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韓国軍の慰安婦【キム・キオック教授の近況】

2010/07/18 21:30

 

※ Camp Arirang (Documentary 1995)

 

 

8年前、韓 国軍にも慰安所があったと発表して注目された金貴玉(キム・キオック)教授。彼女のように純粋なフェミニズムの視点から慰安婦 問題にアプローチしている研究者は日本にもいるはずだ(たぶん、山下英愛あたりが近いのではないか?)。そのキム教授の近況が出ていたので紹介する。

 

「公娼制が国家が女性の性を統制したケースなら、慰安所は戦時という状況で国家よりさらに強力な力を発揮する軍が、運営の主体だ。 ・・・女性が自立したり選択する余地はなかった。 構造的にその道しか開けていない時は選択でない。 それは構造的な暴力だ」という辺りは吉見義明理論とも共通するが、キム・キオックが決定的に吉見と異なるのは、吉見のように論点をはぐらかして議論(と世間)を混乱させるような事をしない点だろう。政治とは関係なく、真面目に学問として取り組んでいる。

 

とはいえ、反日キャンペーンに利用された事で日本軍慰安婦ハルモニが手厚いサポートを得られたという側面はあるだろう。キムも書いているように、韓 国軍の慰安婦はカミングアウトすら出来ないでいる。これは産経新聞の黒田勝弘が言ったように「民族的英雄」となった「日本軍慰安婦被害者ハルモニ」と、戦時下の不幸な女性としてしか扱われない韓 国軍慰安婦の違いだろう。

 

 

 

朝鮮 戦争60周年を迎えたさる6月25日まで、彼女は誰よりも忙しい毎日を送っていた。 漢城大学校研究棟805号には放送局のカメラが訪ねてきて戦争と分断について尋ねた。 各種学術行事と原稿依頼が押し寄せた。 理由は、朝鮮 戦争を専攻した学者は多いがジェンダー視点の平和研究者として金貴玉(キム・キオック)教授はユニークな存在だからだ。 彼女は朝鮮半島分断歴史で民衆、女性が当てられた歴史的苦痛を集中的に研究し男性中心の既成政治史にバ ランスを取ってくれた。 その間その実体が全く公開されなかった北 朝鮮派遣工作員と民間人拉致に関する歴史的事実を月刊「말」と「민족21」に寄稿して注目をされた。

 

特に2002年に京都で開かれた第5回「東アジア平和と人権国際シンポジウム」で朝鮮 戦争当時韓 国軍慰安婦が存在したという論文を発表した。これは朝日新聞とオ ーマイニュースに同時に報道された。朝鮮日報を除いた国内主要日刊紙とニュースでもこの衝撃的な事実を扱った。だが、韓 国軍の恥部を触った彼女の論文はまもなく歴史の裏街道で片づけた。 国防部資料室に置かれた韓 国軍慰安婦関連資料の閲覧が禁止にされたし、マスコミは申し合わせたかのように沈黙した。 大学当局では「気を付けてくれ」という連絡がきた。

 

公然の秘密になったこの懸案は「特ダネ」を渇望した各放送会社時事プロ担当者には長らく抗えない誘惑だ。 この頃もずっと電話がかかってくる。 「韓 国軍慰安婦 問題を扱いたい」で。 だが、彼女は断る。 全てが韓 国軍慰安婦だったハルモニたちの顔公開を要求するためだ。 扇情的な観点からの横暴から彼女たちを守ること、歴史的真実のために個人の犠牲を求めないのは、知識人として彼女が守ってきた倫理だ。

 

論文は泣くが顔は笑う。菊のような妹の微笑だ。その柔らかさで、50年の頑なな時間を分解した。彼女は1996年から博士論文を書くために越南民(ウォルナムイン)の定着村の江原道(カ ンウォンド)、束草(ソクチョ)「アバイ村」で居住した。 [・・・] そんなある日、束草(ソクチョ)で越南人のキム氏をインタビューしていた時に聞き捨てに出来ない話に接した。

 

「1950年、国 連軍に逮捕されたキム氏は民間人にも関わらず人民軍に分類された。平安北道の小川で巨済島(コジェド)捕虜収容所で移送される時まで米軍部隊を付いて回って食事と洗濯の世話をしたが、この越南民が部隊には慰安対女たちがいたと言う。北の言葉遣いでなかったことは明らかだとし、南の人のようだったといった。北側で引っ張って来た女ではないとの話だ。すなわち米軍と韓 国軍が1950年の10月に休戦ラインを突破する時点で、すでに女性たちを引き連れて行ったことが分かる」

 

以後5年間キム教授はインタビューなどを通じて「直接慰安所を利用したことがある」、「軍隊に拉致されて慰安婦になった」など男女8人の証言を聴取した。最終的に韓 国陸軍本部が1956年に編纂した公文書 「後方戦史」に「固定式慰安所-特殊慰安対」と書かれた部分を発見した。この本に記載された「特殊慰安対実(実績チャート?)は1952年にソウル、江陵など4つの小隊に編成された慰安対89人が年間20万4560人の兵力を「慰安」したと記録されている。[・・・]軍の記録によれば慰安対設置の表向きの目的は「軍の士気高揚と戦闘力の損耗防止」だ。

 

[・・・]男性証言者たちに慰安婦たちがどうだったのか尋ねた。 化粧してオシャレした赤線地帯の女でなくやぼったい容貌の15~16くらいの幼い女性といった。 もちろん戦争孤児も一部いたかもしれないが、大部分が左翼賦役容疑者だったと推定される。 いわゆるアカ疑惑を受けている状況で武力を持つ軍人たちに対して慰安を断ることは死を意味した。 左翼を口実で簡単に引っ張ってくることができなかったか。 これは本質的羞恥心に触れた処懲罰であり、左翼に対する暴力的報復と見ることができる」

 

キム教授は韓 国軍慰安婦自らの声を聞けなかった。 慰安婦と推定される何人に会ったが「涙と沈黙」で答えるだけだった。 「墓で持っていく」として、翌日証言を翻することもあった。

 

ムン・某氏(1936年生まれ)は1951年当時、16才で原産沖合いにある島で女盟会議をした夜、当時の原産沖合いの女道で諜報工作活動をした北 朝鮮派遣工作員らに拉致された。その中の一人に強姦された後、強制的に慰安婦生活を強要されて子供二人まで産んだ。彼女を苦労して噂をたよりに捜して訪ねて行ったが、「戦争中、子供を産んで苦労して生きてきたことしかない」と、これ以上話すことはないと口述を拒否した。

 

1950年当時医科大学生だった女性(73)は拉致または、強要によって慰安婦になるところだった別の女性の事例だ。6・25当時ソウルに残って人民軍に協力したために国軍に逮捕された李さんは、他の女医大生3人と共に引き渡された部隊の将校4人に「配分」された。李さんは、幸い彼女を気の毒に思ったある将校の助けで解放されたが、他の3人はそれ以来、再び見ることはなかった。

 

● 国家による性暴行だ

 

 [・・・]「一部では韓 国軍慰安婦 問題に対して公娼だと断定して、再論の余地がないものと片付ける傾向がある。 国家では公娼であったかも知らないが女性の立場で韓 国軍慰安婦制度は軍による性奴隷制度だ。 公娼制が国家が女性の性を統制したケースなら、慰安所は戦時という状況で国家よりさらに強力な力を発揮する軍が、運営の主体だ。 戦争と武力の前で女性が自立したり選択する余地はなかった。 構造的にその道しか開けていない時は選択でない。 それは構造的な暴力だ」
[・・・]2002年韓 国軍慰安婦 問題が公式提起された時韓半島は沈黙した。 当時女性界、進歩男性知識人、社会学会を問わず大多数が日本極右の悪用を憂慮するだけだった。 キム教授に日本軍慰安婦 問題と連結を作らなくユ無言の圧力が加えられた。 朝鮮 戦争当時軍隊慰安婦を経験した男性は「韓 国軍慰安婦は日本人でなく、韓 国人とそのような物だから、それでも良いではないか」と弁解した。 このように家父長イデオロギー、民族主義イデオロギー、反共イデオロギーが同時に作動して韓 国軍慰安婦の真実を選別した。 キム教授は「韓 国軍慰安婦と日本軍慰安婦 問題を断絶的に考えてはいけない」という立場だ。

 

[・・・] 根深い家父長イデオロギーと二重的性文化の影響が大きい。 慰安婦被害者であるムンさんや李さんのように、徹底的に苦痛を受けながらその事実を知られることを恐れる女性たちが、明らかに、まだどこかに存在するだろう。 [・・・]国家が恥をいう自省の雰囲気が醸成されなかった状態で、自己証明を要求することは出来ない。 [・・・] まだ沢山のトラウマとともに生きているという彼女。[・・・] 体の中にダルガクゴリヌン言葉は言われた歳月の風化を耐え、詩として熟成された。 2005年から非公開ブログに書いた詩450編。 頭の中で「フヅヅク’落ちるのを書いた。 シッキムグッのような詩語で凝りを解きほぐすと、すぐに「心が強くなった」と笑う。

金貴玉は、今後も、朝鮮半島だけでなく、国際的な分断と戦争のdiasporaを中心に研究に専念する計画である。 彼女がこの時代に投げる詩(的?)問いは一つだ。「恐怖と暴力で平和を取得しようとせず、平和で、平和をもたらすことはできないのか?」 

Weekly 수유너머 7月14日 (Google Excite翻訳を修正)

 

 

 

 

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