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太平洋戦争は、悲惨な戦争でしたが、 かつて、日本にとって最高に幸せな時期がありました。 1902年(明治35年:桂太郎内閣当時)から1921年(大正10年:高橋是清内閣当時)までの間です。何かというと、日本とイギリスが同盟関係にあった時期です。日本とイギリスの間に日英同盟協約が締結されていて、両国は、すばらしい友好関係にありました。 1904年(明治37年)2月から翌年9月まで、満州や朝鮮をめぐって日本とロシアとの間に日露戦争が起こりましたが、日英同盟のおかげで、日露戦争では日本に勝利をもたらしました。また、1914年(大正3年)7月から1918年(大正7年)11月に至るヨーロッパを主戦場とする第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリア・イタリアの同盟国と、イギリス・フランス・ロシア等の連合国が戦った世界戦争ですが、日本は日英同盟のもと、連合国を味方し戦勝国の仲間入りをしました。(イタリアは後に連合国入りをしました) (日英同盟の締結) 日英同盟というのは、中国や朝鮮での利害が一致していた日本とイギリスが結んだ日英同盟協約に基づく同盟関係です。1902年1月30日、イギリスの要請で、ロンドンにおいて日本とイギリスの間で締結されました。 1894年(明治27年)7月から翌年4月にかけて、日本と清国(中国)の間で、朝鮮の統治をめぐって日清戦争が起きました。戦いは日本の勝利におわり、1895年4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章(りこうしょう)との間で、下関条約(日清講和条約)が結ばれて講和が成立しました。 講和の内容は、(1)清国はそれまで属国としていた朝鮮の独立を認め、(2)清国の遼東半島(りょうとうはんとう)、台湾、澎湖諸島(ぼうこしょとう)を日本に譲り、(3)賠償金2億両(テール)(当時の邦貨で約3億1000万円)を日本に支払い、(4)新たに沙市(さし)・重慶(じゅうけい)・蘇州(そしゅう)・杭州(こうしゅう)の4港を開くこと、などでした。 これによって、遼東半島が日本に割譲されることとなるや、南下政策のもと遼東半島を手に入れたかったロシアは、武力を背景にドイツ・フランスと共に条約に干渉を加えて、同半島の清国への返還を強要しました(三国干渉)。3国の連合に対抗する力がないと判断した日本政府は、この勧告を受け入れましたが、同時に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の標語に代表される国民のロシアに対する敵意の増大を背景に、軍備の拡張につとめました。 三国交渉で東洋の平和云々と言ったその舌の根も乾かないうちに、ロシア、フランス、ドイツは清国から領土を奪い始めました。日清戦争によって清国の弱体ぶりを知った列国は、あいついで清国に勢力範囲を設定していったのです(中国分割) 。ドイツが膠州湾(こうしゅうわん)と青島(ちんたお)を、そしてロシアが日本から返還させた遼東半島の旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)をそれぞれ租借し、またフランスが広州湾(こうしゅうわん)を租借し、各国はこれらの租借地を拠点に鉄道建設などを進めていきました。 「租借」とは、辞書のままでは、他国の領土を借り受けることですが、当時、実質的に、半永久的な割譲を意味しました。その結果、満州で急激にロシア化が進み、実質上全域がロシア領土になってしまったのです。 そこへイギリスも入ってきて、九竜半島(きゅうりゅうはんとう)・威海衛(いかいえい)を租借し、まさに清国は、列国による「生体解剖」のような状態になってしまいました。 アメリカは中国分割には直接加わりませんでしたが、西進政策を進め、太平洋の島々へ進出し始めました。アメリカは、1897年(明治30年)にハワイ王国を、奪うがごとく併合しました。ハワイの名曲「アロハ・オエ」は、最後の女王による盗まれた楽園への挽歌になってしまいました。翌98年には、アメリカはスペインとの米西戦争に勝利し、グアム島とフィリピンを領有し、帝国主義政策を推進しました。米西戦争によってフィリピン・グァム島を領有したアメリカは、1899年9月に国務長官ジョン=ヘイが門戸開放宣言(ジョン=ヘイの三原則)を発表し、門戸開放・機会均等・領土保全を提唱し、中国の分割への割込みと中国への経済的進出をはかりました。 1881年、ハワイ王国のカラカウア王は、アメリカによって独立を脅かされているのを訴えるために日本を訪れ、明治天皇に二つの申し入れをした。 アメリカのハワイ併合 三国干渉によって、日本に遼東半島の返還を要求したロシアが、同半島を租借したことは、日本国民のあいだに憤激をよびました。ロシアが着々と南下しつつあることは、日本にはこの上ない脅威でした。 この増大するロシアの脅威に対して、日本は1902年大海軍国の英国と日英同盟を結び、その抑制効果を期待しました。一方、イギリスは、ロシアの南下で九竜半島と威海衛の権益が侵されるのを警戒して、日本との間に同盟関係を考えました。 日本の政界には、ロシアとの間に妥協点をみいだそうとする議論もありましたが、多くは、ロシアの南下をおそれるイギリスとの提携に活路を求めようとしました。その結果、イギリスは「栄光ある孤立(The Splendid Isolation)」を捨て、わが国と日英同盟協約を結んだのです。 (日露戦争) けたはずれの軍事力と財力を誇るロシアは、小国日本の抗議或いは談判にも耳をかさず、かえって極東(*きょくとう)の兵力を増強して日本への圧迫を強化しました。たまりかねた日本は、なんとしてでも大国ロシアの脅威を排除しなければならないと、遂に1904年2月6日ロシアとの国交断絶を通告するに至りました。こうして、2月10日宣戦が布告され日露戦争が始まりました。「ロシア国家の本能は、略奪である」と、ヨーロッパで言われていたように、その略奪本能を、武力の弱い日本が、外交テーブルの上で懇願してロシア自身の自制心によって抑制してもらうというのは、不可能だったのです。 (*)極東:大体において、フィリピン以北ならびに日本およびその周辺の地域であって、韓国および台湾を含む。ヨーロッパの世界地図では、ヨーロッパが世界の真ん中にあり、韓国、日本などのアジアの地域は世界の中心から外れ、地図上、東の端(右端)にある。そのため「極東」といわれる。 日本は、ロシアの満州占領に反対するイギリス・アメリカ両国の支持をはじめ、ロシア国内の混乱(*)などもあって戦局を有利に展開しました。開戦の翌年初めには、多くの犠牲をはらってようやくロシアの根拠地旅順を陥れ、ついで奉天(ほうてん)を占領し、同年5月の日本海海戦の勝利によって、勝敗は決定しました。 (*)その当時のロシア情勢は最悪でした。1904年12月、首都ペテルブルク最大のプチロフ工場でストライキが発生。ロシア全土に政治ストライキ・軍の反乱が波及していきました。ロシア皇帝ニコライ2世は、これに対して高圧的な態度で臨みました。その結果、1905年1月22日の日曜日、ペテルブルクで忌まわしい事件が起こります。女性・子供からなる平和なデモ隊に近衛兵が発砲、結果500人以上が虐殺されました(血の日曜日事件)。これによって、ロシア国民の心は皇帝から離れてしまい、革命が勃発しました(第一次ロシア革命:1905年-1907年)。第一次ロシア革命は、戒厳令により弾圧されましたが、そのエネルギーは、第一次世界大戦が契機となって起こった第二次ロシア革命(1917年)に波及して、ロシア帝国は打倒され、ソビエト連邦が発足しました。 日本海海戦の模様です。---1905年(明治38年)5月27日、司令長官東郷平八郎率いる日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を対馬沖で発見。午後1時55分、「皇国の興廃此の一戦にあり、各自一層の奮励努力せよ」との訓練を示すZ(信号)旗を旗艦三笠に掲げて南下、北進してくるバルチック艦隊の前面を横切って一斉に砲撃を開始しました。東郷の作戦主任参謀であった海軍きっての戦略家秋山真之(あきやまさねゆき)が編み出した伊予水軍伝来ともいわれる奇策「丁字戦法」(ちょうじせんぽう:敵前急転回戦法=東郷ターン〔大反転〕)を駆使した意表をつく戦略に、バルチック艦隊は混乱に陥り、壊滅的な敗北を喫しました。ここに、海軍力を失った上に国内で革命運動が激化していたロシア帝国は、講和を決意しなければならない状況に陥りました。 日露戦争で日本はロシアに勝ちました。その勝利は、全世界を驚愕させました。なにしろ、アジアの小さな有色人種の国が、ナポレオンをすら裸同然で追い出したロシアを破ったのです。アジアの端の小国である日本が、大国ロシアに勝つことができた要因は、当時、7つの海を支配し、世界最大の植民地を持っており、世界最強の大国であったイギリスとの間に、強いパートナーシップを持っていたからです。 日露戦争では、莫大な戦費がかかりました。その戦費調達のほとんどをロンドンで行い、日本の戦時公債1000万ポンドの半分500万ポンドを購入してくれたのはイギリスでした。 日露戦争は、何から何までギリギリの戦争であったといわざるをえません。二十世紀初頭、朝鮮半島の利権の対立から、日本は大国ロシアと戦うことになります。もし、負けることになれば、朝鮮半島はロシアの手に渡り、日本が列国の仲間入りを果たすことを阻まれるどころか、他のアジアの国々のように日本も列国の植民地の一つになりかねません。負けることは許されません、しかし相手は大国ロシア。戦争当初からの日本の目的は「ロシアと引き分ける」ことだったそうです。 軍事面でも、イギリスに大きく貢献してもらえました。日本海海戦で日本がロシアのバルチック艦隊に勝利できたのは、東郷元帥の「敵前大反転」による戦法が功を奏したといわれていますが、「日英同盟」による軍事面での知られざる要因があったことを忘れてはなりません。 その第一は、日本が当時世界最強の海軍国であったイギリスの最新鋭の軍艦を何隻も購入することができたことです。軍艦の能力の差が、日露戦争の勝因のひとつでした。 もうひとつの要因は、日本はイギリスの良質な石炭を軍艦の燃料としていたことです。当時のイギリスの石炭はとても良質でほとんど黒煙が出ませんでした。ですから、その石炭を燃料に使うことができれば、軍艦は敵から発見されにくかったのです。「日英同盟」によりイギリスは、ロシアには石炭を販売せず、日本に優先的に輸出していたのです。そのため、日本の前哨部隊は、黒煙を吹き上げて洋上を進むロシアのバルチック艦隊を早期に発見できたのです。 情報面におけるイギリスの貢献も大きなものがありました。イギリスの持つ世界一の情報機関からの情報提供は、日本が戦況を有利に進めることができたことの要因のひとつでした。 しかし、長期にわたる戦争は日本の国力の許すところではなかったので、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、1905年(明治38年)9月、アメリカのポーツマスで日本全権小村寿太郎はロシア全権ウィッテと講和条約(ポーツマス条約)に調印しました。その結果、ロシアは、(1)韓国に対する日本の指導・監督権を全面的に認め、(2)清国領土内の旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道とその付属の利権を日本に譲渡し、さらに、(3)北緯50度以南の樺太と付属の諸島の譲渡、(4)沿海州とカムチャツカの漁業権を日本に認めました。 (日露戦争後の外交) 1.日本の韓国併合 日露戦争の勝利によって、日本は、満州のロシアからの脅威をしりぞけ、満州の権益を得ました。さらに、ロシアには朝鮮(大韓帝国=韓国)(今日の韓国と北朝鮮に相当する地域)を植民地化する企てもありましたので、日本は、ロシアの朝鮮における権益を日本に譲ることも求めました。朝鮮は長い間、清国の属国でしたが、日清戦争後の下関条約(日清講和条約)で、清国は朝鮮を自主独立国であることを認めました。しかし、その後はロシアの勢力が朝鮮に伸びていきました。古来より永きに渡って日本と大陸との交流におけるパイプ役を果たしてきた朝鮮半島が敵対国家ロシアに渡ることは、日本にとって戦略的に致命的な弱点を握られることを意味していたので、日本への権益譲渡を求めたのです。 ポーツマス条約で韓国の指導権をロシアに認めさせた日本は、1905年(明治38年)7月29日にアメリカと非公式の協定(桂・タフト協定)を結び、アメリカのフィリピン支配と日本の韓国支配を互いに認め合いました。同年8月12日、日英同盟の第2次改定を行い、韓国を日本の保護国とすることをイギリスに承認させました。1906年、漢城(現・ソウル)に統監府が置かれ、伊藤博文が初代統監として韓国に派遣されました。しかし、ハルビン駅頭で伊藤博文は韓国の民族運動家・安重根(あんじゅうこん)というテロリストに暗殺される事件が起こりました。この事件により、日本の韓国併合が加速化され、1910年に韓国が日本に併合されました。韓国併合とは、日韓併合、朝鮮併合ともいわれ、「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)に基づいて、日本が韓国(大韓帝国)を併合したことを指します。この韓国併合は、植民地ではなく完全な合邦国家でした。日韓併合条約により、朝鮮半島の最後の王朝・李王朝は消滅しましたが、李王家は廃止されず、王という称号もそのまま残りました。 合邦国家は、当時としては国の形として一般的でした。たとえば、ノルウェーとデンマークの同君合邦とか、スウェーデンとノルウェー、チェコとスロバキアもそうでした。そういう環境下で日本と韓国の合邦は、何の問題もありませんでした。日本としても植民地経営とは考えていなかったのです。 日本の韓国併合は、日本による韓国侵略ではなく、韓国がロシアの植民地にならないように、ロシアの脅威から守り、日本の保護国にしたものです。断じて、嫌がる韓国を無理に併合したのではありません。韓国では日韓併合について、日本は韓国に謝罪せよ!という声もありますが、どうして謝罪する必要があるのでしょうか。 2.満州権益 満州に対しては、ポーツマス条約で租借地として得た旅順・大連を中心とする遼東半島南部(関東州)を拠点に、権益を取得していきました。1906年には旅順に関東都督府を置き、ポーツマス条約で獲得した東清鉄道(長春・旅順間)の経営のために、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立しました。このような日本の南満州権益取得に対して、アメリカは門戸解放をとなえて反対し、満鉄の中立化を列国に提唱しました。これに対し日本は第2次日英同盟と、1907年と1910年に改訂された日露協約(日露協商)などによる日英・日露強調を背景に、満州権益を国際社会で承認させました。 このようななかで、1911年、清国で三民主義(「民族」の独立、「民権」の伸張、「民生」の安定)を唱える孫文らによって、専制と異民族支配とに反対する辛亥革命が起こり、翌年、清朝が滅び中華民国が成立しました。陸軍は混乱に乗じて満州の権益を強化しようとしましたが、政府(第2次桂太郎内閣)は列国の意向と国内の財政事情を考慮して、不干渉の立場をとりました。 (第一次世界大戦) ロシアという日英共通の脅威が薄れると、日本の外交は変わります。 1914年(大正3年)6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻が、当時の領土であったサラエボ(現:ボスニア・ヘルツェゴビナ)を視察中、セルビア人の青年に数度にわたり狙われたあげく、暗殺されました(サラエボ事件)。この事件をきっかけとして、第一次世界大戦が勃発しました。7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国は、ドイツの支援を受けてセルビアに宣戦を布告。一方、同じスラブ人の国家であるロシア帝国は総動員令を発しました。8月1日、ドイツはロシアに宣戦を布告。続いてロシアの同盟国フランスに宣戦布告しました。ドイツは、まずフランスを攻撃した後、ロシアとの大戦を企図し、フランスの国境沿いにある要塞群を越えるため、中立国ベルギーに侵攻して迂回する作戦を採りました。このため、中立だったイギリスが反発、ベルギー侵攻を口実にドイツに宣戦を布告し、欧州大戦へと拡大していきました。当時の各国の複雑な同盟関係から瞬く間に戦火は拡大し、初の世界大戦となりました。基本的な原因は、ヨーロッパ諸国の帝国主義拡張政策の対立と、バルカン半島(*)での諸民族の衝突にあるといわれています。 (*)バルカン半島:ヨーロッパ南東部の、黒海・エーゲ海・地中海・アドリア海に囲まれた一帯。トルコのヨーロッパ部分、ギリシア、アルバニア、ブルガリア、そして1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分(マケドニア、セルビア・モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)からなる地域である。"バルカン半島"という名前は、しばしば、政情が不安定なことの例えにされる。 第一次世界大戦は、1914年から1918年にかけて戦われた世界規模の戦争です。主戦場はヨーロッパでしたが、世界の大多数の国が参戦しました。主要な参戦国は、三国同盟を作ったドイツ・オーストリア・イタリアの同盟国と、三国協商を作ったイギリス・フランス・ロシアの連合国でした。後に、イタリアは三国同盟を破棄して連合国にまわり、アメリカは連合国として参戦しました。 日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった日本は、イギリス・フランスから要請されて連合国側として参戦することにしました。1914年8月23日、日本政府(総理大臣大隈重信)は、日英同盟の証としてドイツに宣戦布告し、大戦に参加しました。 戦争は、1918年11月ドイツの降伏で同盟国側が敗北し、翌年パリ講和会議でヴェルサイユ条約が締結されました。日本は、戦勝国としてこのパリ講和会議に参加しました。 (日英同盟の解消) しかし、日英同盟に陰りが出てきます。第一次大戦では、当初、ドイツが強くてイギリス・フランスは危なかったのです。それでドイツの侵攻に苦戦するイギリスは日本にしきりに参戦を求めましたが、日英同盟というのは、及ぶ範囲がインドまでと決まっていました。しかし、イギリスが困っているのだから海軍は出そうということで、海軍は地中海まで行って非常によく働きました。これは感謝されましたが、二個師団の応援を求められたときに、陸軍はついにヨーロッパへの派兵をしなかったのです。 ところが、アメリカはイギリスとは同盟はありませんでしたが、大軍をヨーロッパに送り、連合国はそれで勝ちました。イギリスとフランスは、徹底的にアメリカの恩恵を受けました。だから、この二国はアメリカの言うことを何でも聞くようになります。 アメリカは、日露戦争後の日本のめざましい躍進ぶりに神経をとがらせていました。日本がロシアに勝った--この事実に、アメリカは日本に恐怖心を抱くようになります。アメリカはアジアにおける領土拡大の野心がありました。アメリカは、日本が中国で権益を独占するのではないかと警戒していました。中国大陸に進出し、アジアにおける領土を拡大したいと目論むアメリカは、日本を疎ましく思い始めました。日本が邪魔だったのです。ロシアがおさえていた遼東半島に、日露戦争によって突如、日本が入ってきた--その途端に、アメリカの嫉妬心が一気に燃え上がったのです。有色人種である日本が、自分たちより先に中国大陸に拠点を築いていることが、我慢ならなかったのです。アメリカは日本を仮想敵国とみました。第一次大戦で日本が戦勝国として得た山東省の利権に反対して、アメリカの上院はヴェルサイユ条約を批准しませんでしたし、ワシントン会議では日英同盟を破棄させ、その後日本を追い込む戦略に余念がなかったのです。日英同盟は、第三国を仮想敵国とする攻守同盟ですから、アメリカにとっては不快なものでした。 日本とアメリカとの間の緊張関係が高まり、太平洋・極東の管理を日本のみに任せておくことができないと感じたアメリカは、イギリスに対して日英同盟の解消を迫り、フランスも抱きこんで日英同盟を潰し、その代案としてワシントンで、「日・米・英・仏の四カ国協定」を成立させました。その結果1923年、日英同盟は解消される結果となりました。 まず、アメリカは、「日本は第一次世界大戦に直接兵を出さなかった。血も汗も流さなかった」という事実をテコに、日英同盟の解消を迫りました。日本もイギリスも、条約解消を望んではいませんでした。しかし、大英帝国会議では、大英帝国の一員であるカナダが解消を強く主張しました。そこで出てきたのが、日・米・英・仏の四カ国協定でした。しかし、四カ国協定は形ばかりで、何の実効もないものでした。実態は「日本対欧米の対立」だったのです。カナダが日英同盟の解消に同調したのは、もともとが日本移民の排除に熱心な国だったからです。 日本は、アメリカの策略にまんまと、はまりました。純情にも、四カ国協定は平和を求める各国の希望の結晶であると信じ込んでしまうのです。この提案にのったのは、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)全権大使の軽率な判断とされています。 こうして、アメリカは、日英同盟という最後の砦を崩すことに成功しました。そして、強力な同盟国を失った日本を狙い撃ちし始めたのです。日本は、第一次大戦後のパリ講和会議に最高のメンバーを全権団として送り込んでいます。かつての首相であり当時の指導的政治家・西園寺公望(さいおんじきんもち)、外務大臣を務めた牧野伸顕(まきののぶあき)です。この会議で日本は一応、ドイツの植民地であった南洋諸島の委任統治領化などの成果を得ていますが、アメリカは日本に対してありとあらゆる意地悪を仕掛けてきました。しかし、どこの国もそれに「待った」をかけられません。 太平洋における日本の脅威を意識していたアメリカは、1898年に、強引に併合したハワイを太平洋の要塞とする構想が浮上、1908年、真珠湾において大軍事基地の建設を始め、太平洋艦隊の根拠地としていきました。 世界のリーダーであったイギリスとの同盟を破棄した日本は、やがて、日独伊三国軍事同盟の道を進み、その結果、太平洋戦争という数百万人の死者を出す破滅の道を歩むこととなったのです。 問題はなぜ日英同盟が解消されたか? それは日本側が同盟国の義務を怠ったからです。第一次世界大戦でイギリスが西部戦線が苦戦した時に日本陸軍の派遣を要請しました。しかし陸軍首脳部は愚かにも要請を蹴りました。仮に「コサック騎兵を撃破した」実績を持つ優秀な日本陸軍がイギリス陸軍と連携してドイツ陸軍と対戦していれば、イギリスは同盟を解消しなかったでしょう。太平洋戦争の墓穴を掘った「日独伊三国同盟」や「日ソ不可侵条約」も不要だったはずです。「20世紀は第一次世界大戦から始まる」と言われますが、日本もヨーロッパで戦闘を経験していれば、その後の国家戦略ももっとピントが合っていたはずです。第一次大戦後のパリ講和会議でも立場が違っていたでしょう。 日英同盟が堅持してたらアメリカは日本に手が出せなかったと思います。イギリスを仲介としてもっと上手く立ち回ることによって、太平洋戦争というとんでもない戦争に突入せずとも済んだと思います。この同盟関係を廃棄したことは、戦前の最大の失敗だといってもいいと思います。 ここで、上智大学名誉教授・渡部昇一先生の著書「ラディカルな日本国家論」から引用します。 私は、そもそも大東亜戦争(太平洋戦争)、否、シナ事変(日中戦争)も回避することができたと思っています。それはどういう意味かといえば、日英同盟が安泰だったら戦争には突入しなかっただろうということです。日英同盟安泰なりせば----日本の外交は国際的に尊重され、世界を敵に回して戦うなどということは百に一つもなかったはずです。 第一次世界大戦のとき、イギリスは日本陸軍のヨーロッパ派兵を求めていましたが、外務大臣加藤高明は、国軍の「唯一の目的は、国防にある」ので、「主義上、派兵は不可能」と拒否しました。日本政府は、イギリス及び他の連合国による度重なる派兵要請に対し、断り続けました。これが、日英同盟解消の元凶です。 何故、陸軍が第一次世界大戦に参戦しなかったのか。それは、陸軍が唯我独尊になっていて、外国の事情を知らなかったことにあります。日本陸軍は、先進国の軍隊との接触が少なく、軍事技術の変化発展を学びとる機会がありませんでした。だから、海外での戦争に自信がなかったのです。 どうしてなのか。その遠因は、徳川幕府の鎖国にあります。徳川のやった鎖国は、徳川家康の出身の三河の国の政治体制のままでいく、徳川家を守るため進歩的なものは一切禁じる、ということでした。それで、日本の文明は250年間の眠りに入りました。いくら優秀な民族でも、250年間文明との交流を絶てば、日本一国の平和につぃては間違いなく良かったかもしれませんが、日本民族として失ったものは、あまりにも大きいものでした。 長い間鎖国をしていた日本は、西洋の事情にも疎く、科学技術や工業の発展に大きく立ち遅れました。この近代化の遅れが、日本の外交センスをも低めてしまい、誤った判断を導いてしまったのです。 さて、小泉総理がアメリカのブッシュ大統領の要請に応えて、いち早く自衛隊のイラク派遣を決めましたが、皆さんはどのように考えられるでしょうか。私は、以上の歴史から考えても正しい外交判断だと思います。小泉総理の決定を高く評価します。また、日本とアメリカの双方にとって利益が大きい日米安保条約は堅持すべきと考えます。 日本が自衛隊を海外に派遣して平和維持の活動を行なうことは、世界の安定と平和に貢献することになります。過去の誤ちを繰り返さないためにも、自衛隊は、広い視野を身につけ、国民や世界に信頼され愛される軍隊になって欲しいものです。 太平洋戦争において、日本人の戦争責任が語られることがあります。日本人が真珠湾において「最初に手を出した」ということを言われます。相手から喧嘩を仕向けられたものでもあっても、「手を出した方が悪い」ということですね。根本的には、手を出さざるを得ない程に追い込まれた日本の外交センスの無さが原因だったのではないでしょうか?今後、私たち日本人は、誤った判断をしないためにも、活発な国際交流を通じて、正しい外交センスを身につけたいものです。 歴史というのは、興味本位の単なる過去の物語ではありませんし、それ自体目的を持つものでもありません。我々が生きている「現在」が、一番大事なのであり、歴史は、我々の現在の進むべき道や生き筋の学習に資するための教材なのです。 -------------------------------------------------------------- 画像 日英同盟を描いた当時の絵 -------------------------------------------------------------- 出典 山川出版社 「詳説 日本史」 石井進・笠原一男・児玉幸多・笹山晴生著 山川出版社 「物語 世界史への旅」 大江一道・山崎利男著 文春新書 「坂之上の雲・全八巻」 司馬遼太郎著 海竜社 「年表で読む 明解!日本近現代史」 渡部昇一著 徳間書店 「渡部昇一のラディカルな日本国家論」渡部昇一著 タイトルの「日英同盟安泰なりせば」は、渡部先生の著書「ラディカルな日本国家論」の中の 文節名から転用しました。 |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|---|
日英同盟破棄
第三の視点さんのブログで取り上げられていた日英同盟破棄の件、調べる。歴史から学ぶ。この点については、matiereさんの記載が詳しそう。 ...続きを見る |
日本独立宣言(まずは米軍撤退!) 2008/02/20 11:54 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
日本海海戦の丁字戦法の読み |
うの 2010/09/21 13:09 |
浪速は巡洋艦 |
pinoy 2011/10/22 15:07 |
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