« 台湾「霧社事件」③ | メイン | いいかげんにせんかっ!! マスコミッ!! »
2006年3月 2日
台湾「霧社事件」④
(承前)記念碑は霧社の入り口のチケット売りのスタンドから2~3分の
ところに小高い丘を背にしている。
「碧血英風」の文字を刻んだ門を入ると、20mほどのところに
「霧社山胞抗日起義紀念碑」が立っている。コンクリートのありふれた
碑で、その表と裏に大理石の碑板がついている。
そのうしろに蜂起のリーダー、モーナ・ルーダオの墓がある。
鉄平石の小片を放射状に並べた円形の石碑を背にして墓碑が安置
されている。
「莫那魯道烈士之墓」と刻んである。
日本人の感覚では、英雄の墓としてはいささかお粗末な気がしない
でもない。
お参りをすませて石段に腰を下ろした。
絶え間ないセミの鳴き声が暑さをかきたてる。
参拝の一団が階段上がってくる。
先生が小学生を引率してきたのである。
この事件の翌年に満州事変が起こり、さらに10年余りで
太平洋戦争が始まった。
この戦争にここからも多くの青年が「高砂義勇隊」として、南方の
戦線に送られて活躍した。強制でなく「志願」である。
現役の「志願兵」になったものもいる。
大分連隊に入隊したものもいる。
そして多くの青年が帰らなかった。
事件からわずか10余年で、日本人に対する恨みを取り去った
だけでなく、自ら進んで日本のために戦地に赴くとは。
統治教育のせいなのか。一人の日本人として慙愧にたえない
思いにかられる。
それにしてもこの当時、この山奥に日本人が200人余りも
住んでいたとは…。
そして殺された人々の恐怖と家族、親族の悲しみはいかばかり
だったろうか。
それから数年後に、再び霧社を訪れた。
記念碑の境内に、モーナ・ルーダオの銅像と蜂起した勇士の一団の
像が新たに立っていた。
企業集団の「統一グループ」の寄贈である。このグループは、台湾最大の
食品メーカーで、プロ野球のチームをもっている。
蜂起の一団の群像のなかに、牙をむいた犬の像がある。
犬まで戦ったのだろうか。
数年見ないうちに、モーナ・ルーダオの墓碑はかなりいたんで、うしろの
鉄平石が、いくつか剥がれ落ちたままになっている。
道路などのインフラでもそうだが、台湾では建設後の「維持」の思想が
ないのでは、と思いたくなる。
このときの霧社のメインストリートは、なぜか人の気配が少なく、
駐車した車ばかりが目につく。
あの惨劇があった「霧社公学校」は、チケット売り場の手前左側に
あったが、いまでは校舎もなにも残っていない。
さらにその手前の右側に、日本人の犠牲者を祭った立派な慰霊塔
があったが、国民党政府によって破壊された。
最近その復活の声が日本人のなかに起こっているそうだが、
現地の感情が許すまでにはなっていない。
ここ霧社では、あの事件は人々の生活にはなにも残していない。
当時の生存者はここを離れた埔l里や温泉地などに住んでいたが
現在では亡くなっている。
その子孫が、わずかにこの事件の言い伝えを話すていどである。
ところが、最近の台湾では野党の国民党の勢力が強くなり、
親日の民進党の現政権に対抗して「反日政策」を進めている。
その一環として「霧社事件」は絶好のテーマである。
ということで、これから霧社事件はクローズアップされることだろう。
昨年の11月に台湾を訪れ、台北の「228紀念館」でその思いを
強くした。
この記念館で、抗日、反日のシンボルとして「霧社事件」の
特別展を開催していたのだ。
この記念館は、本来は台湾開放によって台湾に進駐した
「国民党軍」の暴政の実態と、これに対抗した台湾人の「蜂起」を
テーマにしたものである。
国民党である馬英九・台北市長が、この記念館を「反日」に
利用したのである。国民党の暴政のすり替えである。
霧社事件の「再発見」が展開されることは、間違いないだろう。
(おわり)
投稿者 takaakira : 2006年3月 2日 11:01