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そうして、人生何度目かの自問自答を繰り返し、夢(WEBデザイナー)を失った今の自分が一番やりたいことは何か?自分に問い続けた結果。大阪の西成区に移り住み、西成のあいりん地区で、ホームレスの炊き出しのボランティア活動をすることになる。
その後は、WEBデザイナーのアルバイトや、DTPデザイナーのアルバイトなんかもやったりもしたが、人生を掛けた個人事業が失敗に終わったことへのショックは、自分が考えている以上に大きく。デザイナーという職業に、嫌気が指しデザイン職から身を引く。
自分の力不足で事業が失敗に終わってしまったなら、まだ、諦めもつくが、部外者から邪魔されて失敗に追い込まれたとあっては、悔いは残るばかりである。本当に残念で、心底悔しかった。そいつらが、もし、目の前に現れれば、俺は何をするか解らない。それほど、悔しさと怒りを体験したのである。
友達から知人を紹介してもらったりしてWEBデザインをさせて頂いたりもして、頑張っていたが、ある心無い最低人間に邪魔をされ、人生を掛けた挑戦を台無しにされ、個人事業は故意に失敗に追い込まれてしまった。今でも、邪魔さえされなかったら・・・。と悔いは残るばかりである。
それから約1年後、生涯初のWEBデザインで、喜んで頂けたクライアント(女社長)の笑顔が忘れられなかったのと、嘗てWEBデザイナーを目指していたことを思い出し、独立し個人事業ではあるが、デザイン事務所を立ち上げる。人脈をうまく使い仕事を回して頂いたりして事業を開始。
女性社長には心底感謝し、その頃、彼女が立ち上げたNPO団体のオフィシャルサイトを無償で制作して、それを提供し、俺は、大手企業のWEBサーバーの職に就く。ここまで語ってきた体験だけでも数奇な人生体験だが、まだまだ終わらない。
その後、大阪で市役所の巡回員に声を掛けられ、自立支援センターに入所し、そこでも集団生活を体験し、色んな人と出会い、たまに仲間とセンターを抜け出して遊びに行ったりしていたが、ある女性社長と出会い、長いこと眠っていた大手企業での経歴(技能)を呼び覚まして頂き、再び大手企業に入社。
だが、大阪に戻ってきても、もう大阪には、自分の住む場所などなく、ホームレス生活を余儀なくされ、心身ともにズタボロになったような人生を体験する。これも俺が体験した数奇な人生の一つである。
その後、新宿でティッシュ配りのバイトをしながら、ネットカフェやビデオ試写室で寝泊まりする生活を送ったが、このまま東京で腐ってしまうのが嫌になり、大阪に戻ってくる。もう二度と、東京など来ねぇよ!と捨て台詞を吐いて・・・。
本当は、出会い系サイトのスタッフなどやりたくなかったのだが、面接で、頑張ればWEBデザインの部署に回してやると言われたから入社したのだが、実際は、そんな部署など存在してなく、挙句の果て、WEBデザイナーを諦めるように説得されたため、その仕事を辞めた。
もちろん、上京したのは、東京でWEBデザイナーの職業に就くためである。だが、人生そう上手く事は進まず、東京で就いた仕事は、大手出会い系サイトのスタッフだった。あれは完全に会社に騙されてしまった。
そういえば、自宅サーバーを構築して、自宅サーバーでWEBサイトを運営したこともあった。そうこうしてるうちに、世の中にWEBデザイナーなる職業が存在していることを知り、自然とWEBデザイナーを目指すようになり、高まった気持ちと好奇心が背中を押し、東京へ上京。
あの頃、WEB技術習得を夢中にさせてくれたのは、俺の持って生まれた特技である「好奇心」と「向上心」であると言える。一つのことを習得したら、さらに、もっと別の技術を習得したい気分になり、それが永遠とリピートされ、様々なWEB技術を習得していった。
それからどうなったっけ・・・。ああ、地元の東大阪で兄と二人暮らしをしていた頃に、ネットにハマリ、次第にネットを利用する側から、それ(WEBサイト)を作る事に興味を持ち、独学で、HTMLやらXHTMLやらCSSやらJAVAやらCGIやらSEOやら、様々なWEB技術を習得していく。
その頃、久しぶりのインターネットに出会い、ネットにハマることになる。ちなみに、俺の1回目のネットの出会いは、大手企業で働いていた頃の勤務先だった。ちなみに、その頃は、ADSLよりも前の時代のネットである。
で、2回とも同じ刑事につかまり、刑事に説得されたのと、面会に来た母親の涙を見て、危ない世界から足を洗おうと決心し、水商売や風俗の仕事から完全に足を洗い、地元、東大阪に帰り、ネジ製造の仕事に就き、真っ黒な油にまみれながら、至ってマジメに仕事に従事する。
学生の頃から俺はガラが悪く、いわゆる不良と言われる生徒で、体育館裏で仲間とタバコを吸うような奴だったらが、両手に本物の手錠がはまった体験(現行犯逮捕)をしたのは初めてだった。1回目は油断してつかまり、2回目は細心の注意を払ったが、まちぶせされてた刑事に取り押さえられ、あえなく御用
さらに、水商売のスタッフから風俗店のスタッフに転身し、警察のガサ入れを体験し、摘発を食らってスタッフ全員警察に連れて行かれたこともある。そう言えば、ビラ貼りの仕事をして、2回留置所のお世話になったこともある。
俺は気性が激しいので、殴り合いの喧嘩もよくやったし、あの頃は、好き放題やっていましたね。家出少女を家に泊めたり、女遊びをやったり、夜のミナミで派手な恰好で練り歩き、仲間と呑みいったりして朝まで騒いだこともあった。水商売時代は、本当に多く奇数な人生を体験した。
俺の水商売は、大阪のキタ(梅田)から始まり、ミナミでも水商売を経験した。ミナミでの水商売時代は、ブランド物のサイフや立派なスーツに身を包み、髪を金髪に染めて、ドクロの指輪に、クロムハーツのネックレスという、今の自分からは、想像できないキバツな恰好をしていた。
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