インターネットで「ドイツ統一の父」と検索すると、ビリー・ブラント、ヘルムート・コール、オットー・フォン・ビスマルクという3人の首相がヒットする。まず、ブラントは太陽政策の元祖ともいえる東方政策、コールは統一の完成、そしてビスマルクは東西ドイツの統一ではなく、1871年のプロイセンによる統一で「ドイツ統一の父」と呼ばれている。
しかし、実際に「ドイツ統一の父」と呼ばれているのは、ブラントやコールではなく、コンラート・アデナウアー元首相だ。この点については、統一を導いたコールが1996年に出版した自叙伝『私は祖国の統一を願った(Ich wollte Deutschlands Einheit)』で確認できる。同氏は最初の章で「1990年10月3日に成立したドイツの再統一、それは偶然だったのだろうか、必然だったのだろうか、でなければ偶然でも必然でもなかったのだろうか」と疑問を投げ掛けた上で「1989-90年に起こった事件はアデナウアーの見解が正しかったということを印象深く確認させた」とつづっている。すなわち、それは偶然でも必然でもなく、ある特定の時期に登場した特定の人物が責任ある行動を取った結果だというのだ。当然その特定の人物こそがアデナウアーだ。次いでコールは、アデナウアーの回顧録の一部を次のように引用している。
「ソ連は自分たちが西側諸国と妥協しなければならないという点、そして西側諸国をひざまずかせることができないという点を、近く悟らされることだろう。このように平和的な妥協の中に私の希望が込められており、そこから私はチャンスをうかがっているのだ」
ブラントによる「東方政策」も、実はアデナウアーが1950年代に進めた西ドイツの対外政策の基本枠「西方政策」に対するアンチテーゼにすぎないのだ。もし、東方政策のおかげでドイツが統一されたといえば、これは「ドイツや欧州の事情を全く分かっていない人」という批判を受けるに違いない。統一ドイツでブラントがほとんど注目されていないことが、この点を証明している。一方のアデナウアーは「ドイツの歴史上で最も優れた政治家調査」で常に1、2位に入っている。