日々生きていて、金銭的、精神的な格差って広がる一方なんだなぁ、と感じています。子育て世帯はますます生活苦になっている、なんて調査もあったりして、子育てを控えている僕も戦々恐々としてます。
実母が生活保護を受けていたから市議を辞職
昨日のニュースで、実母が在職中に生活保護を受けていたことを理由に、徳島県の市議が「責任」を取って辞職したことが話題になりました。東京に住む一人の若者からすれば明らかに過剰反応で、社会的に悪影響すらあると思ってしまいますが、きっと地方特有の事情があるのかもしれません。
それとも、ある意味で「男気を見せた」のでしょうか。もしそうなら、考察に値すると僕は思います。今回の記事では、この点について考えてみたいと思います。
先日読んだ「善人ほど悪い奴はいない」に掲載されていたニーチェの言葉に、こんなものがあります。
自分の正しさを主張して譲らないよりは、自分に不正を帰するほうが高貴である。自分が正しい場合にはとりわけそうだ。ただ、そうするに足るだけ豊かでなくてはならない。(「ツァラトゥストラ」)
これは推察でしかありませんが、岡氏は自身の正しさを認識しつつも、それを主張して譲らないよりも、自分の「責任」とする方が高貴であると判断し、辞職したのかもしれません。美醜の価値観でいえば、確かに美しさを感じる行為です。
自分は強者だから不条理でも責任を取る、というマインドは「ノブレス・オブリージュ」の一種ともいえるものだと思います。
(ただ、今回の行為に関しては、生活保護への偏見を強化しかねないため、僕は評価できないと考えます)
格差が広がれば、相対的に「強者」が生まれる
格差社会化が進むとすれば、この種の「ノブレス・オブリージュ」を遂行する人は増えていくでしょう。
それは弱者からの圧力である場合もあれば、自らの道徳的判断による場合もあるでしょう。また、その行為が良い影響をもたらす場合もあれば、今回のように、悪影響をもたらしうる場合もあります。
肌感覚としても、「ノブレス・オブリージュ」を遂行する(自分に不正を帰する)タイミングは増えているように感じます。「影響力があるんだから無責任なことを発言しないでください」なんてのもその典型例だと僕は考えます。こういう不満が出てくるのは、格差が広がっているからなのではないでしょうか。
強者が背負うべき責任とは?
「自由に生きる」という論調が最近盛んです。僕自身もそうありたく願っています。
しかし、そういう自由を獲得した「強者」たちは、「弱者」に対して何もしないでも良いのでしょうか?自分が幸せに生きていれば、「免罪符」として税金さえ納めていれば、それで本当にいいのでしょうか。
僕のように、自由に動けている「強者」サイドに属する人間は、「弱者」と感じられる人々に対して、何かコミットしなければいけないのではないでしょうか。
僕は大してお金もありませんし、自由なのは「今」だけかもしれませんが、何か、そういう道徳的な責任にも駆られてしまうのです。
それは自分を「強者」として認識したい、「いいひと」でありたいがための欺瞞かもしれません。ですが、僕の中では、評価とか賞賛ではなく、もっとこの社会に対する、自発的な責任感が根本にあるように感じます。
また、僕自身も違う観点からすれば「弱者」かもしれません。実際、どちらかといえば貧乏に属する方です。でも、僕はオンライン上で影響力があるという意味では「強者」です。一つの軸で評価するのは困難なのでしょう。
何だかまとまらない考察をだらだらと書いてしまいましたが、
・岡市議の辞職は、「自分に不正を帰するほうが高貴である」という信念に基づいた「ノブレス・オブリージュ」なのではないか。また、彼をそうさせたのは、弱者の存在ではないか。
・自由を獲得している、影響力があるなど、何らかの意味で「強者」に分類する人は、”自発的に”「ノブレス・オブリージュ」を遂行するようになっていくのではないか。
・その理由は、格差が広がり、「弱者」が視界に入りやすくなっているから。
・自由な強者(ex.ノマド)は社会に対して何らかのコミットをすべきなのだろうか?
というあたりが、今考えていることです。次回の書籍では、ここら辺をもう少しうまく形にしたいと思っています。
弱者と強者について考えるなら、こちらがおすすめです。