きょうはとっても楽しかったね
同じようで同じではない
あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
ことしの「専光寺だより」に私の年賀状のことばを書いておきました。
きょうはとっても楽しかったね。あしたはもっと楽しくなるよね。
これは、「とっとこハム太郎」というアニメがあります。ハム太郎というのはハムスターの名まえです。ハム太郎の飼い主はロコちゃんという女の子です。そのアニメのそれぞれの話の終わりのところで、ロコちゃんが一日のことを振り返って日記をつけます。日記をつけた後に、
「きょうはとっても楽しかったね。あしたはもっと楽しくなるよね、ハム太郎。」
とハム太郎に呼びかけるのです。ハム太郎は「ヘケッ」と返事をします。それでその話は終わります。
「きょうはとっても楽しかったね」、楽しいか、楽しくないかは、その人によって違いますので、なんとも言えません。「あしたはもっと楽しくなるよね」、これも、楽しく感じるかどうかはわかりませんので、なんとも言えないのですが、よくよく考えてみますと、なんでもそうなのですが、同じことはありません。同じことがないというのは、いろいろなことを経験します。私たちは、毎日朝起きると、顔を洗って食事して、なにかして、また食事して、なにかして、食事して寝るという繰り返しをしていますが、これは、同じことは絶対していない。いつも違うのです。
なにが違うのかというと、私は毎日年を取っていきます。ですから、きのう顔を洗った私ときょう顔を洗った私とは、少なくとも一日の時間の差があります。きょうの私は、きのうの私よりも一日年を取っているわけです。ですから、きのう顔を洗ったことと、きょう顔を洗ったこととは、違うことをしている。違う経験だということです。同じではないかとおっしゃるかもしれません。同じ顔を同じように私が手で洗っているということではなくて、きのうはきのうの私が顔を洗った。きょうはきょうの私が顔を洗った。
中には洗ってない人もいるかもしれません。手抜きをするということもあります。だいぶ前のことですが、夜行列車でスキーに行きました。朝駅に着いて、顔も洗わず、歯も磨かずに食事をした。そのままスキーをしていまして、結局その日は一日顔を洗わなかった。そういうこともたびたびありましたけれども、いちおう家にいますと、朝起きて顔を洗って、食事をする。毎日同じことをしている。毎日同じことのようですが、毎日違うことをしているということもいえます。
よく聞く話ですが、何度も初恋をしていると言う人がいます。最初は幼稚園ぐらいに恋をした。それは幼稚園のときの初恋。小学校に入ってまた違う人に恋をする。小学校での初恋。中学校、高校、大学、成人になって、結婚しても恋はできるのですが、全部すべて初恋。一回目の初恋、二回目も初恋というように、それぞれが初めてだということです。すべて条件が違う。条件が違うと初めての経験だということです。
初めての経験
このことば、「きょうはとっても楽しかったね」という、これは初めてのことを経験したときのことだと思います。それで、「あしたはもっと楽しくなるよね」というのは、あしたはいままでに経験したことのないことを経験するのだということを言っているのだろうと思います。
小さい子を見ていますと、楽しく生きています。何でも楽しく感じて生きています。年を重ねてくると、だんだん楽しくなくなってくる。新鮮さを感じられなくなってくるのです。ほんとうは新鮮なのです。すべては初めてのことなのですが、よく似たことを経験するから、あまり初めてだとも思わない。それでどきどきもわくわくもしない。子どもは、経験が少ないですから、新しいことを経験していく。
私も還暦を過ぎました。ここ二、三年はいままで経験したことのないことを経験しています。おととしは蕁麻疹になりました。夏の夜でしたが、食事のあと急に体中が赤くなって、蕁麻疹が出ました。びっくりして、医者に飛んでいきました。また同じ夏ですが、こんどは食あたりをしました。一晩寝られずにふらふらになりました。
ことしになって、出血が続きました。なぜかわからない。最初は痔かなと思っていたのですが、出血が続いて、そのうち貧血になりました。ふらふらになって、もうこれ以上はだめだと思いましたので、医者に行きました。医者に、大腸の内視鏡と胃カメラ検査をしなさいと言われた。私は引っ込み思案です。初めてのことは嫌なのです。医者が言うし、やっておいたほうがいいのかなと思いながら、内視鏡の検査に行きました。どういうことをされるのかわかりませんでしたので、検査を受けることを友だちに言いますと、「私も受けた」、「私も受けた」と言う。「あれはたいへんやで」と脅されました。
みなさんの中に大腸の内視鏡の検査を受けた人もいると思うのですが、案外楽に済みました。二リットルの薬入りの水を飲んで、お腹の中のものを全部出してから検査をする。大腸の中を全部きれいにしてから内視鏡で検査をやりますが、それもすんなりいきました。ポリープが二つ見つかりました。奥のほうのポリープは小さかったので、検体を取ったときに全体が取れました。もう一つは、出口のほうに大きなポリープがありました。そのポリープに傷がついて、そこから出血をしている。それで貧血になったということでした。
胃のほうも検査をしました。事前に「胃カメラは飲み込むのがたいへんだ」という話を聞いていました。「私は全然飲めなかった」とか「麻酔をしてもらった」という話を聞いていました。医者によって上手へたがあるようですけれども、私のときは、それもすっと入りました。二回目はどうなるかわかりませんが、わりあい簡単に入りました。やはりポリープが二つ見つかりました。それは、ごく小さいものでした。検体、組織を取って調べましたら、悪性のものではないということでした。「一年後ぐらいに、また検査しましょうか」と医者に言われています。
検査の後、しばらくどうもなかったのです。実はその後、また出血しています。出血したらすぐに医者に行けばいいのですが、原因はわかっています。こんどは切ってしまえばいいのです。切ってもらおうと思うのですけれども、十一月から十二月にかけて、なんやかやと忙しいというのを理由に、嫌な医者に行かないのです。
内視鏡で大腸のポリープを切り取る手術は、日帰りでもできるのですが、大腸に穴が開く場合があり、そのときはそれこそ緊急に切開手術をしなければなりません。そのために一晩入院しなければならないという話です。
医者にどうなのかということを聞いていないので、わからないのですが、行こう、行こうと思っているうちに、年が明けて正月になりました。幸いといいますか、医者は一月八日ぐらいまで休みなので、それで休みが明けたら、手術してもらうように話を聞きに行きたいと思っています。
二日休まなければならないので、その間のお参りをどうするかということがあります。すでにお参りの予定を聞いています。「よろしい、お参りします」と言っておいて、「その日にちょっと入院しなければならないので」というのは困ります。どうしたものかと思いながら、思案しているのですが、そこそこ早いうちにやらないと、また貧血になってふらふらになるかもしれません。
家を建て替える
それと、昨年家を建て替えました。去年の正月はもちろん、七月の二日まではそんなことは思ってもいませんでした。七月三日の午後に急に家を建て替えることになりました。私はお寺とは別のところに寝起きしていますので、そこを建て替えることになりました。いずれはつぶれるのだろうと思いながら住んでいたのですが、そんなことがありました。
それからがたいへんで、四か月で建ててもらう約束で、十一月の二十六日に新しい家に引っ越しました。それまでは、寺にダンボールに詰めた荷物を運んで、寝泊まりをしていました。本来住職ですので、お寺に住まないといけないという人もあるのですが、建て替える間お寺で寝起きをしていました。
その四か月間は不便でした。毎日必要なものがどこに入れたのかわからない。なくても過ごせるものがいっぱいだということはわかりましたが、それらは何かのときに必要だというものです。
いまここで話を録音していますが、十月の報恩講にお話をしたときにも録音しようと思ったけれども、録音機がどこにあるのかわからないという状態でした。きょうは、見つけましたので、録音をとっています。
けれども、私が自分でしゃべっているテープを起こすというのはあまりうれしくない。自分の声を聞くというのは嫌なものです。いま聞いている私の声は、自分では非常にいい声だと思っているのですが、みなさんが聞いておられる声とはだいぶ違います。みなさんも同じだと思いますが、録音をした自分の声を聞きますと、いつも聞いている自分の声とは全然違うでしょう。あれが嫌なのです。上手にしゃべっていると思いながら話しているのですが、録音をあらためて聞いてみますと、なんかおかしなしゃべり方をしていますので、非常に恥ずかしいものです。
それで家を建て替えた。毎日が楽しかった。変化が非常に激しい。八月に起工式をして、十一月二十六日に引っ越したわけですから、四か月ぐらいでした。小さい家ですが、現にあるものを壊して、そこに新しく家が建つというのは、非常におもしろい。
この近所にも家が建ちつつあります。よその家はおもしろくない。あまり興味がない。向かいも新しいのですが、向かいですから、毎日見ていますけれども、中に入ってまでは見ません。へたに入るとしかられますので、見られません。
自分の家の場合は、仕事の邪魔にならないように気をつけますが、中に入って見てもだれにもしかられない。いろいろなことが次から次とありました。
毎日行っているとそうも変わらないのですが、やはり二、三日行かないとだいぶ変わっている。カメラは前から持っているのですが、小さいカメラを買いました。建築現場に行って、変わっているなと思ったら写真を撮るようにしていました。それで撮った写真がかなりたまっています。あらためて見ますと、移り変わりがよくわかります。
「この部分は、どうします」「あの部分は、どうします」と注文を聞かれます。「まあ、適当にやっといて」とは言っていたのですが、私一人の考えでできないところもあります。坊守の考えと私の考えが違いますので、私が勝手に言って、後で坊守にしかられてもつらいので、坊守に、これどうする、あれどうすると相談しながらやっていました。
床とか壁とか天井とかを張るときに、色をどうする、外壁を何にする、表をどうすると聞かれるのです。見本を持ってきます。どんなのがよろしいかと、どんなのがよろしいかと言われても、それこそ初めての経験ですから、何がどうなっているのか、何を聞かれているのかわからないこともありました。見本にあるこれを張り付けるのはわかりますが、イメージがわかない。ですから、いろいろなことを考えながら、ああやない、こうやないとやっていました。
外観は、明るい、白っぽい感じではなくて、黒っぽい感じにしようと思いました。以前にお参りに行きましたら、道路の向こう側に家が建った。そこは白い、明るい壁にされた。すると、太陽が当たると、反射がきついのです。あれは困ると言っていました。外を白くすると、反射で隣近所に迷惑がかかるかもしれないので、うちは黒っぽいのにしました。光の当たり具合によって、あまり黒っぽいとも思わないような、焦げ茶系統で統一してあります。
親戚の棟上げに行ったこともありますが、自分の家を建てるというのはなかなかできない、初めての経験で、この半年ぐらい毎日が楽しい、非常に変化がある生活をしました。私の一生で次にまた家を建てることは、まずないでしょう。
でき上がってから、新しい発見がいろいろあります。まず壁紙です。ここはこれにして、あそこはあれにしてくださいと注文しました。最初は真っ白だと思っていたのですが、最近柄が見えるようになってきました。天井をじっくり見ていますと、模様のあるクロスを張っていますので、天井の模様が見えるのです。けさもうがいをしながら天井を見るのですが、模様が見えてくるようになりました。
また御門徒のうちにお参りに行きますと、いままで全然気がつかなかったところに目が行きます。まず壁紙、ここはどんな壁紙かなと思って見る。天井はあまり見ないのですが、畳とか床とか下駄箱とかも見るわけです。ああ、ここはこういう下駄箱か。畳のへり、これもいろいろ種類があります。昔は茶色が多かった。「どんなへりにしますか」と持ってきたのを見ますと、いろいろな模様がありました。よそのおうちに行きまして、畳のへりを見ますと、いろいろなのを使ってあります。そんなところに目が行くようになりました。畳の部屋ごとにそれぞれヘリが違う。私は、「もうなんでもいい」と思っていたのですが、それぞれの家の好みによって、いろいろ考えてしているということに気づくようになりました。
それもこれも、自分で家を建てるという御縁がありましたので、いままでわからなかった、いろいろなことに気がつくようになって、おもしろいなと思っています。
万劫の初事
それから、法話を聞いていますと、「マンゴウノハツゴト」ということばをたまに聞くことがあります。これはなにかと思って調べてみたのですが、辞書に載ってなくて、出てこない。本来の意味はどういうのか、調べてもわからなかったのですが、万劫の初事と書くようです。それでその意味をすこし考えてみたいと思います。
「劫」を辞書で調べてみますと、サンスクリット語の「カルパ」に相当する音写で、劫波ともいいます。古代インドにおける最長の時間の単位で、宇宙論的時間で、梵天の一昼、つまり半日の長さを一劫ともするとあります。その長さは、人間の年に換算すると四十三億二千万年に相当するということです。
『雑阿含経』に、芥子劫と磐石劫とが説かれています。それによると、四方と高さが一由旬の鉄城があり、その中に芥子を充満し、百年に一度一粒の芥子を持ち去って、すべての芥子がなくなったとしても、まだ劫は終わっていないという。これを芥子劫といいます。
また四方一由旬ある大きな岩山があって、男がカーシー産の劫貝、カルパーサ樹で織った白氈で百年に一度払う。その結果大岩山が完全になくなっても、劫は終わっていないという。これを磐石劫といいます。
こういう説明が出ていますが、ほかの辞書を見ますと、また違った説明が載っています。いろいろな説があるようです。
万劫ですから、私たちの考えでは考えきれないほどの長さということです。万劫の初事とは一つではなくて、その万劫の間に起こることは、全部初めてのことなのだ、同じことは一つもない。すべて初めてのことなのだという意味に私には取れます。
本来の使い方は、万劫、長い間に起こることのないという意味です。そんな長い間のごく少ないチャンスしかないという意味に使うのですが、万劫の初事とは、長い間のことはすべて初めてのことなのだと、私は受け取りたいと思っています。
同じことはない
すべてのことに同じことはないと思いますので、同じことがないということのたとえに、昔私は編み物をしていたことがあります。帽子を編むために毛糸を買いに行きました。いくつか毛糸を買ってきて編んでいたら、途中でちょっと足らなくなった。同じ色の毛糸を買いに行ったのですが、ロットの番号の違うものしかない。よく似た色の毛糸を買ったのですが、そのときにロットの番号が違えば絶対同じ色はないということを聞きました。
なんでもそうなのですが、同じときに作ったものは、非常によく似たものが得られます。ところが違うときに作ったものは、同じように作っても、かならず違うものしかできない。毛糸の場合は、続けて編むと、かならず差がわかります。はっきりと色の違いが出ます。
何十年も前に購入して置いたままにしてある大きな辞書があります。つい最近それを見たのです。そうしたら、ページ数の多い本でしたから、本の側面の上とか下とか横を見ますと紙の焼け具合で色が違っていました。色が違うということは、ページによって紙が違うのです。ページ数も多く、部数もたくさん刷りますから、一ページから何ページまで刷ったら紙がなくなった。続きのページは別の紙を使って印刷した。同じときに作った紙ではなく、違うときに作った紙を使ったのでしょう。
新しいとき、印刷した直後は、色が変わっていませんから、わかりません。それが何年もしますと、自然に色が変わってきます。直接日は当たっていないのですが、やはり時間経過とともに変色します。紙が違うとどうしても変色の具合が違ってきます。
ですから、家を建てるときにカタログを見て材料を決めます。現物の見本が付いている場合もあります。これをと注文しても、見本のものとは違う時期に作っていますから、まず見本に付いているものとは違います。
ですから、すこし多めに買っておかないと、足らなくなったからといって補充しても、同じものがありませんので、意図しない模様になります。
その模様を楽しみたい場合は別ですが、編み物の場合でも、途中まで編んで、すこし足らなくなったから新しいのを買っても、そこから色が違うというのがよくわかります。
またたとえば自動車ですが、なにかにぶつけたり、こすったりします。傷を塗り直すために何種類かの塗料をブレンドするのですが、あれは見事です。ほとんどよく似た色に合わせます。それで塗ったのをみても、われわれでは見分けがつきません。
そうかと思うと、自動車メーカーの純正の補修用の塗料がありますが、それを塗ると色が違ったりということがあります。何年も乗っていますと車体の色が変わっていますから、新車のときに合わせた塗料では合いません。
というようなことがあって、まったく同じものが世の中には存在しないということを、みなさんもいろいろ経験していることと思います。
年を取る
私たちも小さい子どものころは、なにごとに対しても非常に興味、関心がありました。初めて経験することばかりですから、おもしろかった。ところが年齢を重ねてきますと、同じようなことを経験することが多くなって、なにが起こっても、あまり驚かなくなりました。
人によっては、同じことを経験していると思っているかたもありますが、私自身も年を取って、経験を積み重ねますと、よく似たことが起こると、これは以前に経験したことと同じことだ判断してしまうことがあります。よくよく考えてみますと、それぞれ条件も違います。けっして同じことではないのですが、いっしょだと判断してしまいますと、マンネリの状態になります。楽しくもなんともない。ちょっとやそっとのことでは、あまり心が踊らない、わくわくしない。
「きょうはとっても楽しかったね。あしたはもっと楽しくなるよね、ハム太郎」という、このことばで、ほんとうはわくわくするようなことが毎日起こっているのだということを思い起こさせてもらったような感じがしています。
みなさんも、これからもいろいろ経験されますので、すべてのことに興味を持って生きてくださいなどとは言いません。「すべてのことに興味を持て」と言われても、「私はそんなことを思いません」と言う人がいますので、これから経験するすべてのことは初めてのことなのだということを、ちょっと頭の隅に置いていただいたらと思います。
私もこれからだんだん衰えていきますから、年を取るということはどういうことなのかを経験していきます。年を取るということはこういうことなのだ、うん、なるほど、おもしろいなと思うかどうかはわかりません。しんどいなと思うだけかもしれません。そういう経験をこれからも積み重ねていくのだと思っています。
本日はようこそお参りいただきました。