自治相などを務めた元衆院議員の田川誠一氏が7日、老衰のため91歳で死去し、きょう12日、葬儀が営まれました。メディアは元新自由クラブ代表として訃報を伝えましたが、元朝日新聞記者である田川氏が政界進出後に中国報道の偏向に深くかかわったことは誰も触れていません。
元毎日新聞編集主幹の三好修氏が昭和47年に「経済往来」誌に発表して話題を呼んだ「新聞はこうして北京に屈服した」を基に振り返ります。
1964(昭和39)年4月、日本と中国は記者交換協定を結びました。当時、日中には、責任者の廖承志氏(中国共産党の対日工作の責任者)と高碕達之助氏(元通産相)のイニシアルを取った「LT貿易」と呼ばれる民間貿易協定が存在していました。日本と北京政府は国交がなかったので、記者交換協定の窓口となったのは廖氏と高碕氏の事務所でした。松村謙三、古井喜実氏ら親中派の自民党衆院議員も関与しました。日本新聞協会は政治や経済の枠組みの中で記者交換協定を結ぶことに難色を示しましたが、最終的には「新聞の自由」は守られると判断して受諾。この協定に基づいて、朝日、毎日、読売、産経、日経、西日本、共同、NHK、TBS(後に日本テレビ)の9社の記者が北京に常駐しました。
67年9月、北京政府は毎日の江頭数馬、産経の柴田穂、西日本の田中光雄の3記者に国外退去を通告しました。理由は「中国側の厳正な警告を無視し、マンガやニュースを載せて中国の文化革命を中傷した。甚だしきに至っては、ホコ先を全世界人民の指導者、心の中の赤い赤い太陽、最も敬愛する毛主席に向けていることは絶対に許せない」というものでした(産経は以後31年間、北京に支局を置きませんでした)。翌月には読売の記者が追放され、帰国中だった日本テレビの記者も再入国を拒否されました(9社から4社に)。
68年3月に古井氏、田川誠一氏らが訪中して中国側と会談。LT貿易は「覚書貿易」(MT貿易)に名を改め、日中がコミュニケを発表したのですが、このときに日中記者交換協定も改定されます。そこには「会談コミュニケに示された原則を順守し」という文言がありました。原則とは「政治3原則」と「政経不可分の原則」です。政治3原則とは
1.中国敵視政策を行わない
2.2つの中国をつくる陰謀に加わらない
3.日中国交正常化を妨げない
の3つです。つまり北京政府に批判的な報道は行わないという内容です。
古井、田川両氏は、新聞の自由にかかわるこの条件を呑みながら、日本新聞協会には一切秘密にしました。
帰国した田川氏は、北京政府のメッセンジャーとして、NHKと朝日新聞に対して「北京は陳謝を要求している」と伝えます。北京が怒った理由は、NHKが台湾を取材して放映した番組の中で「大陸反攻」というスローガンが写ったというものでした。朝日新聞はその番組をテレビ欄で紹介したという理由です。
朝日新聞は即座に謝罪し、NHKは少し遅れて謝罪文を書きました。その内容は「心ならずも忌諱に触れるような画面が出たことを遺憾とし、陳謝します。今後一層の注意を払います」というものだったそうです。
この年の6月、日経の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、11月には帰国中のNHK記者が再入国できず、70年9月には共同が追放。翌71年1月に日経と西日本が再入国するまで、北京の日本人記者は朝日の秋岡家栄記者ただ1人という時期が3カ月間ありました。
さて、田川氏らが結んだ秘密協定の存在は70(昭和45)年9月、長い中国暮らしを終えて帰国した親中派、西園寺公一氏によって明らかにされました。「てっきり、古井、田川両氏が新聞界に説明していると思っていた」というのです。
日本新聞協会の代表者は古井、田川両氏らを東京・内幸町の帝国ホテルに招いて事情を聞きました。田川氏は新聞協会に無断で「政治3原則」を受け入れたことを認めた上で「中国は日本の新聞が好意的になるかどうかで(記者の)受け入れを決める」「日中は国情が違う。中国は大きな問題、つまり台湾問題では譲れないといっているのだ。その他、毛主席に対する軽蔑、マンガ化も許せないと言っている」と北京政府の立場を代弁したのでした。
田川誠一氏は、新聞記者出身でありながら新聞の自由を北京に売り渡した政治家。そして田川氏が所属した朝日新聞社は、「政治3原則」を忠実に守ったために北京を追い出されなかった唯一の新聞社であることを、田川氏の死を機に思い起こしました。(渡辺浩)
by sam1970
【編集センターから】Editor's…