【日本の名城】石田三成を“戦下手”にした要塞“忍城”

★忍城

2012.08.17


忍城【拡大】

 和田竜の歴史小説「のぼうの城」でも有名になった忍城は、城の周囲がぐるりと沼地で囲まれているため、別名「浮き城」とも呼ばれている。

 忍城は15世紀後期に、この地(埼玉県行田市)を支配していた忍一族を、地元の豪族であった成田氏が滅ぼした後、築城したといわれている。

 天文22(1553)年、北条氏康(うじやす)に包囲されたときも、天正2(1574)年、上杉謙信に攻められたときも降伏することなく持ちこたえた。防御の固さが関東一円で評判となり、関東七名城の1つに数えられる。

 天正18(1590)年6月、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、秀吉は石田三成に忍城攻めの総大将を任せる。当時の城主である成田氏長(うじなが)は小田原籠城に参加していたため、氏長夫人が家臣、領民とともに留守を預かっていた。

 秀吉は、忍城の守備状況の情報が入るや、得意とする水攻めを三成に命じる。三成は、城の南方に総延長28キロメートルにも及ぶ半円形の巨大な堤を5日間で築き上げると、荒川と利根川の水をどっと流し入れた。

 水攻めによって城内は水浸しになったが、城方は高所に集まって耐え、一向に屈する気配がなかった。逆に、梅雨の季節だったため豪雨に見舞われ、急ごしらえの堤があちこちで決壊し、三成軍に多数の犠牲が出る。

 忍城は、小田原城が同年7月5日に降伏してもなお籠城を続け、11日になってようやく開城に応じる。小田原城の支城の中で、最後まで堅塁を誇った城が忍城であった。

 秀吉の命令で忍城を攻めた三成にしてみれば、任務に従って最善の努力を尽くしたつもりだったが、終わってみれば「戦下手の三成」という評判だけが一人歩きすることになってしまった。

 行田市内には、現在も三成が築いた堤(石田堤)の一部が残っている。=次回は富山城

【所在地】埼玉県行田市本丸17の23
【城地の種類と現在】平城。昭和63(1988)年、模擬御三階櫓が再建されている。
【交通アクセス】JR高崎線「行田駅」より市内循環バスで約30分。

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。