丸亀京極家と仁清焼 |
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[仁清焼]
その中でも、京焼の名を高めたのは、御室仁和寺の門前に窯を開いた野々村清右衛門の釜・御室窯で、御室焼、仁清焼などと呼ばれた焼物であった。仁清は丹波の北、桑田郡野々村の出身といわれ、正保4年(1646)以前頃には仁和寺門前に開窯していたと思われる。
始め、御室焼、仁和寺焼と銘されているが、万治3年(1660)になって“仁清焼物などと記され、仁清の名が高まっていった。仁清の没年は定かではないが、元禄7年ごろ亡くなったと考えられる。この仁清焼も二代になって評価が落ちて、元禄末年頃に初代仁清の弟子の尾形蘇山の乾山窯が京都を代表する窯となった。 (丸亀市立資料館/京極七代の文化と歴史展より)
野々村仁清は丹波国桑田郡野々村(現京都府美山町)の出身で、本名を清右衛門といいます。江戸時代初期に瀬戸で修行を積み、京都洛西の御室仁和寺の門前に御室窯を開きました。
「仁清」というのは仁和寺の仁と清右衛門の清を合わせた雅号で、仁和寺宮から使用を許されたものです。また「播磨大掾」という国司の位ももらっています。陶工にこのような名前や位が与えられるのは異例のことで、このことからも仁清の持出した技術と天賦の才覚をうかがい知ることができます。 仁清は色絵陶器の完成者とも京焼の大成者ともいわれていますが、仁和寺宮を中心とする貴族や大名らと交流を深め、それらの人々の需めに応じて華麗で典雅な作品を数多く作りました。その作品は巧みな糎櫨の技術と華麗な上絵付けに支えられた茶壷、水指、茶碗、香炉、香合などの茶道具で占められていますが、代表作といわれるものは色絵の茶壷です。その色絵茶壷の名品を数多く収集していたのが丸亀滞京極家でした。
(猪熊弦一郎現代美術館/「野々村仁清展」より)
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[丸亀京極家と仁清焼]
仁清と丸亀藩京極家との関係については明らかでありませんが、仁清の名品の多くは丸亀二代藩主京極高豊侯の時代に集められたものとみられています。高豊俣は詩歌や絵を趣味とし、白からも絵筆をとるなど文人であり、また茶人でもありました。六万余石の小藩がこれほどの名品を数多く入手できたのは、ときの藩主の文化的な素養と卓越した手腕によるものといえましょう。 (猪熊弦一郎現代美術館/「野々村仁清展」より)
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丸亀城築城四百年記念[野々村仁清展]
丸亀城は平成9年(1997)、生駒親正が現在の地に築城してから、400年の節目の年を迎えました。丸亀市はこれを記念して、「丸亀藩京極家名宝・野々村仁清展」を平成9年10月25日〜11月3日まで、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で開催しました。
この展欄会では京極家が所蔵していたといわれる国宝、重要文化財の色絵茶壷と水指の秀作あわせて七点が展示されました。特に国宝の色絵藤花文茶壷は日本陶磁器の最高傑作といわれている絶品で、これらの名品が一堂に揃うのは京極家の手を離れて初めてのことでした。
中々目にすることのできないこれらの展示を見ようと、期間中は丸亀市民を始め多数の観覧者が訪れ、展示品の前はゆっくり立止まって観ることが出来ないほどの盛況でした。
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展覧会パンフレット[写真:国宝 色絵藤花文茶壷 MOA美術館蔵]
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色絵吉野山図茶壷[福岡市美術館蔵] 色絵月梅図茶壷[東京国立博物館蔵] 色絵牡丹図水指[東京国立博物館蔵] |