ここでは私が日々思ったことを書きたい放題書き連ねています。 押し入れや倉庫の奥にしまってあるモノなどとても取り出せない状態で、
読んで不快になった方にはお詫びします。
モノ・モノ・モノ・・・
本やらCDやらゲームやらビデオテープやらDVDやら100円グッズやらフィギュアやら、モノで溢れかえっている。
モノだけではない情報も溢れかえっている。ダウンロードした一生かかっても到底遊びきれないゲーム、音楽などお宝の山。
何がなんだかわからないくらい混沌として、全てが停滞し、いいようのない閉塞感を感じています。
このカオスのような状態を整理しないと何も手がつかない状況です。
出そうとするとそれこそ部屋中モノで一杯になり、出し入れの騒音がガタガタとうるさく迷惑になるかと気になると
無意識のうちに放置状態になってしまいます。
なので古い本やゲームなど処分したくて仕方がないけど、どうしても捨てられない。
まだ映るブラウン管のテレビとかお金を出してまであっさり捨てる事ができる人が信じられないくらいです・・・。
売れればこんないい事はないのだけど、査定の厳しさはブックオフで骨身にしみていて
倉庫にしまってあったものなどまんべんなく焼けやしわや染みなどで、ほとんど全部処分というあまりにも悲しい結果になるのは
目に見えているので、とても売る気にはなれません。
値がつかなかったものは処分するといいつつ実は売っている、と不満を言っている人を見かけますが
むしろそうしてくれた方が有効に再利用されていてよっぽど嬉しいのですが、間違いなく処分するだろうし、
むしろ買い取ったものまで処分しているかも(五円で買い取った本を捨てる事になっても痛くも痒くもないので)・・と逆の心配をしてしまいます。
結局、売らずに自分で持ってるのが一番という結論になってしまうのですが、しかし邪魔で仕方がない。
ヤフオクで売れるかもしれないのですが、無職=クレジットカードが持てない、ので入会する事ができません。
ただでも貰ってくれる人がいたら喜んであげたいくらいなのですが誰もいらないでしょう・・・。
断捨離ブームでみんな少しでもモノを減らしたいくらいだろうし。
欲しいという奇特な方がもしおられるなら喜んであげたいのですが・・・。
昔のPC-88/X1等のパソコンゲームやファミコン、スーパーファミコン、メガドライブ等のカートリッジ
メガCD、PCエンジン等のCD-ROM、バーチャルボーイ本体(傷)+ソフト
傷だらけのCD(シャカタク、松岡直也、クローバーワシントンJr、ユーミンなどフュージョン系)
I/O、PIO等の昔のパソコン雑誌、テレビや映画などを録画したVHSビデオテープ
などリサイクルショップでは絶対に値がつかないガラクタですが欲しい方ご連絡下さい・・・。
趣味で色々作っても全てはいつか消え去る・・
何一つ残す事さえできない。
そう思うとあまりにも虚しいです。
せめて、どこかで世界中のあらゆる人の個人のデータを永久に残す機関というものを考えてくれないだろうか。
やるとすれば国家事業レベルでしかできないかもしれないが、
例えば誰もが一人につき100ギガバイトまでとか決めて、画像、映像、文章、作品などのデータを永久に残せる機関というのが
あってもよさそうに思うのだけれど、そういうのは聞いたこともない・・・。
メディアの占めるスペースはほんのわずかなのだから(今後更に少スペース化していくだろうし)
ほとんど負担にはならないと思うのですが・・・。
それで残したところで一体誰が見てくれるのかというのもあるけれど、とりあえず残せる安心はあるかもしれない。
死後、お墓とかは全くいらないけど、自分の作った作品は残したい。
世に出た芸術とか世界遺産とか、そういうのは次世代へと永久に残していくためにあらゆる対策がとられているけれど
こと一個人のアルバムとか、そういうものは死んだらみんな消えるしかないのか・・・。
インターネットのサイトのアーカイブを残そうという試みもあるけど、容量が足りないのか、
肝心な所が殆ど欠けていて見れないし、永久に残るとは到底思えない。
紙の本になれば まだ国立図書館とかに残るかもしれないけれど、ネット上の情報などは泡のように簡単になくなってしまうものかもしれない・・・。
もし「幸せ」が物やエネルギーのような限りのあるものではないとしたら、
科学の力を正しく利用すれば、みんなが他人を思いやる心を持てば、小さな幸せを見つければ・・とか
方法は様々だけど、とにかくうまくやれば努力次第では誰一人不幸にならないユートピアのような世界を夢見ることができる。
やり方によっては一生オナニーの快楽に耽り続けられるような倒錯した世界や
何の害もなくケーキをずっと食べ続けてる感覚を与え続けるとか、
生き物を殺して食べなくても、無機物から食料を作ったり、不老不死とか
技術次第ではこの世の天国のような世界も作れる事になる。
しかし、「幸せ」が限りのあるものであれば
どんなに科学が進歩しても永久機関は絶対に作れないのと同じで、自然法則を超える事は絶対にできない。
結局、幸せになるためには誰かから奪うしかない。
自分の幸せが他人の不幸の上に成り立っているなんて、思いたくないし、そんな幸せは長続きしない・・と言う人が多いけど
他の生物を食べなければ生きていけない事からして幸せは他の不幸の上に成り立ってる証拠だと思う。
リスクを冒して幸せをつかんだ、というとリスクが代償だから真っ当なように思うけど、天才的な能力でリスクをかわし続けられたら
幸せだけを手に入れる事も可能という事になる。
くじに例えると、自分が当たりばっかりを引いていったら因果関係はないように思えても、知らず知らず他人の幸せを奪っているのではないだろうか。
楽あれば苦あり、というのも真っ当なように思うけど、本当に楽しい事と同じくらいかそれ以上に苦しい事が多ければ、
この世に生まれてくる事を否定しなければおかしい。
例えば、十円を得たけど、百円を失った、だけど良かった・・なんてどう考えても理屈に合わない。
だから、それでも生まれてきて良かったという人は、本当は幸せの方が大きかっただけの話か、間違った認識をしてるんだと思う。
幸せの量を増やすことは可能なのか?
面白い映画やゲームが人を幸せにするとしたら、それらは幸せを増幅しているんだろうか?
もしそうなら面白い映画やゲームや音楽を作った人は誰かに幸せを与えた神様のように尊い施しをした事になるけど
無から幸せが生み出せるなんて、何か錬金術のような不自然さを感じてしまう。
製作するのにかかった血のにじむような苦労や努力が代償になるのだと思いがちだが、才能を発揮してモノを作っている時ってかなり幸せなので、それでは収支が合わない気がする。
情報はいくらコピーしても減るものではないので、世界中の全ての映画、音楽、ゲーム、あらゆるメディアをただ同然にして
コピーしまくって全員に配れば、みんなが幸せになれるから、そうすればいいのにと思うのですが・・・。
そんな事をしたら製作者にお金が入らず作られなくなるので不可能だというが、超極端な薄利多売方式にすれば論理的には可能だと思う。
だけど、もしそうなっても幸せは増えないかもしれない。
トランジスタは電気を増幅するけど、電気を生み出しているわけではなくて、借りてきた電力を出力しているだけなので、厳密には増幅とは呼べないですが
ゲームなども言ってみれば、かけがえのない時間を浪費して、幸福に変換するだけの装置なのかもしれない。
なんとなく、幸せが有限で、みんなが幸せにはなれない事は、本能的に誰もが感じているはずだと思うのですが・・・
でも自分が幸せになるためには他人が不幸にならないといけない、とはっきり自覚してる人はいない。
人間、取りかえしのつかない間違いを犯してしまう事がある。
大きな犯罪や事故もその一つだろう。
しかし、そんなごくごく稀な事件より身近で地味な心身の病気などの方が恐ろしく気をつけないといけない。
何にしても、失って初めてその大切さを知るが、しかし、失ってから知っても遅い事も多い。
体験から学んで、2度とこんな過ちは繰り返さないと決意しても、もう、その時には人生終わってて
やっと学んだのに役に立たない。
何という皮肉だろう。これではまるで罠と同じだ。底知れぬ悪意を感じる。
なぜ、誰も警告を発してくれなかったのだろう。
因数分解、検地刀狩り、コルホーズソルホーズ、1192造ろう鎌倉幕府、大化の改進・・
こんな事ばっかり教えられて何の役に立つというのだろう。
そんな事を学んでる暇があったら一つでも不幸を回避する術を学ぶ方がよほど大切だと思うのですが。
なぜ親になる為の教育とか全くないのか不思議だ。
地震や津波や放射能とか不審者とかめったに起こり得ない危機に対しては教えてるし
戦争などの過ちを二度と繰り返さないために教訓が伝えられ学校でも教えているのに
もっと身近で必要な個人個人の不幸が教訓として共有されないのはなぜだろう?
病気になる前に予防すれば何万分の一の苦労ですむ。しかし病気になってからいくら治療しても治らない。
あまりにも何もかもが酷すぎて、もはや何も言えず、ただ言葉を失って立ち竦むしかない・・・。
生活音がでるのは仕方がないし、寛容にならなくてはお互い息苦しくて生活もできないのですが
フローリングに多分ビー玉くらいの硬いものを落としたであろう時の音がカタンコンコンコンコン・・・と
バウンドする音まで鮮明に聞こえてくるほどです。
なぜ、ふすまや窓を開け閉めするのに、いちいちピシャ!!と親の仇のように打ち付けなければならないのか・・とか、
考えるとイライラしてくる。
というか、たかがふすまを開け閉めする音が、こんなに鮮明に聞こえてしまうのではとても生活できたものではない。
ピシャ!!と閉める音はともかくもズーッとかゴロゴロとか滑る音でさえこんなにはっきり聞こえるなんて。
中でも一番嫌なのが、ドン、ズシーン、という重量級の衝撃音や隣人のドアを思いっきりバターンと閉める音です。
いちいち怒ってはだめだ、と自分に言い聞かせても、ドシーン!、ズバターン(やたら分厚い鋼鉄のドアを叩きつける音)とくると、スーッと血の気が引いてきて理性では到底押さえきれない怒りが込み上げてきて
キレて、きちがいのように天井を棒で思いっきり叩きまくったりしてしまいます。
そのため、天井には凹んだり穴が開いた跡がいくつもあります。
しかし、それに隣人が反応する事はなく、大人気なかったか・・と反省したりするのですが
何時間も経って忘れた頃になって再び突然思いっきりドシーン!!とくると
時間差攻撃でやり返してきたのか?、とか妄想に囚われて、そんな時は、殺意すら感じる程です。
おかげでテレビとラジオを常に1日中つけっぱなし。意味もなくファンなどの家電製品を回してノイズを発生させ
派手な洋楽やユーロビートを重低音で鳴らしつづけていて、まるでディスコ状態で暮らす毎日です。
騒音を消すために、自分が騒音主にならなければならないなんて皮肉な話です・・・。
しかし、テレビやステレオなどスピーカーの音なんていくらウーハーで重低音をきかせても所詮コーン紙が震える音に過ぎず、
ドンとかカンとか物理的な衝撃音を完全にうち消すことはできないです。
特に気になる時にヘッドホンをしていますが締め付け感があって頭が重く不便で1日中つけるのは不可能だし、耳栓は音が漏れてきて役に立ちません。
ドアをバターン!!と閉める音は1日に一回程度なので、客観的に騒音としては全く問題ないレベルなんだろうけど
その一回だけの音がいつ鳴るか、いつ鳴るかと常にビクビクしてしまうので、常にあるのと同じでかなり苦痛です。
しかも隣が仕事から帰ってくる時間が毎日見事なくらいバラバラなので、その時間帯だけヘッドホンをするとかの対策もとれないです。
ぼろい団地なのになぜかドアだけ戦車並みの分厚い鋼鉄で、単に手放しで閉めてもバターンと激しい音がするのに(クローサーがあるので緩和される)
隣は立付けがかなり悪くなっているそうで、そのままでは引っ掛かって閉まらないために、思いっきり引いて閉めるので
ズダァン!(余韻なし)と鋼鉄を叩きつけるようなとんでもなく激しい音がするのです。
ガテン系の仕事をしているだけあってガサツな性格なんだろうけど、なぜ、静かに閉めるくらいの配慮ができない人がこんなに多いのかと思ってしまう。
あんなドアを叩きつけるなんて、喧嘩でよっほど怒った時くらいにしか自分にはできないです。
たまに怒りを抑えられなくなって、こちら側のドアを蹴ったりしてしまいます。
こんなに神経質になる自分の方が異常なのでしょうか・・・?
全く近隣と繋がりがない事も大きいかもしれません。自分意外は隣同士親しげに井戸端会議したりしているので、自分だけが孤立している感じです。
最近ではかなり音に敏感になって、特に深夜の静寂では、カップを置く音、ビデオテープのイジェクト音、PS2にDVDをはめ込む音等など・・まで聞こえる感じで
DVDやビデオテープを入れ替えすることすら躊躇うくらいです。
それもこれも、こんなウサギ小屋のようなボロ団地に原因があると思う。
町を歩いていると、結構、だだっ広い無駄な広場とか土地はあるし、
ビルとかを見ても巨大な吹き抜け空間なんて作らず土地を有効利用したらいいのにと思ってみたり、
とにかくもっと整理したら、ここまでストレスを感じなくても暮らせる余裕はまだある気がするのに、こんな狭いボロ部屋に閉じ込めて
もう少し家が広ければ家でゆっくりくつろぐのに、それが不可能だから、意味もなく外出して町をうろついて本屋の立ち読みで時間つぶししたり
狭い家に押し込めることで、逆に用のない人間を町に溢れさせ、世の中全体もを窮屈にさせる皮肉な結果になっている。
そもそも日本はあまりにも狭過ぎるし、こんな人だらけのストレス生活をしていると、少子化とかのニュースを見ても
一体どこが悪いのか、少子化大歓迎だと思ったりします。