じょんから節(くどき節)
奥州松前江差と云うてな、江差町にも在々ござる。三里離れた
乙部と云うてな、乙部町にも在々ござる。とんと浜松与作と云う
てな、お岩十六今花盛り。与作二十五で男の盛り、嫁に出せてば
嫁にも出さぬ。婿に取ろうか婿にもいらぬ。どうせこの世で添わ
れはしまい、心中しましょか髪切りましょか。髪は生いもの心中
がよかろ、心中するにはどこらがよかろ、山に上がれば林の中よ、
浜に下ればろうか(・・・)がよかろ、ろうかの中には角材もござる。
角ではさんでお岩を殺し、死んだ死がいに丹前かぶせ、与作浦町そろりと
通れば、夜明けからすが西より来る。心急いで館からはねた。そ
こを旅人早々通れば、さてもあわれな死人がござる。見れば乙部
の与作じゃないか。これを見るなり谷浦走る。一家親類皆より集
まりて、乙部巡査を検査に立てて。与作与作と二度三度、死んだ与作に返事がない。
この物語は道南の乙部町で天保十四年(1843年)十二月二十八日、年の暮れもせまった雪の降る寒い寒い日に起きた実際の話である。
近藤与作は網元の親方だった種村喜右衛門に雇われていた。
人柄も良く丹波節が上手だったことから「丹波与作」と呼ばれていた。その内、同じく種村家で働いていたお岩という飯炊き女と恋仲になるようになった。お岩は若く美しい女だったという。二人は人目を忍んで夜の浜で会うようになり、将来を誓い合うまでになった。
与作は思い切って親方にお岩を嫁に貰いたいと願い出たが、親方はそれを許してはくれなかった。実は親方の息子が若くて美しいお岩を嫁にしたいと言っていたのだ。お岩は世話になっている親方に逆らう事はできず、悩み苦しんだ。
そしてお岩は夜の浜には来なくなってしまった。あんなに将来を固く誓い合ったのに!与作にはお岩の裏切りが許せなかった。与作は悲しみに暮れた。お岩にあってもう一度話し合いたいと浜辺に呼び出し、必死に頼み込んだのである。しかし・・・お岩の答えは変わらなかったのである。与作はかっとなり角材にお岩を押し込み締めてあったわら縄を引いて圧殺してしまったのである。自分のやった事に半狂乱になった与作は茶屋を営んでいた親戚の家に行き、「人を殺してしまった。どうすればいい?」と聞きに行くと親戚のおかみさんが「人に知られたら大変なことになる。館の岬から飛び込むがいいさ」と言った。与作はそのまま館の岬によじ登り飛び降りて死んでしまったのである。この時与作の履いていた草履が一つだけ、成就しなかった恋の未練を残すように途中の岩角にひっかかっていたという。
人々はこの憐れな若者二人の話を冒頭で紹介したじょんから節にのせて、自分の子や孫へと寝物語のように言い聞かせたのだ。雪の降る寒い寒い夜に…。
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この話、知りたかった話なんです。
こんな所で見つかるなんて…。じょんから節どこでしらべたのかな
2008/3/19(水) 午前 11:00 [ ともりん ]