『そうして戦は始まった〜開戦四日前。時を刻む黄金〜』


「――俺好みの気が強くて、優しくて、きれいで、でも可愛い……なーんて女の子が現れたら、どうなるか分からないけどな」

人気のない路地裏には自分以外に聞いている者はなく、左右に聳える高い壁が緊張感のない声を反響させた。
常以上に静かな状況だからか、その内容は予言めいた奇妙さで耳の奥に残った。
だからつい、祈りにも似た想いが口からこぼれてしまったのだろう。

「……現れるかもしれませんよ」

見つめる背中――セフ殿が、軽く鼻で笑い飛ばした気配がする。
結構本気だったのだが、彼には響かなかったらしい。

(というより、こうなったらいっそ現れてくれたほうが有利になるんだけどな)

もはや女性達を攫う行為を止められないというのなら、その女性達の中で、停滞した男達を引っ張っていってくれる者が現れてくれないかと思う。

(セフ殿は一度抱え込むと決めたら見捨てられない性格だろうから、結婚をすれば良い方向に転ぶ気がする)

怠惰な振る舞いのせいで、ほとんどの者が気が付いていないが、本当のセフ殿は恐ろしく賢いのだ。
学び舎にいた昔、卒業生である彼の論文を目にした。あの時の衝撃が未だに忘れられない。
あんな理路整然とした素晴らしい論文を書ける――しかも何かきっかけがあれば、こちら側についてくれそうな――優秀な男を放っておくのは実に惜しい。
セフ殿がちゃんとオルテ大臣の跡を継いでくれたら、俺とトーヤ様の夢も叶いやすくなるのに……

(とか考えるあたり、俺はやっぱり善人ではないんだろうなぁ)

たまに俺を優しいと言う人間がいるけれど、それは間違った表現だ。
俺はある理由があって、苦しむ女性達を見ていたくないだけで、つまりは全て自分のためなのだから。
セフ殿の背が完全に曲がり角の向こうに消えると、無意識に我慢していた溜息を吐いた。

「……本当に、嫌だ」

呟いた分だけ、攫われる女性の数が減ればいいのに。と、その「女狩り」の先頭に立つ軍事司令官の屋敷に向かう道中で、一人愚痴をこぼした。


……そんな調子だったから、スレン様の屋敷に薬を届けた翌日も、気分は優れなかった。

「また失敗か……」

薬の調合をしている最中、耳に入った自分の声が予想以上に疲れていて驚く。
注意力が散漫な状態で無理矢理仕事をしたせいか、いつも以上に疲れを感じるのが早い。
未熟さに苦い笑みが浮かび、脱力した体を休憩用の寝台に投げ出した。

「……あと四回あれが沈めば、戦が始まる」

ごろりと仰向けになったら、窓枠の中に鎮座する月が見えた。冴やかな光が、研究所兼自宅として買った室内を照らしている。
研究をする上での機能性を重視して改築した結果、生活の匂いが希薄になったこの空間は、俺自身と同じくらい面白味のない部屋に仕上がっていた。

「これじゃあ、お嫁さんは来てくれないなぁ」

もとより結婚するつもりもないけれど。
普段は心安らぐ光に急かされている気になって、また重い溜息が漏れる。と、その息が吐き終わるか終わらないかのところで、扉が叩かれた。

(急患かな……)

夜半に訪ねてくるくらいだから、よほど急いでいるのだろう。
緩んでいた気を意識して立て直し、扉へと向かった。

「今開けますねー」

言いながら開けた途端、冷えた夜気と共に明るい声が滑り込んできて、半歩後ずさる。

「あっ、夜遅くにごめんな! 兄貴が急いでもらってこいって言うからさ」
「ああ、ナラン君でしたか……」

扉の外に立っていたのは、大きな瞳が印象的な少年……いや、もう青年か。
「兄貴みたいに逞しくなれる薬をくれ」と言ってきたのはほんの一、二年前のことなのに、今ではすっかり同じ目線になっていて、早い時の流れを感じた。

「ルジ?」

つい感慨に耽っていたら、丸い瞳が訝しげに細められた。彼の気性をそのまま表す両眼は、ころころと変化を繰り返して、見ている者を飽きさせない。
こういう内外ともに素直な性格であったなら、純粋な心で女性の未来を憂うことができただろうな、と羨ましくなる。

「ああ、えっと……何か足りないものがあったのかな」

小さく首を振り、再びわいてきた年寄りくさい感慨を落とす。
彼の背に手を添えて入室を促すと、前を行く形の良い頭が右に左にと揺れた。
好奇心を隠せない様子が微笑ましくて、自然と顔が綻ぶ。

「薬以外だったら、好きに触っていいですよ」
「え!? あ、ごめん、こんな風に見てたら失礼だったよな」

すぐに謝れるところも彼の美点だ。
もっとも、見られて困るものは一つとしてなかったから、微笑みで許可を示した。

「えっと、足りない……とかじゃなかったんだけど、傷薬がもう少し必要になったんだ」
「傷薬が?」

先日の注文では相当な量を持っていったから、足りないと言われて少し不思議に思った。
そもそもあの軍神と謳われるナスラ軍事司令官殿は、あまり怪我をしないのだ。
いくら戦だといっても、警戒が過ぎる気が……

「ちょっと難しい命令が、陛下より下されたみたいでさ」

思考の先を読んだように答えられ、そういうことかと控えめに頷く。

(……なるべく殺すな、とか無茶な命令が出たんだろうな)

王であるトーヤ様はとても賢い人だから、それがいかに無理難題であるかは承知しているはずだ。
それでも優しい彼は、言わずにはいられなかったのだろう。

(それで、部下の命を守るための『傷薬』か。スレン様も気苦労の多い方だ)

との内心は口には出さず、薬をしまっている部屋の奥へと向かう。

「今持ってくるので、適当にくつろいでいてください」
「ありがとう。……あ、この辺にある本とか、読んでもいいか?」
「ええ、ご自由にどうぞ」

薬を用意する間、後ろのほうで何冊かの本を手に取っている音がした。
まあ本といっても、ここにあるのは「記録書」がほとんどだから、関係のない者から見たら詰まらないものばかりだ。
彼もすぐに飽きて、座っているだけになるだろう。と思いながら振り向いたら、

「……?」

熱心に、一冊の記録書を読んでいる姿が目に入った。
少し驚いて近づいていくと、さらに意外なものに気が付いて息を飲む。

「……どうしました?」
「え?」

食い入るように文字を追っていた目が上向けば、一粒の雫がぽろりと落ちた。
頁の端に染みて、薄い紙をふやけさせる。

「あっ、ご、ごめん! 大切なものに……!」

衣を使って拭おうとするも、染みは涙――彼の心を離すまいとするかのように広がった。
苦笑して、慌てふためく彼の手を止める。

「それは複写なので、構いませんよ。内容もすでに頭に入っていますし」
「そ、そっか……。でも、ごめん……」

しょんぼりとうなだれる様に庇護欲を掻き立てられる。
相手が誰であっても「つい手をさしのべたくなる」心境にさせられるのは、彼の才能の一つだ……と俺は思う。

「……そういう記録を見るのは、初めてだった?」

少しくだけた口調で問い、彼の隣に腰を落とす。
近づいた距離に心の壁が薄くなったのか、いつもよりもさらに人懐っこい、それでいて縋るような目が向けられた。
戸惑いを表し震える唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「なんていうか……俺、単純に戦を喜んでたんだ」
「戦を、喜んで……?」
「実は……『次に戦が起こったら、俺もつれていってくれ』って兄貴にお願いしててさ」
「それが、今回?」
「うん。ずっと子供扱いされてたから、これでやっと一人前の男として認めてもらえる! ……そう、思って」

そこまで言って、彼はきゅっと唇を噛んだ。
落ちた視線があの記録書の上に留まり、懊悩を表す眉間には深い皺が刻まれた。

「でも、こんな……」

ふやけた文字が示すのは――十年ほど前にあった戦の真実。
俺の師にあたる人が、腐死の研究の一環として、ルスからつれてこられた女性に聞いた体験談の一部だ。

「つれてこられた女の人が、こんな扱いを受けて、こんなに傷ついていたなんて……ぜんぜん、知らなかったんだ」
「……子供に説いて聞かせる話でもありませんから」
「っ、俺……最低だ」
「どうして?」
「だって、喜んでたんだ! ただ単純に、兄貴のかっこいい姿が見られる、兄貴を支えられるって!」
「……知らなかったことが罪なのだとしたら、君と同じ年頃の人間のほとんどが責めを負わなければいけない」
「でも……!」

何か、叫ばずにはいられない。そんな調子で身を乗り出してくる。潤んだ瞳の色は、自分と同じようで、全く違う。
その少年の純真さが残る瞳を見据え、あえて厳しい言い方をした。

「それに知った今でも、君は『攫ってくる』という実感を持っていない。戦に出る君がルスの女性を『かわいそうだ』と思うだけなのは、極寒の湖に自ら突き落としておいて、その様を岸辺から哀れむのと同じだよ」
「俺……」

ますます意気消沈して落とされた肩に手を乗せる。
そして久しぶりに、自分の内側を晒した。

「なんて、俺もそうなんだけどね」
「え?」
「俺も、結局はナスラ人の血を捨てられない。女性達を哀れみつつ、遠くの夢を追うことしかできないんだ。そうして開き直ってすらいるから、君よりもずっと性質が悪い。……最低というのは、俺みたいな善人ぶった人間のことだよ」
「違う!」

思っていた以上に強く返されて、若干のけぞる。
必死さ故に呼気を荒くした彼は、衣に皺が寄るほど俺の腕を掴んだ。

「ルジは優しいよ!」
「……どうして?」
「俺、ルジがどんなに心を砕いて、患者に接してるか知ってる。今だって、腐死をなくすために寝る間も惜しんで頑張ってるじゃないか!」
「頑張れば、優しい人間になれるの?」
「それは……」
「俺からしてみるとね、君みたいに目の前の難題から逃げずに悩む人間のほうが、よほど優しく見える。夢を追うといえば聞こえはいいかもしれないけれど、でもそれは『今戦う』ことから逃げているともいえるんじゃないかな」
「……ルジは頭でっかちだ」
「は?」

これまた予想外の評価が返ってきて目を瞬かせる。
はて、と首を傾げると、子供っぽく頬を膨らませた彼が腕組みをしていった。

「ルジは優しいったら優しい。俺がそう思うんだから、そうなんだ」
「ぷっ、ははっ……」

理屈も何もない言い方は、だからこそなのか……やけに心に響いた。

「……ありがとう。少し心が軽くなった」
「ルジも、悩んでたのか?」
「君いわく、頭でっかちだからね。どうにもならない問題を考えすぎて、迷路にはまってたのかも」

苦笑して頭を掻く。すると一緒に笑っていた彼が唐突に真面目な顔をして、拳一つ分の距離を詰めた。

「決めた」
「何を?」
「とりあえず、兄貴の嫁になる人を守る。俺はルジや兄貴ほど頭がよくないし、目の前のことにしか一生懸命になれない。だから、できうる限りの範囲で、俺の全力を尽くすよ」
「それはまた、思い切ったね」
「だめかな……?」
「方法は人それぞれだよ。君は君のやり方で、この時代を考えればいいと思う。どう向き合うかは、君の自由だ」
「うん……。ありがとう、ルジ」
「お礼を言われるようなことは何も……」

と言いかけた口の前に掌がかざされる。
驚いて停止していると、彼は片腕を突きだしたまま立ち上がった。

「だから、俺が感謝してるんだから、それでいいの。ルジは、たまに俺くらい馬鹿になったほうがいい」
「! ははっ……君は十分、賢い人間だよ」

事実、今までにも彼の頭の回転の早さに驚かされた時が幾度もあった。
本人が思っているよりも、彼は多くの可能性を秘めている。

「うーん、ルジに言われると慰めに聞こえる」
「これでも、人を見る目は結構あるんだよ?」
「じゃあその目に聞きたいんだけどさ。四日後の俺は、ちゃんと戦場で兄貴を支えられてると思う?」
「んー……うん」
「えー、なんだよ、その間」
「はは、俺は皆の無事を祈ってるよ」

正直に言えば、彼は今回の戦に行けないだろう。
戦以外で心が揺れ始めた者を、あの司令官殿が連れていくとは思えない。
迷いが生じれば、それだけ彼が死ぬ確率が高くなるからだ。
大切だからこそ、恐らくは……置いていこうとする。

(……そのほうが、俺もいいと思うけどね)

もし本当に司令官殿が花嫁を迎えるとしたら、その時は彼が世話を任されるだろう。
世話人は、できれば戦に参加していない者のほうがいい。
心に傷を負った女性にとって、そうした彼の存在は救いになる。

「ふーんだ。四日後の戦では、兄貴の次に勇敢に戦って、他の男が女の人を傷つけないように見張って……とにかく完璧に兄貴を支えてみせるんだからな」
「うん、そうだね。応援してるよ」

微笑んで見上げたのは、時を刻む黄金の光。
――あと四回、あれが沈めば俺と彼の苦悩が始まる。




『そうして戦は始まった〜開戦五日前。巻かれないゼンマイ〜』


コン、と酒杯を机上に置く音がやけに耳に残る。ほろよい気分で呆けた頭を働かせ、その理由を考えた。
「あー、もうすぐだもんな。どうりで静かなわけだ」
呟きつつ身を起こせば、いつもより客が少ない店内が見渡せた。
呆れ顔をした酒場の主人が、やれやれといった風に肩を竦める。
「そんな暢気に構えてていいのかい、セフ。親父さんは大変なんだろ?」
「親父は親父、俺は俺。それに俺が緊張したり慌てたところで、戦局が有利になるわけでもないしね」
だらしなく机上に突っ伏し、一人遊びをするように指を折る。
一、二、三、四……
「五……」
――ルスとの戦までに残された日数。公には一応伏せられているそれが周知のものとなるのは時間の問題だろう。
なにせ軍部に無関係な、こんな小さな酒場にまで噂が広まっているくらいなのだから。
そうぼんやり考えている内にも、酒場の前を軍人と思われる男達が走り抜けていく。
ぴりぴりとした空気に浸食されるのが嫌で、大げさに杯をあおった。
「軍部はどのくらい連れてくるつもりなんだろうねぇ」
「……さあね」
国の重鎮であるオルテ大臣、もとい俺の親父は、今頃戦前の調整で忙しくしているに違いない。
それが分かっているから、いつも以上に帰宅を避けていた。
どうせ顔を合わせた瞬間、やれ嫁がどうだこうだと説教をされるに決まっている。
「まったく、相変わらずだな。他の男どもは、嫁を得られるかもしれないっつって、大騒ぎだっていうのにさ」
「嫁ねぇ……。俺には無縁のものだな」
「無縁って……そう言ってもいられないだろう? お前の家は国で一番古い貴族の家柄なんだから、血を絶やしたら親父さんも責められちまう」
「だから、無理矢理攫われて来た女の人を口説いて、子を産ませろって? あー、やだやだ、そんな面倒なことをするくらいなら、家なんて潰れちまったほうがいいよ」
「はあ、お前さんが言うと冗談に聞こえない」
「本気だからな」
さすがに目を剥いた店主の反応を、半笑いで流す。
むしろ驚かれるほうが意外だ、と肩を竦めて見せた。
「俺が自ら進んで、傍近くに『厄介ごと』を置くと思うか?」
「女を厄介ごと扱いするのは、大陸広しといえどお前くらいだな」
「誤解を招く言い方するなって。『女を』じゃなくて『攫われてきた女の人』を、だよ。俺だって他の男と同じく、可愛い女の子は大好きさ」
ただ、わざわざ敵意を持った人間を娶ろうとは思えないだけで。
「もったいない。お前、その髭を剃って、真面目に仕事して、お貴族様っぽい喋り方をすれば、進んで嫁にきてくれる女がいるかもしれないのに」
「それ、俺じゃなくない?」
「まあそうだな」
あっさり肯定されても全く怒る気にならない。むしろ軽口を叩きあえる関係が心地よく、これが「お貴族サマ」口調とやらで崩れるくらいなら、ずっといい加減な奴でいいと思う。
そのくらい、堅苦しい空気やら、勤めやら、使命やら……とにかく責任が絡むことが苦手。
どうせ俺一人が頑張ったところで世の中は変わらないのだから、必死になるだけ馬鹿らしい。と、あの時に悟った。
「ほんと、もったいない。もう少し頑張ってみようとかさ」
「あの時の親父の努力が報われていたら、考えたかもな」
「セフ……」
窘める声が一変、慰める調子になって逆に居たたまれなくなる。
「さてと、そろそろ帰るかね」
沈みかけた陽に「たった今気付いた」風を装って立ち上がる。
代金を渡して入り口に向かう途中、後ろから呼び止める声がかかった。
「あ、そうだそうだ。お前に持っていってもらいたいもんがあったんだ」
戸棚を探った店主は、そう言って小走りに駆け寄ってきた。
ぐいと手を引かれ、掌の上に何かが乗せられる。
「これ……」
小さな人形……に見えるそれの背には、木製のゼンマイがついている。たしか以前観光できた西国の男から、店主が酒代として受け取ったとかいう、珍しい外国製の玩具だ。ゼンマイ部分を回すと、人形がかくかくと動き出す仕組みになっている。
「……どうして俺に? これはあの子の形見だろ」
見つめる内に、これを持って楽しそうに遊んでいた幼子の顔が思い出される。今はもういない、腐死で死んだ店主の子供。
「あの子は、セフに懐いてただろ」
「だからって……」
「今だから言うけどな、あの子は大きくなったらお前の嫁になりたいって言ってたんだ」
「え……?」
「はは、笑っちまうだろ。セフは大貴族だから、お前なんか嫁さんにはもらってくれねぇよって笑い飛ばしたんだが……こうなると分かってたら『きっとなれるさ』と言ってやればよかったなぁ、とか……最近は、ずっと後悔しててさ。だから、なんていうか……せめて、これだけは傍にいさせてやりたいというか……」
坊主頭の店主の目尻に、うっすらと光るものを見た。
胸の奥がぐっと締め付けられて、つられて泣きそうになる。
(……だから、嫌なんだ)
祈っても、頑張っても、救われないこんな世じゃ、大切な存在なんか作れない。
「……わかった。受け取っておく」
「ありがとう」
「俺こそ」との言葉が、胸苦しさのあまり喉に詰まる。
言う代わりに店主の肩を叩いて、今度こそ外に出た。

「お前、俺のところにくるか?」
軍人が走り抜けた後の、砂埃が舞う中。物言わぬ人形に語りかけて苦笑する。
動く、という本来の目的を欠いた様は、どこか自分に重なって見えた。
そんな風に下ばかりを向いていたのがいけなかったのか、
「うわっ!?」
「!」
突然曲がり角から飛び出してきた誰かとぶつかりそうになった。
人の気配を読むのは得意だとの自負があったから、直前まで気が付けなかったことに驚いて目を瞠る。
相手はどんな軍人かと思いきや……
「ああ、セフ殿でしたか。驚かせてしまって、すみませんでした」
口調も醸し出す空気も柔らかい、我が国随一の薬師――ルジが、ぺこりと頭を下げた。
「いや、俺こそぼーっとしてて悪かったな。急患か?」
ルジは腕利きの薬師だから、時間を問わず多くの者に頼られる。
先日、俺の屋敷で急病人が出た時にも来てくれた。
「いえ、今はスレン様のお屋敷に薬を届けにいく途中です」
軍部の頂に立つ司令官の顔が脳裏を過ぎる。
あの男は粗野に見えて用心深いところがあるから、戦前に色々と揃えているのだろう。
「ああ、戦前だからなぁ」
ルジは国王とも繋がりがあるようだから、今更隠す必要もないか。との気安さで口にしたら、思いのほかルジが暗い顔をして俯いた。
「なんだ、ルジも『女狩り』に反対か?」
「そういう貴方は?」
ルジが質問に質問で返してくるのは珍しい。
常にはない反応に興味を引かれ、首を傾げて茶の瞳の奥を覗いた。
そこには予想以上に強い意志の光があって、また驚かされる。
「……意外と熱い男だったんだな」
「え?」
「はは、いやいや、なんでも。じゃ、気をつけて」
こんなしなびたオッサンには、若者の持つ光は強すぎる。
手を振って横をすり抜けようとしたら、少し堅い声が追いかけてきた。
「セフ殿も、どなたかを娶られるのですか」
「……俺にそんな気概があると思う?」
肩越しに振り向けば、ルジが苦しげに下唇を噛んでいるのが見えた。
「俺は、嫌です。こんなことでしか解決できないなんて、嫌だ」
路地裏とはいえ、外で語るにはあまりにも物騒な本音だ。
それに国政の中心にいる人物の息子に向かって言うべき台詞だとは思えない。
「俺、一応大臣の息子なんだけど?」
「セフ殿は、誰かを傷つける人じゃないですから」
「はは、買い被りは危ないよ。……と忠告をしたいところだけど、告げ口をするほどの根性もないから、正解だな」
「……さっきの答えは?」
「んー……俺は攫ってきた女の子を口説くくらいなら、酒でも飲んでたほうがいいや。だからといって、君みたいに助けたいと思ってるわけでもないけど」
「どうして俺が、そう思っていると?」
「君と同じく、俺も人を見る目だけは確かなのよ。あ、念のために言っておくけど、親父は地獄耳だから気をつけたほうがいいぜ」
「……その大臣が、貴方に誰かをあてがうつもりなのだと聞きました」
「安心しな……っていうのも変だけど、そういうのは『選択法』が許さないよ。まあ、でも……」
おどけた調子で肩を竦め、再び歩きだす。後半の台詞は、完全に冗談のつもりだった。
「――俺好みの気が強くて、優しくて、きれいで、でも可愛い……なーんて女の子が現れたら、どうなるか分からないけどな」
言いつつも、ありえないなと内心で苦笑する。
俺のゼンマイは錆付いて、とうの昔に回らなくなってしまったのだから。
「……現れるかもしれませんよ」

笑える冗談だ。
戦が始まる五日前――この時は、確かにそう思っていた。



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