蛭川村移住記
名古屋から蛭川村へ
名古屋市内の公団アパートに25年もいた私が、岐阜の中津川市に近い蛭川村という山村に移住したのは2003年秋のこと。9月頃から準備を始め、スズキエブリという軽バンで何十回も往復して10月末には引っ越しを完了した。
ここは名古屋から80キロほどの僻村だが、中央線沿線で中央道ICが近いため交通利便性が好く、別荘地としても人気があった。
私が移った場所もバブルの頃売り出された別荘地で、金融担保処分地として廉価に売り出されたのを実父が新聞で目に留め、私に声をかけてくれたのだ。
蛭川村は全体が花崗岩の岩盤に覆われているため耐震性の高い土地で、かつては首都移転最有力候補地と言われていた。バブル最盛期は坪10万円程の温泉付き別荘地として売り出されていたが、近年は首都移転の可能性も事実上消えて、不景気のため不動産価値も下がり、購入価格は坪1万円台だった。金は実父が遺産分けのつもりで出してくれた、といっても乗用車代金程度だ。
実は祖母の出身地が隣村の黒川というところで、縁戚も多く、蛭川は、まんざら無縁でもない土地だった。国内有数の稀少鉱物産地で、地質勉強のため度々訪れたことがあり、気味の悪い名に似合わず、とても美しい山村だと知っていた。
私は以前、有機溶剤を扱う仕事で腎臓を痛め、排泄が悪いため重い痛風に苦しみ、体調も最悪だった。常に軽い尿毒症に悩まされ、黒ずんだ顔をしていた。腎障害が治癒する可能性は、どんな医書にも書かれていなかった。
幸い家族がいないので死んでも心配がなく気楽だったが、いつ深刻な発作が起きるかもしれない病状のため、まともな仕事につけないでいて、貯金も失業保険も使い果たし、金も仕事のあてもなかった。どこかの公園にテントでも張って、ホームレス生活に入ることを真剣に考えていたほどだ。
それまで住んでいた築40年の公団アパートは、入居当初、1DK家賃が2万円程度で安く人気だったが、お定まりの天下り官僚と子会社による食い荒らしを受けて、莫大な赤字補填のため、家賃も民間相場以上の5万円近くまで上昇し、苛酷な仕事のできない私には負担が大変で、どこか安上がりな生活拠点を探さねばならなかった。
若い頃から登山に親しんだ私にとって、山の近い田舎暮らしは最高の憧れだったが、古いしがらみの強い集落では近所付き合いが大変だと思っていた。移住するには気楽な別荘地がいい。だから渡りに舟のような話で、期待に胸を膨らませた。
現地は永住家族が一組だけいる十数戸の別荘地で、標高1000mほどの岩山山麓にあたり、ときどき熊騒動が報じられるほど深い山林に囲まれた、美しい睡蓮の咲く池の前だった。土地の日当たりも良好、環境抜群、ひと目で気に入った。
1日6本のバス便、バス停まで20分。近い雑貨店まで徒歩40分、喫茶店まで徒歩50分。大きめの八百屋程度のスーパーまで1時間半といったところ。早い話が周囲に何もない。車か、最低バイクがないと生活が成り立たない。
土地の一部が50坪ほどの更地になっていたが、電気を引くことから始め、生活用水確保や排水浄化など、結構大変な作業を強いられた。できるものは全部、自分でこなさなければならなかった。
太陽光自家発電や浄化システム、メタン装置・木炭製造などに興味があったが、なにせ金がなく、100万円単位の太陽光パネルなど、とても手が出なかった。
スーパーハウス
家は当初、8畳のナガワ・スーパーハウス(エコノミー)新品を37万円で購入し、ブロックの上に据え付けるだけにした。この家はトラック一台で簡単に運べるのが特徴だ。買って、ポンと置くだけで住める。見かけはまあまあだが、住居としての基本性能はひどいものであることを住んでみて思い知らされた。
まず、入口と窓が同じ面にあって通風が全然考慮されていない。夏場、内陸性気候の直射日光に晒されると、まるでサウナだ。窓を開ければ無数の虫、害虫の洪水。田舎暮らしは虫との戦いなのだ。
天井は屋根鉄板一枚なので、日差しがあると鉄板の鯛焼き気分。強い赤外輻射でとても室内にいられない。クーラーをつけても焼け石に水程度。効いてるという感じがしない。やむをえず、屋根にブロックを並べて白く塗ったコンパネを敷いたら少し楽になった。
マイナス10度まで冷え込む蛭川の冬は凄い寒さ。暖房がなければ室温はマイナス数度になり寝られたものではない。冬山のテントもこれほど寒くない。石油ストーブ1台ではとても足りず2台必要だった。夜間も消すことができなかった。
後に天井に石膏ボードを貼り付けることで、なんとか輻射熱と寒気から、わずかに解放されたが、スーパーハウスはもう懲り懲り、アイデアは悪くないが、設計も、ナガワ営業マンも人に対する優しさ、善意が感じられない。他人には決して勧めないことにした。
電気・ガス
電気の引き入れも自分でやりたかったが、電気工事士の資格が必要ということで地元の電気屋に頼んだ。こちらで用意しなければならないのは電気引き入れ口に高さ5m程度の電柱を建て、メータ・ブレーカのついた配電盤を設置することである。
作業を手伝って施設費用は7万円、敷地内の配線は自分でやった。本当はこれも資格作業だが自家設備だから文句は出ず監査もない。トラッキングやショートを起こさないよう接続部はハンダ付けし、しっかりビニール被覆してステープルで留める。
いつか太陽光自家発電を実現したい。もちろん自作設備だ。原発に頼る電力会社に支配されるのはまっぴらだ。ソーラーセルが安くなる日を心待ちにしている。
ガスはプロパンボンベを買えばいい。テロ対策で昔のように大型ボンベは売ってくれないが、5キロタンクが1万円程度、プロパンガスは、どこのガススタンドでもキロ400円程度で充填してくれる。最近、規制が厳しくなり、昔のような安易なゴム配管が認められていないので、配ガス業者に配管を頼んでメータ契約すると高く付く。
私はガス湯沸かし器なども自分で配管していたが、その部品さえ容易に入手できなくなった。プロパンガスは使いにくいというのが実感だ。
ホームセンターで売られるカセットガスはキロ260円程度のものがあり安いが、カセットの頻繁な交換が必要で、火力も小さく現実的でない。
可能なら自家メタンガス製造をしたいが、有機物の安定供給がないと無理がある。養鶏・養豚農家にはぜひ挑戦してもらいたい。屎尿をタンクでメタン発酵させ、揮発するガスに重いフタで圧力をかけて利用する。廃棄汚水は浄化槽で曝気処理すればよい。
水騒動
複数の別荘地開発業者が地権者として入り組む土地で、この別荘地の道路権・水利権を持つのは事実上倒産状態の「コスモ開発」という胡散臭い名古屋の業者、金融処分地を買い取って私に転売したのは「ゆーゆー」という地元の業者だった。(ネットで調べたら、船井総研グループなど全国で9社もあった、ここのは社長一名だけ)
彼らが利害で対立し、解決をみないうちに土地を売ったため、私は道路・水利権のない土地を買わされた形になり、コスモの社長が突然、予告もなく強制封鎖に来て、パトカーが二台来る大騒動になったことがあった。
結局、私の強硬な抗議に、「ゆーゆー」が「コスモ開発」に道路・水利権を30万円支払う形で決着がついたが、いずれの業者の無責任さにも怒りがこみあげた。
水道を引くにあたって、施設分担金としてコスモから50万円を要求され、蛭川村分担金と併せて80万近く支払わねばならないことになり、あまりに馬鹿馬鹿しいので、「ゆーゆー」社長の薦めで井戸を掘ることにした。
井戸は専門業者に頼んでボーリングすると100万円単位の仕事となるが、土建・造園業者に頼めば、ユンボを使って5m程度の井戸を20万円程度で作ってくれる。ここも地元業者に約4mの浅井戸を掘ってもらい1.5トン容量ほどの良く水の出る井戸ができた。
当然、配管は自分で施設した。システムの知識がなかったので、500リットルのポリタンクを高いところにおき、適宜ポンプで汲み上げて落差を利用してホースで配管していたが、圧力が弱く、冬場、長いビニール管が凍結し使い物にならなかった。そこで、ホームセンターを覗いたら寺田式浅井戸ポンプというのが4万円程度で売られていたので無理して購入、2キロのポンプ圧に耐える配管を塩ビ管で作り直したら、すばらしく快調に使えるようになった。塩ビ配管は切って糊付けするだけの易しい仕事だった。
しかし、当初、出たのは泥水ばかり、汲みだしても汲みだしても泥水以外出なかった。結局、飲料水は山から汲んでこなければならなかった。濁った井戸水は洗濯や洗い物に使ったが、当然、洗濯物が薄汚れたように仕上がった。
やがて、この泥水をガス湯沸かし器で暖めてシャワーに使ってみると、驚くほど気持ちよく暖まることに気づいた。そして、そこから十数メートルの場所に、この別荘地の使われていない温泉井戸があると知り、ようやく泥水の正体が鉱泉であることに気づいた。
後に、友人の篤志のおかげで素敵な風呂を建設することができ、これにポンタ湯と名付けた。すぐ隣の泉源は炭酸ラジウム泉と書かれていて、有名な秋田の玉川温泉と同じ。これは本当にありがたい贈り物だった。湯に浸かると肌がすべすべになり実に好く暖まり湯冷めしない。悪かった体調も湯治によって徐々に快方に向かう感じだった。黒ずんでいた皮膚が少しずつ白くなるのが分かった。きれいな水も欲しいが自家温泉も悪くない。
泥水鉱泉も、半年もすると、やがてきれいな湧水に代わったが、要は汲み上げ量が多く地下水が底を尽くと鉱泉が湧出し、普通に使っていれば湧水井戸になる理屈が分かってコントロールできるようになった。地下水はすばらしく美味しく、クセのない美しい水である。
なお、ポンタ湯は、友人の設備屋、青松氏の協力により、ノーリツ製灯油ボイラーを定価の半額、8万円で購入、浴槽は傷あり1万円の格安品、浴室は後で述べるプチハウス2畳を20万円、全部込みで30万円程度。業者に頼むと100万円以上の仕事になる。灯油ボイラーは燃料代が桁違いに安く安心して使える。維持費は月千円に満たない。一年間使用して故障皆無。十分過ぎるほど満足のゆく温泉になった。
浄化槽とEM菌
山林を拓いて生活を始めるにあたって、最大の障害が排水問題である。当地は水質が素晴らしく、有名な蛍の名所、それももっとも見事な乱舞の見られる核心部に近い。排水で水質を悪化させれば蛍を駆除してしまう。
後に知ったことだが、2002年度に排水関係法が改訂され、土地所有者の利用にあたっての排水基準値が、それまでBOD50ppmだったのが10ppmに変えられていた。これは、おおむね大規模河川の平均水質に近い。それまで水汚染の元凶が工場と自治体下水処理場だったことは棚上げされて、個人レベルで浄化負担を押しつけるものになっていた。
この値は通常浄化槽としては相当に厳しい。私も関係法に無知だったので、知識として従来のトイレ浄化槽程度で許されると思いこんでいた。
私は、生活排水をそのまま排水溝に流すのはマズイ程度の認識しかなく、アクアリウム浄化槽を作った経験を頼りに基礎的なバクテリア分解浄化槽を作って、そこを通せば解決するものと簡単に考え、容量3立米ほどのコンクリート製浄化槽を自作することにした。合併浄化槽とトイレ単独浄化槽の違いも、よく理解していなかった。
工事は友人の土耕一氏の協力で順調に進んだ。4立米のコンクリート箱をブロックで6分割し、最初の桝を沈殿槽、次を曝気槽、残りを砂利透過槽、最後を排水槽とした。曝気も循環も金をケチってオモチャのような装置だった。投入したタネ菌も、熱帯魚飼育タンクで培養したアクアリウム用光合成菌主体のもので、分解菌は自然発生して陶太されると気楽に考えていた。
数ヶ月もして屎尿が蓄積すると、排水には悪臭が漂うようになった。曝気と循環が弱いため、嫌気性腐敗を起こしてしまったのだ。風呂を増設し、排水量が多くなると事情はさらに悪化した。フタをして密閉しても、どこからか悪臭が流れてくる。蛍の川に流れ込む排水溝は悪臭のドブと化した。それは隣家のすぐ脇の側溝を流れている。
「これはマズイ」
びっくりして、ホームページで屎尿分解性のよいバクテリアの知識を教えてくれるよう頼むと、すぐに幾人かが「EM菌を使ってみたら」と書き送ってくれた。そこでEMボカシを数千円買って投入し攪拌したらやっと悪臭の発生は止まった。
投入後、10日ほどしたら、突然、菊池さんという方が訪問してこられた。自衛官風の好青年でEMBC浄化システムを研究している方だった。EM菌より優れたEMBC菌を投入すれば、屎尿は完全分解し飲用水準の排水になるという。
私は月に数万円で生活しているため金がない旨伝えたが、無償で協力してくれるとのこと。菊池さんを信じ、持参されたEMBC菌を投入し攪拌した。それから、宅急便で数回、EMBC培養液が送られてきたのを追加投入し続けた。
しばらくして我が目を疑う奇跡が起きた。屎尿のたっぷり詰まった沈殿槽に厚い放線菌膜が張り、やがて、それが消えると、ハッカのような芳香さえする菌床水に変わっていった。それを汚泥ポンプを使って循環させるうち、屎尿や紙の堆積物が消えてしまったのである。出てくる水は日々キレイになり、やがて無味無臭、飲めるほど澄み切った水に変わった。
約1年分蓄積した屎尿やトイレットペーパー、生ゴミのカスなど、あれほど大量にあった有機物が、どこを探しても見あたらなくなった。一体どこに消えたのか? 狐に抓まれたようだ。
理屈を考えれば、バクテリアによって有機物が分解され、炭酸ガス・窒素ガスや水に変わったと考えられるが、理解できないのは大量に入れてあったヤクルト容器のアルミ蓋が消失してしまったこと。無機物まで消えるのはなぜか?
後に、EMBC開発者の高島康豪氏の説明から、微生物による核融合原子転換が起きていると知り納得した。かつて、こんな理論は永久機関と同じく妄想か詐欺の世界と思われていたが、常温核融合が発見された今日ではそうではない。錬金術だって非現実的ではない。これまでの科学が、どれほど小さな世界しか知り得なかったか、思い知らされる事態を目撃したと思う。
冬の寒さと凍結
蛭川村の冬は厳しい。雪は降っても30センチ程度だが、寒気が厳しいため村中アイスバーンとなる。道路はスケートリンクのようだ。四駆であってもノーマルタイヤでは当地の坂を上ることさえできない。これまでの最低はマイナス11度だった。こうなると室温も氷点下、夜間ストーブを消しては寝られない。
厳冬期、すべての配管は凍り付き、水が使えない日々が続いた。たいていは日中になれば溶けるが、ときには3日以上、凍結が続くこともあった。毎朝の日課は、トイレの金隠しの氷を棒で叩き割り、ストーブで沸かした湯を流すところから始まる。こうしないとウンコが便器から溢れ出して悲惨な事態となる。次に室内に汲み置きしたバケツの水をタンクに入れて、おもむろに流すことになる。このとき、下水配管を10センチ以上の太管にしておかないと氷結して流れなくなる。
貯水タンクから安上がりなビニールホースで配管していたときは凍結しても破損はなかった。しかし、後に圧力の高い井戸ポンプを使うようになると、ビニールホースがすべて破裂したため塩ビ配管に切り替えた。
厚手のVP管を使い、厚さ数センチの保温材を巻いて丁寧に施工したつもりだったが、凍結が始まるとヒーターの入れてない部分は、すべて数十センチに渡ってナイフで切り裂いたように破裂した。
朝方、寝ていて「ボン!」という破裂音で目覚める。破裂箇所は昼頃になって凍結が溶けないと分からない。突然、噴水のように放水が始まり、その部分の保温材を剥がし、壊れた配管を切り取り、新しい部品に換える。それを何度繰り返したか分からない。ホームセンターの係員も配管材料を買いに来る私の顔を覚えてしまって恥ずかしい思いをした。
おおむねマイナス7度が境で、それ以下では厚い保温材も役に立たない。ヒーターが入っていれば大丈夫だが、停電でもすれば破裂してしまうし電気代がバカにならない。結局、凍結の予想される日は水を抜く作戦で、水の溜まりそうな配管に多数の水抜き用バルブをつけた。
だが、それでも次々に塩ビ配管の漏水が続いた。毎日のように、どこかが漏れている。凍結圧力のせいかエルボなど部品の接合部が抜けるのだ。いいかげん泣きたくなるほどだった。糊や施工が悪いのかと思ったが、そうではないと思い当たった。
実は、当地に移住して以来、思い当たる不思議な現象があった。靴や草履が異常に早く損耗するのだ。新品のゴム草履が半月もたずに壊れてしまう。数年は持つはずの上等のショッキングシューズでも、こちらで使うと1ヶ月で底がベロベロ剥がれだす。しまっておいた長靴を取り出すとヒビだらけ。あげく、自転車のタイヤがボロボロに分解してチューブがはみ出してきた。こんなこと普通ではありえない。
要するに、高分子化合物の分解がとてつもなく早いのだ。原因について思い当たることがあった。当地は国内有数の自然放射線地帯。温泉はすべてラジウム泉、空間ガンマ線量は全国トップ。また裏山が薬研山という国内唯一ルビーを産出したことのある稀少鉱物鉱山だ。近くに、旧通産省が設けた東濃ウラン採掘場もある。
友人の坂下栄氏から預かっているRDANというガイガー計数管でガンマ線量を測定すると名古屋市内の3倍以上あった。なお私は放射線取扱主任者資格を取得しており自称放射線専門家である。というわけで、高分子分解の秘密は放射線量にあると言いたいところだが、実は3倍程度の線量では常識的に考えて、これほどの分解能があるはずがない。何か未知の原因があるだろう思っているのである。
配管が抜けたり簡単に破裂する理由も、塩ビ管や接着剤が分解していることは確実のようだ。鉄管にすればよいが、今度はねじ切りが大変で、実用的でない。まだ当分、苦労が続きそうだ。
プチハウス
実父が見かねて、暖かい家を建てられないかと援助を申し出てくれた。もちろん金がないので、安い廉価住宅を自分で建てるしかない。
以前から、とても魅力を感じていた家があった。私は見栄えの良い高級住宅には魅力を感じない。大きな家も好きでない。「大草原の小さな家」がいい。
貴重な老木を伐採して威圧感のあるログハウスを建てる発想にも不快感があった。もう、そんな時代ではない。自分が建てるなら不要材として処分されている間伐材、それも杉が良いと決めていた。以前、加子母村で、まさしく私の好みを体現したようなモデルハウスを見つけた。「プチハウス」という。
プチハウスは加子母村、脇坂建築が製造販売している100%杉間伐材キットハウスで、1畳10万円程度の値段で注文に応じて大きさを変えられる。2×4材羽目板に仕立て、自分で組み上げるようになっている。屋根はカラートタン葺き。窓がたくさんあり室内は明るい。ベランダも付けられるようになっている。トイレや台所も増設可能。老後の夫婦隠居住まいに最適。独身者にはもったいないほどだ。
これを購入して自分で建てることにした。値段は12畳で100万円くらいだが、当地の気候を考え、厳寒地用保温仕様で110万程度。基礎を仮設用鉄パイプとし、120万円程度で作れると考えた。
2004年、もっとも寒い2月くらいに作業を始めた。脇坂建築から届いた建材の山を見て、一人で作業がこなせるのか不安で、気の遠くなるような気がした。
測量士の資格もあったので、持っていた中古の旧式トランシットで位置を定め、杭を打ち、水平を決めた。ブロックを置いて鉄パイプの舞台基礎を組んでいった。
床下が1.7mもあるのは、放射線被曝を避け、通風を良くして腐食を防止し、下から上がってくる虫や湿気を避け、床下をガラクタ置き場にする意図があった。通常の二階にすると昇降が面倒だ。結果的には大正解だった。こうしておけば建物の乾燥性が良いので長持ちするし、シロアリなどが入りにくい。床下は後に、倉庫兼作業場となった。
材料には番号がふってあり、簡単な図面を参照しながら順番に組み立てて行く。間伐材の羽目板は小さな丸太から製材してあるので非常に反りやすく、製材後わずか半月ほどで変形してしまう。一段ずつ反りの向きを変えて、全体でバランスが取れるように組み上げるのだ。
乾燥が進み反りが強くなると羽目板をはめ込むのが大変な重労働となる。そうなる前に反りと格闘しながら短時間ではめ込んでコースレッドという木ねじで留めるのである。時間との勝負なのだ。脇坂建築では二人で、わずか三日で完成させるという。私はおおよその形を作るだけで十日近くもかかった。
組立は七日くらいだが、床張り、内装、屋根や雨樋、配線など細かい作業は結構多い。一人で格闘しながら疲労困憊に陥った。それでも家の形をなしたときは、これを自分の手で作ったのかと、ひとしおの感動だった。
完全に住める状態になるには約半月を要した。寒い時期だったが、屋根と床には野断熱材を入れ、壁は四センチ厚の杉羽目板なので、それまでのスーパーハウスとは比べものにならない。ストーブ一台でも十分に暖まる。新築の杉の香り、床は節だらけだがサワラ材を張ってある。高価だが当地特産なので安く入手できるのだ。檜と同じ強度、香りの素晴らしさに大満足。自分で建築した満足感が合わさり、とても幸福な気分に浸った。
後に2×4材でベランダも増設し、屋根をかけて配管し、台所として利用するようになった。1本200円の板を60枚ほど使い、3万円程度でできた。プチハウスに用意されたオプションのサワラ材ベランダは40万円する。
トイレ増築
プチハウスにトイレはなく、夜間、寒いとき階段を下りて裏側の仮設トイレに行くのは苦痛で、戻ってきたら目が冴え渡って眠れない。面倒くさいので室内にバケツを置いて用を足すようになった。友人が来て泊まっていっても同じ苦情が出た。そんな事情で、足の弱い老いた母や祖母も階段やトイレの問題で連れてこれなかった。そこで室内にトイレを増設することにした。
構造強度の問題で内部に増設したかったが、室内が狭くなるのと臭気の問題があり、やむをえず壁を切り開いて外部に箱を設けることにした。パイプ基礎を延長し、安い2×4材を木ネジで重ねてゆく。天井は明かり取りを兼ねてビニールトタン葺き。壁を切り開いてドアを設けねばならないが、それが著しく強度を落とすことになるため、できるだけ小さくした。おかげで出入りで、さんざん頭を打ち付けるトイレができた。
便器は設備屋の青松氏に安い傷モノを探してもらったが見つからなかった。中津川のホームセンターで4万円で売られていたものを購入。ついでに前から欲しかった2万円の暖房洗浄便座付きとした。内外装・配管全部込みで約9万円ほどかかった。業者に頼めば40万円くらいだろう。自作すれば、おおむね3分の1から5分の1程度ですむ。金は家族や友人の篤志に頼った。なかなか快適なものだ。
ホタルと熊騒動
2004年6月末、ギター演奏の仕事をもらっていた講談師、田辺鶴英と娘の小麦とともに私の車で四国に公演に出て、帰りにプチハウスに泊めた。
蛭川村は東海地方指折りのホタルの名所。それも、ここから数百メートルの地点にもっとも見事な核心部がある。鶴英も小麦も、生まれて一度もホタルを見たことがないという。
夜、期待に胸を躍らせて、暗闇の山林を懐中電灯で歩いた。私は「熊が出るから気をつけろ!」と脅しのつもりで言ったが、みんな笑いながら気にもとめなかった。
暗い森を抜けると田圃があり、ところどころに青白い電球が灯っているようだった。
「ホタルだ!」 小麦が叫んだ。
その神秘的な輝きの強烈さに、みんなびっくりした。まるでネオンサインだ。見渡す限りの田圃中で点滅しながら輝いている。川辺を歩いて行くと、もっと凄い場所があった。川の屈曲点で、ネオンの洪水のように光輝が乱舞し、辺りが明るくなるほどだった。
「へー、ホタルの光、窓の雪ってウソじゃなかったんだ」
函館生まれの鶴英も、東京育ちの小麦も、このとき生まれて初めてホタルの乱舞を見た。二人とも、その場に立ちすくんで動かなくなった。
「もう満足しただろ、帰って飲もうや」
と言っても全然、動く気配がない。食い入るように光の饗宴を見つめている。彼らは2時間もそこに立ち続けていた。私は、これほどの見事な場所に、観客が他にいなかったことが、とても不思議だった。
「どうして人がいないのかな」
家に帰ると、向かいの池の上にネオンが点滅している。そこにもホタルがいたのだ。二人ともベランダに立って、いつまでも光に見とれ続けた。
鶴英親子は翌日帰ったが、さらに翌日、驚くようなニュースを聞いた。村のなかに熊が現れ、外出禁止令が出ていたというのだ。蛭川村では10年に一度ほど熊騒動があるが、今回は村の中心部に現れたので大騒ぎになったのだ。
それも我々がホタルを見に行った当日。熊は希にみるほどの大物で、数日後に車にはねられて死んだ。1.6メートル、100キロもあったそうだ。その出現場所を聞いて、さらに驚いた。私の家の向かいの森だったのだ。あのホタル見物のとき、我々のいた森のなかに彼は潜んでいた。
後に森に入って彼の足跡を確認した。それは我が家から100mの尾根にあった。
しばらくして、日本中で熊騒動が勃発した。私は散歩のため村内の笠置山に登るが、秋頃、この登山道で再び熊に遭遇した。笠置山で熊が目撃されたのは戦後初めてだった。この熊騒ぎ、全国に波及したが、何を意味するものか、まだはっきりしない。