ってるわけでもないけど」
「どうして俺が、そう思っていると?」
「君と同じく、俺も人を見る目だけは確かなのよ。あ、念のために言っておくけど、親父は地獄耳だから気をつけたほうがいいぜ」
「……その大臣が、貴方に誰かをあてがうつもりなのだと聞きました」
「安心しな……っていうのも変だけど、そういうのは『選択法』が許さないよ。まあ、でも……」
おどけた調子で肩を竦め、再び歩きだす。後半の台詞は、完全に冗談のつもりだった。
「――俺好みの気が強くて、優しくて、きれいで、でも可愛い……なーんて女の子が現れたら、どうなるか分からないけどな」
言いつつも、ありえないなと内心で苦笑する。
俺のゼンマイは錆付いて、とうの昔に回らなくなってしまったのだから。
「……現れるかもしれませんよ」

笑える冗談だ。
戦が始まる五日前――この時は、確かにそう思っていた。



(C)Operetta Due