第52号
 「実名は必要だったか」

大阪女児焼死事件の報道について議論


人権と報道関西の会の例会が2月1日(木)午後6時半から大阪・北区のプロボノセンターで開かれ、約2O人が参加した。今回のテーマは去年9月にセンセーショナルに

報じられた「女児焼死事件報道の検証」で、この事件を担当する斎藤ともよ弁護士(大阪弁護土会)が報道のあリようについて報告し、被害者や容疑者二人の写真を実名、写真入リで報道するなど、犯人のように扱ったこと、警察がどのような捜査をしているのかのチェックがなく、警察のス卜ーリーに沿った報道がなされたことな

どの問題点を述べた。そして話し合いの中で去年11月、松本サリン事件で犯人扱いされた河野義行さんを招き、シンボジウムを開いた際にも問題となった「警察の見方即報道の見方」という図式が報道現場に残っており、今後も報道被害者とともにメディアなどに申し入れするなど、具体的行動が必要との意見が出された。


「じぶんはやっていない」

私は母親が逮捕された翌日の11日に、当番弁護士として留置されている東住吉暑に赴いた。警察署の前は報道陣が鈴なリで、報道のすさまじさを間近にみながら接見を申し入れたが、警察側は初めは「取リ調ごを理由に拒否した。抗議してようやく接見する事が出来た。この中で母親は「私はやっていない」「刑事さんは私の言うことを全然聞いてくれない」と訴え、「本当にやっていないのだから刑事さんの取り調べの後で、本当のことを言ったら信じてもらえるのではないか」と私に尋ねた。私が「いったん罪を認めてしまったら、後でやっていないと言っても信じてもらえなくなる」と説明すると、「では、やっていないと言います。調書にも署名しません」と答え、その後の警察、検察、裁判所でも一貫して否認した。母親は11日午後からの警察、検察の取り調べにも「やっていない」と述べ、そう記した調書も作成された。そして翌12日にはさらに新聞・テレビの報道が過熱してきてため、大阪拘置所に接見に行った際、母親にそのことを告げた。母親からは「自分はやっていない」「報道を止めさせて欲しい」という希望が出たので、母親の否認は一貫していると考えた私はその日の午後、大阪地裁の司法記者クラブで会見した。

次の朝刊では「母親は全面否認」とそれまでの紙面量とは格段に小さい扱いだが、掲載され、それ以降過熱した報道はス卜ッブした。続く13日以降は母親は東住吉署に移監され、警察側は「全面否認」に対抗するように接見拒否の姿勢できたために、接見禁止を解除する準抗告、拘留理由開示公判で争った。


「捜査内容をそのまま流すのは危険」

こうした経過の中で報道の問題として、斎藤弁護士は次の4点をあげた。容疑者二人の実名、顔写真、それに被害者の写真。これは報道する上で本当に必要なのか。

放火事犯は一般的に言っ三て公共の利害に関する事項で、報道することは仕方ないだろう。しかしもともとこのケースでは最初は失火扱いだった。失火は年間を通してもかなリの件数で、原因が分からない場合も多いのだから、警察の逮捕理由を鵜呑みにすべきではなかったのではないか。

放火事件と言うなら、放火の目撃者や燃やしたとされるボンプなど、裏付ける証拠類は見つかったのか。(見つかっていない)

借金があると報道していたが、それでは借金の返済を遅滞していたのか(実際はしていない)。

取材で得た情報をもとに、記事の大きさ、写真掲載の有無、内容の取リ扱いなどはもっとメデイア独自が判断すべきではなかったのか。捜査の段階を念頭に入れた報道がなされるべきではなかったか。つまリ警察発表時は送検前であリ、弁護士も付いていなかった。あれば弁護士に取材すべきであリ、なければ弁護士が付いていない事実も伝えるべきだ。密室とも言える捜査に基づく調べの内容をそのまま流すのは危険である。


被疑者は無罪推定を受ける立場

報告の後、参加者と討論に入ったが、「法律上、被疑者は無罪の推定を受ける立場だが、現状の報道ではそうなっていない」との指摘が続いた。また在阪のテレビ局に勤務する方からは「社内で人権問題を担当しているが、報道の競争の中で確かに被疑者の人権について目がいかない現状がある。打開策として、逮捕段階では警察だけでなく弁護士側の取材も入れることを社内でマニュアル化してはどうか」との発言があった。これに対しては「取材そのものが過熱している中で、弁護側に聞くといっても、警察の見方を裏付けるための取材にしかならない現状もある。容疑を否認していると言えばさらに悪く書かれる事の方が多いのでは」という指摘もあった。斎藤弁護土からも「私自身もそう思った。マスコミの騒ぎを前に、会見してもどう扱われるのか不安だ。また、どの程度まで記事に反論すべきか、難しい間題もあるので、会見をする事は気が重たかった。しかし母親が否認していると言う真相を知ってもらうことを強く望んだこと..黙っていたらますます書かれ放題になってしまい、たとえ無罪判決をとっても、社会的に抹殺されてしまうこと。否認していることを早く知らせなければ、家族や知人の支持を失ってしまうことも

考えられ、会見に臨んだ。やはりマスコミの犯人と決めつける報道が一番こわい」と述べた。

また松川事件の支援運動に関わったと言う参加者からは「取材、報道の技術論だけではなく、本来的に容疑者の無罪推定を受けるという法的立場がマスコミによっても切リ崩されている事にあると思う。マスコミの矛先は弱い市民ではなく、権力側に向けられるべきだ」という発言もあった。人権と報道関西の会としては、今後もこうした報道被害者の立場に立ち、問題のある記事、取材に対してはメディアへの申し入れなど具体的行動に立ち上がることを確認し合った。(関屋)


「実名、写真掲載の際は記者の署名を!」

 例会参加者の感想・意見−

2月1日夜「大阪女児焼死事件」について斎藤ともよ弁護士から克明で然し臨場感溢れる報告を聞いた。斎藤弁護士の発表に耳を傾けながら私自身が同じような事態に、

いつ陥るか分らぬという言い知れぬ不安と危惧を覚えた。憲法第34条の拘留・拘禁に対する保障という条文などどこかに行ってしまっているという感じであった。

物証がないため自白を唯一の証拠として被疑者に自白を強要する体質の警察権力、その報道を鵜呑みにして被疑者の段階で実名、写真等を発表し、被疑者のもつ基本的人権を無視して報道合戦に狂奔するマスメディアの姿。これをくいとめる有効な手段はないのかどうか、弁護士としての斎藤さんの趣意をそう受けとめた。その後の質疑、意見発表も貴重であった。報告を踏まえて、「判決が出る前の推定無罪の

原則」「憲法第38条の不利益な供述の強制禁止、自白の証拠能力」等といった問題点が出された。そしてこれらのごく当たリ前の原則が現実に通用しているものではなくて、理念、理想ではないかといえる現状に、私達は今いるという痛覚があった。

ポス卜冷戦後の世界ではあらゆる面で市場経済優先の競争原理の重視がいわれ、人間性の無視、弱者切捨て論がまかリ通るようになった。経済至上主義の跋扈である。昨年1月l7日に発生した阪神大震災のその後の経緯はこのことをあからさまに証明する。マスメディアもこの体制から自由ではない。優れたそして心あるジャーナリス卜も多いが、結局、第4の権力といわれ、筆や映像の暴力で特に弱者の人権を無視してこの体制を補完する。誤った報道に対する裁判に訴えての損害賠償請求シスアムの広範囲な確立。損害賠償額の大巾な引き上げ、私個人としてはマスメディアが被疑者の段階で実名・写真入リの報道を行う場合には、記者の最低モラルとして

署名記事にすることを原則とするよう提唱する。私達は数多くの事件を自分の目で確かめることが不可能である以上、マスメディアの報道を先ず疑うことから出発することを原点としたい。この国の全体主義的な政治的社会的潮流を痛感する今日このごろです。等質で内発性の脆弱なこの国の人々の意識の変革の困難に接するとき、尋常ならぬ危機感を抱いています。私はこの危機感思っています。

最後に会のあリ方として意見の交換、討議で参加者の意識の深化だけで終らせてはならないと思います。矢張リ、運動としての力に結集する必要があるのではないか。この場合、弁譲士でもなく、ジャーナリス卜でもない普通の市民の役割はどの辺リにあるのか、報告を聞いた者の一人として今後の私の課題とすると共に皆さんのご意見も伺ってみたいと考えます。(尾崎健蔵)


最近のメディアから

「野茂」報道の落とし穴〜「主観」「主体」的報道へ〜

アメリカ野球チーム、ドジャ-ズで活躍した野茂投手が三年間契約を結んだことで話題になった。シーズン中の野茂選手が出場した試合に関する日本で報道ぶリについて知人の米国人がこう言っていた。「野茂が投げている、野茂が打った、野茂がべンチに座っている。野茂が歩いている、野茂。野茂。野茂。野茂ばかリ出て来てゲームの内答が分からない。とても退屈だった」これは日本のマス・メディアの特質を象徴する一言でもある。ひとつの事象を集中豪雨のように大量の情報を流すが、全体構造がさっぱり分からない--。例えば、「事件」の全体構造が明確化する前に、「誰が」悪いのかを特定し、その「誰か」に関する情報をあらゆる手段で収集し、報道する。もし、「誰か」の嫌疑が晴れたら、そういう事態を作ったのは「誰か」をまた追及する。これは野茂のようなヒーロー絶賛報道を全く裏返した悪漢たたき報道と言うべきだろうか。野茂が投げたのも、打ったのも、座っていたのも、すべて客観的に観察できる事実だ。しかし、ゲームの全体像から遊離していては野茂を個別に応援する主観的な報道にしかならない。マスコミが金科玉条にしている「客観報道主義」はこうして矛盾に陥る。電子メディアの発達によって、「事実」としての情報は、篤くほど早く、しかも大量に、情報発信省の手から直接、消費者の手に届くようになった。事実が客観的に存在し、かつ氾濫する時代なのだ。こうした現実の中で、マス・メディアに求められるのは、事実を意味付けし、伝えるべき優先順位を判断する「主観的」で、「主体的」な報道ではないだろうか。(彦)


大阪女児焼死「事件」で担当弁護士にインタビュー 

大阪市東住吉区で7月、小6女児が焼死し。母親とそのパートナーにあたる男性が後日、放火殺人、詐欺未遂容疑などで逮捕、起訴された「事件」。逮捕段階で犯人視する報道がまたも繰り返され、原則匿名報道の立場で考えた場合、明らかに問題の残る事例である。当番弁護士として母親の弁護を担当する斎藤ともよさんにインタビュー、一連の警察の捜査や報道の問題点などを探った。(田仲健一) 

−新聞報道をていねいに読むと、有力な物的証拠がない。こんなに安易に逮捕されていいのでしょうか。 

斎藤 9月10日の段階で2人はいったん放火殺人の被疑事実を認めたのですが、私は翌11に初めて母親と接見し「やっていないのなら、はっきり否認すべきだ」とアドバイスしました。これを受けて、母親は同日の段階で瞥察の調書の署名を拒否、裁判官の勾留質問でも犯行を否認しています。途中揺れた時期もあリましたが、否認の態度は現在も変わっていません。にも関わらず10月1日、保険金詐欺容疑で再逮捕されてしまいました。この「事件」は犯罪の性質上、具体的な物的証拠に乏しい。調書を作成するための自白獲得を目的とした再逮捕であるのは明らかです。

−密室で行われる「自白偏重主義」の取リ調べこそ、一番問題です。 

斎藤 この「事件」では、特別抗告の際に勾留を争う書面を提出しました。それによると、警察は母親を現場へ同行させることもなく、午前中から夜11時過ぎまでカンヅメにして絞り上げています。娘が死んでショックを受けている母親に対して、娘の写真を持たせて1時間も立たせたリ、腰縄をゆすったリ、暴行に近い行為を続けています。「自白」までの過程にはたくさんの重大な問題があリ、公判で少しずつ明らかにしていくつもりです。11日の逮捕段階ではマスコミは警察惰報のみに立脚しておリ、記事化にあたって「両者の言い分」を踏まえていません。 

斎藤 警察は、まだ調書の取れていない10日の段階でマスコミに情報を流していたようです。警察情報のみに基づく報道合戦がどんどん加熱したため、本人と相談した上、11日に「母親は犯行を否認している」と記者会見しました。新聞の報道が減リ、テレビ番組で有罪を前提とするコメン卜が少なくなったのは、そのためです。 

−ワイドショーでは当初から、実行犯とされる男性より、母親を「極惑非道」視するタッチが目立ちました。「内縁関係」という語感から受け取る印象だけでテレビは母親を断罪しておリ、「無罪推定の原則」はどこにいった、と言いたい思いです。 

斎藤 「自供」−「有罪」と決めつける報道、逮捕段階での実名報道はやはリおかしい、と思います。有罪のイメージが定着してしまった中で、取リ調ベの経過を間題にして冤罪の可能性を主張しても、果たして名誉回復を果たせるでしょうか?

大阪・奈良・神戸の「連続殺人事件」報道について

◆五件目で再逮捕

5月の例会で取リ上げた大阪・奈良・神戸の「連続女性殺人事件(警察庁指定122号事件)だが、容疑者は4件の殺人などの罪で起訴され、9月25日には五件目の「児童誘拐殺人事件」で再逮捕された。この5件目の事件は発生当初に大きく報道された経緯もあリ、再逮捕時には各紙とも「事件発生以来8年ぶリに解決に向かった』と報じた。(時間の都合で参照にしたのは毎日、読売、神戸新聞です)また被害者の父親、祖母らにも取材し、「やっと墓に命日刻める」 (読売) 「無念さにじます両親」(神戸)という見出しで、コメン卜を紹介する一方、位牌に手を合せたり、墓参りをする写真が掲載された。例会で事務局からこの事件について報告したが、当初から5件の連続殺人事件の「犯人」と決めつけられた報道をされている事、別件逮捕ではないのかなど手続上の間題があるにもかかわらず、その事に触れた報道はない事、「取リ調べ中に暴行を受けた」と容疑者は言い、弁譲土が記者会見しているが、この事についても全く報道されていない(その後、読売テレビは弁護士のインタビューを放送、これを伝えている)などの問題点を指摘した。

◇物証が乏しくて なぜ次々と「解決」するのか。

私が一読者、視聴者として思うことは、各紙「物証が乏しい事件」と書かれているのに、どうして次々と「解決」していくのかの合理的な説明がないこと。5件目の事件については「声紋鑑定した結果」として「容疑者の声は強迫電話にほぼ一致」(神戸)「容疑者と同じ出身地の愛媛県大州市なまリがある」(読売)と書いてあリ、ようやく有力な証拠のようにも思える材料が提示されている。しかし声紋鑑定やなまりでどこまで本人と確認できるものなのかは、この段階ではよくわからない。

またその後、「児童を誘拐する際に小遣いを渡した」(読売)とか「現場周辺の地理をよく知っていた」(読売)などの記事も出ているが、どれも状況証拠ばかリ。疑わしいと思われる材斜を並べ立てているが、当初から犯人と決めつけた報道を見ていては、どこまで信用できるのかと疑ってしまう。

▽「容疑者(無罪推定を受ける立場)付き報道」の精神はどこに?

私はこの男性が犯人であるか否かを問うているのではない。また記事に書いてある内容が事実であるか否か(裁判になって事実でないという事が明らかになる可能性は大いにある)を問うているのでもない。あまリに警察情報に偏った報道になっている現状に対して問題を提起している。容疑者は法的には「被疑者」である。六法全書を持ち出すまでもなく、「被疑者」は「無罪推定を受ける立場」である。マスコミ各社が「容疑者付き報道」に踏み切る際、各社とも容疑者の人権をあげ、さらに踏み込んで、「無罪の推定を受ける立場」とまで言った社もあった。しかし今回の報道では当初は4件とも5件とも見出しを付け、数を競い含う過熱報道から始まり、「容疑を認めない」と言っては「したたかさ」を強調、「自供した」と言っては「裏付けを急ぐ」と警察の私設応援団のような役割をするなど、まさに犯人視報道のオン・バレ-ドに終始した。これでは「容疑者付き報道」に切リ換えても、単に呼称をつけただけの事ではないのか. 

◇捜査・取リ調ベ過程のチェックがない

この事件の容疑者は最初に窃盗容疑で逮捕された際、「小便をかけられた」「暴行を受けた」と言っている。しかしそれはほとんど報道されていない。また容疑者は全部で5件の殺人容疑等で逮捕されているが、1回目の逮捕から数えると実に5ヵ月以上に渡って取リ調ベを受けている事になる。世界に名高い「代用監獄」下の取リ調ベである。これだけ長期に渡っての調べなら、逆から言えばどんな容疑者も「落とせる」状態ではなかったのか。警察情報がこと細かに伝えられるが、こうした容疑者の権利に属する内容は全然伝えられていない。取リ調べ時間はどうなのか、内容はどうなのか。弁護土の接見はあるのか、長期の取リ調べに問題はないのか、などの情報は今のメディアから知ることはできない。先日の例会で事件を担当する記者も出席、「事件発生当初は警察からの情報が多く、自分で確かめられる情報に限りがある」と話していたが、容疑者の権利がどうなっているのかは弁護土等に聞けばわかる筈。市民社会では人権は一番弱い所から崩されていく。その一蓄弱いところの一つが容疑者の人権だが、今回の事件では露骨に無視されたと言えるのではないか。警察はこう言っているという主張は、事件報道で圧倒的な量で流されている。これに対して市民的権利の一つである容疑者の権利に対しては関心が払われていないのは問題だ。

 ◆犯罪報道についてのいくつかの思案・提案

◎当番弁護土制度が大阪でもスター卜している。例えば、当番弁護士の声の欄を設けるなどして、容疑者側から見て取リ調べの時間はどうか、弁護士は付いているのか、接見の状況はどうか、取リ調ベに問題はないのかなどの視点を確保するようにしたらどうか。

◎秘密のうちに調ベが道む現状をチェッグするという意味で警察情報を流す際には、情報を出した捜査官の名前を実名で公表し、情報の出所を明らかにする。

◎この事件では「素顔�大洲弁の坊っちゃん �女性を商品としか・・」(毎日)をはじめとした容疑者の人間、被害者の周辺の人間にスボッ卜を当てた特集記事が連載されたが、この種の「容疑者犯人視ストーリー」はやめるべき。(関屋)



ある新聞のタ刊で、国運人権小委員会が旧日本軍の従軍慰安婦問題について、日本が国家として被害者に補償すべきとの報告誓をまとめた、との記事を読んだ。この新聞はどちらかというと普段から従軍慰安婦に対して補償すべきとの立場をとっていた。紙面構成も一面トツプで扱った上に、報告書の要旨を掲載し、社会面でも関連記事を載せていた。これに対して、補償に対して否定的な新聞には報告書についての記事は載らず、後日、コラム欄で報告書に対する批判的な見解が載っただけであった。ここで問題にしたいのは、補償すべきかどうかではない。新聞社の立場によってかくも記事の取リ扱いが違うということである。つまリ、たとえ新聞が客観的な報道をしていたとしても、記事の取捨選択は新聞社が行っているということである。そうならば、そもそも新聞が客観的な記事を掲載しているか自体が疑問に思えてくる。記事の取リ扱いに新聞社の力ラーが反映されるならば、記事内反映されるならば、記事内容にも当然反映されるのではなかろうか。もちろん、記事内容が全くのでたらめである、などという気は全くない。要は、真に客観的な報道というものが果たして存在しうるかということである。新聞を読むときに注意しなければならないのは、記事の内容をうのみにするのではなく、あくまでもある新聞社の記者が書いた記事が載っているに過ぎない、と思うことではないだろうか。その意味では、署名記事は妥当な方向であろう。(太田)


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