Yuzuru Hanyu: JAPAN’S RISING SON- IFS Magazine 訳
お願い:ブログ等での紹介は構いませんが出典を明らかにしてこちらにリンクを貼ってくださるようお願い申し上げます。即日訳をあげましたが、時間をかけてうまく伝わるよう努力したつもりです。そのあたりも考慮していただけると助かります。
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幼い頃日本の羽生結弦はフィギュアスケーターになることを夢見た。自国の選手が世界を舞台に演技する様を家庭のテレビで見て、彼はその尊敬された地位へ自らも仲間入りしようと刺激を受けた。世界選手権への出場権を勝ち獲り、メダルを獲得―当時は全てが非現実的に思えた。しかし今、かつてはただの夢だったことが現実となっている。
羽生結弦が最初にジュニアの舞台に躍り出た2008-09シーズン、彼はほとんどスケート界では注目されていなかった。ほとんどの人が彼の名を聞いたことがなかったのだ。全日本ジュニア優勝後、その年のジュニアワールドでは12位という成績だった。
しかしこのダイナミックな青年は翌年のあらゆる大会で金メダルを獲得し注目を集めるようになる。JGFで優勝し2010年のジュニアワールドで圧勝したのだ。 新たな日本の天才の登場だ。
MOVIN’ON UP
羽生は翌シーズンシニアレベルで競技に参加し、4大陸選手権では銀メダルを手にした。その年では唯一の国際舞台での表彰台だった。昨シーズンはネベルホルン杯で勝ち、二位であるチェコのスターミハル・ブレジナとは15点以上の大差で金メダルを獲得し他と一線を画した。
しかしながらGPシリーズ初戦の中国杯ではうまくいかなかった。
「いくつかミスをして4位になったのであまり良いシーズンのスタートではなかった」と羽生は説明した。
すぐに取戻し、彼は2戦目のロシア杯では金メダルを獲得した。しかしながら自分の滑りには落胆した。
「ロシア杯では勝って一位になったけど嬉しくはありませんでした。4Tの着氷をショートとフリーの両方で2度失敗したので。自分の演技には満足しませんでした。」
羽生はGPFへの出場権を獲得したが総合4位に終わった。
「GPFではショートで4回転を跳びましたがフリーでは失敗しました」
(これ実際は逆ですね)
「でも嬉しかったです。上達を感じて自分のスケートが成熟してきたのを見せることが出来たので。」
全日本の演技は彼が期待していたものではなかった。
「よくなかったです。ファイナルでした同じミスを繰り返してしまったので」
「皆さんに、自分は変わって、上手くなったんだと見せたかったのですがミスのせいでそれを見せることができませんでした。」
日本のスケート連盟は十分に羽生を休息させ世界選手権への準備をさせたかった為、4大陸選手権には出場させなかったが、その間思いもよらないところから羽生はインスピレーションを受けた。
「2011年の地震と津波の後、世界中のファンから手紙をもらいました。でも忙しいスケジュールのため多くは読めていなかったんです。」
「全日本と世界選手権までの2か月間、やっとゆっくり全ての手紙に目を通すことができました。手紙は以前とは全く違った考え方を僕にもたらしました。手紙を読んで自分がどれだけファンから支えられているのかを実感したんです。自分のスケーティングに関して何かしないといけないと思いました。もっと進化してより安定する必要があったんです。手紙は大きなモチベーションとなりました。」
そして実際に進化した。羽生はショートでは7位発進だったがフリーの演技は会場を興奮させ、男子ファイナルではただ2つだったスタンディングオベーションへと導いた。
「世界選手権に出る時メダルを獲るとは思っていませんでした。本当にびっくりしました。」と羽生は言った。
「ブライアンジュベール選手がノーミスだったので自分より順位が上だと思っていました。でも結果が出た時自分が3位で本当に驚きました。自分の演技にすごく満足していたのでその方が自分にとっては大事でした。世界選手権でメダルを獲ったということは長い間実感が湧きませんでした。」
ショート前日の練習中4回転に挑戦してに足首を怪我していたことを考えると、彼の成功はより驚くべきものである。
「足首で降りて捻ってしまったんです」と説明する。
エキシビションで滑らなかったのは残念だった。
(Gala自体で滑っていないと思われているのか、Galaでエキシナンバーを滑らなかったということなのか、書き方がちょっと曖昧。文自体は前者の意味だが実際白鳥を滑っているので謎。)
「世界選手権の前にショーにたくさん出たのでエキシビションナンバーはたくさん滑りました。ワールドに出る前の目標は5位以内に入ってエキシビションに出ることだったので、結果的にはよかったです。」
羽生は笑いながら言った。
怪我は1か月間羽生にリンクから離れることを余儀なくし、国別対抗戦もやむなく欠場した。
全体的に見て満足していると羽生は言う。
「シーズン序盤ではいくつかミスをしていましたが、最後にはとてもいい結果が出せたので自分にとって成功の年でした。」
TRANSITION
世界選手権後、羽生は仙台から練習拠点を移す時期が来たことをわかっていた。羽生のレベルには達していない多くのスケーターと一般開放時間に練習をしなければならなかったのだ。
「もっと上達してメダルを獲るチャンスがあるとしたら別の練習拠点を探さなければいけないと感じたんです。」羽生は説明する。
最初の選択はカナダのブライアンオーサーだった。
「クリケットクラブの環境は日本では得ることのできないものだと知っていました。」
オーサーが日本のスケート連盟から4月上旬羽生のコーチ就任の件を電話で打診された時、オーサーは当然のことながら困惑した。
「電話で話した人が言ったんだ。ユヅルがカナダに移って自分と一緒にやりたいと言い、そしてこれは完全に彼主導の決断だと。心の中で、この子は素晴らしいシーズンを終えて好調だ、と思っていたから少し驚いたよ。」オーサーは振り返った。
「イエスとは言わなかった。ハビエル・フェルナンデスと先に話す必要があるとその人に伝えたんだ。ハビは全然構わなかったよ。」
4月下旬に国別対抗戦が開催されている際、ミーティングが行われた。
「彼と彼の母親、連盟の人と全てを腰を下ろしてじっくり話し合いたかった。僕が最初にユヅルにした質問は『どうしてこれがしたいのか?』だった。彼はシンプルにカナダに行って僕とトレーニングがしたいと言った。だからOKと言ったよ。その答えで十分だったから。」
羽生はなぜこのカナダのレジェンドと一緒にトレーニングをしたいのかよくわかっていた。
「ブライアンとやりたかったのはオリンピックの金メダルにキムヨナを導いたコーチだからです。そしてそれが僕の求めるものだから。2014年のオリンピックまで一緒にできるコーチだと思ったので。荒川静香さんもカナダでトレーニングしたし、他にも彼の下で練習した人を見てみんなすごく良くなったので。」
羽生は5月初旬に10日間オーサーとトレーニングをした。
「その期間ユヅルと僕はトレーシー・ウィルソンと腰を下ろしてユヅルのトレーニングスケジュールについて話し合った」とオーサーは言う。
「一週間に何時間滑って、その時間どんなことをするのか。彼にはあまりプランがあまりなかったことがわかった。いつ通し練習をするのか、これはいつやるんだとかそういったことを聞いたが彼は『ええと、わかりません。やりたいと思った時にします。』と答えたんだ。まさにその時僕たちは彼にはよりきっちり構成だった練習プランが必要だとわかったんだ。」
移行は皆にとってスムーズだったとオーサーは考えている。
「全てうまくいった。ユヅルは環境や他のコーチ、スケーターにすぐ馴染んだよ」オーサーは言う。
「彼は本当にフレンドリーな性格で丁寧で礼儀があって勤勉なんだ」
羽生も同意する。
「最初の一か月は大変でしたが今は慣れました。ここはすごく良くてとても刺激的です。」
「最初僕とブライアンはお互いをチェックしているという感じだったと思います。特にブライアンはかなり緊張していたと思うので。でも今は僕もこのクラブのメンバーの一員で居心地がいいです。」
オーサーは若い弟子をコーチするのは嬉しいことだという。
「僕が一番ユヅルに関して喜んでいるのは、彼が本当によく話を聞くということ。僕たちの言葉の一字一句を一心に聞くんだ。彼にいつも何かを教えていると感じることができるし、彼もまた僕から何かを学んでいると感じられる。そういったリスペクトを彼から受けていると感じることが素晴らしいし、自分もやるべき仕事をしていると感じるんだ。ユヅルは知ってるんだ。彼がリンクの上にいる時は僕がいつも彼を見ていることを。だから僕がいる時はちょっと見せびらかすのが好きなんだ。」
「ユヅルが最初に僕のところに来た時、彼はシンプルな動きをステップシークエンスでやってそしてただつまづいて転ぶんだ。エッジをすごく押してたからね。ブレードのどこに立っているべきか知らなかったんだよ。今はそれを学んで日に日によくなっているよ。」
「日本の連盟も僕といる時の方があきらかに良くなっていると言うんだ。だから励みになるよ。今はスケーティングスキルの向上に集中していて、彼はトレーシーと素晴らしいトレーニングをしている。彼は時々制御不能になるけどね。スケーティングに関して情熱的で感情的だから。僕はただ彼がそれ(スケーティングのコントロール)をするために堅実な基盤を身に着けられるようにしなくてはならない。」
「パトリック・チャンのように他の誰よりも美しいエッジコントロールと質を持つ選手と戦う時、そういった制御を持つことも必要なんだ。ユヅルはこれを学んでいてそういう技術を上達させるために時間を費やすことを惜しんでいないよ。」
「どこから無理なくスピードと流れを得て、ターンをどう終わらせるか、どう適切に押すかを理解することが全てなんだ。ブレードのどこに立つべきか?それは時間とともにユヅルにとっては自然と身に着く知識だよ。」
羽生とフェルナンデスはとてもいい関係を築いているとオーサーは言う。
「氷の上ではライバルであるということは彼らも知っている。しかしお互いをリスペクトしていて本当にいい友達になっているんだ。ハビエルにとってユヅルが近くにいるのはすごく良いことだと思う。ハビエルは突然以前よりも練習熱心になり、体のケアもしているんだ。前よりも集中しているようだよ。」
STEPPING OUT OF THE ZONE
羽生は今までにやったことのない振付師とともに、2つの新しいプログラムを作った。ジェフリー・バトルはブルース調のショートプログラムを作り、デイヴィッド・ウィルソンはより伝統的なノートルダム・ド・パリにのせたフリープログラムを振り付けた。
「ジェフにはショートを作ってもらうように頼んだんだ。デイヴィッドにショートとフリーを両方やる時間はどちらにしてもなかったからね。」オーサーは説明する。
「ジェフがこのブルースナンバーを思いついたんだ。ユヅルが通常やってきたものからの旅立ちとなるね。ほら、彼はいつも自分のやりたいドラマティックな曲で滑る傾向があったから。でも僕たちは違う方向に行かなくてはならなかった。彼のスケーティングと振付には多面性があるしそれを披露させるべきと思ったんだ。」
この新しいコンセプトは羽生にとって挑戦である。
「まだショートに関しては感覚をつかもうとしています。とても変わっていて今までこのスタイルでやったことがないので難しいです。」
「大抵クラシックか映画音楽で滑ってきました。そちらの方が感情を表現するのがずっと楽なので。このプログラムを演じるのを楽しみにしてはいますが、現時点では挑戦です」
オーサーはユヅルが挑戦に関して意欲的だということに念を入れた。
「デイヴィッドはユヅルが滑るところを見たことがなかったからYouTubeで動画を見せたんだ。そしたら『何てことだ、この子本物だよ』って。でも振付を始める前に、僕はちゃんとユヅルがジャンプに入る堅実なつなぎを持っているようにしたんだ。」
「フリーはドラマティックなのでユヅルは欲しかったドラマを手に入れたよ」
笑いながらオーサーは答えた。
「でも動きと情熱、そしてより構成がある。だからそれぞれがうまく絡んでいるようだよ。デイヴィッドはいい仕事をした。」
フリーは楽しいプログラムかと聞かれると羽生は笑った。
「いいえ、シリアスなプログラムです。表現するには僕にとって少し難しいストーリーだけど成長と変化のためのチャンスだと思っています。ジェフリーとデイヴィッドと振付をするのはすごく楽しかったです。」
羽生のエキシビションプログラムはカート・ブラウニング振付によるHello, I Love Youだ。
オーサーは現段階での唯一の心配事は羽生の移動スケジュールだと言う。
「これまでに彼は3,4度日本とカナダを行ったり来たりしている。学校のために戻って、それからショー。だから僕は自分の意見を主張するのが難しいんだ。彼にとっては素晴らしいことが起きている一方で、もっと彼にはやるべき素晴らしいことがあることを僕はわかっているからね。」
「シーズンに入るにつれて彼は移動に関しては減らしていくことになるだろう。オリンピックに入る次のシーズンでは本当に練習に集中して休養をとり健康でいることに焦点を合わせないといけない。」
まだ今シーズンのデビュー戦がどこか最終決断は下されていないものの、彼のチームは10月初旬のフィンランディア杯に向かっているようだ。羽生のGPアサインメントはスケートアメリカとNHK杯だ。
「この試合にわくわくしています。でも今はワールドメダリストになったのでいい成績をおさめないといけないこともわかっています。僕が勝つことをたくさんの人が期待してくれているので精一杯やりたいです。
ON A PERSONAL NOTE
羽生は4歳の時に、姉のサヤが始めたスケートに影響を受けて始めた。姉はスケートを辞めたが、その頃彼にはスケートに対する情熱が生まれていた。
リンクの外では音楽とゲームが好きな典型的なティーンエイジャーだ。彼はこの秋12年生(もちろんカナダ式の学年)になるが、高校はオンラインの通信教育で来年の3月卒業予定である。彼の世界的人気はニースでの印象的な演技から急上昇したが、彼は未だこれを理解しようとしている段階である。
「難しいですが、いつでも最善を尽くさなければならないことはわかっています」と17歳は言う。
「世界選手権のフリーで転倒したとき、観客の皆さんがまだ拍手をしてくれていたんです。それがすごく非現実的に感じたんです。日本でファンに会えますし、応援してくれていることは知っているし、とても気分がいいです。すごくいいモチベーションになっています。」
幼いころからの熱烈なフィギュアスケートファンとして羽生はいつもテレビで試合を見ていたという。彼のNO.1アイドルはいつだってエヴゲニー・プルシェンコだ。
「最初に彼をテレビで見たのが4歳か5歳の時で、彼こそが僕を本当にフィギュアスケーターになりたいと思わせてくれた人です。」「いつだって彼のようになりたかったんです。」
今シーズン羽生はプルシェンコと戦う可能性があることを知っている。
「楽しみにはしていないです。」と笑いながら答える。「すごく変な感じです。彼のことをずっと夢見ていて、今度は一緒に試合をするなんて現実とは思えないです。」