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古市憲寿著『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)刊行記念イベント
  ―― 小熊英二・古市憲寿対談 / 2011年11月18日東京堂書
店(構成 / 宮崎直子・シノドス編集部)

「震災後の日本社会と若者」(1) ⇒ http://synodos.livedoor.biz/archives/1883807.html
「震災後の日本社会と若者」(2) ⇒ http://synodos.livedoor.biz/archives/1884961.html
「震災後の日本社会と若者」(3) ⇒ http://synodos.livedoor.biz/archives/1885407.html

■信頼が崩れた

小熊 それでは最後に、震災で何が変わったのか、について語りましょう。私は一番変わったのは、秩序に対する信頼感だと思います。

最近、高橋源一郎さんと内田樹さんがある雑誌で対談をしていて、面白いなと思ったことがあります。彼らによると、戦後は「金がすべて」でやってきたという。自分たちは68年に、「平和国家なんて嘘だ、金がすべてなんていやだ」と反抗をした。でもその後、なんとなく成功したりお金が入ったりすると、「なんとなく居心地悪いけど金がすべてでもいいかな」という気分になったという。
そこで前提になっていたのは、「原発推進派は悪者だから事故は起こさない」と思っていたことだというんです。原発推進派を「政府」や「官僚」や「自民党」や「経済界」と入れ替えても同じだけれども、大丈夫だと思っていたと。ところが今回の震災で、意外と彼らが無能だということがわかってしまった。その信頼が崩れたというのは、もしかしたら大きな変化かもしれないと私は思いました。

古市 自民党支持者でない人も、自民党という悪者に任せておけば、なんとかなるだろうとみんな思っていたということですね。そのような一種の信頼が、60代のおじさんたちの間でも崩れはじめている、と。

小熊 そうです。私の知り合いのある不動産屋は、政治意識は高くないですが、「日本政府があんなに情報を隠すとは思わなかった。あんな中国政府みたいなことをやるなんて」といっていました。こういう秩序への信頼の崩壊感覚が、これからどう出てくるかわからない。

古市 なるほど。

小熊 もちろんこの20年間、なんかおかしい、日本はだんだん崩れはじめている、とみんな薄々感じてはいた。けれども、まあ服も電気製品も買えるし、なんとかなるだろうという感じだった。ところが、本当に大丈夫だろうかという密かな不安のレベルが、ある水域を越えた。原発問題で、「政府のいうことは信用できない」という感覚は一般的なものになった。それが世論の7割が脱原発を支持するといったところに現れてきていると思います。

■デモと投票行動

古市 しかし多くの人が密かな不安を抱いていたとしても、同時に僕たちは毎日の生業を続けていかなければいけないわけです。そういう意識の変化は、どのようなかたちならば社会を動かす原動力になるのでしょうか。

小熊 「どうしたら変わるか」を、「政党を作って議会で多数派をとって法律を作る」というふうにだけ考えていたら、行き詰ると思いますね。

たとえば、脱原発のデモをやっている人たちのことを、投票に行ったほうがいいんじゃないかと批判する意見がある。あるいは、どこかの政党にロビー活動するとか、新しく党を作ったりしなければ意味がないんじゃないかとか。でもデモをやっている人たちは、当面はそんなことを考えてやっているわけではない。そんなことを考えてばかりいたら、デモなんて意味がないということになるし、盛り下がってしまう。

そういう状態を、だからデモをやっている人たちは自己満足なんだとか批判する向きもあります。しかし私は、代議制民主主義という19世紀に成立したシステムを不変の前提にして考えるから、そういう批判の仕方になるんだと思いますね。

いささか極端なことをいうと、代議制民主主義というのは、もうかなり苦しいと思っています。代議制民主主義は、共同体や階級制度がしっかりしている社会のほうが成立するものなんです。議員とは「わが村の代表」であるとか、「わが労組の代表」であるとか、「労働者階級の代表」であるという意識がもたれているほうが機能するんですよ。

だけど、今どきそれはない。議員が「我々の代表」だとは思われていないんです。村とか労働者階級とかの、「我々」がなくなったからです。単に票を集めている人だと思われているにすぎない。だから何の正統性もない。

それに対して「国家という我々」を作れという話があるけれども、それだと「我々」が分裂しているのはおかしいから、一党独裁になる。それは20世紀前半に大失敗したので、どこの先進諸国も、機能不全になりながら代議制民主主義でやっている。

ではどういう制度を作ればいいのかといえば、それは簡単にはいえない。けれども、代議制民主主義が機能しなくなったときに、直接民主主義の表現形態としてデモが出てくることは必然だ、という程度のことはどんな政治学者だって認めます。

古市 一般論としてはそうでしょうね。

小熊 当たり前のことが起きているだけのことなんだから。それを適切な投票行動とか政党支持につなげるのも、悪いことではない。しかし既存の代議制民主主義と政党政治が機能不全になっているのに、それを改めないで、デモを無意味扱いするとか、無理やり既存の回路に回収することしか考えないというのは、発想が狭すぎると思いますね。

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■デモによって「空気」が変わる

古市 一方で、デモがただのガス抜き装置になってしまって、投票行動を妨げるような逆機能を持つこともありうると思います。現実には代議制民主主義が続いている以上、それがすべてではないとしても、法律や社会制度など、投票行動などの選挙という制度を通してしか動かない部分もあると思います。

小熊 もちろんそれは否定しません。ただ投票行動につながらなければデモが無意味だというわけではない、ということです。

デモで何が変わるのか、とよく聞かれます。とりあえずいえるのは、日本でデモを経験した人が大幅に増えたことです。3月以来脱原発のデモに来ている人たちは、のべ人数で10万人は超えている。もちろんこれは、投票数に直せば、比例代表区で一人当選させるくらいです。しかしそういう数字には還元できないものが変わる。

デモで世の中が変わるとかいうと、みんなものすごく大袈裟なことしか思い浮かばないみたいで、一気に100万人が集まって革命が起きるみたいなものしか可能性として認めないみたいだけれども、そういうものではない。何が変わるかというと、社会が変わるんです。

古市 そのときの社会というのは、どの意味での社会ですか。

小熊 デュルケム的な意味での社会です。個人の頭数の総計に還元できない、あるいは企業にも村にも還元できないものです。それはたぶん、「日本人の好きそうないい方」であえていえば「空気」ですね。

古市 デモによって「空気」が変わるということですか。

小熊 そうです。デモは投票行動に反映するんですか、法案が通るんですかみたいな問題の立て方は、あまり意味のあることだと私は思っていない。法律だけで社会の全部が決められているのだったら日本に自衛隊はありません。では何が決めるのかといえば、それは「社会」です。そういうものが移り変わっていくという可能性はあるわけですよ。

10万人という数は別に多くありませんが、全体が移り変わっていく場合の局部表現としてある。それはたとえば、原発に対する世論の局部表現です。10年ほど前、少年犯罪が注目された時期がありましたが、少年犯罪の数自体は大したものではなかった。けれどあれは、社会全体の不安の局部表現だったから注目されたんです。それが注目されることで、明らかに社会のほうが変わっていった。さらにいえば、10万人の経験者ができたということは、デモがこれから政治文化として定着していく可能性がある。

だから、代議制民主主義で法律を通すか、革命が起きるかしなければデモは自己満足だ、といったものではない。政治というものをとても狭く考えているから、そういう発想しか浮かばないんですよね。

古市 しかし古い枠組みでしか捉えられない人が、大多数かある一定数いるとしたならば、古い枠組みで説明していくことも必要なのではないでしょうか。

小熊 もちろんそうです。統計数字とか、雇用状況の変化とか、世論調査とかを入れて、「社会の変化」を納得してもらう必要があります。

■科学とは何か

小熊 そういう対話のために、社会科学も含めて、科学というものが手段として必要になる 。私は大学の講義で西洋近代思想の話もしますが、近代科学というのはルネッサンス期の、カトリックとプロテスタントの血で血を洗う宗教戦争から発生したんですね。神を前提にしていると、絶対正義の対立になって戦争が終わらない。それでもお互いに対話しましょうというときに、こういう実験結果があります、あなたも実験してください、同じ結果がでますよ、というかたちで近代科学がはじまったんです。信じる神が違っても、同じ結論にたどりつくはずだと。

科学がそうあるためには、反証可能性がないといけない、つまり「科学的真理」を絶対のものとして振りまわすのは科学ではないというのは、ポパーがいっている通りです。だから科学的な対話術では、必ず典拠を示して、この統計数字の出処はここですから、私の読み方がミスリーディングだと思うんだったら原典にあたってください、他のリーディングがあるんだったらあなたがやってください、それから話し合いましょうというように、対話をするわけです。

その点からいえば、私は『絶望の国の幸福な若者たち』は科学ではないと思いました。街頭でインタビューして、仮名で21歳男としか書いてない数人しか例に出ていない、母数もサンプル抽出の方法も書いていない場合には、検証と反証ができないわけですよ。

古市 デモの話にも通じてくると思いますが、逆に検証と反証を前提にしない方法でしか捉えられないこともあると思います。まさにそれは「社会」といってもいいのですが。

小熊 もちろんあります。でもその場合でも、できるだけ再検証可能な、多くの人に開かれたやり方をとるのが科学というものだと私は思っています。

もちろん、科学が絶対真理を振りまわす新しい信仰になってしまうということはよくある。今の原子力業界の人などはそうですが、自分たちが認めない人間による反証を許さないし、固定的なものの見方しかできなくなってしまう。だけど科学の歴史を見れば、19世紀にはニュートン力学と電磁力学だけで全世界を解明できると思ったのに、実験結果で光の速度が変わらないということがわかって、相対性理論が出ました。つまり、現実に適応できなくなったら、事実の前に謙虚でなければいけない。そのためには現実をよく見て調査をしたり調べたりすることが必要なんです。

自分の思い込みだけで語っていると信仰から出られない。その意味で、『絶望の国の幸福な若者たち』は、あなた自身の枠組みを当てはめているだけで、現実からあなた自身が正された経緯が見えないから、科学ではないと思ったんですよ。

■おわりに

小熊 あなたは、若くなくなったら若者論はやらないとおっしゃった。私なりに定義をすれば、未来で評価される人が若者、現在で評価される人が大人、過去で評価される人が老人です。18歳で引退したスポーツ選手は老人です。あなたはたぶん、今は若者のつもりでいるのでしょう。

古市 そうですね。

小熊 しかし経験からいっても、いろいろな人の事例を見ても、未来で評価される期間はそんなに長くないんですよ。気づいたときには、もう未来に向けて蓄積する余裕がなくなっていることも多い。

古市 余裕もなくて、すり減ったただの大人になってしまうということですか。

小熊 どんな関係でもそうですけど、この人はまだまだ未来があるという期待があるうちはうまくいくけれども、この人は今後はよくて現状維持だなと思われたときから、いろいろな問題が露呈しますね。自分自身との関係もそうです。しっかりした仕事をしてください。これは期待しております。

古市 まだ未来があるうちに、早く大人になろうと思います(笑)。対談というか小熊さんの個人ゼミになってしまいましたが、とても勉強になりました。今日はありがとうございました。

(了)

小熊英二(おぐま・えいじ) 
1962年東京都生まれ。慶應義塾大学総合政策学部教授。東京大学農学部卒業。東京大学教養学部総合文化研究科国際社会科学専攻大学院博士課程修了。主な著書に『単一民族神話の起源―<日本人>の自画像と系譜』『<日本人>の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮―植民地支配から復帰運動まで』『<民主>と<愛国>―戦後日本のナショナリズムと公共性』『1968』『私たちはいまどこにいるのか 小熊英二時評集』他。

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古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985 年東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所訪問研究員(上席)。有限会社ゼント執行役。専攻は社会学。著書に『希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想』(光文社新書)、『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)。共著に『遠足型消費の時代―なぜ妻はコストコに行きたがるのか?』(朝日新書)、『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります―僕らの介護不安に答えてください』(光文社新書)。

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