『そうして戦は始まった〜開戦五日前。巻かれないゼンマイ〜』 コン、と酒杯を机上に置く音がやけに耳に残る。ほろよい気分で呆けた頭を働かせ、その理由を考えた。 「あー、もうすぐだもんな。どうりで静かなわけだ」 呟きつつ身を起こせば、いつもより客が少ない店内が見渡せた。 呆れ顔をした酒場の主人が、やれやれといった風に肩を竦める。 「そんな暢気に構えてていいのかい、セフ。親父さんは大変なんだろ?」 「親父は親父、俺は俺。それに俺が緊張したり慌てたところで、戦局が有利になるわけでもないしね」 だらしなく机上に突っ伏し、一人遊びをするように指を折る。 一、二、三、四…… 「五……」 ――ルスとの戦までに残された日数。公には一応伏せられているそれが周知のものとなるのは時間の問題だろう。 なにせ軍部に無関係な、こんな小さな酒場にまで噂が広まっているくらいなのだから。 そうぼんやり考えている内にも、酒場の前を軍人と思われる男達が走り抜けていく。 ぴりぴりとした空気に浸食されるのが嫌で、大げさに杯をあおった。 「軍部はどのくらい連れてくるつもりなんだろうねぇ」 「……さあね」 国の重鎮であるオルテ大臣、もとい俺の親父は、今頃戦前の調整で忙しくしているに違いない。 それが分かっているから、いつも以上に帰宅を避けていた。 どうせ顔を合わせた瞬間、やれ嫁がどうだこうだと説教をされるに決まっている。 「まったく、相変わらずだな。他の男どもは、嫁を得られるかもしれないっつって、大騒ぎだっていうのにさ」 「嫁ねぇ……。俺には無縁のものだな」 「無縁って……そう言ってもいられないだろう? お前の家は国で一番古い貴族の家柄なんだから、血を絶やしたら親父さんも責められちまう」 「だから、無理矢理攫われて来た女の人を口説いて、子を産ませろって? あー、やだやだ、そんな面倒なことをするくらいなら、家なんて潰れちまったほうがいいよ」 「はあ、お前さんが言うと冗談に聞こえない」 「本気だからな」 さすがに目を剥いた店主の反応を、半笑いで流す。 むしろ驚かれるほうが意外だ、と肩を竦めて見せた。 「俺が自ら進んで、傍近くに『厄介ごと』を置くと思うか?」 「女を厄介ごと扱いするのは、大陸広しといえどお前くらいだな」 「誤解を招く言い方するなって。『女を』じゃなくて『攫われてきた女の人』を、だよ。俺だって他の男と同じく、可愛い女の子は大好きさ」 ただ、わざわざ敵意を持った人間を娶ろうとは思えないだけで。 「もったいない。お前、その髭を剃って、真面目に仕事して、お貴族様っぽい喋り方をすれば、進んで嫁にきてくれる女がいるかもしれないのに」 「それ、俺じゃなくない?」 「まあそうだな」 あっさり肯定されても全く怒る気にならない。むしろ軽口を叩きあえる関係が心地よく、これが「お貴族サマ」口調とやらで崩れるくらいなら、ずっといい加減な奴でいいと思う。 そのくらい、堅苦しい空気やら、勤めやら、使命やら……とにかく責任が絡むことが苦手。 どうせ俺一人が頑張ったところで世の中は変わらないのだから、必死になるだけ馬鹿らしい。と、あの時に悟った。 「ほんと、もったいない。もう少し頑張ってみようとかさ」 「あの時の親父の努力が報われていたら、考えたかもな」 「セフ……」 窘める声が一変、慰める調子になって逆に居たたまれなくなる。 「さてと、そろそろ帰るかね」 沈みかけた陽に「たった今気付いた」風を装って立ち上がる。 代金を渡して入り口に向かう途中、後ろから呼び止める声がかかった。 「あ、そうだそうだ。お前に持っていってもらいたいもんがあったんだ」 戸棚を探った店主は、そう言って小走りに駆け寄ってきた。 ぐいと手を引かれ、掌の上に何かが乗せられる。 「これ……」 小さな人形……に見えるそれの背には、木製のゼンマイがついている。たしか以前観光できた西国の男から、店主が酒代として受け取ったとかいう、珍しい外国製の玩具だ。ゼンマイ部分を回すと、人形がかくかくと動き出す仕組みになっている。 「……どうして俺に? これはあの子の形見だろ」 見つめる内に、これを持って楽しそうに遊んでいた幼子の顔が思い出される。今はもういない、腐死で死んだ店主の子供。 「あの子は、セフに懐いてただろ」 「だからって……」 「今だから言うけどな、あの子は大きくなったらお前の嫁になりたいって言ってたんだ」 「え……?」 「はは、笑っちまうだろ。セフは大貴族だから、お前なんか嫁さんにはもらってくれねぇよって笑い飛ばしたんだが……こうなると分かってたら『きっとなれるさ』と言ってやればよかったなぁ、とか……最近は、ずっと後悔しててさ。だから、なんていうか……せめて、これだけは傍にいさせてやりたいというか……」 坊主頭の店主の目尻に、うっすらと光るものを見た。 胸の奥がぐっと締め付けられて、つられて泣きそうになる。 (……だから、嫌なんだ) 祈っても、頑張っても、救われないこんな世じゃ、大切な存在なんか作れない。 「……わかった。受け取っておく」 「ありがとう」 「俺こそ」との言葉が、胸苦しさのあまり喉に詰まる。 言う代わりに店主の肩を叩いて、今度こそ外に出た。 「お前、俺のところにくるか?」 軍人が走り抜けた後の、砂埃が舞う中。物言わぬ人形に語りかけて苦笑する。 動く、という本来の目的を欠いた様は、どこか自分に重なって見えた。 そんな風に下ばかりを向いていたのがいけなかったのか、 「うわっ!?」 「!」 突然曲がり角から飛び出してきた誰かとぶつかりそうになった。 人の気配を読むのは得意だとの自負があったから、直前まで気が付けなかったことに驚いて目を瞠る。 相手はどんな軍人かと思いきや…… 「ああ、セフ殿でしたか。驚かせてしまって、すみませんでした」 口調も醸し出す空気も柔らかい、我が国随一の薬師――ルジが、ぺこりと頭を下げた。 「いや、俺こそぼーっとしてて悪かったな。急患か?」 ルジは腕利きの薬師だから、時間を問わず多くの者に頼られる。 先日、俺の屋敷で急病人が出た時にも来てくれた。 「いえ、今はスレン様のお屋敷に薬を届けにいく途中です」 軍部の頂に立つ司令官の顔が脳裏を過ぎる。 あの男は粗野に見えて用心深いところがあるから、戦前に色々と揃えているのだろう。 「ああ、戦前だからなぁ」 ルジは国王とも繋がりがあるようだから、今更隠す必要もないか。との気安さで口にしたら、思いのほかルジが暗い顔をして俯いた。 「なんだ、ルジも『女狩り』に反対か?」 「そういう貴方は?」 ルジが質問に質問で返してくるのは珍しい。 常にはない反応に興味を引かれ、首を傾げて茶の瞳の奥を覗いた。 そこには予想以上に強い意志の光があって、また驚かされる。 「……意外と熱い男だったんだな」 「え?」 「はは、いやいや、なんでも。じゃ、気をつけて」 こんなしなびたオッサンには、若者の持つ光は強すぎる。 手を振って横をすり抜けようとしたら、少し堅い声が追いかけてきた。 「セフ殿も、どなたかを娶られるのですか」 「……俺にそんな気概があると思う?」 肩越しに振り向けば、ルジが苦しげに下唇を噛んでいるのが見えた。 「俺は、嫌です。こんなことでしか解決できないなんて、嫌だ」 路地裏とはいえ、外で語るにはあまりにも物騒な本音だ。 それに国政の中心にいる人物の息子に向かって言うべき台詞だとは思えない。 「俺、一応大臣の息子なんだけど?」 「セフ殿は、誰かを傷つける人じゃないですから」 「はは、買い被りは危ないよ。……と忠告をしたいところだけど、告げ口をするほどの根性もないから、正解だな」 「……さっきの答えは?」 「んー……俺は攫ってきた女の子を口説くくらいなら、酒でも飲んでたほうがいいや。だからといって、君みたいに助けたいと思ってるわけでもないけど」 「どうして俺が、そう思っていると?」 「君と同じく、俺も人を見る目だけは確かなのよ。あ、念のために言っておくけど、親父は地獄耳だから気をつけたほうがいいぜ」 「……その大臣が、貴方に誰かをあてがうつもりなのだと聞きました」 「安心しな……っていうのも変だけど、そういうのは『選択法』が許さないよ。まあ、でも……」 おどけた調子で肩を竦め、再び歩きだす。後半の台詞は、完全に冗談のつもりだった。 「――俺好みの気が強くて、優しくて、きれいで、でも可愛い……なーんて女の子が現れたら、どうなるか分からないけどな」 言いつつも、ありえないなと内心で苦笑する。 俺のゼンマイは錆付いて、とうの昔に回らなくなってしまったのだから。 「……現れるかもしれませんよ」 笑える冗談だ。 戦が始まる五日前――この時は、確かにそう思っていた。 |