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2004/11/04のBlog
[ 03:15 ]
[ 異国でのつぶやき ]
「台湾人かて中国人やないんかいな?」と聞いてくる人がいます。
う~ん、答えは、文化的には△、政治的には×、というのが俺の考えです。
中国関係のブログで台湾を語るのも何ですが、
ヘタなことを書くと中国当局からお叱りを受ける覚悟で
ちょっと台湾の歴史を簡単に書いてみましょう(笑
かなり長いですが、これを見ると台湾の歴史がすぐわかります。
台湾は、ポルトガルから来た南蛮船が台湾(島)を見た時、
「イル フォルモサ!(何て美しい島なんだ!)」と叫んだといわれてから、
歴史の表舞台に登場してきました。
台湾を「フォルモサ」「美麗島」って言う時もあるのは、これが由来です。
オランダの植民地を経て、明朝が滅んだ時の遺臣、鄭成功という人物が台湾に上陸し、
今で言う亡命政府を樹立します。
しかし、それも長くは続かず、結局清朝の領地になりました。
しかーし、現実はほったらかしで、荒れ放題だったと言われています。
1895年に日清戦争が始まり、下関条約で台湾は日本に割譲されました。
当時の中国側の代表、李鴻章は「台湾なんぞくれてやる。でもあんたらに扱えるかな、フフフ」と伊藤博文に言ったといわれています。
事実、今の台湾とは想像もできないほど「すごい」所で、
マラリア天国で人がバタバタ倒れていました。
まあ、とうてい人がまともに住めた所やないってことです。
事実、「日本領」となってもちろん反乱が起きますが、征伐に軍隊を送り込んだはいいもの、マラリアでみんな倒れる始末。
戦死者10人、病死者1500人じゃまともにゃ戦えません。
台湾はその他いろいろな理由で、国としては若造の日本には手に余るお荷物でした。
事実、国会では台湾を1億円でフランスに売る計画もあったそうです。
台湾総督も、乃木希典や桂太郎など、歴史の教科書に出てくる錚々たる面々が就任しますが、みんな尻尾を巻いて逃げてしまいました。
乃木希典が「台湾総督ができるのはもうお前しかいない」と言って後任をお願いしたのが、ここのブログにも出てくる児玉源太郎です。
児玉は台湾総督就任の時、後藤新平を行政の長である民生長官に任命して台湾に連れていき、数々の改革を行いました。
就任そうそう腐敗役人の首を切りまくって行政の大掃除を行い、
李鴻章が「撲滅に300年かかるぞ」と言い張ったアヘン対策も、いきなり廃止するのではなく、じっくり中毒患者を減らして行く方針にしていきました。
余談ですが、300年かかると言われたアヘン患者、昭和16年にゼロを記録しています。
また、台湾の「不治の病」である伝染病対策も、医者出身の後藤の手腕により、
衛生面が強化され、マラリア患者も昭和18年にゼロを記録しています。
児玉源太郎は日露戦争の準備+作戦指揮で台湾どころではなくなりましたが、
「他の奴が就任したら、台湾をメチャクチャにされる」と日露戦争終結まで台湾総督の位は誰にも渡さず、総督の印鑑を後藤に預け、すべてを託しました。
この時の、挙げていけば一冊の本ができるくらいの数々の業績が、
今の台湾の屋台骨となっています。
なぜならば、敗戦で世界が180度変わるまで、細かい面ではいろいろ手が加わったものの、基本的な政策は変わっていないからです。
「日本時代」「日治時代」と呼ばれるこの期間、インフラは整備され、
鉄道や道路の整備、荒地の開墾、農産物の品種改良など、様々なことが実行されていきました。
台湾に貢献した意外な有名人は、旧5000円札の新渡戸稲造です。
上記の児玉・後藤に三顧の礼を以って・・・というかストーカー並みにしつこい勧誘を受けて折れた彼が台湾に赴任して行ったこと、それはサトウキビの品種改良でした。
彼の貢献で、サトウキビの生産量は爆発的にアップし、台湾を砂糖帝国に仕上げていきました。
もう一人は明石元二郎です。
日露戦争ではレーニンを組んでロシアを内部から煽り、日露戦争影のMVPと言われている人物ですが、
彼の主導でインフラが整備され、台湾がよりよい場所になっていきました。
でも、日本がいちばん力を入れたのは、教育だったでしょう。
全国各地に学校を作り、最後には国立大学まで作ってしまいました。
これも余談ですが、今の国立大学で「旧7帝大」と言われる大学があります。
どこの大学かは省略しますが、戦前は「9帝大」でした。
その中に、「台北帝国大学」、今の台湾大学が入っています。
台湾大学は、当時のまんま残っているんで、台湾を訪問した時には
立ち寄ってはいかがでしょうか。
疲れたので、台湾の歴史「戦後編」は続きで。
う~ん、答えは、文化的には△、政治的には×、というのが俺の考えです。
中国関係のブログで台湾を語るのも何ですが、
ヘタなことを書くと中国当局からお叱りを受ける覚悟で
ちょっと台湾の歴史を簡単に書いてみましょう(笑
かなり長いですが、これを見ると台湾の歴史がすぐわかります。
台湾は、ポルトガルから来た南蛮船が台湾(島)を見た時、
「イル フォルモサ!(何て美しい島なんだ!)」と叫んだといわれてから、
歴史の表舞台に登場してきました。
台湾を「フォルモサ」「美麗島」って言う時もあるのは、これが由来です。
オランダの植民地を経て、明朝が滅んだ時の遺臣、鄭成功という人物が台湾に上陸し、
今で言う亡命政府を樹立します。
しかし、それも長くは続かず、結局清朝の領地になりました。
しかーし、現実はほったらかしで、荒れ放題だったと言われています。
1895年に日清戦争が始まり、下関条約で台湾は日本に割譲されました。
当時の中国側の代表、李鴻章は「台湾なんぞくれてやる。でもあんたらに扱えるかな、フフフ」と伊藤博文に言ったといわれています。
事実、今の台湾とは想像もできないほど「すごい」所で、
マラリア天国で人がバタバタ倒れていました。
まあ、とうてい人がまともに住めた所やないってことです。
事実、「日本領」となってもちろん反乱が起きますが、征伐に軍隊を送り込んだはいいもの、マラリアでみんな倒れる始末。
戦死者10人、病死者1500人じゃまともにゃ戦えません。
台湾はその他いろいろな理由で、国としては若造の日本には手に余るお荷物でした。
事実、国会では台湾を1億円でフランスに売る計画もあったそうです。
台湾総督も、乃木希典や桂太郎など、歴史の教科書に出てくる錚々たる面々が就任しますが、みんな尻尾を巻いて逃げてしまいました。
乃木希典が「台湾総督ができるのはもうお前しかいない」と言って後任をお願いしたのが、ここのブログにも出てくる児玉源太郎です。
児玉は台湾総督就任の時、後藤新平を行政の長である民生長官に任命して台湾に連れていき、数々の改革を行いました。
就任そうそう腐敗役人の首を切りまくって行政の大掃除を行い、
李鴻章が「撲滅に300年かかるぞ」と言い張ったアヘン対策も、いきなり廃止するのではなく、じっくり中毒患者を減らして行く方針にしていきました。
余談ですが、300年かかると言われたアヘン患者、昭和16年にゼロを記録しています。
また、台湾の「不治の病」である伝染病対策も、医者出身の後藤の手腕により、
衛生面が強化され、マラリア患者も昭和18年にゼロを記録しています。
児玉源太郎は日露戦争の準備+作戦指揮で台湾どころではなくなりましたが、
「他の奴が就任したら、台湾をメチャクチャにされる」と日露戦争終結まで台湾総督の位は誰にも渡さず、総督の印鑑を後藤に預け、すべてを託しました。
この時の、挙げていけば一冊の本ができるくらいの数々の業績が、
今の台湾の屋台骨となっています。
なぜならば、敗戦で世界が180度変わるまで、細かい面ではいろいろ手が加わったものの、基本的な政策は変わっていないからです。
「日本時代」「日治時代」と呼ばれるこの期間、インフラは整備され、
鉄道や道路の整備、荒地の開墾、農産物の品種改良など、様々なことが実行されていきました。
台湾に貢献した意外な有名人は、旧5000円札の新渡戸稲造です。
上記の児玉・後藤に三顧の礼を以って・・・というかストーカー並みにしつこい勧誘を受けて折れた彼が台湾に赴任して行ったこと、それはサトウキビの品種改良でした。
彼の貢献で、サトウキビの生産量は爆発的にアップし、台湾を砂糖帝国に仕上げていきました。
もう一人は明石元二郎です。
日露戦争ではレーニンを組んでロシアを内部から煽り、日露戦争影のMVPと言われている人物ですが、
彼の主導でインフラが整備され、台湾がよりよい場所になっていきました。
でも、日本がいちばん力を入れたのは、教育だったでしょう。
全国各地に学校を作り、最後には国立大学まで作ってしまいました。
これも余談ですが、今の国立大学で「旧7帝大」と言われる大学があります。
どこの大学かは省略しますが、戦前は「9帝大」でした。
その中に、「台北帝国大学」、今の台湾大学が入っています。
台湾大学は、当時のまんま残っているんで、台湾を訪問した時には
立ち寄ってはいかがでしょうか。
疲れたので、台湾の歴史「戦後編」は続きで。
[ 01:20 ]
[ 上海の郊外で旅を語る ]
エピソード1はこちら
まずは上海に留まり、旅の準備体操でもと思い、ブラブラ散歩。
この時点で、マクロの目的地(ポルトガルのロカ岬)は決まっていたものの、
そこまでどういうルートで行くのか、そんなものは風の向くまま気の向くまま、
何も考えていませんでした。
行動しながら考えていくうちに、そんなものはぼんやりとしたものから、
だんだんとはっきりしたものになってきます。
引っ越してきたばかりは、右も左もわからず右往左往しますが、
地理がわかってくると堂々と街中を歩ける、そのようなものです。
俺の場合、鈍っていた旅人としての神経をほぐすためにも、
気心知れた中国でウォーミングアップしてリラックスすると、
あとは西へ西へ向かうのみ。
しかし、俺はこの後南へ向かって行くことになってしまいます。
別に方向音痴ということではありまへん。列車に乗り間違えたわけでもありまへん。
その理由は・・・。
浦江飯店の懲りない貧乏人連中で飲茶を食べに行った時のこと。
飲茶の本家本元、広州に住んでいたことがある俺は、
高くてまずい上海の飲茶は食べる気はしなく、全く乗り気やなかったけど、
全員中国語もわからなければ上海の地理もチンプンカンプン。
俺は金を出さないって条件で、ガイド+通訳になって同行しました。
どこのレストランかはこの際出さないけど、上海でも有名な広東料理の店で、
飲茶を堪能しようと思って点心を一口・・・。
「ま、まずぅ~~~い!!」と「ゴチになります」の岡村風にピョンピョン跳ね上がった。
他の連中は美味い美味いと食べているのだが、どうも俺はこのまずさに合点がいかぬ。
「まあ、安ければいいか」と割り切ったのですが、
勘定を見てビックリ!「た、たっか~~~い!」広州飲茶の2倍はしていた記憶があります。
他の連中は満足していたみたいですが、俺は不満たらたら。
食べて余計フラストレーションがたまったという感じですか。
で、俺はここで決心がつきました。
「よし、お口直しに広州へ行く」
そうでもしないと自分の欲求不満が解消されないし、何と言っても
高くてマズい飲茶を食べることによって、本場の広州飲茶を再確認した次第。
「『こうしゅう』って、上海から2時間くらいのとこですよね」
「そりゃ『杭州』や」
とか漫才みたいな会話をしながら、俺の広州行きは確定しました。
余談ですが、中国には「こうしゅう」が二つあります。
広東省の広州、そして浙江省の杭州であります。
中国語で言うと「クアンチョウ」「ハンチョウ」と簡単に区別がつきますが、
中国語がわからん人に説明するとちょっとややこしいんです。
その昔は「こうしゅう」とくれば「広州」やったんですが、
日本からの直行便もできるくらい杭州もメジャーになってきたんで、
益々ややこしくなってきています。
ふつう、区分けの仕方は「広い広州」「杭の杭州」とか言いますが、
みなさんはどういう区分けの仕方をしていますか?
「俺たちもついて行っていいですか?」
俺の広州行きをドミトリーの同室に伝えると、数人の男が俺に聞いてきました。
その前に俺が広州のメシの美味さを、それこそ耳にタコができるくらい言ったんで、
勝手に洗脳されたようです。
正直一人で行きたかったのもあるけど、断る理由もないんでいちおうOK。
女性ドミトリーにも一人犠牲者・・・ではなく同行者が増えて、
計4人で広州までお口直しなんちゃってツアー団の出来上がり。
寝台の切符も4人分取り、いざ出発・・・となったんですが、
上海~広州は列車で24時間、まさかそんなに時間がかかるとは思っていなかったらしく、
列車に1日乗り続けるのは、俺以外は全員初めてであることもあって、
みんなドキドキしていたみたいです。
俺が他の人間を引き連れるって形になったんですが、
気分はガイドってより中隊長という感じでした。
「よし、目標4号車。全員突撃~~!」と突撃ラッパを鳴らし、
人民を蹴散らしながら突っ込む俺に唖然としてたそうです。
「のぶさん、暴走族より怖いですね」と誰かが言ったとか言わないとか・・・。
続く
まずは上海に留まり、旅の準備体操でもと思い、ブラブラ散歩。
この時点で、マクロの目的地(ポルトガルのロカ岬)は決まっていたものの、
そこまでどういうルートで行くのか、そんなものは風の向くまま気の向くまま、
何も考えていませんでした。
行動しながら考えていくうちに、そんなものはぼんやりとしたものから、
だんだんとはっきりしたものになってきます。
引っ越してきたばかりは、右も左もわからず右往左往しますが、
地理がわかってくると堂々と街中を歩ける、そのようなものです。
俺の場合、鈍っていた旅人としての神経をほぐすためにも、
気心知れた中国でウォーミングアップしてリラックスすると、
あとは西へ西へ向かうのみ。
しかし、俺はこの後南へ向かって行くことになってしまいます。
別に方向音痴ということではありまへん。列車に乗り間違えたわけでもありまへん。
その理由は・・・。
浦江飯店の懲りない貧乏人連中で飲茶を食べに行った時のこと。
飲茶の本家本元、広州に住んでいたことがある俺は、
高くてまずい上海の飲茶は食べる気はしなく、全く乗り気やなかったけど、
全員中国語もわからなければ上海の地理もチンプンカンプン。
俺は金を出さないって条件で、ガイド+通訳になって同行しました。
どこのレストランかはこの際出さないけど、上海でも有名な広東料理の店で、
飲茶を堪能しようと思って点心を一口・・・。
「ま、まずぅ~~~い!!」と「ゴチになります」の岡村風にピョンピョン跳ね上がった。
他の連中は美味い美味いと食べているのだが、どうも俺はこのまずさに合点がいかぬ。
「まあ、安ければいいか」と割り切ったのですが、
勘定を見てビックリ!「た、たっか~~~い!」広州飲茶の2倍はしていた記憶があります。
他の連中は満足していたみたいですが、俺は不満たらたら。
食べて余計フラストレーションがたまったという感じですか。
で、俺はここで決心がつきました。
「よし、お口直しに広州へ行く」
そうでもしないと自分の欲求不満が解消されないし、何と言っても
高くてマズい飲茶を食べることによって、本場の広州飲茶を再確認した次第。
「『こうしゅう』って、上海から2時間くらいのとこですよね」
「そりゃ『杭州』や」
とか漫才みたいな会話をしながら、俺の広州行きは確定しました。
余談ですが、中国には「こうしゅう」が二つあります。
広東省の広州、そして浙江省の杭州であります。
中国語で言うと「クアンチョウ」「ハンチョウ」と簡単に区別がつきますが、
中国語がわからん人に説明するとちょっとややこしいんです。
その昔は「こうしゅう」とくれば「広州」やったんですが、
日本からの直行便もできるくらい杭州もメジャーになってきたんで、
益々ややこしくなってきています。
ふつう、区分けの仕方は「広い広州」「杭の杭州」とか言いますが、
みなさんはどういう区分けの仕方をしていますか?
「俺たちもついて行っていいですか?」
俺の広州行きをドミトリーの同室に伝えると、数人の男が俺に聞いてきました。
その前に俺が広州のメシの美味さを、それこそ耳にタコができるくらい言ったんで、
勝手に洗脳されたようです。
正直一人で行きたかったのもあるけど、断る理由もないんでいちおうOK。
女性ドミトリーにも一人犠牲者・・・ではなく同行者が増えて、
計4人で広州までお口直しなんちゃってツアー団の出来上がり。
寝台の切符も4人分取り、いざ出発・・・となったんですが、
上海~広州は列車で24時間、まさかそんなに時間がかかるとは思っていなかったらしく、
列車に1日乗り続けるのは、俺以外は全員初めてであることもあって、
みんなドキドキしていたみたいです。
俺が他の人間を引き連れるって形になったんですが、
気分はガイドってより中隊長という感じでした。
「よし、目標4号車。全員突撃~~!」と突撃ラッパを鳴らし、
人民を蹴散らしながら突っ込む俺に唖然としてたそうです。
「のぶさん、暴走族より怖いですね」と誰かが言ったとか言わないとか・・・。
続く
2004/11/03のBlog
[ 16:37 ]
[ 異国でのつぶやき ]
不覚ながら、風邪をひいてしもたみたいです。
昨日はカラオケで大暴れして、夜遅くに帰宅したんですが、
それが仇となったか、今日はかなり気分が悪いです。
朝からくしゃみ・咳・鼻水が止まりません。
「○△は風邪ひかない」って言葉がありますが、真っ赤な嘘です。
○△な俺が風邪をひいたんやから(笑
中国の風邪はかなりきついです。
やっぱり弱肉強食の国の風邪か、薬を飲んでもなかなか治らんのです。
留学してた時に風邪をこじらせて肺炎を起こして、
ホンマに死に掛けたことがあるんですが、
一人暮らしというのもあってか、異国で病気になると寂しい気持ちになってしまいますね。
日本も寒くなって風邪をひく人が出てきてますが、
くれぐれも体には気をつけましょう。
昨日はカラオケで大暴れして、夜遅くに帰宅したんですが、
それが仇となったか、今日はかなり気分が悪いです。
朝からくしゃみ・咳・鼻水が止まりません。
「○△は風邪ひかない」って言葉がありますが、真っ赤な嘘です。
○△な俺が風邪をひいたんやから(笑
中国の風邪はかなりきついです。
やっぱり弱肉強食の国の風邪か、薬を飲んでもなかなか治らんのです。
留学してた時に風邪をこじらせて肺炎を起こして、
ホンマに死に掛けたことがあるんですが、
一人暮らしというのもあってか、異国で病気になると寂しい気持ちになってしまいますね。
日本も寒くなって風邪をひく人が出てきてますが、
くれぐれも体には気をつけましょう。
[ 00:58 ]
[ 異国でのつぶやき ]
本日、うちの中国人の部下の奮闘で、ビッグビジネスが決まりそうである。
製品名はいえないけど、あるメーカーから日本製の某製品を
是非欲しいと言われたのはいいのだが、日本に問い合わせると在庫なしとのこと。
中国・韓国・台湾・香港の代理店に頼んでも、『在庫なし』と冷たい返事が返ってくるだけ。
いったんは諦めたのだが、今日いきなり代理店から電話があり、
「そんなに欲しかったら、シンガポールに在庫があるから、
そこから取り寄せるよ。でも来年の2月ね」
いいよいいよ、2月で全然OK!
某製品×3=330万元、まいどあり~~。
部下Aは興奮しまくり。「決まりそうですよ!」と声が3オクターブは上がってる。
鼻の穴も大きくなって、鼻毛が丸出しになってる。
「鼻毛出てるよ」と今日は言わない。素直に喜ばせてあげようやないの。
「330万元か、サンタナ2000(フォルクスワーゲンの現地生産車)が30台は買えるな。
タクシー会社作れるでしかし」
「いやいや、上海で別荘買えますよ、のぶ先生」
と低レベルな会話をしながら、二人で喜びを噛み締めていました。
これは部下Aがごり押しで行ってたことなので、
殊勲賞・敢闘賞・技能賞総なめや、Aよ。
俺はそういうのは淡白なんで、部下が喜ぶ顔を見たらそれでいいのよ。
ボーナスははずむぞ~。
フッ、俺はなんていい上司なんでしょう、無能ですが。
製品名はいえないけど、あるメーカーから日本製の某製品を
是非欲しいと言われたのはいいのだが、日本に問い合わせると在庫なしとのこと。
中国・韓国・台湾・香港の代理店に頼んでも、『在庫なし』と冷たい返事が返ってくるだけ。
いったんは諦めたのだが、今日いきなり代理店から電話があり、
「そんなに欲しかったら、シンガポールに在庫があるから、
そこから取り寄せるよ。でも来年の2月ね」
いいよいいよ、2月で全然OK!
某製品×3=330万元、まいどあり~~。
部下Aは興奮しまくり。「決まりそうですよ!」と声が3オクターブは上がってる。
鼻の穴も大きくなって、鼻毛が丸出しになってる。
「鼻毛出てるよ」と今日は言わない。素直に喜ばせてあげようやないの。
「330万元か、サンタナ2000(フォルクスワーゲンの現地生産車)が30台は買えるな。
タクシー会社作れるでしかし」
「いやいや、上海で別荘買えますよ、のぶ先生」
と低レベルな会話をしながら、二人で喜びを噛み締めていました。
これは部下Aがごり押しで行ってたことなので、
殊勲賞・敢闘賞・技能賞総なめや、Aよ。
俺はそういうのは淡白なんで、部下が喜ぶ顔を見たらそれでいいのよ。
ボーナスははずむぞ~。
フッ、俺はなんていい上司なんでしょう、無能ですが。
2004/11/02のBlog
[ 15:57 ]
[ 中国・上海一言情報局 ]
質がいい中国お天気サイトを見つけました。
↓
中国気象影視信息網
残念ながら中国語オンリーですが、天気だけなら特に難しくはありません。
画面右あたりの天気マークの矢印をクリックすると、
全国各地の省都の天気を見ることができます。
(デフォルトは北京)
また、その下の『捜索(検索)』って書いてるところも、デフォルトは北京ですが、
クリックしたら全国各地の細かい天気を調べることができます。
上海だけでもかなりの箇所を調べることができるんで、
中国に旅行・出張などで行く場合、お使い下さい。
使い方がわからんかったら、何かコメントをして下さいね。
↓
中国気象影視信息網
残念ながら中国語オンリーですが、天気だけなら特に難しくはありません。
画面右あたりの天気マークの矢印をクリックすると、
全国各地の省都の天気を見ることができます。
(デフォルトは北京)
また、その下の『捜索(検索)』って書いてるところも、デフォルトは北京ですが、
クリックしたら全国各地の細かい天気を調べることができます。
上海だけでもかなりの箇所を調べることができるんで、
中国に旅行・出張などで行く場合、お使い下さい。
使い方がわからんかったら、何かコメントをして下さいね。
[ 03:24 ]
[ なんてったって中国語 ]
大家好!
我是住在中國上海的nobu
台灣及香港客人到我的blog,因此寫一下簡單的文章.
但,已到2點半了,我想入睡.
這次,只是在這裡寫一寫中文的測驗.
下次見!
(みなさんこんばんは!
中国は上海に住んでるのぶです。
台湾人や香港人も来たことやし、ちょっと簡単に中国語で書いてみるか。
でももう2時半やん!俺、寝る。
今回はテストだけね。
ほなまた!)
と書いてみました。
中国で使われる簡体字じゃ文字化けするんで、
繁体字フォントを使って、台湾や香港で使われる繁体字で書いてみました。
睡魔と闘いながら書いた文章ですが、
いざ書いてみると、けっこうええ感じ。
たまにひっそりと中国語で何か書いてみるか。
我是住在中國上海的nobu
台灣及香港客人到我的blog,因此寫一下簡單的文章.
但,已到2點半了,我想入睡.
這次,只是在這裡寫一寫中文的測驗.
下次見!
(みなさんこんばんは!
中国は上海に住んでるのぶです。
台湾人や香港人も来たことやし、ちょっと簡単に中国語で書いてみるか。
でももう2時半やん!俺、寝る。
今回はテストだけね。
ほなまた!)
と書いてみました。
中国で使われる簡体字じゃ文字化けするんで、
繁体字フォントを使って、台湾や香港で使われる繁体字で書いてみました。
睡魔と闘いながら書いた文章ですが、
いざ書いてみると、けっこうええ感じ。
たまにひっそりと中国語で何か書いてみるか。
[ 01:11 ]
[ 異国でのつぶやき ]
「赤線」、あ!この言葉に反応したあなた、もうオッサンですね。
って俺が真っ先に反応してます、まだ30歳やっちゅーねん。
で、赤線って何じゃい?って、↓を見てみましょう。
「売春を目的とする特殊飲食店街。警察などの地図にその地域が赤線で示されていた。昭和二一年(一九四六)公娼(こうしよう)制度が廃止された時、特例措置として地域を限って置かれたが、同三三年廃止」(大辞泉)
ということですが、平たく言うと「売春街」のことです。
でも、ここで売春遍歴など語るつもりはございません。
というか赤線なんて経験したこったありまへん、だいいち世代がちゃいまっせ~(
俺がここで言いたいのは、元赤線街に残る独特の建物のことです。
戦後に日本各地に出来た赤線街は、ある場所は目立たせるために、
またある時は警察の指導で、「カフェー建築」と言われる
独特の様式の家が立ち並ぶ通りとなりました。
ここで紹介する本は、全国の元赤線街にまだわずかに残る、
「カフェー建築」の写真集のようなものです。
見てみると、これがまた独特すぎてすごい興味をそそります。
まるで自分が上海の租界の建物に興味をそそられるように、
この本に吸い込まれて行きました。
建築や古い町並みに興味がある方、一読をおすすめします。
意外にあなたの隣町に「カフェー建築」が残ってるかも。
東京の赤線街に関しては、
東京紅団の、
洲崎遊廓跡を歩く
千住遊郭跡を歩く
鳩の街を歩く
も参考にして下さい。
って俺が真っ先に反応してます、まだ30歳やっちゅーねん。
で、赤線って何じゃい?って、↓を見てみましょう。
「売春を目的とする特殊飲食店街。警察などの地図にその地域が赤線で示されていた。昭和二一年(一九四六)公娼(こうしよう)制度が廃止された時、特例措置として地域を限って置かれたが、同三三年廃止」(大辞泉)
ということですが、平たく言うと「売春街」のことです。
でも、ここで売春遍歴など語るつもりはございません。
というか赤線なんて経験したこったありまへん、だいいち世代がちゃいまっせ~(
俺がここで言いたいのは、元赤線街に残る独特の建物のことです。
戦後に日本各地に出来た赤線街は、ある場所は目立たせるために、
またある時は警察の指導で、「カフェー建築」と言われる
独特の様式の家が立ち並ぶ通りとなりました。
ここで紹介する本は、全国の元赤線街にまだわずかに残る、
「カフェー建築」の写真集のようなものです。
見てみると、これがまた独特すぎてすごい興味をそそります。
まるで自分が上海の租界の建物に興味をそそられるように、
この本に吸い込まれて行きました。
建築や古い町並みに興味がある方、一読をおすすめします。
意外にあなたの隣町に「カフェー建築」が残ってるかも。
東京の赤線街に関しては、
東京紅団の、
洲崎遊廓跡を歩く
千住遊郭跡を歩く
鳩の街を歩く
も参考にして下さい。
2004/11/01のBlog
[ 19:54 ]
[ 異国でのつぶやき ]
[ 00:09 ]
[ 中国・上海一言情報局 ]
上海に「福州路」という道があります。
市の中心部を東西に走る道で、戦前は「四馬路」と呼ばれていました。
そこは、昔からの本屋街でもあります。
今ではちょっと少なくなりましたが、本屋が軒を連ねています。
最近はパソコンソフトの店や、何故か日本食レストランも増えましたねー。
しかし、福州路と日本食、全然関係ないんやけどなー。
福州路は土日には人でいっぱいいっぱいになり、歩道からはみ出そうな勢いです。
福州路にはいっぱい本屋があるのは蒸気の通りですけど、大きく分けたら
1.「上海書城」
2.「外文書店」
3.「上海図書中心」
の3つです。
「上海書城」はビルの1~6階がそのまま本屋になってて、
とにかく人が多くて、ゆっくり本を選べないところが難点かな。
とにかく大きい。上海どころか中国一デカいかもしれまへん。
「外文書店」は、元々は輸入ものの本を扱ってたところで、戦前からの歴史があります。
今でも洋物の本を扱っており、小数ながら日本の本もあります。
「上海図書中心」は福州路に2軒あり、一つは総合的な書店、もう一つは
芸術関連の本を扱っている店に分かれます。
中国の本屋・出版事情、お目当ての本を探したいなら、
覗いて人民ウォッチングしてみるのも面白いでしょう。
また、最近中国語を勉強している人が多いですが、
現地の外国人向け中国語テキスト・HSK(中国語版TOEFL)の教材は、
「上海書城」と「外文書店」に多いんで、買いたい人はそこを目指しましょう。
また他に、スタバと合体していて雰囲気がジュンク堂と似てる「思考楽書局」
も面白いかもしれません。
最近福州路のバンド寄りに「船長酒店(Captain Youth Hostel)」という安宿がオープンし、バックパックを背負ったバックパッカーも目立つようになりました。
観光で行く南京路や人民広場、上海博物館にも近いんで、
散歩ついでに寄ってみてはどないでっか?
市の中心部を東西に走る道で、戦前は「四馬路」と呼ばれていました。
そこは、昔からの本屋街でもあります。
今ではちょっと少なくなりましたが、本屋が軒を連ねています。
最近はパソコンソフトの店や、何故か日本食レストランも増えましたねー。
しかし、福州路と日本食、全然関係ないんやけどなー。
福州路は土日には人でいっぱいいっぱいになり、歩道からはみ出そうな勢いです。
福州路にはいっぱい本屋があるのは蒸気の通りですけど、大きく分けたら
1.「上海書城」
2.「外文書店」
3.「上海図書中心」
の3つです。
「上海書城」はビルの1~6階がそのまま本屋になってて、
とにかく人が多くて、ゆっくり本を選べないところが難点かな。
とにかく大きい。上海どころか中国一デカいかもしれまへん。
「外文書店」は、元々は輸入ものの本を扱ってたところで、戦前からの歴史があります。
今でも洋物の本を扱っており、小数ながら日本の本もあります。
「上海図書中心」は福州路に2軒あり、一つは総合的な書店、もう一つは
芸術関連の本を扱っている店に分かれます。
中国の本屋・出版事情、お目当ての本を探したいなら、
覗いて人民ウォッチングしてみるのも面白いでしょう。
また、最近中国語を勉強している人が多いですが、
現地の外国人向け中国語テキスト・HSK(中国語版TOEFL)の教材は、
「上海書城」と「外文書店」に多いんで、買いたい人はそこを目指しましょう。
また他に、スタバと合体していて雰囲気がジュンク堂と似てる「思考楽書局」
も面白いかもしれません。
最近福州路のバンド寄りに「船長酒店(Captain Youth Hostel)」という安宿がオープンし、バックパックを背負ったバックパッカーも目立つようになりました。
観光で行く南京路や人民広場、上海博物館にも近いんで、
散歩ついでに寄ってみてはどないでっか?
2004/10/31のBlog
[ 20:36 ]
[ 異国でのつぶやき ]
今日DVD屋で、何かおもろいDVDはないかなーと見てたら、
これまた渋いものを見つけました。
その名は、
「二百三高地」
渋い、渋すぎる。こんなの買う俺も渋い・・・(汗
で、今見終わったであります(敬礼
3時間以上、長かったであります(敬礼
あれ?なんか軍隊言葉になってる。まだ余韻があるようで。
有名な映画なんで俺らの世代なら知ってると思うけど、
日露戦争の旅順攻略を描いた映画であります。
俺は小学校の頃にテレビで見たことがありますが、
けっこう強烈なイメージがありました。
日露戦争は学校で勉強したし、小説とかでも背景は知ってるけど、
やっぱ映画とは言っても映像で見るとけっこうエグい。
血が飛び散り、手や足が吹飛ぶ、今ならなんとか委員会からクレームが来るかも(笑
旅順要塞攻略のすさまじさが痛いほどよくわかりましたわ。
すごい緊迫感があってずっとパソコンんとにらめっこしていました。
トップから見た目だけでなく、一般市民、兵卒から見た目も描いていて、
当時の兵隊もいろいろあるんやなーとも思いました。
キャスティングも素晴らしい。
丹波哲郎が格好いい、三船敏郎(故人)はもっと格好いい、
乃木役の仲代達也は乃木そっくり。特にあの泣きそうな目が(笑
夏目雅子(故人)、めっちゃ美人やん。あなたを奪った白血病が恨めしい。
ちょい役で野際陽子も出ております。
幕末・明治の有名人で誰が好きかというと、俺は児玉源太郎なんです。
日露戦争だけでなく、台湾の歴史を語る上でも必ず出てくる名前です。
旧5000円札(新渡戸稲造)いわく、
「どんな相談をしても10分で答えが来る。こんな頭が切れる人は見たことない」
と言わせた人で、写真を見てもええ顔してますわ。
結局彼は日露戦争で精魂尽き果てたように、1906年に死去しますが、
もうちょっと生きてたら総理大臣確実だっただろう、と言われていた人物です。
この映画では丹波哲郎が役し、なかなか似てないこともないんですが、
当の本人が身長155cmやったのに対して、映画では他の人より大きいって
ちょっと違和感があったかな。
いちおう中国語の字幕もつけて、「どう訳してんやろ?」と思って見てましたが、
字幕、メチャクチャでした。特に名前は間違えまくり。
山縣有朋も「山下」になってるし、
上の児玉源太郎も、字幕じゃ「児玉清」って、そりゃ俳優や!!!(笑
俺でもこんなアホみたいな間違いはしませんぜ、翻訳者さん。
それと、映画を見て中国語勉強する方多いと思うけど、
翻訳の字幕の質はかなり悪いんで、マネする時は十分に注意してねー。
これまた渋いものを見つけました。
その名は、
「二百三高地」
渋い、渋すぎる。こんなの買う俺も渋い・・・(汗
で、今見終わったであります(敬礼
3時間以上、長かったであります(敬礼
あれ?なんか軍隊言葉になってる。まだ余韻があるようで。
有名な映画なんで俺らの世代なら知ってると思うけど、
日露戦争の旅順攻略を描いた映画であります。
俺は小学校の頃にテレビで見たことがありますが、
けっこう強烈なイメージがありました。
日露戦争は学校で勉強したし、小説とかでも背景は知ってるけど、
やっぱ映画とは言っても映像で見るとけっこうエグい。
血が飛び散り、手や足が吹飛ぶ、今ならなんとか委員会からクレームが来るかも(笑
旅順要塞攻略のすさまじさが痛いほどよくわかりましたわ。
すごい緊迫感があってずっとパソコンんとにらめっこしていました。
トップから見た目だけでなく、一般市民、兵卒から見た目も描いていて、
当時の兵隊もいろいろあるんやなーとも思いました。
キャスティングも素晴らしい。
丹波哲郎が格好いい、三船敏郎(故人)はもっと格好いい、
乃木役の仲代達也は乃木そっくり。特にあの泣きそうな目が(笑
夏目雅子(故人)、めっちゃ美人やん。あなたを奪った白血病が恨めしい。
ちょい役で野際陽子も出ております。
幕末・明治の有名人で誰が好きかというと、俺は児玉源太郎なんです。
日露戦争だけでなく、台湾の歴史を語る上でも必ず出てくる名前です。
旧5000円札(新渡戸稲造)いわく、
「どんな相談をしても10分で答えが来る。こんな頭が切れる人は見たことない」
と言わせた人で、写真を見てもええ顔してますわ。
結局彼は日露戦争で精魂尽き果てたように、1906年に死去しますが、
もうちょっと生きてたら総理大臣確実だっただろう、と言われていた人物です。
この映画では丹波哲郎が役し、なかなか似てないこともないんですが、
当の本人が身長155cmやったのに対して、映画では他の人より大きいって
ちょっと違和感があったかな。
いちおう中国語の字幕もつけて、「どう訳してんやろ?」と思って見てましたが、
字幕、メチャクチャでした。特に名前は間違えまくり。
山縣有朋も「山下」になってるし、
上の児玉源太郎も、字幕じゃ「児玉清」って、そりゃ俳優や!!!(笑
俺でもこんなアホみたいな間違いはしませんぜ、翻訳者さん。
それと、映画を見て中国語勉強する方多いと思うけど、
翻訳の字幕の質はかなり悪いんで、マネする時は十分に注意してねー。
[ 19:35 ]
[ 異国でのつぶやき ]
日本でも、勧誘とかの得体の知れない電話がありますが、
中国も例外なくあります。それも日本よりわけがわからん。
さっきかかってきた電話もそうでした。
俺:「もしもし」
電話の相手(以下A):(甘い声で)「もしもし~、こんばんは♪」
俺:「あんた誰?」
A:「不動産屋ですが、お部屋をお借りですよね?」
俺:「(人の話を聞けよ・・・と思いつつ)何か用?」
A:「部屋の管理人の電話番号を教えて下さい♪」
俺:「なんであんたに教えんとあかんねん?」
A:「だって私は不動産会社ですよ」
俺:「俺が契約してるとこやったら、管理人の番号くらい知ってるやろ。
あんたの不動産会社の名前は?」
A:「管理人の電話番号知らないですか?」
俺:「知るかよ。知っててもおしえね~♪」
A:「さようなら~~」ガチャッ!
(以上全部元は中国語。勝手訳:パルプンテのぶ)
なんやったんや?????
中国も例外なくあります。それも日本よりわけがわからん。
さっきかかってきた電話もそうでした。
俺:「もしもし」
電話の相手(以下A):(甘い声で)「もしもし~、こんばんは♪」
俺:「あんた誰?」
A:「不動産屋ですが、お部屋をお借りですよね?」
俺:「(人の話を聞けよ・・・と思いつつ)何か用?」
A:「部屋の管理人の電話番号を教えて下さい♪」
俺:「なんであんたに教えんとあかんねん?」
A:「だって私は不動産会社ですよ」
俺:「俺が契約してるとこやったら、管理人の番号くらい知ってるやろ。
あんたの不動産会社の名前は?」
A:「管理人の電話番号知らないですか?」
俺:「知るかよ。知っててもおしえね~♪」
A:「さようなら~~」ガチャッ!
(以上全部元は中国語。勝手訳:パルプンテのぶ)
なんやったんや?????
[ 04:13 ]
[ 異国でのつぶやき ]
拝啓
神様、ここに告白致します。
私、実は紙幣マニアなんです。
世界中の紙幣を集めてはや5年、骨董品屋を探し回り、
関西空港で、嘘の便名を書いて行きもしない国の紙幣を両替し、
頭を下げて人に譲ってもらいながら収集をしてきました。
神様、あなたのおかげで、本日もコレクションができました。
「多倫路」の骨董品屋で、中華民国の紙幣と旧満州国の紙幣、
そして懐かしきFEC(外匯兌換券)とも再会できました。
お礼にここで画像を晒しますので、ご存分にお楽しみ頂ければ幸いです。
敬具
パルプンテのぶ
神様、ここに告白致します。
私、実は紙幣マニアなんです。
世界中の紙幣を集めてはや5年、骨董品屋を探し回り、
関西空港で、嘘の便名を書いて行きもしない国の紙幣を両替し、
頭を下げて人に譲ってもらいながら収集をしてきました。
神様、あなたのおかげで、本日もコレクションができました。
「多倫路」の骨董品屋で、中華民国の紙幣と旧満州国の紙幣、
そして懐かしきFEC(外匯兌換券)とも再会できました。
お礼にここで画像を晒しますので、ご存分にお楽しみ頂ければ幸いです。
敬具
パルプンテのぶ
これが昔の外国人専用紙幣(FEC)です。
発行銀行に注目!
人民元は中国人民銀行やけど、FECは中国銀行です。
紙幣というより、外国人用の全国共通商品券みたいなもんか。
「原則」として、昔は中国に着いたら
外貨→FECに両替しなければならず、
外国人は人民元を持ったり使うのは実は違法だったのれす!
でも、現実はそんなこと言ってられなく、使いまくってました。
FECと人民元は「同値」でしたが、現実は100FEC=110元(人民元)
くらいで闇両替できていました。
人民はFECの存在を知らない人が多く、そこらの商店で買い物する時
FECを渡しても、「偽札渡すな!」とか「こんなお札知らないね」と
突き返されることはしょっちゅうでした。
1993年まで使われ、俺がFECを知り、
実際に使っていた最後の世代になりました。
最近中国を知った人はFECなんて知らんらしく、
こういう話をすると、「俺も骨董品になったなー」と
思ってしまいます_| ̄|○
発行銀行に注目!
人民元は中国人民銀行やけど、FECは中国銀行です。
紙幣というより、外国人用の全国共通商品券みたいなもんか。
「原則」として、昔は中国に着いたら
外貨→FECに両替しなければならず、
外国人は人民元を持ったり使うのは実は違法だったのれす!
でも、現実はそんなこと言ってられなく、使いまくってました。
FECと人民元は「同値」でしたが、現実は100FEC=110元(人民元)
くらいで闇両替できていました。
人民はFECの存在を知らない人が多く、そこらの商店で買い物する時
FECを渡しても、「偽札渡すな!」とか「こんなお札知らないね」と
突き返されることはしょっちゅうでした。
1993年まで使われ、俺がFECを知り、
実際に使っていた最後の世代になりました。
最近中国を知った人はFECなんて知らんらしく、
こういう話をすると、「俺も骨董品になったなー」と
思ってしまいます_| ̄|○
[ 02:17 ]
[ 異国でのつぶやき ]
しかし、今日もDoblogは重かったな~。
数日「これはマシになったかな」と思ったら、
今日も重くて更新するのに一苦労。
他のブログはサクサク更新できるのに、Doblogだけなんで?
「まあしゃーないか」と思って数日様子見してたものの、
いちばん訪問人数が増える時間帯にこれじゃ、
見たくても見れない→それが何回か続く→重いからここはもう見ない
→訪問者減少→モチベーション下がる
ってな感じになっちゃいまっせ。
確かに軽くなる時はあるけど、深夜とか早朝じゃ、意味あらへんがな~。
ちょっと参考までに、
まあ待て、ブログを借りる前にここを読めの「ブログサーバおそおそランキング」を読んでいたのだが、
ここはおそおそランキングトップを爆走していた。
「それにしても、Doblogの運営者はまともに対応しているのでしょうか? ここまで長期的に重いのはシステム運用の会社としてどうかと思います。メンテの回数だけは多いようですが、改善が見られなければ何の意味もないです」
とまで言われてますよ、編集部さん!
機能はすごくいいし、使いやすいので気に入ってはおるんやけど、
これだけ遅いとこっちがイライラするし、何より見に来る人に迷惑やな。
悪いけど、ちょっとキレかけです。
ここは簡単には離れるつもりはないけど、
ストレスがたまるサイトだこと(笑
すみません、これはつぶやきというよりぼやきでした il||li _| ̄|○ il||li
数日「これはマシになったかな」と思ったら、
今日も重くて更新するのに一苦労。
他のブログはサクサク更新できるのに、Doblogだけなんで?
「まあしゃーないか」と思って数日様子見してたものの、
いちばん訪問人数が増える時間帯にこれじゃ、
見たくても見れない→それが何回か続く→重いからここはもう見ない
→訪問者減少→モチベーション下がる
ってな感じになっちゃいまっせ。
確かに軽くなる時はあるけど、深夜とか早朝じゃ、意味あらへんがな~。
ちょっと参考までに、
まあ待て、ブログを借りる前にここを読めの「ブログサーバおそおそランキング」を読んでいたのだが、
ここはおそおそランキングトップを爆走していた。
「それにしても、Doblogの運営者はまともに対応しているのでしょうか? ここまで長期的に重いのはシステム運用の会社としてどうかと思います。メンテの回数だけは多いようですが、改善が見られなければ何の意味もないです」
とまで言われてますよ、編集部さん!
機能はすごくいいし、使いやすいので気に入ってはおるんやけど、
これだけ遅いとこっちがイライラするし、何より見に来る人に迷惑やな。
悪いけど、ちょっとキレかけです。
ここは簡単には離れるつもりはないけど、
ストレスがたまるサイトだこと(笑
すみません、これはつぶやきというよりぼやきでした il||li _| ̄|○ il||li
2004/10/30のBlog
[ 22:57 ]
[ 租界散歩 ]
今日、租界散歩の際に「多倫路文化名人街」に寄ってきました。
ここは戦前には「竇楽安路」と呼ばれ、
魯迅や郭沫若、芽盾という文学者がこの近くに住み、
中国近代史において避けられない道となりました。
そして、ここあたり日本人街でもあったため、どこか日本的なとこもあります。
ここが1998年に最近観光名所として整備され、
「多倫路文化名人街」となりました。
ちょっと小奇麗になって観光化され、
見世物なんちゃって租界みたいな所は否めませんが、
雰囲気は十分に残しています。
ここには、陶磁器や骨董品などの店がいろいろ並び、
よーく見ると面白いグッズが売っていたりします。
戦前の地図やポスターや紙幣、共産党グッズなど、
マニアならよだれが出そうなものが埋もれてますよ。
「俺はこんな観光化された所なんかイヤじゃ!本物志向なんや!」
というあなた、多倫路から一歩裏道に出ましょう。
多倫路から一歩裏道に出ると、
それはそれはこってり濃い~~~~人民の世界が待っています。
人民の声の騒がしさ、臭豆腐の鼻が曲がるような強烈な匂いに辟易しつつも、
あなたの、本物の世界を見たいという欲望は満足できるでしょう。
お店に関しては、ここもご覧下さい。
ここは戦前には「竇楽安路」と呼ばれ、
魯迅や郭沫若、芽盾という文学者がこの近くに住み、
中国近代史において避けられない道となりました。
そして、ここあたり日本人街でもあったため、どこか日本的なとこもあります。
ここが1998年に最近観光名所として整備され、
「多倫路文化名人街」となりました。
ちょっと小奇麗になって観光化され、
見世物なんちゃって租界みたいな所は否めませんが、
雰囲気は十分に残しています。
ここには、陶磁器や骨董品などの店がいろいろ並び、
よーく見ると面白いグッズが売っていたりします。
戦前の地図やポスターや紙幣、共産党グッズなど、
マニアならよだれが出そうなものが埋もれてますよ。
「俺はこんな観光化された所なんかイヤじゃ!本物志向なんや!」
というあなた、多倫路から一歩裏道に出ましょう。
多倫路から一歩裏道に出ると、
それはそれはこってり濃い~~~~人民の世界が待っています。
人民の声の騒がしさ、臭豆腐の鼻が曲がるような強烈な匂いに辟易しつつも、
あなたの、本物の世界を見たいという欲望は満足できるでしょう。
お店に関しては、ここもご覧下さい。
多倫路の北側入り口にある「知恩院」。
1924年建造のイスラムスタイルの建築。
細かい細部の彫刻、列柱で支えられるアーケード式ベランダ、
アラビアンタイル貼りの壁面に特色がある。
上海市優秀近代建築。
(『上海歴史ガイドマップ』より)
1924年建造のイスラムスタイルの建築。
細かい細部の彫刻、列柱で支えられるアーケード式ベランダ、
アラビアンタイル貼りの壁面に特色がある。
上海市優秀近代建築。
(『上海歴史ガイドマップ』より)
[ 20:04 ]
[ 上海写真館 ]
上海写真館その2です。
今日は租界散策で6時間以上も歩きっぱなしでやんした。
ネタは腐るほど見つかったものの、5キロくらいは歩いたような。
で、やっと帰ってきた・・・というか帰ってこれたって言った方がいいかも・・・。
タクシーは全然捕まらんし、バスはパンパンに混んでて疲れました。
というわけで、上海の風景をお楽しみ下さい。
写真100枚以上は撮ってきたんで、黙って写真に名前つけときます。
今日は租界散策で6時間以上も歩きっぱなしでやんした。
ネタは腐るほど見つかったものの、5キロくらいは歩いたような。
で、やっと帰ってきた・・・というか帰ってこれたって言った方がいいかも・・・。
タクシーは全然捕まらんし、バスはパンパンに混んでて疲れました。
というわけで、上海の風景をお楽しみ下さい。
写真100枚以上は撮ってきたんで、黙って写真に名前つけときます。
[ 01:29 ]
[ のぶの食いしん坊万歳!? ]
深夜のこんな時に、急にアイスクリームが食べたくなり、
コンビニまで走ってきました。
家に帰ってからずっとヒッキー状態やったんで、5時間ぶりに外に出ると・・・
さ、寒い・・・!!
しかし、俺はアイスを食べたいのだ。寒さなんかに負けないわ。
とコンビニまでダッシュダーッシュダッシュ(byキャプテン翼)。
コンビニは100mくらいの距離にあるんですが、
その間には、「虹橋路」という関門がそびえています。
昼は交通量が多く、夜は車がすごいスピードで走り、いやいや特攻をかけてきます。
人が横断歩道を渡ろうものなら、クラクションを鳴らし、パッシングをかけながら
突っ込んでまいります。
日本の暴走族の方がまだマナーがあっていいかもしれへん。
俺はもう慣れてしまったけど、中国に慣れないうちはメチャクチャ怖いと思いますよ。
でも、虹橋路を渡らないことにはコンビニに着けない、アイスが食えない。
勇気を振り絞って、そして口笛を吹きながら横断歩道を渡り、無事コンビニに到着。
週末なんで近くのクラブの客が道に溢れ、
韓国人の酔っ払いが数人何かを叫んでおりました。
コンビニに到着してアイスを探すと、あったあった、ハーゲンダッツ。
ハーゲンダッツは中国語で「哈根達斯(はーげんだーすー)」と言います。
俺の大好きなバニラクッキーをGET♪
しかし、お値段は27.5元(約300円)。アイヤ~!メチャクチャたかいアルよ。
オンボロ食堂でチャーハンを5人前頼んでまだ釣りが来る高さ。
そう、ハーゲンダッツは日本より高いのです。
中国は物価が安いから何もかも日本より安い、と思ったら大間違いなのれす。
掲示板とかを見てると、最近「中国でブランドものを買いたいです♪安いところを知りませんか?」という質問が多い。
俺は優しいので、心の中では「中国やなくて香港行ってこい、この愚か者」と思いながら、
「えとね、中国には関税があってね、輸入物には税金がつくの。
ブランド物の関税の比率はね、日本より高いの。
だから日本と同じくらいか、日本より高いんだよ。
日本でベンツって高いでしょ?あれは関税がついてるから高いんだよ。
わかったかな?」
と、天使のささやきのようなカキコで諭します。
アイス買うぞーと思って財布を見る。あ・・・28元しか入ってない・・・_| ̄|○
なんで俺ってこんなに金欠なんやろか。と自問自答してる場合やない。
とにかく有り金はたいてアイスクリームGET。
家に帰って、27元分時間をかけて食べようかなーと思い、
スローモーションのようなペースで食べてみる。
でも、食べだすともう手がオートマティックになって脳のコントロールが効かなくなります。
すごいペースで食べ続けて5分程度でごちそうさま。
ハーゲンダッツはやっぱうまかった。でも高かった。
コンビニまで走ってきました。
家に帰ってからずっとヒッキー状態やったんで、5時間ぶりに外に出ると・・・
さ、寒い・・・!!
しかし、俺はアイスを食べたいのだ。寒さなんかに負けないわ。
とコンビニまでダッシュダーッシュダッシュ(byキャプテン翼)。
コンビニは100mくらいの距離にあるんですが、
その間には、「虹橋路」という関門がそびえています。
昼は交通量が多く、夜は車がすごいスピードで走り、いやいや特攻をかけてきます。
人が横断歩道を渡ろうものなら、クラクションを鳴らし、パッシングをかけながら
突っ込んでまいります。
日本の暴走族の方がまだマナーがあっていいかもしれへん。
俺はもう慣れてしまったけど、中国に慣れないうちはメチャクチャ怖いと思いますよ。
でも、虹橋路を渡らないことにはコンビニに着けない、アイスが食えない。
勇気を振り絞って、そして口笛を吹きながら横断歩道を渡り、無事コンビニに到着。
週末なんで近くのクラブの客が道に溢れ、
韓国人の酔っ払いが数人何かを叫んでおりました。
コンビニに到着してアイスを探すと、あったあった、ハーゲンダッツ。
ハーゲンダッツは中国語で「哈根達斯(はーげんだーすー)」と言います。
俺の大好きなバニラクッキーをGET♪
しかし、お値段は27.5元(約300円)。アイヤ~!メチャクチャたかいアルよ。
オンボロ食堂でチャーハンを5人前頼んでまだ釣りが来る高さ。
そう、ハーゲンダッツは日本より高いのです。
中国は物価が安いから何もかも日本より安い、と思ったら大間違いなのれす。
掲示板とかを見てると、最近「中国でブランドものを買いたいです♪安いところを知りませんか?」という質問が多い。
俺は優しいので、心の中では「中国やなくて香港行ってこい、この愚か者」と思いながら、
「えとね、中国には関税があってね、輸入物には税金がつくの。
ブランド物の関税の比率はね、日本より高いの。
だから日本と同じくらいか、日本より高いんだよ。
日本でベンツって高いでしょ?あれは関税がついてるから高いんだよ。
わかったかな?」
と、天使のささやきのようなカキコで諭します。
アイス買うぞーと思って財布を見る。あ・・・28元しか入ってない・・・_| ̄|○
なんで俺ってこんなに金欠なんやろか。と自問自答してる場合やない。
とにかく有り金はたいてアイスクリームGET。
家に帰って、27元分時間をかけて食べようかなーと思い、
スローモーションのようなペースで食べてみる。
でも、食べだすともう手がオートマティックになって脳のコントロールが効かなくなります。
すごいペースで食べ続けて5分程度でごちそうさま。
ハーゲンダッツはやっぱうまかった。でも高かった。
2004/10/29のBlog
[ 22:36 ]
[ 異国でのつぶやき ]
前編はネット制限@中国 1ページ目
ネット制限、最盛期は一昨年~去年がいちばんひどかったです。
当時は広東在住で、ヒマだったんで某巨大掲示板でコテハン
なるものをやってたのですが、
とにかく見れるサイトが1日、また1日と少なくなっていき、
ついにはHotmailまでとてつもなく重くなってしまいました。
中国は昔からHotmailは重くて開けないことが多かったんですけど、
その時はもうパソコンを投げたいくらい重かったです。
掲示板で「こちら広東より。Hotmail重し。他地方の状況はどうか」
とカキコすると、
「こちら北京。Hotmail全く開けず。メッセンジャーも死んでます!!」
「大連からです。かなり重いです」
「雲南省大理より。こちらは異常なし」
なんてレスがやって来ます。
あの時は、中国各地に散らばっている在住者のトランシーバー状態になっていました。
それが数日続き、俺もいったん諦めてメインメールボックスをYahooにしたんですが、
その「アイヤ~!Hotmail重いアルよ騒動」は1ヶ月続きました。
広東では重くても見れたんですが、北京では全く見れなかったそうな。
いちばんひどい時にはgoogleまで見れなくなり、検索機能がマヒしてすごい騒ぎになったんですが、
さすがにネチズンの反発を呼んで2日で中止になりました。
さすがにgoogleはやりすぎで、全世界に中国のネット制限の現実を報道される
結果になって、中国政府が恥をかいただけでしたね。
中国政府、ちょっと調子に乗りすぎ。
最近は、amazon.co.jpや読売新聞のサイトも見れないことが多いです。
Yahoo!Japanまでロックがかかったら、私帰国させていただきます(笑
ネット制限、最盛期は一昨年~去年がいちばんひどかったです。
当時は広東在住で、ヒマだったんで某巨大掲示板でコテハン
なるものをやってたのですが、
とにかく見れるサイトが1日、また1日と少なくなっていき、
ついにはHotmailまでとてつもなく重くなってしまいました。
中国は昔からHotmailは重くて開けないことが多かったんですけど、
その時はもうパソコンを投げたいくらい重かったです。
掲示板で「こちら広東より。Hotmail重し。他地方の状況はどうか」
とカキコすると、
「こちら北京。Hotmail全く開けず。メッセンジャーも死んでます!!」
「大連からです。かなり重いです」
「雲南省大理より。こちらは異常なし」
なんてレスがやって来ます。
あの時は、中国各地に散らばっている在住者のトランシーバー状態になっていました。
それが数日続き、俺もいったん諦めてメインメールボックスをYahooにしたんですが、
その「アイヤ~!Hotmail重いアルよ騒動」は1ヶ月続きました。
広東では重くても見れたんですが、北京では全く見れなかったそうな。
いちばんひどい時にはgoogleまで見れなくなり、検索機能がマヒしてすごい騒ぎになったんですが、
さすがにネチズンの反発を呼んで2日で中止になりました。
さすがにgoogleはやりすぎで、全世界に中国のネット制限の現実を報道される
結果になって、中国政府が恥をかいただけでしたね。
中国政府、ちょっと調子に乗りすぎ。
最近は、amazon.co.jpや読売新聞のサイトも見れないことが多いです。
Yahoo!Japanまでロックがかかったら、私帰国させていただきます(笑
[ 20:55 ]
[ のぶの食いしん坊万歳!? ]
今日は頭痛がするんで、駐在の先輩と一緒に帰りました。
タクシーの中で愚痴を言いながら20分、弁当を買ってとっとと帰ってきました。
古北にある弁当屋でカツ丼と牛丼を購入。
時間がたってたせいか、両方とも「8折」(2割引)、ラッキ~。
カツ丼8元、牛丼12元、計20元。毎度あり~。
そして、電気代がもったいないので、きっちり店で電子レンジでチンしました。
駐在員、こんなとこでもきっちりケチってます。
だって、中国じゃ金持ちでも日本に帰ったら平社員でっせー。
メチャクチャ給料安いんやでー(涙
住民税(?)控除分が駐在員手当てじゃやってられへんわいー(怒
で、こんなとこで安月給自慢をしても仕方ないので、
話は戻ります。
まずはカツ丼を食べてみました。
ん!味はまずまず。腹が減ってるからかもしれないですが、
なんか懐かしい味にドッキリ。
カツがなんかうまい。
腹が減っていたんでカツ丼は3分ほどで平らげて、あとは牛丼を片付けるか。
で、牛丼を一口・・・、ん!まずいな、これ・・・。
こりゃ食べれたもんやないでー。どんな味付けしてんねんアホ~!
誰やねん、これ作ってるの。吉野屋の方がよっぽどおいしいぞ!
と2行ほど愚痴を言いつつ完食しました(笑
なんかまずかったんで、昨日コンビニで買っておいた
ベビースターラーメンとポッキーをおやつにしました。
ポッキーは「格力高(グリコ)」が現地生産していますが、
ベビースターラーメンは正真正銘のMade in Japan。
でも価格は3元(44円くらい)。
ポッキーはしょっちゅう食べてますが、ベビースターラーメンは昨日始めて発見しました。
懐かしさのあまり買ってみたんですが、日本と同じ味なんで(日本製やからそりゃそうか)、
思わずテレビをつけてNHKを見てしまいました。
NHKとベビースターラーメン、別に因果関係はないんですが、
こうやって日本のテレビを見てると、「俺はホンマに上海におるんか?」
と変な錯覚に陥りそうです。
タクシーの中で愚痴を言いながら20分、弁当を買ってとっとと帰ってきました。
古北にある弁当屋でカツ丼と牛丼を購入。
時間がたってたせいか、両方とも「8折」(2割引)、ラッキ~。
カツ丼8元、牛丼12元、計20元。毎度あり~。
そして、電気代がもったいないので、きっちり店で電子レンジでチンしました。
駐在員、こんなとこでもきっちりケチってます。
だって、中国じゃ金持ちでも日本に帰ったら平社員でっせー。
メチャクチャ給料安いんやでー(涙
住民税(?)控除分が駐在員手当てじゃやってられへんわいー(怒
で、こんなとこで安月給自慢をしても仕方ないので、
話は戻ります。
まずはカツ丼を食べてみました。
ん!味はまずまず。腹が減ってるからかもしれないですが、
なんか懐かしい味にドッキリ。
カツがなんかうまい。
腹が減っていたんでカツ丼は3分ほどで平らげて、あとは牛丼を片付けるか。
で、牛丼を一口・・・、ん!まずいな、これ・・・。
こりゃ食べれたもんやないでー。どんな味付けしてんねんアホ~!
誰やねん、これ作ってるの。吉野屋の方がよっぽどおいしいぞ!
と2行ほど愚痴を言いつつ完食しました(笑
なんかまずかったんで、昨日コンビニで買っておいた
ベビースターラーメンとポッキーをおやつにしました。
ポッキーは「格力高(グリコ)」が現地生産していますが、
ベビースターラーメンは正真正銘のMade in Japan。
でも価格は3元(44円くらい)。
ポッキーはしょっちゅう食べてますが、ベビースターラーメンは昨日始めて発見しました。
懐かしさのあまり買ってみたんですが、日本と同じ味なんで(日本製やからそりゃそうか)、
思わずテレビをつけてNHKを見てしまいました。
NHKとベビースターラーメン、別に因果関係はないんですが、
こうやって日本のテレビを見てると、「俺はホンマに上海におるんか?」
と変な錯覚に陥りそうです。
[ 14:07 ]
[ 租界散歩 ]
第一章はこちらです
金山大楼を離れ、次の目的地へと足を向ける。
戦前は熙華路(Seward Road)と呼ばれた長治路あたりも昔の建物がよく残り、
租界時代の住宅地の名残をよく留めている。
数年前、放浪の旅の途上で浦江飯店に滞在し、
この道は毎日のように通っていたのだが、改めて通ると昔は宝の山を目の前にして
宝の価値がわからない故に見逃していたことがわかった。
無知なのは悪くはないが、無知を続けるのは愚かなことであろう。
長治路を何気に歩いていると、武昌路との角になにやら気になる建物が。
見事な赤レンガ造りだが、特に目立つということはない。
似たような建物は回りにけっこうあるのだが、どうも俺の直感がそこを離れさせない。
「上海歴史ガイドマップ」を紐解いてみると、
そこは大日本航空会社のオフィス跡だという。
大日本航空会社とは、1939年(昭和14年)9月1日に、
日本と中国・満州の航空連絡の便宜をはかるため、
日本航空輸送(株)と満州航空(株)の子会社、国際航空(株)が合併し
設立された会社で、今のJALの前身であるとのこと。
http://www.tt-museum.jp/war_0020_dnk1939.html
に昭和15年の時刻表がある。
上海までの定期便も飛んでいたらしい。
長治路をそのまままっすぐ向かい、ミン(門構に文)行路を左に曲がると、
典型的な租界風建築と瓦屋根の妙な組み合わせの建物が目の前に見える。
ここが、戦前上海にあった日本旅館の中で、規模・風格ともに筆頭に挙げられていた
「萬歳館」の跡である。
1904年創業で、上海で一番有名な日本旅館だけあって、文化人もここによく宿泊し、
芥川龍之介・佐藤春夫等もここに滞在し、上海ライフを楽しんでいたという。
特に芥川龍之介に至っては、3階に住んでいた頃にここのメイドに惚れてしまった
というほのぼのエピソードまで残っている。
今は1階が部分がレストランになっているが、瓦屋根は中国にしては妙に違和感があり、
恐らく当時のものを流用しているのであろう。少なくともそう願いたい。
ミン行路と峨眉路との交差点を右に曲がると、
右手に3階建ての赤レンガの立派な建物が見える。
周りの建物が古ぼけた白い建物なので余計に目立つ。
そこはかつて魯迅の主治医をしていた須藤五百三(いおぞう。1876-1959)が1919年に開いた須藤医院の跡である。
2階が診療室になっていたといい、ここに医院を開くということは、周りの住人は
ほとんど日本人だったと容易に推測できる。
そう思うと、何か祖先を訪ねる旅の途中でたどり着いたオアシスのような感じがした。
須藤医師は、上述の通り魯迅の最晩年の主治医であり、
ここから魯迅の家まで往診に行っていたという。
「上海歴史ガイドマップ」によると、魯迅の日記には須藤医師の名前が150回以上も出てくるという。
また、これは面白い話だが、須藤医師魯迅暗殺説なるものがある。
これは魯迅の息子(名前失念中)が著書の中で言い出した新説なのだが、
根拠は「(彼が)1961年に来日した時に彼が来なかった」からだそうな。
おいおい、1959年に亡くなった人が会いに行けるかよ、
と本にツッコミを入れたことがある。
それ以外にも彼が魯迅を殺したという動機が全くなし。
まあ息子の妄想なのだろう。
須藤医院跡をそのまままっすぐ行くと、次の交差点の右手に、
ツタで囲まれた校舎のようなものが見える。
校舎には「虹橋区第一中心小学」と書いてあるが、
このツタの校舎といい、何かありそうな感じがした。
嗅覚が働き、またガイドブックを開いてみると、
漢壁礼蒙女堂(Thomas Hanbury School for Girls)ということらしい。
ここは不動産商のハンベリーの寄付によって、欧亜混血児のために作られた
小学校を起源とし、戦争中は日本領事館警察となったところでもある。
その隣には、上海の伝説にもなった三角マーケット(虹口マーケット)の跡がある。
三角マーケットは、その名の通り三角の形をした公設マーケットで、
戦前の上海を語ると必ずと言ってもいいほど出てくる伝説の市場である。
何故伝説なのか、租界という性質から世界中の品物が集められ、
その品揃えは日本から来た者を驚かせたという。
戦後もそのままの形で市場として使われていたが、
1990年代前半についに取り壊しになり、現在は跡地に高層ビルが建設中である。
11年前にここを訪ねた時は、伝説の三角マーケットは確かにここに存在していた。
当時のままの姿で、まだ現役の市場として活動していたのだが、
その時の面影は今は全くない。
ある意味いちばん取り壊して欲しくなかった建物だったのだが、
既に瓦礫の山、否ビルになっているので、今更嘆いても仕方ない。
その三角マーケットの道の対面にそびえ、こことは対象的に
全く姿が変わっていない建物がある。租界警察の日本人宿舎である。
1931年に建てられた鉄筋コンクリート8階建ての、
丸ビルを小さくしたような形の建物は、
当時最新鋭だったエレベーターを完備し、日本人巡査の家族が住みこんでいた。
今も「公安大楼」として現役の家族寮である。
まだまだ続く・・・
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金山大楼を離れ、次の目的地へと足を向ける。
戦前は熙華路(Seward Road)と呼ばれた長治路あたりも昔の建物がよく残り、
租界時代の住宅地の名残をよく留めている。
数年前、放浪の旅の途上で浦江飯店に滞在し、
この道は毎日のように通っていたのだが、改めて通ると昔は宝の山を目の前にして
宝の価値がわからない故に見逃していたことがわかった。
無知なのは悪くはないが、無知を続けるのは愚かなことであろう。
長治路を何気に歩いていると、武昌路との角になにやら気になる建物が。
見事な赤レンガ造りだが、特に目立つということはない。
似たような建物は回りにけっこうあるのだが、どうも俺の直感がそこを離れさせない。
「上海歴史ガイドマップ」を紐解いてみると、
そこは大日本航空会社のオフィス跡だという。
大日本航空会社とは、1939年(昭和14年)9月1日に、
日本と中国・満州の航空連絡の便宜をはかるため、
日本航空輸送(株)と満州航空(株)の子会社、国際航空(株)が合併し
設立された会社で、今のJALの前身であるとのこと。
http://www.tt-museum.jp/war_0020_dnk1939.html
に昭和15年の時刻表がある。
上海までの定期便も飛んでいたらしい。
長治路をそのまままっすぐ向かい、ミン(門構に文)行路を左に曲がると、
典型的な租界風建築と瓦屋根の妙な組み合わせの建物が目の前に見える。
ここが、戦前上海にあった日本旅館の中で、規模・風格ともに筆頭に挙げられていた
「萬歳館」の跡である。
1904年創業で、上海で一番有名な日本旅館だけあって、文化人もここによく宿泊し、
芥川龍之介・佐藤春夫等もここに滞在し、上海ライフを楽しんでいたという。
特に芥川龍之介に至っては、3階に住んでいた頃にここのメイドに惚れてしまった
というほのぼのエピソードまで残っている。
今は1階が部分がレストランになっているが、瓦屋根は中国にしては妙に違和感があり、
恐らく当時のものを流用しているのであろう。少なくともそう願いたい。
ミン行路と峨眉路との交差点を右に曲がると、
右手に3階建ての赤レンガの立派な建物が見える。
周りの建物が古ぼけた白い建物なので余計に目立つ。
そこはかつて魯迅の主治医をしていた須藤五百三(いおぞう。1876-1959)が1919年に開いた須藤医院の跡である。
2階が診療室になっていたといい、ここに医院を開くということは、周りの住人は
ほとんど日本人だったと容易に推測できる。
そう思うと、何か祖先を訪ねる旅の途中でたどり着いたオアシスのような感じがした。
須藤医師は、上述の通り魯迅の最晩年の主治医であり、
ここから魯迅の家まで往診に行っていたという。
「上海歴史ガイドマップ」によると、魯迅の日記には須藤医師の名前が150回以上も出てくるという。
また、これは面白い話だが、須藤医師魯迅暗殺説なるものがある。
これは魯迅の息子(名前失念中)が著書の中で言い出した新説なのだが、
根拠は「(彼が)1961年に来日した時に彼が来なかった」からだそうな。
おいおい、1959年に亡くなった人が会いに行けるかよ、
と本にツッコミを入れたことがある。
それ以外にも彼が魯迅を殺したという動機が全くなし。
まあ息子の妄想なのだろう。
須藤医院跡をそのまままっすぐ行くと、次の交差点の右手に、
ツタで囲まれた校舎のようなものが見える。
校舎には「虹橋区第一中心小学」と書いてあるが、
このツタの校舎といい、何かありそうな感じがした。
嗅覚が働き、またガイドブックを開いてみると、
漢壁礼蒙女堂(Thomas Hanbury School for Girls)ということらしい。
ここは不動産商のハンベリーの寄付によって、欧亜混血児のために作られた
小学校を起源とし、戦争中は日本領事館警察となったところでもある。
その隣には、上海の伝説にもなった三角マーケット(虹口マーケット)の跡がある。
三角マーケットは、その名の通り三角の形をした公設マーケットで、
戦前の上海を語ると必ずと言ってもいいほど出てくる伝説の市場である。
何故伝説なのか、租界という性質から世界中の品物が集められ、
その品揃えは日本から来た者を驚かせたという。
戦後もそのままの形で市場として使われていたが、
1990年代前半についに取り壊しになり、現在は跡地に高層ビルが建設中である。
11年前にここを訪ねた時は、伝説の三角マーケットは確かにここに存在していた。
当時のままの姿で、まだ現役の市場として活動していたのだが、
その時の面影は今は全くない。
ある意味いちばん取り壊して欲しくなかった建物だったのだが、
既に瓦礫の山、否ビルになっているので、今更嘆いても仕方ない。
その三角マーケットの道の対面にそびえ、こことは対象的に
全く姿が変わっていない建物がある。租界警察の日本人宿舎である。
1931年に建てられた鉄筋コンクリート8階建ての、
丸ビルを小さくしたような形の建物は、
当時最新鋭だったエレベーターを完備し、日本人巡査の家族が住みこんでいた。
今も「公安大楼」として現役の家族寮である。
まだまだ続く・・・
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[ 14:06 ]
[ 租界散歩 ]
今日は、久しぶりにいい天気なんでひたすらフィールドワークの日と決めた。
今日の目標は黄浦区あたり。
携帯する本は「上海歴史ガイドブック」(右)。
租界時代の建物の位置等が地図上に書いてある本だが、
とにかくかなり詳しく、租界の足跡を調べるには絶好の本である。
まずは腹ごしらえして、バスと地下鉄を乗り継いで南京東路外灘へ。
外灘の入り口に、まるで東大寺の仁王像のようにそびえる和平飯店。
もう数十回は見ているので見飽きたかと思ったら、
改めて見てみると彫刻がきめ細かい。
和平飯店は、今更説明は不要とは思うけど、
緑のとんがり帽子が特徴的な北楼は、
別名「サッスーン・ハウス」と呼ばれ、上海の大財閥、ユダヤ系イギリス人サッスーンが
己の力を誇示するかのように、当時上海で一番高かった土地に建てられた。
5階から10階まではキャセイ・ホテルとして営業、
最上階はサッスーン本人の自宅兼事務所が置かれた。
現在の和平飯店南楼は、北楼よりも古く、別のホテルだったが、
1965年に和平飯店に事実上吸収された経歴がある。
外灘の建物は次回以降に説明するとして、
俺の今回のフィールドワークの目標は、
戦前の上海に一大勢力を築いた日本人居民の足跡を尋ねる旅である。
戦前、日本人にとって上海はパスポートなしで行ける気軽な外国であり、
学生から社会人、そして事情で日本に住めなくなった不穏分子まで、
実に様々な人種を呑み込んでいった。
その人口は2万とも3万とも言われているが、
これはあくまで登記をした人口であって、
実際の人口は今もってわからない。
太平洋戦争勃発時の1941年には、10万人以上もの日本人がいたという。
文化人を寄せ付ける魅力も兼ね備えていたらしく、
芥川龍之介や金子光晴、谷崎潤一郎、
連続テレビ小説「あぐり」で有名になった吉行エイスケ等も上海を訪れ、
様々な場所に足跡を残している。
当時の上海がどのようなものかは、彼らの旅行エッセイを読めば
よくわかるだろう。
日本人が特に多かった居住地を俗に『日本租界』と言い、
上海を左右に横断する蘇州河より北の北四川路(現四川北路)や
呉淞路をメインロードとした地域に多く住んでいた。
しかしながら、「日本租界」と言っても日本が独自に租界を設けたことは
上海にはなく(天津や杭州には本当の日本租界は存在した)、
英米の共同租界の延長上にある「越界路」沿いに住んでいた。
日本人だらけだったので「日本租界のようだ」と言われていただけのことである。
しかし、そこままさに日本そのままだった。
彼らは日本語をしゃべり、日本式に改良された住宅に住み、
和服を着ながら日本料理屋に足を運んでいた。
正月になればおせち料理を食べ、凧を揚げ、盆には盆踊りもあったという、
そんな世界が敗戦とともになくなってはや60年近くたつ。
実は11年前に上海に留学していた時にも
「日本租界」の足跡を訪ねたことがある。
その時はまだまだ当時の建物が残っており、
特に四川北路は、昔の写真通りとあまりに変わってないので
ビックリした記憶がある。
かつて日本人と一緒に汗を流したという中国人もたくさんおり、
そこには確実に「日本」が残っていた。
彼らが持ち込んだ日本が、現在虹口地区には、もう部分的になってしまったが、
かつての住人を静かに待ってるかのように残っていた。
しかしながら、その時俺は二つの失敗をした。
一つは調べるための資料がほとんどなかったこと。
もう一つは、写真をほとんど撮らなかったことである。
それから11年の月日がたつと、当時残っていた建物も
老朽化や道路の拡張などでどんどん壊されていっている。
それは時代の流れなのである程度は仕方ないが、
せめて上海在住の先輩たちの足跡をデジタル永久保存版にしよう、
これが俺の上海赴任時に自らに与えたミッションである。
この中国・上海の発展からして、5年後に残ってるという保証はどこにもないのだから。
これを負の遺産と言う人もいる。
しかし、ここに実際名もなき日本人が住んでいた証拠がここにあり、
彼らは彼らなりに必死に生きてきたのだ。
それを負と決め付けてしまっては、彼らの霊が浮かばれないのではないか。
前置きが長くなってしまった。
外灘を少し離れ、外白渡橋(ガーデンブリッジ)を通り、虹口地区に入る。
ガーデンブリッジを渡ると、左に上海大廈、右にロシア領事館と浦江飯店が
虹口地区の門番のようにそびえ、数十年間上海の歴史を見守ってきた。
それらの建物の説明は今回は略す。時間を置いて一つ一つじっくり説明したいと思う。
浦江飯店だけを語ってもかなりの文字数になるので。
虹口地区に入ると、何気に懐かしいような気がする。
恐らく気のせいなのだが、何か不思議な感覚がするのは俺だけなのだろうか。
ガーデンブリッジを渡り終え、そのまま右に渡り、
昔アメリカ領事館やドイツ領事館があった跡に建てられた海鴎飯店を通り過ぎると、
何気にクリーム色の無機質な建物が見える。
今は「黄浦大楼」と名を変え、海軍招待所や上海銀行が入っている
あまり存在感がない古ビルが、日本人の足跡第一弾である旧日本総領事館である。
「上海歴史ガイドマップ」によると、現存のものは1911年に建てられた2代目とのこと。
その向かって左2軒目には、旧日本郵船会社の建物がそのまま残っている。
そして行き道を戻って浦江飯店の裏に回ってみる。
そこには、もういつ壊れてもおかしくないマンションのような、
古ぼけた赤い色の屋根を頂いた建物がある。
そこが旧礼査飯店(浦江飯店の前身)北楼で、
日中戦争中は日本軍によって接収され、
日本陸軍の将校クラブである「偕行社」が開かれた場所である。
現在は金山大楼として普通のマンションになっているが、
ここでも何か日本人との関わりが持てるとことは。
まだまだ続く
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今日の目標は黄浦区あたり。
携帯する本は「上海歴史ガイドブック」(右)。
租界時代の建物の位置等が地図上に書いてある本だが、
とにかくかなり詳しく、租界の足跡を調べるには絶好の本である。
まずは腹ごしらえして、バスと地下鉄を乗り継いで南京東路外灘へ。
外灘の入り口に、まるで東大寺の仁王像のようにそびえる和平飯店。
もう数十回は見ているので見飽きたかと思ったら、
改めて見てみると彫刻がきめ細かい。
和平飯店は、今更説明は不要とは思うけど、
緑のとんがり帽子が特徴的な北楼は、
別名「サッスーン・ハウス」と呼ばれ、上海の大財閥、ユダヤ系イギリス人サッスーンが
己の力を誇示するかのように、当時上海で一番高かった土地に建てられた。
5階から10階まではキャセイ・ホテルとして営業、
最上階はサッスーン本人の自宅兼事務所が置かれた。
現在の和平飯店南楼は、北楼よりも古く、別のホテルだったが、
1965年に和平飯店に事実上吸収された経歴がある。
外灘の建物は次回以降に説明するとして、
俺の今回のフィールドワークの目標は、
戦前の上海に一大勢力を築いた日本人居民の足跡を尋ねる旅である。
戦前、日本人にとって上海はパスポートなしで行ける気軽な外国であり、
学生から社会人、そして事情で日本に住めなくなった不穏分子まで、
実に様々な人種を呑み込んでいった。
その人口は2万とも3万とも言われているが、
これはあくまで登記をした人口であって、
実際の人口は今もってわからない。
太平洋戦争勃発時の1941年には、10万人以上もの日本人がいたという。
文化人を寄せ付ける魅力も兼ね備えていたらしく、
芥川龍之介や金子光晴、谷崎潤一郎、
連続テレビ小説「あぐり」で有名になった吉行エイスケ等も上海を訪れ、
様々な場所に足跡を残している。
当時の上海がどのようなものかは、彼らの旅行エッセイを読めば
よくわかるだろう。
日本人が特に多かった居住地を俗に『日本租界』と言い、
上海を左右に横断する蘇州河より北の北四川路(現四川北路)や
呉淞路をメインロードとした地域に多く住んでいた。
しかしながら、「日本租界」と言っても日本が独自に租界を設けたことは
上海にはなく(天津や杭州には本当の日本租界は存在した)、
英米の共同租界の延長上にある「越界路」沿いに住んでいた。
日本人だらけだったので「日本租界のようだ」と言われていただけのことである。
しかし、そこままさに日本そのままだった。
彼らは日本語をしゃべり、日本式に改良された住宅に住み、
和服を着ながら日本料理屋に足を運んでいた。
正月になればおせち料理を食べ、凧を揚げ、盆には盆踊りもあったという、
そんな世界が敗戦とともになくなってはや60年近くたつ。
実は11年前に上海に留学していた時にも
「日本租界」の足跡を訪ねたことがある。
その時はまだまだ当時の建物が残っており、
特に四川北路は、昔の写真通りとあまりに変わってないので
ビックリした記憶がある。
かつて日本人と一緒に汗を流したという中国人もたくさんおり、
そこには確実に「日本」が残っていた。
彼らが持ち込んだ日本が、現在虹口地区には、もう部分的になってしまったが、
かつての住人を静かに待ってるかのように残っていた。
しかしながら、その時俺は二つの失敗をした。
一つは調べるための資料がほとんどなかったこと。
もう一つは、写真をほとんど撮らなかったことである。
それから11年の月日がたつと、当時残っていた建物も
老朽化や道路の拡張などでどんどん壊されていっている。
それは時代の流れなのである程度は仕方ないが、
せめて上海在住の先輩たちの足跡をデジタル永久保存版にしよう、
これが俺の上海赴任時に自らに与えたミッションである。
この中国・上海の発展からして、5年後に残ってるという保証はどこにもないのだから。
これを負の遺産と言う人もいる。
しかし、ここに実際名もなき日本人が住んでいた証拠がここにあり、
彼らは彼らなりに必死に生きてきたのだ。
それを負と決め付けてしまっては、彼らの霊が浮かばれないのではないか。
前置きが長くなってしまった。
外灘を少し離れ、外白渡橋(ガーデンブリッジ)を通り、虹口地区に入る。
ガーデンブリッジを渡ると、左に上海大廈、右にロシア領事館と浦江飯店が
虹口地区の門番のようにそびえ、数十年間上海の歴史を見守ってきた。
それらの建物の説明は今回は略す。時間を置いて一つ一つじっくり説明したいと思う。
浦江飯店だけを語ってもかなりの文字数になるので。
虹口地区に入ると、何気に懐かしいような気がする。
恐らく気のせいなのだが、何か不思議な感覚がするのは俺だけなのだろうか。
ガーデンブリッジを渡り終え、そのまま右に渡り、
昔アメリカ領事館やドイツ領事館があった跡に建てられた海鴎飯店を通り過ぎると、
何気にクリーム色の無機質な建物が見える。
今は「黄浦大楼」と名を変え、海軍招待所や上海銀行が入っている
あまり存在感がない古ビルが、日本人の足跡第一弾である旧日本総領事館である。
「上海歴史ガイドマップ」によると、現存のものは1911年に建てられた2代目とのこと。
その向かって左2軒目には、旧日本郵船会社の建物がそのまま残っている。
そして行き道を戻って浦江飯店の裏に回ってみる。
そこには、もういつ壊れてもおかしくないマンションのような、
古ぼけた赤い色の屋根を頂いた建物がある。
そこが旧礼査飯店(浦江飯店の前身)北楼で、
日中戦争中は日本軍によって接収され、
日本陸軍の将校クラブである「偕行社」が開かれた場所である。
現在は金山大楼として普通のマンションになっているが、
ここでも何か日本人との関わりが持てるとことは。
まだまだ続く
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