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風塵山荘
この掲示板は仏教者の視点から時事を語る掲示板です。宗教・宗派を問わず、特に正系六門下の日蓮主義≠謔閧フ時事評論は歓迎します。また十数年の長きにわたり特定の人物を誹謗・中傷してきた冨士尻学研究≠ニ称する不倶戴天≠フ邪妄団とは情報交換を通してともに闘う掲示板である。

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お待たせしました。 返信  引用 
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:09月01日(土) 09時06分
>※じつは、これについて私は決めてを持っておりません。現在叡山の勤行は、朝題目(南無妙法蓮華経)・夕念仏(南無阿弥陀仏)なのだが、いつころからこの化義が確立していたのかまったくわかりません。

もし、最澄の時代に既に「南無妙法蓮華経」が定着していたのであれば、わざわざ題目≠フ正当性を智、最澄等の「稽首妙法蓮華経」「帰命妙法蓮華経」等の意義に対し南無妙法蓮華経であったと論ずる必要は無かったとおもうのだが。

=====================================

ここに、文献はありません。
かつて、別件で図書館にて調べものをしていたときに知り得たもの​という言い方が妥当でしょうか。
叡山では、南無妙法蓮華経もあったし、念仏もあった。いつ頃からとはそこまでは書いてませんでしたが、もともとあったのではないでしょうかね。別に​不思議なことでもないように思います。天台では念仏はどういう立ち位置にあるかは知り得ませんが。天台は​天台で様々に分別、立て分けがあるんじゃないでしょうかね。?

ただ、松木さんの言われる、『定着』というのは、どういうことをおっしゃっているかは分かりませんが。他の一切の修行を排他して​の、法然のいう専修念仏や日蓮のいう専修唱題はありませんでしたよ。
こういう専修思想は天台では、歓迎されないのではないでしょうか。
法然の念仏破折は、日蓮生誕以前から、しばしば叡山から南都からあったことは周知​のことと存じます。



Re: お待たせしました。
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:09月01日(土) 09時12分
============================
言い直します。法華経に限っては果分の法と。平安時代はすでに法華経。また題目もありましたもので。
===============================−

これ、自分で書いといてなんなんですが、おかしいですね。

日蓮も果分の法だとしたら、法然も果分の法ですね。

親鸞も果分の法ですね。

脳裏に本覚の匂いがよぎりました。余談です。


訂正
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:09月02日(日) 02時07分
>日蓮も果分の法だとしたら、法然も果分の法ですね。
親鸞も果分の法ですね。



日蓮も果分の法だとしたら、親鸞も果分の法ですね。

補足ですが、少し蒸し返すような書き込みしてしまいました。
最澄教学に見られる特徴の一旦を日蓮、親鸞に見ることができる。と、そこで終了しておけばよかったことでした。
日蓮の場合の最澄の影響としての文証は、見つけました。
法華経は果分の法門です。
下記のようなものを最澄は書いています。
伝教の法華秀句巻下無問自説果分勝三『仏の成就し給う所は第一稀有難解の法なり、唯仏と仏とのみ乃ち能く究尽し給うと、この如き等の文は果分の法を示す』

親鸞ですが、宗派が違うので、果分の法にあたる依文は分かりません。しかし、果分の法は、一般的には仏果を説いた法です。
親鸞の教えは、絶対他力の教え、他力回向の宗教で、衆生が仏陀となるのに必要な因(行・信)も果(証)も、すべては仏の方から回向されているという変わった教義です。
★ここで注目して頂きたいのですが、親鸞の教えは『阿弥陀如来』即『南無阿弥陀仏』で、南無阿弥陀仏の名号は、そのまま仏の徳の全てでございます。
親鸞の教えはこの世にて、信心を得たそのときに、必ず仏に成るべき身に定まる説きます。
定まるとは、つまり、生身の体を持っているのでは、仏になることはできないが、肉体が滅する時に仏に成るというものです。
ともあれ、親鸞の教えでは、南無阿弥陀仏の名号は、そのまま仏の徳の全て。これは、もはや果分の法といっても差支えがないと思います。
そのようなわけで、その論考を書いた東洋大学の方は親鸞のそれを果分の法と考えたのではないかと思われます。
あと、道元においてもそれなりの教義がございます。
時間の都合上、ここで研鑽をおわります。道元の場合は説明が難しいそうです。なので、果分の法といえるか、いえないか、確たるものはありませんが、先の論考を書いた方はなんらかの文証も把握しており、
最澄教学の一旦として果分の法を上げるとき、親鸞、道元、日蓮にその最澄教学の共通点を乱したことと存じます。

最後に法然は果分の法とは言い難いと思いました。

法然はまず浄土門(易行道)にてまず、往生し、しかるべきのちに、聖道門(難易行)にて成仏するという教えです。果分の法ではありません。

「法隆寺釈迦三尊」さんに、三点、確認したい、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月31日(金) 21時10分

(一)、

云く
----------------------------------------------------------------
日興上人の著述である本因妙では、天台の教観二門はともに『教相』になるということのようですね。
----------------------------------------------------------------


※確認したいのだが、この「日興上人の著述である本因妙」とは、「本因妙抄」のことでありますか。もしそうであればその理由を説明されたし。


(二)、

云く
----------------------------------------------------------------
東大寺は小乗の戒律によって受戒し、大僧(高僧)の資格を与えられて、ついで大乗戒を受けるというものでした。その理由は『一乗の機の人間は小乗の機に問迅、礼するのを許さず、講堂を同じにすることえお許さない』というものでした。
----------------------------------------------------------------


※いや、東大寺の戒壇については最近も波木井坊氏の意見に補足を加える意味で我が国の三大戒壇(東大寺・太宰府観世音寺・下野薬師寺)について論じたばかりだが、東大寺で大乗戒も受けていたというのは何かの錯誤ではあるまいか。

いわゆる僧階を得るための「戒壇」とは「具足戒」が必須で、三師・十証≠ノよって具足戒を得てついでに大乗戒を受けたが、浄戒・法戒・生戒、はいわゆる大乗菩薩僧≠ニなるための梵網菩薩戒ではなく、僧としての心構えの次元であり、この戒は震旦でも中国でも行われていたが、「大乗戒壇」というものは存在はしていなかった。

三国で始めて大乗戒を受けるための「大乗戒壇」が建立されたのは最澄の叡山戒壇(戒壇院)が最初であり、これは「大乗戒」を受けるには「大乗戒壇」が必要であると最澄が勘違いしたためであると考えられている。


(三)、

云く、
----------------------------------------------------------------
言い直します。法華経に限っては果分の法と。平安時代はすでに法華経。また題目もありましたもので。
----------------------------------------------------------------


※じつは、これについて私は決めてを持っておりません。現在叡山の勤行は、朝題目(南無妙法蓮華経)・夕念仏(南無阿弥陀仏)なのだが、いつころからこの化義が確立していたのかまったくわかりません。

もし、最澄の時代に既に「南無妙法蓮華経」が定着していたのであれば、わざわざ題目≠フ正当性を智、最澄等の「稽首妙法蓮華経」「帰命妙法蓮華経」等の意義に対し南無妙法蓮華経であったと論ずる必要は無かったとおもうのだが。


以上の三点、よろしく願いたい。
 



Re: 「法隆寺釈迦三尊」さんに、三点、確認したい、
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:09月01日(土) 02時54分
> ※確認したいのだが、この「日興上人の著述である本因妙」とは、「本因妙抄」のことでありますか。もしそうであればその理由を説明されたし。

申し訳ありません。『抄』が抜けておりました。本因妙抄です。その理由は下記に。  天台と日蓮の対比の御文から載せます。
本当は、文中の、『彼の観心は此の教相』だけで用は足りるのですが、分かりにくいので、前後、載せます。

『彼の本門は我が迹門・彼の勝は此の劣・彼の深義は予が浅義・彼の深理は此の浅理・彼が極位は此の浅位・彼の極果は此の初心・彼の観心は此の教相・彼は台星の国に出生す・此れは日天の国に出世す・彼は薬王・此れは上行・彼は解了の機を利す此れは愚悪の機を益す・彼の弘通は台星所居の高嶺なり・此の弘経は日王・能住の高峰なり・彼は上機に教え・此れは下機を訓ず・彼は一部を以て本尊と為し・此れは七字を本尊と為す・彼は相対開会を表と為し・此れは絶対開会を表と為す・彼は熟脱・此れは下種』

上記、天台の教観二門はともに『教相』になる。との依文としてはこの御文の中の『彼の観心は此の教相』です。これは創価系教学による著作にありました。私独自の思考ではありません。
日興→日寛での教学で自分で持っている書物としては、創価系のものだけしかありません。そこに書いてありました。
富士門流系の書物は手元にありません。

>東大寺で大乗戒も受けていたというのは何かの錯誤ではあるまいか。

私の錯誤のようです。徐々に思い出してきました。

>いわゆる僧階を得るための「戒壇」とは「具足戒」が必須で、三師・十証≠ノよって具足戒を得てついでに大乗戒を受けたが、浄戒・法戒・生戒、はいわゆる大乗菩薩僧≠ニなるための梵網菩薩戒ではなく、僧としての心構えの次元であり、この戒は震旦でも中国でも行われていたが、「大乗戒壇」というものは存在はしていなかった。

東大寺の受戒は、もともと梵網菩薩戒ではないとの認識です。それは、以前にも書き込みをさせて頂きましたが、梵網菩薩戒によって受戒すべきと叫んだのは、最澄によるものとの認識です。
ただ、文献が無いので、ネットの情報源ですが、梵網菩薩戒は戒壇は要らないようですね。最澄が勘違いした。分かりました。これは知らなかったです。
しかし、松木さんの、東大寺では『具足戒を得てついでに大乗戒を受けた』というニュアンスと、私は、少し違いました。つまり、『ついでに』という意味ではなく『次いで』という見解で、大乗を軽んじてはいない。むしろ、聖武天皇の国、民を思うという背景もあいまって、盧舎那仏を造立された大乗の心を東大寺には、また、その奥さん光明皇后の振る舞いもあって感じていました。なので、いつしか、大乗戒と思い込んでいたようです。
本当は現実問題としては、その当時、社会秩序が乱れていた。つまり、課役免除のために、官の承認を経ず出家得度する私度僧が増えたため授戒制度を設けたのですが。なんとも夢もクソも無い話です。

東大寺で行われていたのは、僧に授けるのを『具足戒』が正解です。大乗家から見た場合、小乗です


Re: 「法隆寺釈迦三尊」さんに、三点、確認したい、
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:09月01日(土) 02時56分
松木さん、もう3時ですので、三点目は明日にします。

6時には起きないといけないので。

すいません。

ご返信ありがとうございます。 返信  引用 
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月31日(金) 01時52分
ご返信ありがとうございます。

>※五重相対については大石寺と一致派≠ナは相違はあるが紙一重≠ニいうところで意義的にはそんなに変わらないものと思う。

分かりました。日興上人と一致派の違いも、分かりました。
教観二門は調べてみると、もともと天台教学のようでありました。
日興上人の著述である本因妙では、天台の教観二門はともに『教相』になるということのようですね。
その上で下記↓のお書き込み、理解出来ました。

>本迹相対の次に「教観相待」を持ってくることはやや苦しい一面がある。百六箇抄によれば題目は観心のうえの教相であるから熟脱の教相・観心と、下種の教相・観心があり、これは天地雲泥である。
===============================

>[1、直道思想]
三諦論には「円融三諦=法華経」と「隔歴三諦=別教」とがあり直道≠ニ云うのであれば円融三諦を指向しなければならないのではないか。

その認識で書きました。

>火宅の中で遊戯することは衆生に譬えられているもので救うのは大乗であるという思想によるものでプロセスに小乗思想を経ることは一応は仏教の次第によるものであるが、譬えは凡夫に理解しやすいものでなければならず、敢えて考えすぎた思考はいかがなものか。

私は、その仏法の次第に迂回道という意味を見出しました。
が、言われてみれば、法華経そのものが直道であり、出発点がもはや、終わってます。

>奈良で戒壇といえば鑑真和尚の建立した唐招提寺であるが

いえ、受戒自体は東大寺です。これが事実です。鑑真が受戒を行うために来日しました。
さて、この私の読んだ論考では、
東大寺は小乗の戒律によって受戒し、大僧(高僧)の資格を与えられて、ついで大乗戒を受けるというものでした。その理由は
『一乗の機の人間は小乗の機に問迅、礼するのを許さず、講堂を同じにすることえお許さない』というものでした。
これを間違った解釈の火宅になぞらえて迂回道と言ったわけです。
東大寺は華厳教であり大乗です。そのような理由からです。
また、華厳経は爾前です。ですのでここでは、歴劫道であり、仏果を得るための因位の修行をするための分際で、因分の修行とは、そういう意味です。
これは、直道に対抗して、書き込みました。

私は仏教は初心者であり、このような立て分け、整理ができておりません。申し訳ありません。
しかし、恥であろうが、なんであろうがぶつかってみないことには前に進めません。
お世話になっております。なかなか、そこまで教学力のある方が相手して下さることは滅多とないことです。

>[2、果分の法]
南都六宗は学派仏教でありこれを因分とし、最澄の法華経を果分と為すプロセスは理解出来ない。確かに叡山は法華思想が主であるが密教や禅も兼学しており一概に果分とは云えないのではないか

存じております。像法時代のことです。
言い直します。法華経に限っては果分の法と。平安時代はすでに法華経。また題目もありましたもので。

書き物は忠実に表現しなければいけないことが分かりました。
かなり難しいです。
しかし、松木さんの書き込み、徐々に難解なものへと吊り上げられている感が・・・・・・・私、ついていけるのだろうか。(笑)

日蓮非*{仏論読ませて頂きます。
一個一個にしていきます。
しかし、他のかたも研鑽されているかたっておられますね。
なかなか、松木さんのようにオタクの人も見受けられました。
文献にて、しっかり書いておられます。
今日は、ほかの方も日蓮本仏論、本尊が気になる方がおられるよですが、今日の人は日興上人にも久遠元初なる文献がまだ見つかってない。
とのことでした。
このような研鑽はそのような文献が手元にあることで論が変わってきます。どのような文献を読まれているのか、それもまた見てみます。



Re: ご返信ありがとうございます。
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月31日(金) 01時58分
訂正
>また、華厳経は爾前です。ですのでここでは、歴劫道であり、仏果を得るための因位の修行をするための分際で、因分の修行とは、そういう意味です。
これは、直道に対抗して、書き込みました。

直します。

後で、果分の法のことを下記に書きますが、また、華厳経は爾前です。ですのでここでは、歴劫道であり、仏果を得るための因位の修行をするための分際で、因分の修行とは、そういう意味です。
これは、果分の法に対抗して、書き込みました。

日蓮非*{仏論 (三)、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月30日(木) 21時50分

[互為主伴]

日有上人に師事した左阿日教師は二百五十箇条に「釈尊・宗祖、互為主伴」と説かれているが、互為主伴と宗祖・上行一仏説は別物であると捉えるべきではないか。

互為主伴は妙楽が文句を解説した文句記に説かれるところであり、日蓮宗祖はご自身の註法華経に引用されている。

「『記九云。引(二)梵網経三結經(一)者。以(下)義大旨与(二)三經(一)同。而義意撮(上レ)要若花嚴中十臺葉。
互為(二)主伴(一)。(法蔵館蔵版、定本注法華経・下巻407頁)」

とあり、通途の御書判にもいくらかある。


【文証・一】
この書は随分の秘書なり。已前の学文の時も、いまだ存ぜられざる事粗之を
載す。他人の御聴聞なからん已前に御存知有るべし。

総じてはこれより具していたらん人にはよりて法門御聴聞あるべし。互ひに
師弟と為らんか。恐々(弁殿御消息・新編六○八頁)

【文証・二】
爰に日蓮思ふやう、堤婆品を案ずるに堤婆は釈迦如来の昔の師なり、昔の師
は今の弟子なり。今の弟子はむかしの師なり。古今能所不二にして法華の
深意をあらはす。(上野殿御返事・新編一三六○頁=杖木書)

【文証・三】

疑って云はく、多宝の証明、十方の助舌、地涌の涌出、此等は誰人の為ぞや。
答へて曰く、世間の情に云はく、在世の為と。

日蓮が云はく、舎利弗・目建等は現在を以て之を論ずれば智慧第一・神通第
一の大聖なり。過去を以て之を論ずれば金竜陀仏・青竜陀仏なり。未来を以
て之を論ずれば華光如来、霊山を以て之を論ずれば三惑頓尽の大菩薩、本を
以て之を論ずれば内秘外現の古菩薩なり。文殊・弥勒等の大菩薩は過去の古
仏現在の応生なり。(法華取要抄・新編七三五頁)

【文証・四】
御義口伝に云はく、法とは諸法なり、師とは諸法が直ちに師と成るなり。森
羅三千の諸法直ちに師と成り弟子となるべきなり。今日蓮等の類南無妙法蓮
華経と唱へ奉る者は法師の中の大法師なり。諸法実相の開覚顕はれて見れば、
地獄の灯燃猛火乃至仏果に至る迄悉く具足して一念三千の法師なり。又云は
く法とは題目、師とは日蓮等の類いなり。(御義口伝・新編一七四九頁)

【文証・五】
御義口伝に云はく、此の品は迹門流通の後本門開顕の序分なり。故に先ず本
地無作の三身を顕はさんが為に、釈尊所具の菩薩界本化の弟子を召すなり。
(御義口伝・新編一八一○頁)


文証の五についてはやや躊躇したが、参考のために挙げておいた。本果第一番(我実成仏已来)より化導に出て様々な弟子に法を授け、弟子と師が互いに応化して衆生を教化するという図式は大乗思想の骨目といえようか。

しかしこの互為主伴と日蓮本仏論(勝日蓮=劣釈尊)は相容れない思考であることは云うまでも無い。よく日蓮本仏論者が引用する諸法実相抄の

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば
釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候
はず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。」

との御書判は日蓮本仏論の文証とはならない。体(日蓮)と用(釈尊)との対比に過ぎないからである。日精上人は随宜論に「凡そ体用の法門は体を取って用を捨つるは常途の義なり」と述べられている。即ち、仏の用(本果)が存するときは必ず無作の体(本因)が存するのであり勝劣は無い。

百六箇抄には本果を迹≠ニし本因妙を本≠ニしているが同じ百六箇抄(八)に「本の迹は迹にあらず、迹の本は本にあらず(趣意)」と御指南されており、下種益の上における本迹と種脱相対の本迹勝劣を同一視してはならない。

日蓮宗祖は自身を上行再誕であるとの自覚があり、保田の万年救護本尊の讃文に末法に上行が出現して始めて表す御本尊なり(趣意)」とあり、日蓮宗祖の立位置はあくまでも遣使還告の上行再誕であり、法華経の教主釈尊より承けた本因妙を弘宣する立場であるのだ。故に、他宗には通用しないが、大石寺で論じる百六箇抄の次の文証について論じてみたい。

(一)、
下種の法華経の教主の本迹。
 自受用身は本、上行日蓮は迹なり。我が内証の寿量品とは脱益寿量の文底
 の本因妙の事なり。其の教主は某なり。


この通りであろう。だが法先仏後(法勝人劣ではない)≠ナあるから本因妙は本となり自受用報身は迹となることは同じ百六箇抄に説かれているところである。所対によって本迹が変わることは当然であり、凡夫日蓮が発迹顕本して上行日蓮となり、上行の本地を尋ねたら自受用報身であり、自受用報身とは本因妙からは迹体となるのは理の当然である。

(二)、
下種の今此三界の主の本迹。
 久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。久遠は本、今日は迹なり。三
 世常住の日蓮は名字の利生なり。

「久遠元始の日蓮」とはまさしく日蓮宗祖の謂いである。本因妙の教主は無作三身であり我本行菩薩道≠フ当初に成仏を認める本因思想では既に本果が具わっており日蓮が釈迦如来であるとの開示である。

本因妙の教主はあくまで菩薩行であるから本果所具の本因を日蓮と称しているがあくまで釈迦如来の末法における主張であり、釈迦如来が過去に大通仏の十六王子とあらわれ大通覆講として衆生を済度しことと同じことである。この時の大通仏は大通下種のときの弟子なるか。

研深読みのしすぎではないのかね、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月30日(木) 20時21分


云く、
----------------------------------------------------------------
五重の相対だって、日寛曰く、文底読みというものが新たに造られれば、厳密には五重の相対ならず、六重の相対だよ。そんなに煩雑にしなくても......実は、これ種脱に問題があるのじゃないか?
----------------------------------------------------------------


※五重相対については大石寺と一致派≠ナは相違はあるが紙一重≠ニいうところで意義的にはそんなに変わらないものと思う。面白いのは大石寺で、日寛師は権教と実教の相待を「権迹相待」としているが、大石寺はこれを採用しておらない。(笑)、

種脱の相待は観心本尊抄の「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は題目の五字なり。」によるもので、当然の帰結と云うべきではないか。

種脱相対の文証は、管見では通例の御書判ではこの観心抄のみだが、本因妙抄、百六箇抄に随分示されているが、余談だがこの相伝書は古くから日蓮宗祖から興師への相伝法門とされてきたが、ともに日興上人の著述≠ニすべきであろう。

本迹相対の次に「教観相待」を持ってくることはやや苦しい一面がある。百六箇抄によれば題目は観心のうえの教相であるから熟脱の教相・観心と、下種の教相・観心があり、これは天地雲泥である。


云く
----------------------------------------------------------------
最澄の教学の特質を、叡山に学んだ親鸞、道元、日蓮とここでは三人にしぼって、その共通する基盤思想の特質を抽出した論考がありました。そこからの最澄教学的な特色は二つに要約、出来るのではないかと、この論考では述べている。
1、直道の思想
2、果分の法
----------------------------------------------------------------


※私には分かりづらい論考である。果分の法という立て分けがあるのであれば因分の法が対処することとなるが、直道の思想というものも判りづらいです。

双方ともに依拠としなければならないのは「経典」であり、どの経典のどこの文証をもって解釈をほどこすのであるかが論証されていなければ正論とは云えないのではないかと思います。

[1、直道思想]

三諦論には「円融三諦=法華経」と「隔歴三諦=別教」とがあり直道≠ニ云うのであれば円融三諦を指向しなければならないのではないか。法華経七譬の三車火宅の譬えに小乗を経て大乗に至るという論法には少し違和感がある。

火宅の中で遊戯することは衆生に譬えられているもので救うのは大乗であるという思想によるものでプロセスに小乗思想を経ることは一応は仏教の次第によるものであるが、譬えは凡夫に理解しやすいものでなければならず、敢えて考えすぎた思考はいかがなものか。
奈良戒壇については私は知識は無い。奈良で戒壇といえば鑑真和尚の建立した唐招提寺であるがれっきとした、いわゆる小乗戒壇で具足戒であり比丘に二百五十戒尼僧に五百戒があり、大乗の菩薩戒は梵網経戒であるが中国では天台も含め出家は必ずこの具足戒を受戒してはじめて僧侶となれたのである。

なお、大乗菩薩戒(梵網経戒)は自誓授戒でもあるが大乗の戒壇は最澄以前には無かったもので授戒とは必ず具足戒であった。日本に本格的に戒壇を建立したのは鑑真和尚であるが鑑真和尚はれっきとした中国天台の阿闍梨であることからも理解出来ると思う。大乗戒壇は最澄の勘違いで建立されたとも云われているものである。


[2、果分の法]

南都六宗は学派仏教でありこれを因分とし、最澄の法華経を果分と為すプロセスは理解出来ない。確かに叡山は法華思想が主であるが密教や禅も兼学しており一概に果分とは云えないのではないか。最澄は仏教を法華経によって統合しようという目的があったと考えられているがこのあたりはいかがなものか。
 

お疲れ様でございます。昨日の補足です 返信  引用 
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月30日(木) 00時55分
>五重の相対だって、日寛曰く、文底読みというものが新たに造られれば、厳密には五重の相対ならず、六重の相対だよ。そんなに煩雑にしなくても......実は、これ種脱に問題があるのじゃないか?

日蓮宗では、五重相対の最後を、この教観相対とします。
教とは、文上の教相(きょうそう)のこと。文上とは法華経の経文上にはっきりと書かれていること。
観とは、文底の観心(かんしん)のこと。文底とは法華経の経文上ではなく、底に沈んでいること。
法華経・如来寿量品にも、文上の教相と文底の観心に区別される。

日蓮は『開目抄』で「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづ(沈)めたり、竜樹・天親・知ってしかも・いまだ・ひろ(拾)い・いだ(出)さず但我が天台智者のみこれをいだ(懐)けり」と述べている。これを文底秘沈(もんていひちん)という。
文上の教相とは、法華経の経文の上に示された理論理屈、つまり文証と理証である。
日蓮の滅後、門弟間において、これをどう解釈するかでまた議論があり、文の底に沈められているのは、事の一念三千であるとする身延山などの一般的な日蓮宗諸派と、三大秘法の妙法あるいは南無妙法蓮華経であるとする富士門流に分かれた。
お粗末で申し訳ないのですが、今日はネットから引っ張ってきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%9B%B8%E5%AF%BE

私、言葉足らずでしたが、文底と文底独一戒壇と一緒になってたり、整理がついていないような状態でした。
宜しくおねがいします。

おもしろい、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月29日(水) 22時13分

仏教の思想的展開は常に流動的で、いつぞや「流転門・還滅門」の二方向からの立て分けが流行し、
明治の最中に島地大氏は仏教の見方を「始覚門・本覚門」から分類、大別することを主張、
本因妙思想に対して本果妙、脱益仏教に対して下種仏法、迹門思想に対抗して本門思想、等。

まあ、いろいろ考えるものである。


おかげで、後代の学徒は勉強の材料に事欠かなくなっており、勉学の範囲はますます広くなっている。(汗;

本日はさきほど帰宅したばかりで、仕事で疲れ、私ごとで疲れているのでもう、寝ます。(笑)、

では、明日はじっくり読ませていただきます。
  

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