日英同盟

19世紀後半、ヨーロッパいや世界の中心はベルリンだった。露土戦争の講和会議はベルリンで開催され、アフリカ分割のための国際会議もベルリンでもたれた。いずれの会議でも中心にいたのはビスマルクだが、1890年の政変により、宰相の地位をおわれた。


1900年のヨーロッパ

その後日露戦争勃発まで、宰相の地位についたのはカプリビ・ホーエンローエ・ビューロウの三人であり「新航路外交」を標榜した。だがこの頃からドイツ外交の中心をになったのは、宰相でも外相でもなく、外務省という組織(Auswaertiges Amt:ウィルヘルム・シュトラッセと呼ばれた)だった。

ドイツ新航路外交

新航路外交の特色は「世界政策」 (Welt Politik)にあった。この言葉は、「日の当たる場所」を求める意味だとされた。

普仏戦争以降、ドイツの外交政策の中心はフランス封じ込めにあった。このためにはドイツは英露との協調関係を維持せねばならない。ところが世界政策遂行上、この協調はドイツにとり重しと感じられるようになった。そして、ウィルヘルム・シュトラッセで世界政策を指揮したのは謎の政務局長、フリードリッヒ・ホルシュタインだった。

もちろん、官僚の常としてホルシュタインは自分で外交政策を決定したようにみえない。ただ、外交政策につきものの負の部分を、君主や宰相によく伝えなかったのも確実である。

ホルシュタインはまず、1890年、ロシアとの軍事同盟である再保障条約を自らの手で葬り去った。

再保障条約

ロシアは直ちに安全保障に危険を抱き1892年露仏同盟を締結した。この同盟こそが、その後のヨーロッパにおける軍事均衡を決定した。それでも当座、ドイツは事態を深刻にうけとめなかった。

露仏同盟

この当時のドイツ植民地は、南西アフリカ・東アフリカ・東ニューギニアが主なもので、ドイツ人が住むには暑すぎ、また経済的に無価値だった。世界の中心にいたドイツ人にとりこれは我慢のならないものだった。19世紀ドイツは一人当たり国民所得は英仏に及ばず、また人口爆発が起きており、多数のドイツ人が北米や南米に移住していた。ドイツも熱帯ではなく、中緯度地帯に植民地を求めねばならない。ドイツは世界政策の目的地として中国に狙いをつけた。

そして、折からの日清戦争(1894)で中国は大敗、ここにドイツは機会を見出した。ドイツはロシアを誘い三国干渉を実行した。それまで中国に利害関係をもたないドイツが、日中二国間の講和条約に干渉するというグロテスクなことをあえてした。更に中国に恩をきせたうえ、宣教師殺害事件などささいなことを口実に、膠州湾租借地をえた。

この時、イギリスも威海衛租借地を得たのであるが、そのあとの英独の行動はかなり違っている。すなわち、イギリスは威海衛取得の経緯は、あくまで、日清戦争時における日本軍の撤退(帝国海軍は威海衛で北洋艦隊を撃滅し、定遠・鎮遠の二戦艦を鹵獲した)のあと、日本の了解を得て、海軍根拠地(薪水の補給)として租借したもので、ストック・ヤード以外は全く設けなかった。

これにたいし、ドイツは山東半島において石炭採掘(品質が悪く、第1次大戦後、日本は自発的に事業を放棄している)やビート栽培などの1次産業に従事するほか、青島では造船・鉄工などの諸工業を興した。

さらに、ドイツは青島に最大の植民地艦隊をおいた。それでも、ドイツの意図が山東半島全域を植民地化するなどの意図があったかは疑わしい。すなわち、北米や南米にドイツ人が移民できたのは、そこの人口が希薄であったからだ。だが、中国はそうではない。

更に、ロシアも日本に還付させた関東州を租借した。

旅大租借条約

中国鉄道網の整備

ヨーロッパ諸国が遠隔地を支配できる軍事的条件がこの頃から変わってきた。すなわち、鉄道が敷設されるのに伴い、陸兵は速やかに移動できるようになった。

この鉄道網の整備により発生した事件が北清事変である。清国軍の民兵組織だった「拳匪」は、わずか一カ月で、首都北京に3万人が集結した。そして外国公館の襲撃を開始すると、ヨーロッパ各国は打つ手がなかった。多国籍軍が結成され、ドイツ参謀総長ワルデルゼーが司令官となったが、軍隊がインド洋を航行するころ、北京外国公館は危機的な状態となっていた。

「拳匪」の威勢があがるにつれ、清は日本を含むヨーロッパ各国に宣戦を布告した。

この窮境を救ったのは日本の第5師団だった。これは当然のことで距離の問題である。ただし、この事件はヨーロッパ各国に重大な教訓を与えた。中国のような遠隔地に植民地なり貿易拠点をもったとしても、いつ暴徒などに攻撃されるかわからない。

そしてこれ以降、日本を除いて中国本土に1個師団以上派遣できた国はない。

北清事変でもっとも打撃を受けたのはイギリスだった。阿片戦争(1840〜42)やアロー号戦争(1856〜60)では、英仏軍は1万人ほどの海兵を清国軍より早く、汽船によって沿岸部都市に集中させることができた。ところが北清事変ではこの優位性は鉄道により成立しなくなった。

イギリスの揚子江交易

イギリスはアメリカとならび中国から茶と絹を輸入していた。貿易商は集荷のため、上海から武漢までの揚子江沿岸に住んだ。ところが、そこの治安は絶望的に悪く、租界から外に出ることもできず、また地方行政府や中央政府はしばしば、外国人を襲撃した。

イギリスは西太平洋に戦艦5隻を含む支那艦隊を派遣していたが、これだけでも大きな負担であるうえ、陸上の治安維持には陸兵が必要である。そのうえこの時、イギリスはボーア戦争(1899〜1902)に苦しんでいた。

ヨーロッパ情勢をみても、イギリスはキッチナーがファッショダでフランス軍と衝突(1898)し、インド北西国境ではアフガニスタン、強いてはロシアが背後にあると疑われたイスラム教徒の反乱、マラカンド戦争ティラー戦争に苦しめられていた。

露土戦争の終わったころ、トルコから同盟を求められ、自由党のグラドストンは「栄光ある立」(Splendid Isolation)を唱えた。当時のトルコ軍事力は、地中海においても小アジアやバルカンの地上においても、負債こそなれ、資産にはならないと思われていた。

だが、イギリス1国でその広大な植民を防衛せねばならないとすれば、全世界でジリ貧となってしまう。ボーア戦争を主導し、自由党から脱党したジョセフ・チェンバレン(オースチン外相やネビル首相の父でビッグ・ジョーとあだ名された)は、1890年代から同盟政策への転換を訴えていたが、世論はそう簡単に転換しなかった。

チェンバレン外交

だが、イギリスの新聞を読むしか判断材料がない日本人にとって、この「栄光ある孤立」といつ標語が、同盟交渉するさい、大いなる心理的負担となったことは疑いない。新聞から相手国為政者の気持ちを忖度することは避けねばならない。

イギリスがまず始めねばならなかったのは揚子江沿岸の治安維持だった。イギリスには艦隊はあるものの陸兵がいなかった。初めイギリスはドイツに陸兵を期待した。

まず両国は1900年10月、中国における機会均等と門戸開放を求める「揚子江協定」を締結した。これはアメリカの「門戸開放宣言」(1898)に呼応した、非軍事的取り決めにすぎない。そして両国は日本にも参加を求め、これに参加することになった。

揚子江協定(英独協商)

イギリスは更に一歩進め、中国治安維持のための共同出兵を目的とする軍事同盟を提案した。これは極めて重要な内容を含んでいた。すなわち、対象は中国としているものの、イギリスは露仏同盟に対抗する独墺同盟に与力する外観を呈することになる。

だが、1901年1月、招かれてイギリスを訪問していたホルシュタインは、このイギリスの提案を拒絶した。これを称して、ドイツ人は"Grosse Nein" 、偉大なるノーと呼んだ。

日露戦争後の協商陣営(英・露・仏)対中央同盟(独・墺・伊)を考慮すれば、ホルシュタインの重大な失敗のようにみえるかもしれない。だが、ホルシュタインにとり、揚子江沿岸のイギリス権益維持のため、ドイツ兵を派遣するなど「狂気の沙汰」のようにみえたのだ。

更に、宰相ビューロウは追い討ちをかけるように議会で「揚子江協定における中国には満州が含まれない」と証言した。この発言の真意は測りかねるものだった。

謀略のドイツ外交

真実は単純である。ドイツは露仏同盟を形骸化させるため、ロシアに極東に大兵をおくらせる謀略を開始したのだ。すなわち、ロシアが極東に大軍を配置すれば、ドイツは東西両面作戦から免れることができる。これは当時のドイツ指導者には、とても魅力のある政策に映った。

ドイツの世界政策は植民地をなりふり構わず求めることである。ヨーロッパにおいてドイツがこれ以上の領土を求めることはできないためだ。だが、一方でフランスは普仏戦争による失地、アルザス・ロレーヌをあきらめていないはずだ。もし、ヨーロッパにおける軍事均衡をドイツ有利にするためには、イギリスを味方にするにしくはない。すると、世界政策に支障が出る。ドイツはこれに回答を出す必要がある。

ドイツは結局、謀略すなわち日露戦争を触発させる道を選択した。

エッカードシュタイン Hermann von Eckardstein(1864-1933)
ブランデンブルグのユンカーの一族として生まれた。騎兵将校のあと外務省に雇われ、1901年から1904年の間、駐英大使代理をつとめた。第一次大戦では、皇太子の参謀をつとめたが、すぐ革職されている。その後、3冊のほどの本を書き、英独外交交渉について貴重な証言を残した。ただし、信馮性については疑問符がつく。

エッカードシュタインの残した逸話

1901年3月18日、ドイツ駐英大使代理エッカードシュタインは日本の駐英公使林董に日独英三国同盟を示唆した。この提案で注意すべき点は、従来の英独同盟の基礎が中国内治安維持であったのにたいし、この三国同盟は反露を基調としていることである。

実は、ドイツはイギリスには中国内治安維持を重点として、日本には反露を重点として両国を操縦したのであり、その真の狙いは日露戦争の惹起にあった。

林は従来からイギリスとの提携を重視していたが、エッカードシュタインのすでにイギリス政府も乗り気であるという発言には驚いた。林にとっては夢の実現であった。

「北清事変の処置が終り、列国政府がその軍隊の大部を引揚げるようになったならば、露国が再びその爪牙を現わして来るは必然であろうし、また清国は将来ながく紛糾に苦しむべしと懸念される事惰もあるので、極東の前途に対しては日英両国共に憂慮するところである。この際偶然思いつきの愚見をもってするたらば、従来日英両国が相協同して行動しきたった誼みを、今後引続き両国間に恒久的取極をするのが極東平和のために頗る緊切であろうと思われる。貴見如何」

と巧みに、中国内治安維持と反露両面をあげながら、ランズダウン外相の意見を聞いた。すると外相はドイツから示唆をうけていたようだが、ソールズベリー首相の意見を徴してからとの答えだった。そして、回答は伸び6月に至った。

林・ランズダウン会談

林董(1850〜1913)
佐倉の蘭方医佐藤泰然の5男。幕府御典医林洞海の養子。1866年幕命によりイギリス留学。帰国して榎本軍に従軍、敗れて捕えられた。新政府に仕官し、岩倉訪欧団に随行。1991年、外務次官。1997年駐露公使。1900年駐英公使。1906年第一次西園寺内閣で外相。

実は、ソールズベリー首相はすでに老齢であり、首相職を甥のバルフォアに譲ることを考えていた。イギリスの頭脳は、日本人と会うこともないバルフォアだった。考慮すべき点は多岐に上った。バルフォアが重視したことは、日英同盟はイギリスをして反露仏に導きかねない点だった。バルフォアは先見性のある政治家であって、イギリスの将来の敵がドイツであると見通しており、この点で日英同盟が不利に働きかねないことを当初憂慮していた。一方、同盟に積極的なのはセルボーン海相だった。セルボーンは、イギリス海軍の敵が地中海だけでなく、北海にも出現しつつあることを警戒していた。支那艦隊を本国に召還せねばならない。

バルフォアはフランスと協調できる余地が日英同盟によりかえって生じるのではないかと計算した。すなわち、ロシア陸軍が極東に主軸を移したならば、必ずやフランスは自ら譲歩してイギリスに接近してくる。この読みは爾後的中することになる。

日本では6月、政局があり、伊藤博文が内閣を投げ出し桂太郎内閣が成立した。外相は曽禰荒助が兼摂したが、9月に小村寿太郎が北京から帰任し、外相となった。小村寿太郎は、この後、ポーツマス条約締結終了後まで、日本外交を領導した。

林董は、この間1カ月ほど交渉は中断したが、七月に入り、ランズダウンから各閣僚の意見を聴取するのに成功し、1901年(明治34年)7月15日、東京に打電した。

「英国有名なる紳士(*)は日英同盟の必要を説く。賜暇帰英中のマグドナルド公使(**)また英皇帝謁見の折、談は支那問題にあらずして、皇帝は終始日英の恒久的提携の切要を述べられたり。首相ソールスベリー侯また主唱老の一人にして、彼は二歩進んで攻守同盟となすを要す』と云えり。しかしこれ英国伝来の政策に離るる新政策なるを以て、その決定には多少時日を要すべし。この問日本は露国と相結ぶことはなかろうかと気遺わし気なりき。云々」

(*)ジョゼフ・チェンバレンという
(**)駐日公使

林は、中国治安維持のためには日本と手を結ぶしかないとイギリス要人が考えていることを適切にみてとった。だが、後段の「英国伝来の政策に離るる新政策」(光栄なる孤立政策の放棄)は、爾後の交渉が必ずしも円滑に行かないことを示唆したものだが、薬が効きすぎた。

というのは桂太郎首相はボーア戦争の苦境と北清事変における日本兵の活躍により、従来の「光栄ある孤立」政策などイギリスがとる余裕はなく、むしろ日露接近を恐れていることを的確にみてとった。しかし、伊藤博文や井上馨などは、いまだ露土戦争のときのイギリスを覚えていた。この世代間対立は、以降重要な問題となってくる。

8月4日、桂太郎は、葉山の別墅を訪問した伊藤博文に日英同盟交渉を説明した。伊藤は終始上機嫌で「主義において肯定」した。翌日、桂は山縣・西郷・大山・松方にも説明し、了解を得た。

8月8日、桂は林あて訓電を出した。

「英国政府の同盟提議に対しては、政府は主義に於て賛成であるから英国政府にして提議の性質及び範囲に関する意見を一層明瞭に表明するに於ては、帝国政府は欣然これを迎え、これに対し意見を陳述するを辞さない。帝国政府は、韓国にして他国の侵略を受くるが如きには極力反対する。この根本主義は万難を排して維持するつもりである。また露国にして、満洲に於てその現存条約の範囲を超えて主権を拡張するが如きは、韓国の存立を危うくするものであるから、日本にとって不安の因たらざるを得ない。且つかかる主権の拡長や、または北満に於ける領土若しくは商工業上の利益独占は、その多少を間わず、日英両国の支持する門戸開放及び領土保全の主義と相容れたいものと認める。貴官は、英国政府と折衝するに方って、よろしくこの綱領を体すべきである。同盟の成否は、かかって一に貴官の裁量と手腕にある」

受け取った林は、この訓電について「人生のうえで愉快このうえもない出来事だ」と終生語った。

7月31日、林はランズダウンと意見交換し、同盟の内容について互いに話しあった。8月8日、林はランズダウンに閣内調整を求め、ランズダウンは林に本国からの全権委任の獲得を求めた。

この間の交渉内容は、有事における日本兵による揚子江治安維持と韓国問題だった。林は韓国の現状について「中立保証は朝鮮では無効である。朝鮮人はみずから国を治めることを知らない国民である。いつ国内で騒擾が起きるかもしれない。そのさい、政権をめぐって紛争が起き、関係諸国を巻き込んだ衝突が発生する」と説明した。

林は、朝鮮人がベルギー人やポーランド人と異なり、独立を果たす気概がなく、政争当事者は必ず外国を巻き込もうとする体質があるとし、これによって、関係諸国による中立保証が成立しないことを明らかにした。

これは極めて今日的問題である。

ランズダウンは朝鮮問題はトランスバール問題と似ていると慨嘆したという。8月16日以降ランズダウンは領地のアイルランドに休暇で戻った。

そして9月に入ると、伊藤博文が外遊に出かけ、入れ替わるように小村寿太郎が北京から戻り外相に就任した。

小村寿太郎は、林のこの間の交渉を全面的に支持し、10月8日、「日本政府は同盟の件について、熟考を重ねたる結果、これまで貴官に通知した通りの意見を全然確定したから、これに関してイギリス政府と意見を交換するの権限を与える」との訓電を与えた。

ランズダウン(Henry Charles Keith Petty-FitzMaurice, 5th Marquess of Lansdowne, 1845-1927)

10月16日以降、林・ランズダウン会議が続けられ、11月6日、ランズダウンから第1協案が示された。

「遠東におげる現状維持とならびに一般の平和を保つことを欲し、かつ就中韓国が外国のために併呑さるるを防ぐことを欲し、及び渚国の独立と領土の保全を欲し、清国において各国共に商業及び工業上平等なる利便を清国において占むることを欲し、各自その政府は左の条々に同意す。
 第一、もしイギリスあるいは目本が上に述べたる利溢を防護することに付て、他国と戦を構うるときは、条約は厳正なる局外中立を守り、自余の国が同盟国に対する敵国と連合することを防ぐことに勤むべし。
 第二、もし上陳の機会において、他国が同盟国の敵と連合するときは、同盟国の一方は、直に同盟国を援け戦に臨むべく、同盟国双方合意の上にて和を講ずぺし。
 第三、条約国は、清韓両国の利益に関係することに就ては、相互に談合せずして他の国となんの協商もなすことあらざるべし。
第四、イギリスあるいは日本が、上陳の利益が危害に臨むとみたるときは、互に十分に隠匿するところなく、その情実を相通ずべし。」

これならば林は、朝鮮問題について日本の利益を明確にすれば妥協できると思い、東京に返電した。ところが、東京からのパリにいる伊藤博文と面会するように指示があった。林は早速パリに行き、11月一杯それに忙殺されることになった。

11月30日、東京から修正案があった。

「イギリスは日本が朝鮮において現に有する利益を保護するために、必要なりとする防御方法をとることを承認すべし」

が主たる点だった。だが、それに加え明治天皇から「伊藤博文の意見を徴するように」という指示があった。

12月9日、小村寿太郎は桂太郎とともに閣議のあと参内し、日英同盟締結について明治天皇の了解を得て、翌10日林に前向きに進めるよう訓電を出した。

12月16日から再度、林・ランズダウン会談が行われた。ランズダウンは、朝鮮問題に関連して、日本の「侵略」(先制攻撃)に加担する意思はないことを明確にした。

伊藤博文の欧州訪問

この段階で、日英両国ともに極東の「現状維持」に力点を置いていた。つまり、両国は先制的武力行使について否定し、そういった可能性を、ロシアと中国に限定した。

それでも、日本は、中国と朝鮮における内乱発生の場合、軍隊を入れることになるが、これを侵略とみなすべきでない、と主張した。これにより、「擾乱あるにより、その締結国が、その臣民の生命・財産を保護するために干渉を必要とするときは、両国各必要な手段をとることを許す」という文言が挿入された。

両国とも、条約発動の公算が最も強いケースは、中国に住む居留民へのテロであることを想定していた。

1902年(明治35年)1月30日、日英同盟はロンドンにおいて調印された。

日英同盟本文

秘密交換公文と軍事商議

ドイツは祝電をおくってきた。

「独逸政府ハ日英協約ヲ以テ極東ノ平和ヲ維持シ、且之ヲ鞏固ナラシムル二最重要ナル機關ト認ム。清韓両国二於ケル独逸ノ利害闘係ハ或程度二止ルヲ以テ、独逸ハ好意的局外中立ヲ守ル積リナリ。独逸ニシテ好意的局外中立ヲ守ル二於テハ不幸開戦ノ場合二方リ、佛国ガ露国二援助ヲ与ヘントスル二際シ、欧州二於テ佛国トノ国境附近二独逸軍隊ノ動員ヲ行フトキハ、佛国ハ疑惑ヲ生ジ、充分ノ援功ヲ露国ニ与フルヲ得ザルノ結果ヲ生ズベシ。要スルニ独逸ハ積極的態度ヲ執ルヨリモ寧ロ局外中立ノ地位ニ立ツヲ以テ世界手和ノ維持上最必要ナル手段ナリト信ズ」

無闇に軍事的な電報ではある。

露仏共同宣言

3月16日、ロシアとフランスは日本に威嚇する目的か防衛手段について宣言した。

「(同盟条約)第1項において、同盟の目的である極東の現状、全局の平和維持のための清韓両国の領土保全の件、及び商業上両国の門戸開放の件は、ロシア・フランス両国において従来累次発表した諸原則をさらに確保したもので満足。第2項において、ロシア・フランス両国は前述の諸原則を尊重し、かつ同時にこの諸原則が極東においける両国の特殊権益の保障であることを信じ、第三国の侵略的行動もしくは清国において騒乱発生のため、同国の保全及び自由な発達に不安をきたし、したがって両国の特殊権益が侵犯されるような場合を考慮しておかざるをえないので、これにたいする防衛手段を保留するものである」

この宣言は、3月19日露ラムスドルフ外相より栗野公使に連絡され。東京においてもフランス公使及びロシア公使によって小村寿太郎外相に宣言写しが提出された。

これは露仏同盟が極東まで延長されたことを、とくにロシア側が示したいためのものだろう。ただ、露仏同盟も日英同盟などあらゆる軍事同盟と同じく、侵略された場合にしか適用されないため、日本側はとりたてて、重要視しなかった。

満州還付条約

日英同盟はイギリスが近代に入ってから初めての攻守同盟である。これ以降についても、1939年、ヒトラー・ドイツの脅威に対抗してポーランドに与えた集団的安全保障まで、軍事同盟を締結することはなかった。



Eckardstein,H.P., Lebenserinnerungen und Politische Denkwuerdigkeiten, Leipzig, 1921
(tr.)Ten Years at the Court of St. James, 1895-1905, London, 1921
石井菊次郎『外交余録』岩波書店 1930
黒羽茂『日英同盟の軌跡、上下』文化書房博文社 1987

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