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川端康成 ノーベル賞選考で新資料
9月4日 5時12分

川端康成 ノーベル賞選考で新資料

日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した、小説家の川端康成が、受賞7年前の1961年にすでにノーベル賞の候補に選ばれていたことが、当時の選考資料から明らかになりました。
日本の文学がまだ世界によく知られていなかった時代に、川端の小説がいかに国際的に評価されていったかを知るうえで、貴重な手がかりとなりそうです。

これは、NHKが行った、ノーベル賞の選考資料の情報公開請求に対して、文学賞を選考するスウェーデンの学術団体「スウェーデン・アカデミー」がこのほど、開示したものです。
1961年当時の選考資料には、この年のノーベル文学賞候補に、「伊豆の踊子」や「雪国」などの作品で知られる小説家の川端康成が含まれていました。
川端康成は、1968年に、日本人として初めてノーベル文学賞を受賞しましたが、その7年前の時点ですでに候補になっていたことが今回、明らかになりました。
また、当時、ノーベル賞の選考委員を務めていたストックホルム大学の研究者が、川端を推薦していたことも分かりました。
資料によりますと、選考委員会は、「心理描写に優れていて芸術性も高い」と川端の作品を高く評価し、中でも小説「千羽鶴」に川端の優れた表現力を見いだしていました。
この年のノーベル文学賞では、「翻訳された作品の数が少なすぎる」として、川端は最終選考までは残ることが出来ませんでしたが、日本の文学がまだ世界によく知られていなかった時代に、川端の小説がいかに国際的に評価されていったかを知るうえで、貴重な手がかりとなりそうです。

選考資料は“極秘扱い”

ノーベル文学賞の受賞者を選ぶ過程は、極秘扱いで、選考資料は50年たたないと一切、公開されません。
こうしたなか、50年がたって、これまでに選考委員会が開示した資料によりますと、日本人では初めて、1947年と48年に、社会運動家の賀川豊彦がノーベル文学賞の候補になっていたことが明らかになっています。
さらに、1958年と60年、それに61年には、小説家の谷崎潤一郎と詩人の西脇順三郎も、それぞれノーベル文学賞の候補になっていました。

受賞のかげに米の日本文学研究者

日本人の作家がノーベル文学賞を受賞するうえで重要視されたのが、「作品が欧米のことばにどれだけ翻訳されているか」でした。
川端康成の代表作のうち、初めて翻訳されたのは「伊豆の踊子」で、1942年にドイツ語、1955年に英語に訳されました。
さらに、1956年には「雪国」が英訳されました。
こうした翻訳で、川端作品は欧米で広く知られるようになります。
英訳でもっとも貢献したのが、アメリカ人の日本文学研究者で、「源氏物語」の英訳などでも知られるエドワード・ジョージ・サイデンステッカーさんでした。
サイデンステッカーさんは、アメリカのコロラド州の出身で、戦争中に日本語を学び、戦後、外交官として来日した際に日本の文化にひかれ、東京大学で日本文学を学んだあと翻訳家として活躍するようになりました。
1958年には「千羽鶴」を英訳し、このあと、「千羽鶴」はドイツ語やフランス語にも訳されました。
サイデンステッカーさんは、その後も精力的に川端作品の翻訳を続け、川端康成は、1968年に日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しました。
サイデンステッカーさんは平成19年に亡くなりましたが、川端文学の研究者で作る「川端康成学会」の会長で、二松學舎大学の林武志教授によりますと、「川端は、受賞できたのはサイデンステッカーさんのおかげ」と、感謝していたということです。

川端文学研究の貴重な手がかりに

「1960年代の後半に川端康成がノーベル賞を取るのではないかといううわさがあったが、1961年の時点で川端を推す意見があったというのは驚きだ。しかも、推薦者が日本のペンクラブなどではなく外国人になっている。川端の作品は、エドワード・サイデンステッカーさんというアメリカ人の研究者によって戦後、英語に翻訳され、欧米で知られるようになった。日本文学がまだあまり世界で知られていなかった時代に早くからノミネートされていたのは、サイデンステッカーさんの功績が大きいと思う。今回公開された情報は、川端の文学が世界でどのように受容されていったのかを研究するうえでの手がかりになるのではないか」と話しています。

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