そんな偉大な先人の功績を歴史として受け継いでいかなければならないのに、自虐史観という言葉がなかった昭和30〜40年代の義務教育ですら、私はそんなことは殆ど教わらなかった。歴史好きだった母から小学校時代に聞いていたから、東郷平八郎元帥や乃木将軍の名前を知っているだけだ。そもそも「海軍記念日」という言葉すら、抹殺されている。そんな状況だから記念式典も随分中途半端なものになった。横須賀で行われた式典も対馬沖の式典も。とても100周年の偉業を讃えるものに相応しいとは言えない。
日本海海戦100年 日ロ友好誓い慰霊祭 対馬沖 船上から献花本来なら靖国神社でも政府主催の式典が行われるべきだった。横須賀の戦艦三笠前で行われた式典では、今や支那の冊封体制強化の走狗?と成り果て、東アジア共同体を画策する怪しいシンクタンク「東アジア共同体評議会」の代表に祭り上げられた大勲位中曽根康弘元首相が、司馬遼太郎のいわゆる <司馬史観> の一面的な解釈を得々と披露し、日露戦争後の日本を全否定するかのようなスピーチで、多くの出席者を白けさせたという。
日露戦争の日本海海戦から百年を迎えた二十七日午前、長崎県対馬市上対馬町沖の対馬海峡で海上慰霊祭があり、ロシュコフ駐日ロシア大使やコステンコ駐日ウクライナ大使、金子原二郎長崎県知事らが海に花束を投げ入れ、両国の戦没者を追悼した。
同祭は、長崎県や民間団体「対馬・歴史顕彰事業推進委員会」などでつくる実行委員会が主催。ロシアとウクライナからの計七人を含む参加者約三百四十人は同日午前十時半、海上自衛隊の掃海艇二隻などで同町から数キロ沖の海上へ。ロシュコフ大使らが「日ロの友好は国益に合致し世界平和にも大切。相互理解を深めるために来た」などと両国の友好を誓った後、献花し、黙とうした。漁船約百隻も出て、冥福を祈った。同日午後は、海を望む同町の丘で、百年を記念し設置した「平和と友好の碑」と「日露慰霊の碑」の除幕式と、日露合同慰霊祭がある。
日本海海戦は一九〇五年五月二十七、二十八日に対馬海峡でロシアのバルチック艦隊と日本の連合艦隊が戦火を交えた。沈没したロシア艦船から二百四十二人のロシア兵が対馬に漂着し、住民がこだわりなく世話をしたという。(西日本新聞5月27日)
日本海海戦:横須賀で100周年式典と、書いた毎日の記事が比較的良かったのでないだろか? 日本海海戦100周年記念のサイトがなかなかいい。
「天気晴朗ナレドモ波高シ」で知られる秋山真之(さねゆき)参謀の孫にあたる大石尚子議員(民主)も参列し、「明治がぐっと身近に感じられた。平和を考えるきっかけに」と語った。
あると思うんですけどね。
コメントが少ないのがちょっと寂しい所ですね。^^;
しかし、日本海海戦から100年・・・・・
時代と歴史は回るものですね。
27日は平日だったため横須賀に足を運ぶことはできませんでした。オフィスが日本橋にありますので靖国神社で日本海海戦の英霊に御礼を述べてきたところです。
私は幸いなことに小学校の歴史の先生に(今にして思うと実に立派な方でした)日露戦争の意義を簡潔に教えていただきました。また、父に薦められて坂の上の雲を読んだのが小学校5年生のときです。
いまは身内の子供たちに日本の歴史の真の姿を少しずつ伝えようとしていますが、やはり今回の日本海海戦100周年はもっと大々的に祝ってほしかったです。アジア・アフリカ諸国から代表をご招待しても良かったのではないでしょうか。
時間によってサーバーが重いようで申し訳ありません。^^;;;
新しい移転先を探さないといけないかも。
ここでは、第一次世界大戦中最も被害が大きかったトルコへの上陸日が戦争記念日として祝日になっています。
祝日前には、学校で過去の戦争について学ぶ授業があり、理解が難しい小さい子達のクラスでも誰かのお父さんが軍服を着て見せたりと何かしら関連したことをやります。
朝礼では戦争についての概略と国を守ってくれた兵隊さん達に感謝しましょうという講話があり、国旗に向かってオーストラリア国歌を歌います。
祭日には慰霊の式やパレードがあり、新聞・テレビは特集を組んで、自国軍がいかに勇敢だったかを繰り返します。
子供達は、学校で正式に歴史を学ぶ前から毎年このようなセレモニーを通じて、自分の国のことを知っていくのです。
この歴史伝承の方法は自然でとても良いと感じているので、もしも日本にいたら子供達を横須賀の式典に連れて行きたかったなぁと残念です。