<  2007年 08月   >
  • 年越しの夜に神招く
    [ 2007-08-31 10:59 ]
  • 花の肖像画 -植物を描いた青森の人々-
    [ 2007-08-31 09:30 ]
  • 過酷な炭の山出し作業
    [ 2007-08-24 16:45 ]
  • 集団組織したマタギ
    [ 2007-08-24 16:34 ]
  • ”津軽の母”岩木川
    [ 2007-08-21 16:53 ]
  • 『よみがえれ北前船-北国の海運と船展-』本日から開催
    [ 2007-08-15 15:24 ]
  • 夏休み子供のくに
    [ 2007-08-14 10:04 ]
年越しの夜に神招く
津軽の遺産 北のミュージアム 第4回


 津軽地方に残る文化財には、法律で保護することを定められた有名な資料だけではなく、一般にはあまり知られていないが、大変貴重な資料が数多く存在する。
 また、それらのなかにも、古文書や古い道具、工芸品、金石文、建物などの「有形」と、伝統的な行事や習俗などの「無形」の資料がある。
 どちらも、わたしたちのふるさとの歩みを知るための重要な文化財であるといえよう。そのなかの無形の文化財として、年越しに家々を訪れる神々を紹介したい。


写真1 A家の主人が玄関から、見えない「山の神サマ」を招き入れる  小山隆秀撮影


 弘前市のA家では代々、毎年12月31日の年越しの夜になると、見えない神を玄関から座敷へ招き入れる。「山の神サマ」だという。30日から、家の神棚や床の間、屋内の各所、小屋、井戸、蔵、便所などにお供えを飾り、新年を迎える準備をする。これは、市内の他家だけでなく、他地方でもよくある習俗で、それぞれ、屋内の神々が宿る場所を意識していた名残りではないかと考えられる。



写真2 A家の座敷で「山の神様」にお膳をすすめる主人 小山隆秀撮影


 ところがA家が近所の家々と大きく異なる点は、年越しの晩になると、床の間がある座敷の隅に、年越しの料理を盛った、二つのお膳を用意することである。その日の夕方、玄関の戸が開けられる。式台(しきだい)には家の主が座り、外の闇へ向かって告げるのである。「どうぞ、お入りください」と。
 目には見えないが、「山の神サマ」が来たのだ。半世紀前までは、家の前の道路まで出迎えて、赤子のようにヒモで背負うまねをして連れてきたという。
 家に入った「山の神サマ」は、座敷の二つのお膳へと招かれる。「どうぞお座りください、ゆっくりとおあがりください」と歓待されるのだ。その間、当主は神棚と仏壇を拝む。まもなく「お召し上がりになりましたか、足元を大事にお帰りください」と、主人は「山の神サマ」を再び玄関から送り出す。
 代々、年越しにA家にやってくる「山の神サマ」とは何者なのだろうか。家に来たらすぐに返されることや、「山の神サマに供えたお湯は、道路の真ん中に捨ててきた」というから、あまり歓迎される神ではなさそうだ。また、「床の間へ上げられると恐れ多くて困る神なので、部屋の隅に招く」というから、それほど高い神格ではないことがわかる。
 全国的な事例からすれば、この「山の神サマ」の送迎習俗は、他地方の「疱瘡神送り」と似ているのだ。疱瘡神(ほうそうがみ)は、恐ろしい病、疱瘡をもたらす神として、古くから全国で恐れられてきた。江戸時代の弘前藩でもたびたび疱瘡が流行ったが、災いのもととなる疱瘡神を、異界へ送り出す儀式をやった記録がある。
 奈良県や山形県では、A家と同じ作法で、年越しに家の当主が、疱瘡神を家へ招き入れ、供物を上げて返す家がある。実はA家の神棚には、さらに、風邪神サマ、ウチ神サマ、疱瘡神サマの3体が祀られてきた。これらの神々はふだん、家族を病から守り、家内安全を祈願する神だという。
 よって、年越しにやってくる「山の神サマ」は、もともとは神棚にいる風邪神や疱瘡神であったが、いつの時代にか交替してしまった可能性も考えられないだろうか。実は、このように年越しにやってきて、すぐ帰る小さな神々は、津軽の各地にいたらしい。
 1935年(昭和10年)頃まで田舎館村では、小正月1月15日の年取りに、A家のように疱瘡神と麻疹神を招き入れて帰す家があったという。



写真3 B家の玄関で訪問する神へ供えられたお膳  渡辺真路撮影


 また、つがる市木造のB家でも、代々、年越しにやってくる見えない神がいて、家の戸障子を全部開け、玄関にお膳を用意し、もてなしてから帰している。この神の名は不明だという。同様の習俗は昭和30年(1955年)代まで、青森市内でもあったようだ。ほかにもご存じの事例があれば、教えて頂きたい。
 このように古くから日本各地では、年越しには豊穣をもたらす年神(としがみ)だけでなく、歓迎されない神もやってくるという信仰があった。
 これらの来訪神を送迎する習俗は、伝染病の恐怖に脅えたふるさとの歴史的な記憶を示す、見えない無形の文化財であるといえよう。
(青森県立郷土館研究員 小山隆秀)

○一口メモ
疱瘡(ほうそう)

近代医学以前、全国各地で大変恐れられた病。原因とされる「疱瘡神」を歓待して鎮め、異世界に送り返すと病気が治ると信じられた。

※この記事は陸奥新報社の承認を得て2007年4月2日付け陸奥新報より転載したものである。
by aomori-kyodokan | 2007-08-31 10:59 | 北のミュージアム
花の肖像画 -植物を描いた青森の人々-

コスモス 新岡美樹子氏画



2007年9月22日(土)~10月21日(日)
観覧時間 9:00~18:00
会場 青森県立郷土館
主催 青森県立郷土館

■観覧料金
 ※ 通常観覧料でご覧になれます。
  一般 ……………310円
  高校・大学生……150円
  小・中学生は無料

植物の姿を実物の観察をもとに、忠実に描いた植物画が持つ魅力を紹介。

【お問い合わせ】
青森県立郷土館  電話017-777-1585
by aomori-kyodokan | 2007-08-31 09:30 | 特別展・企画展
過酷な炭の山出し作業
津軽の遺産 北のミュージアム 第3回

 山村では、木材の伐採、運搬や炭焼きなどの山仕事に従事しながら、少ない耕作地で農業を行って生計を立ててきた。このような山仕事に従事する人をヤマゴとよんでいる。今回は山間地に位置し、そのほとんどが山村である西目屋村を中心に、かつての山仕事の有様や習俗など山村文化について紹介してみたい。

■薪材の伐採と運搬

 写真1 薪材の川流し
春の雪解け水を利用して流送した薪材をヤライという柵を川に作って止め、ドバに揚げる作業
=故森山泰太郎氏アルバムより


ヤマゴは西目屋の山師(やまし)が営林署から払い下げを受けた薪材用の山林(雑木)を伐採、運搬する仕事をした。山師は親方ともよばれ、山頭(やまがしら)を八人ほど雇っていた。各山頭は割り当てられた山林を十何人ほどのヤマゴを頼んで組を組織した。一つの組がおよそ一五、六人で、山に小屋掛けして作業した。また、各集落のヤマゴが森林組合をつくり、営林署から払い下げを受け、各組合員で山分けして伐採することもあった。
 夏の土用の頃に木を切り倒して乾燥させておき、三尺七寸の長さにタマギリした。年を越して二月になるとソリで山から下ろして川に近い場所まで運んだが、急斜面をすべり降りるので非常に危険な作業であった。彼岸過ぎに雪解け水で増水した川に入れて流送し、下流のドバで揚げた。かつてヒバなどの用材を筏(いかだ)流ししたという。これを「春木流し」などといい、弘前などの町の人たちはこの流し木を購入して燃料としたものであった。

■炭焼き

写真2 炭を運ぶ娘
山の窯で作った炭は背負って里まで運ばねばならず、若い女性や子供まで動員された。 =故森山泰太郎氏アルバムより


 西目屋では山仕事として炭焼きも盛んに行われた。ほとんどの家で年中炭焼きをしたもので、特に二、三男は分家しても田畑を分けてもらうことはなく、炭焼きで生計をたてなければならなかった。焼いた炭は売るほかに米と物々交換もした。米一俵と何十俵かの炭と交換し、米一俵を得るため何日も炭焼きをしなければならなかった。
炭材は各集落で薪炭組合をつくって営林署から払い下げを受けた。最も良い材はナラで、クリやホウノキなどは良くなかった。山に炭窯を作って焼いたが、一つの窯から毎日七、八俵の炭があがった。焼いた炭は炭俵に詰め、背負って山から下ろした。これは女性、子どもも含め家族総出で行ったもので、極めて過酷な作業であった。一俵の重さは昔は三貫(約十二キロ)であったが、後に四貫になった。男性だと四俵背負い、女性でも二、三俵を背負ったものだという。西目屋の民芸品である「目屋人形」は娘が炭俵を背負っている姿を表現したものである。

■ヤマゴの習俗
山で仕事をするヤマゴは山の神を深く信仰した。旧十二月十二日は山の神の日で、この日は全員が仕事を休んだ。前日の十一日の夕方に山から下りて家に帰った。十二日の朝は神社に参詣に行き、家の神棚にお神酒とシトギを供えた。
 また、山で三つ又の木(トゲマタといった)は神様が休む木なので切ってはならないとされた。「トバ立てておくものではない」といって、木を切り倒したあとに残る棘はきれいに切り取っておく。山の神が知らずに腰掛けて尻を痛めるからだという。山に入る時は十二人で入れるものでないといい、どうしても十二人になる場合は紙に人の形を書くとか、サンスケという木の人形を作り、十三人だということにした。このことは、十二が山の神の聖なる数字であるため、これを避けたものと考えられる。



写真3 砂子瀬の民家
茅葺き屋根の民家がほとんどであった=故森山泰太郎氏所蔵アルバムより



写真4 水没前の砂子瀬集落
現在の目屋ダム建設のためこの付近一帯は水没地区となり移転した=故森山泰太郎氏所蔵アルバムより


■山村生活文化の保存
昭和三十五年に目屋ダムが完成したが、その際に砂子瀬の集落が水没地区となり移転した。目屋ダムの洪水調整や用水確保の能力が下降していることから、新しい津軽ダムの建設が現在進んでいる。そのため、砂子瀬と川原平が水没地区となり、現在、ほぼ移転を終わっている。砂子瀬の場合は二回目の移転となった。津軽ダム工事事務所では砂子瀬・川原平の両水没地区の生活文化の記録を残すための事業として「西目屋地域生活文化調査」を行うとともに、地区で使用されてきた生活用具等の保存も行っている。収集された二六〇〇点余の資料は砂川学習館(旧砂子瀬小学校)で展示や小学生の体験学習等に活用されている。
(青森県立郷土館学芸課長 成田敏)

■ひとくちメモ
『砂子瀬物語』
本県の民俗学界に多大な業績を残された故森山泰太郎氏は、砂子瀬が水没するということで昭和二十六年に民俗調査を行っている。その際の調査成果は『郷土を科学する 津軽の民俗』(陸奥新報社・一九六五)所収の「砂子瀬の民俗」や『砂子瀬物語』(津軽書房・一九六八)として刊行されている。これらは、津軽における最初の本格的な民俗誌といえるもので、現在では採集が不可能な多くの民俗資料を提供してくれる貴重な文献となっている。

この記事は陸奥新報社の許可を得て2007年3月26日付け陸奥新報より転載したものである。
by aomori-kyodokan | 2007-08-24 16:45 | 北のミュージアム | Trackback | Comments(0)
集団組織したマタギ
津軽の遺産 北のミュージアム 第2回

写真1 目屋マタギの服装=森山泰太郎氏所蔵アルバムより

 山で狩猟を行う人びとをマタギといった。マタギの語源については定かでなく、狩猟用具に又木を使用するためであるとか、狩猟を意味するアイヌ語のマトキからきたといった説がある。津軽地方では西目屋村の「目屋マタギ」や鰺ヶ沢町赤石川流域の「赤石マタギ」がよく知られたマタギであった。その他に黒石市大川原などのマタギ集落があった。 これらのマタギは、狩猟を専門職としていたわけではなく、通常は山の田畑での農業や山仕事をしながら、その合間に狩猟を行ってきた。江戸時代には藩で保護をしてお抱えマタギとし、毛皮などを上納させる代わりに米などを与えた。戦時において鉄砲組に編入
させるためであったといわれる。
 マタギが狩猟の対象としたのはクマ、タヌキなどの獣類やキジ、ヤマドリなどの鳥類で、今では制限されているカモシカもかつては対象であった。とくにクマは重要な獲物で、毛皮や肉のほかに熊胆(クマノイ)は特に貴重であった。熊胆はクマの胆のうのことで生薬の材料として高価に取引された。熊胆のことを目屋マタギは「ユウタン」、赤石マタギは「カケカラ」と呼んでいる。


写真2 目屋マタギの狩猟用具=森山泰太郎氏所蔵アルバムより

 マタギが使用する狩猟用具は、鉄砲、槍(タデという)、山刀(タテナタ、マギリなどという)などが主なもので、そのほか火薬入れ弾丸やマギリなどを収納する物入れなども持つ。マタギの服装は、冬期の狩猟が主だったので、毛皮の上衣(カッコロ)、毛皮の帽子や編み笠、毛皮の靴(ケリ)などであった。また、足にはカンジキをつけ、雪ベラを持った。雪ベラのことを目屋マタギはコナギといい、赤石マタギはコダラキという。

 狩猟の時期はクマの場合冬期が多い。津軽では春の出熊(冬眠から出てきたクマ)を主に狙う。シカリという頭を中心にしたマタギ組を組織し、追手と射手というように役割分担をして猟を行った。シカリは経験の深い指導力があることが条件で、組の中でおのずから決まっていった。
 狩猟の中でもクマの場合は非常に危険が伴った。最後の赤石マタギといわれ、約百頭のクマを獲った鰺ヶ沢町一ツ森の故大谷石之丞氏は、頬に大きな傷跡があった。これは、槍で熊と闘った際にクマの爪で顔をやられ重傷を負ったときのもので、よく死ななかったものだと述懐していた。
 マタギが山で狩猟する際には、山言葉もしくはマタギ言葉と呼ばれる言葉で話すのが慣わしであった。山言葉は各地のマタギによって異なり、赤石マタギの場合は、サルをシネカ、クマをイタジ、肉をサズミ、血をヘダレ、米をクサノミ、味噌をサネなどという。これらの中にはアイヌ語と共通するもの(マギリ、ワッカ等)が含まれているのは興味深いことである。
 マタギの組には厳しい戒律があった。これを破った者は冬の谷川で水垢離をとらされたという。例えば、山言葉をいわなかったり、山で口笛を吹いたりするなどの行為は嫌われたものであった。
 マタギが獲物を獲ったときには独特の儀礼を行った。これを、シオクリをするなどというが、その方法は門外不出とされ、外部の者にもらすと獲物が授からなくなるとされた。赤石マタギがクマを獲った場合、まず皮を剥ぐ。その皮を頭と尾を逆にしてクマの身体にかぶせ直す。これを逆さ皮といい、「頬の肉を串刺しにして山の神に供え」、といって秘密の言葉を口にして唱える(「法を唱える」という)。このような儀礼には、山の獲物は山の神からの授り物であるとか、獲物を神のもと(山)へ帰すという考え方が見られ、
アイヌの熊祭りと似ている。そして、マタギは山に入ると「山の神」の支配下におかれる。マタギの狩猟活動のほとんどは山の神に対する信仰と切り離すことはできない。

(青森県立郷土館 学芸課長 成田 敏)


写真3 赤石マタギ最後のシカリ、故大谷石之丞=当館蔵

ひと口メモ
シカリ

 津軽地方の場合、八人から十人くらいの組織集団として熊狩りをする。その中でシカリと呼ばれる統率者が中心であり、そのほかコマタギ、料理係、ハツマタギなどがいて、それぞれ役割が決まっていた。シカリは絶体的な権限を持ち狩猟中はいっさいを指揮した。

※ この記事は、陸奥新報社の承諾を受け、2007年3月19日付け陸奥新報を転載したものです。
by aomori-kyodokan | 2007-08-24 16:34 | 北のミュージアム
”津軽の母”岩木川
-津軽の遺産 北のミュージアム(1)-

 津軽地方は、動植物や岩石、考古、歴史、民俗、美術などの有形無形の文化財の宝庫である。この大地と川を巨大なミュージアム(博物館)にたとえ、貴重な遺産たちを巡る旅に出掛けてみよう。


写真1
 津軽の母と呼ばれている岩木川は津軽平野を流れ、数多くの支流が流れ込んでいる一級河川である=当館蔵


*本流延長102キロ
 岩木川は、津軽平野を流れる一級河川で、数多くの支流が流れ込んで本流となり、河口で十三湖となって日本海に注ぐ。岩木川は白神山地の雁森岳が水源である。暗門川、大川などが西目屋村で、弘前市・藤崎町付近で浅瀬石川や土淵川が平川と合流して岩木川本流となり、五所川原市付近では十川が流れ込む。他に相馬川、大蜂川、鳥谷川、今泉川、山田川など多くの支流が知られている。これら支流を含めて岩木川水系と呼んでいる。岩木川本流の延長は102キロ、流域面積は2544平方キロにも及ぶ。流域には田圃やりんご園が広がり、河口近くには湿地が広がっている。

*岩木川の野鳥
 津軽平野に雪が舞う頃になると、岩木川水系には数多くの冬鳥が飛来する。津軽半島でも著名な冬鳥の飛来地である藤崎町平川には、オオハクチョウのほかに、コガモ、マガモ、カワアイサなど多くの冬鳥が飛来し、さらにこの冬鳥を狙ってノスリなどが上空を舞っている。ここは冬ばかりでなく夏にもカルガモやエイサギなどの水辺の野鳥たちをたくさん見ることが出来る。
 ここを自然学習の拠点として「みずべの学習広場」が整備され、昆虫、鳥や湿地の植物を観察することができる。冬鳥の代表ハクチョウは、県指定の天然記念物として津軽地方では1960年に「十三湖の白鳥」が1976年には「藤崎のハクチョウ」が指定され、地元の教育委員会が中心となって保護活動が行われている。
 岩木川下流に広がるヨシ原は、野鳥の宝庫として知られている。オオセッカ、オオジュリン、コジュリン、オオヨシキリ、コヨシキリなど多くの野鳥が見られる。
 その中でも、環境省レッドデータブック絶滅危惧IB類、青森県レッドリスト最重要希少野生生物に指定されているオオセッカは、全国的に希少な種類で、限定された湿原で繁殖する。1972年に岩木川流域(ベンセ沼)でも繁殖が確認された。岩木川下流部のヨシ原は国内有数の繁殖地である。


写真2
マークオサムシ、コウチュウ目:オサムシ科
 日本国有亜種-東北地方の低地帯の湿地・泥炭地などにすむマークオサムシはサルケで冬を越す=当館蔵


*岩木川沿いの昆虫たち
 岩木川流域で、最も特記すべき昆虫はマークオサムシである。東北地方の泥炭地に局所的に分布している。津軽半島での生息確認地は、ほとんどが岩木川流域に集中している。岩木川流域では、沼や湿地の泥炭を掘り起こして乾燥させるために積んである「サルケ」の中に潜んでいる個体や、ジュースなどを使ったトラップで採集される。
 とくに「サルケ」はマークオサムシの越冬場所にもなっている。どの地域でも個体数が減少し環境省レッドデータブックでは絶滅危惧II類、青森県レッドリストでも重要希少野生生物と高いランクに指定されている。岩木川流域や十三湖は古くから好採集地として知られている。
 岩木川下流の日本海側には、多くの湖沼と湿地が点在し屏風山地域と呼ばれている。多くの特記すべき生き物が生息している。蛾類だけでも今まで600種以上確認されており、マダラミズメイガ、ギンモンミズメイガなど水草に巣を作るミズメイガの仲間やハガタウスキヨトウ、ショウブオオヨトウ、エゾチャイロヨトウ、カサイヌマアッパなどの好湿地性の蛾類も確認されている。
 また、十三湖岸のミズゴケを主とする湿地からは、18種類の土壌に生息するトビムシ類も確認されている。

*岩木川の魚
 津軽半島で最も流域の広い岩木川には、アブラハヤ、ニゴイ、ドジョウ、ナマズなど44種類が確認されている。これは同じ津軽地方の赤石川の18種などと比較してもとても多い数である。岩木川は下流部の勾配が緩やかで、支流の他に湖沼や水田の水路もあり、他の河川より魚が棲むのに適している環境である。
 これら魚は縄文時代から食糧として利用されてきた。つがる市の田小屋野貝塚からはニゴイやウグイなどが、亀ケ岡遺跡(つがる市)、オセドウ貝塚(五所川原市市浦)からはウグイが出土している。岩木川は古くから私たちの生活と深く関わっている。

(県立郷土館学芸課学芸主幹 山内智)

ひと口メモ
○サルケ
 岩木川下流域で、泥炭を四角に切り取り乾燥させ、1945年ごろまでこれを各家庭の燃料として使っていた。秋の農作業が終わると、乾燥させたサルケを売りに歩いた。

※ この記事は、陸奥新報社の承諾を受け、2007年3月5日付陸奥新報を転載したものです。なお、一部の写真は省略しています。
by aomori-kyodokan | 2007-08-21 16:53 | 北のミュージアム
『よみがえれ北前船-北国の海運と船展-』本日から開催


 郷土館では、本日から企画展『よみがえれ北前船-北国の海運と船展-』を開催しております。北日本海域で江戸前期から明治期まで活躍した北国船・弁才船 ・洋式船について、地域的な特徴、時代による変遷などを、船絵馬、船図面、図絵、船模型、船道具のほか、復元建造された「みちのく丸」を通して紹介します。



期日:8月15日(水)~9月17日(月)
観覧料金:通常料金でご覧になれます。
  一般 310円  高校・大学生 150円 小・中学生は無料
観覧時間:午前9時~午後6時
会場:青森県立郷土館
主催:青森県立郷土館・東奥日報社・みちのく北方漁船博物館・
    NPO法人あおもりみなとクラブ
企画展ウェブページ:
http://www.pref.aomori.lg.jp/kyodokan/02_tenji/02250_kitag/kitaguni.html

お問い合わせ:
 青森県立郷土館
  〒030-0802 青森市本町二丁目8-14
  電話017-777-1585 FAX017-777-1588
by aomori-kyodokan | 2007-08-15 15:24 | 特別展・企画展
夏休み子供のくに



弓ぎりでの火おこし






化石レプリカを作ろう




 夏休み子供のくには、7月29日、8月5日の日程を無事終了しました。
 29日の『今日だけは火遊びOK! 火打ち石で火をおこそう!』は、各時代の火おこしを体験しました。参加した子どもたちは、木の棒を板の穴にさして、工具のきりをもむように回して火をおこす「もみぎり」から火打ち石まで、様々な火おこしに挑戦し、昔の人にとって火おこしがいかに大変な仕事であったかということを実感していました。最後に、おこした火で固形燃料に火をつけ、ポップコーンを作りました。
 5日の『君も化石博士! かっこいい化石レプリカを作ろう2』では、参加者がスピノサウルスなどの化石を型どりして石膏を流し込んで固め、最後に筆で色づけをして化石のレプリカを完成させました。子どもたちは、自分たちの作った作品のほか、もとになった化石を紹介するカードを渡され、家におみやげとして持ち帰りました。
 今後も、当館の『子供のくに』への参加をお待ちしております。
by aomori-kyodokan | 2007-08-14 10:04 | ニュース