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気仙沼・打ち上げ漁船 地区民の9割が「撤去を」

津波で打ち上げられた大型漁船。連日、たくさんの人が見学に訪れる

 東日本大震災の津波で、宮城県気仙沼市鹿折地区に打ち上げられたままになっている大型漁船について、地区住民の9割が撤去を求めていることが河北新報社のアンケートで分かった。「つらい記憶を呼び起こす」というのが主な理由。一方、市外からの観光客の7割は「津波被害を伝えるため必要」などと保存を求めた。率直な住民感情と客観的な視点が交錯する中、船の針路はいまだ視界不良。市は難しいかじ取りを迫られている。

 打ち上げ船は、津波で流され、海岸から約600メートル離れたJR鹿折唐桑駅近くに上がったままになっている「第18共徳丸」(330トン)。アンケートは8月中旬、住民と観光客のそれぞれ30人に聞いた。
 住民は、27人が漁船の保存に「反対」と回答。「船がある限り、津波や火事の様子を思い出してしまう」(40代女性)、「被災者感情を無視している」(60代男性)などの理由を挙げた。
 反対論の中には「写真などのパネルにして残したらいい」(70代女性)、「1メートルぐらいのミニチュアにする手もある」(50代男性)などの提案も数件あった。
 住民で「賛成」と答えたのは3人。70代男性は「地域住民が手を合わせる場所になるし、気仙沼の観光振興にもつながる」と答えた。
 一方、市外の観光客は21人が「賛成」と回答した。「人はいつか忘れるが、モニュメントは残る」(神奈川県小田原市、40代男性)、「震災のシンボルがあれば、自治体が被災を全国に発信しやすくなる」(大阪府豊中市、30代男性)などの理由が多かった。
 「反対」は7人で、「船があるために住民は前向きになれない」(福岡県粕屋町、20代女性)と、被災者意識に寄り沿う意見が集まった。「住んでいない立場で答えることはできない」と、2人は賛否を示さなかった。
 「鎮魂の森」構想を持つ気仙沼市は、将来にわたる震災遺構として漁船の保存に前向きとみられる。ただ、この問題を性急に解決するべきテーマには据えておらず、態度を明確に示していない。
 菅原茂市長は市議会6月定例会で、「モニュメント化については地域の方々の理解を得ることが最も重要と考えている。今後とも意見交換を行い、適切に対応する」と述べている。

 <アンケートの方法> (1)震災遺構としての漁船保存に対する賛否(2)その理由−を直接面談で聞いた。対象は、住民が鹿折地区の仮設住宅に暮らす10〜90代(男15人、女15人)、観光客は漁船前を訪れた10〜80代(男19人、女11人)。

◎原爆ドーム経緯と意義/広島女学院理事長黒瀬真一郎氏に聞く

 震災や戦争の記憶を後世に伝える遺構をめぐっては、住民から賛否の声が出る例が多い。原爆の爆心地に近く、戦争の悲惨さを伝える「原爆ドーム」(広島市)も、当初は保存に消極的な意見が地元では大半を占めたという。どのようにして合意がなされたのか。経緯を知る学校法人広島女学院(同)の黒瀬真一郎理事長(71)に聞いた。

 −戦後間もないころ、保存の考えはあったか。
 「原爆投下の惨劇を思い出すとの理由で、保存を望む声は少なかった。周辺の建物の多くは復興とともに取り壊された。広島市も維持管理の費用がかかることもあり、保存に消極的だった。結論が出ないまま、10年以上も置き去りにされた」

 −保存のきっかけは。
 「16歳で亡くなった被爆少女の日記がきっかけだった。亡くなる1年前の1959年夏、『あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれる』とつづった。日記に心打たれた市民運動家が『原爆の恐ろしさを伝えるために残すべきだ』と保存を求める署名活動を始めた」
 「初めは反対意見も多かったが、平和のシンボルとしてドームの保存を求める機運が高まった。66年、市議会が保存を求める決議をしたことで、保存に道筋が付いた」

 −遺構を残すことについてどう考えるか。
 「多くの人たちが無念の死を遂げたことを語り継ぎ、悲惨な出来事を二度と繰り返さないことが最も大切なことだ。広島はドームがあることで世界に平和を発信できる」
 「気仙沼も災害の遺構があれば、説得力を持って防災の必要性を訴えることができるのではないか。人は時間がたつと過去の出来事を忘れてしまう。現状からの復興と同時に、将来も見据えて保存を考える必要がある」

 <くろせ・しんいちろう> 1941年、広島県三次市生まれ。教師として広島女学院中・高に44年間勤務。現在は法人理事長・院長。


2012年08月26日日曜日


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