中川真氏のセクハラ被害者の一人である御中虫が、2012年5月末、自傷衝動の悪化により入院しました。
「僕は虫の社会的父親なんだ」と公言していた中川氏。中川氏が御中にとっては社会的父親なんだ、と周囲に認識されてしまうことで、さらに追い詰められる被害者の心理。
セクハラ問題で回りが騒ぐなどゲスの極み、こういうことは当事者同士が解決するべき問題、いい大人が他人に頼らないと解決できないのか、嫌なら嫌と言えばいいじゃないか、などといった周囲の声は、被害者をさらにおいつめるだけでなく、まさに加害者の思う壺の声であると言えます。
中立・傍観・無関係などのつもりで発する(または発しない)言葉や行動が、実は加害者にとって非常に有利であるというのがセクハラ問題の事実。
以下はブログに投稿済みの記事ですが、御中虫の入院をうけて、再度記したいと思います。
<セクハラ被害を受けた時すぐに訴えられなかった理由・御中虫の場合>
自分は過去が過去なので(近親相姦、他人からのレイプ、痴漢セクハラ多数)中川氏にセクハラを受けても「こいつもか」「他のやつにくらべたら(暴力を振るったり脅迫してこないだけ)ましか」「この程度のことで目くじら立ててたら、生きていけないよなあ」という諦めが先に立ち、怒ることができなかった。
当時は性被害の過去を誰にも言っていなかったし、それを絶対に誰にも悟られまいと懸命に自分の女性性を封印し、男性経験や性的なことにはものすごく鈍感なふりをしつづけてきた。だから、中川氏の自分に対する行為はセクハラであるということは内心ではわかりすぎるほどわかっていたのだが、それを訴えると、うっかり言動のどこかでほころびが生じ、自分の過去までもが周囲に知られてしまうのではないかという懸念が先立ち、言えなかった。
散々外見をけなされ「誰がお前なんかに手を出すか」「ほんまに女か?」などと人前でも二人きりのときでも頻繁に言われていたので、そのような自分が中川氏からセクハラにあっていると周囲に訴えても、自意識過剰とか勘違い女のような目で見られ、よけいに傷つくだけだろうな、と思い、言えなかった。
小鹿も書いているとおり、中川氏は冗談の流れでセクハラ行為をすることが多いため、周囲の和を優先してその場で怒りを表明できなかったり、二人でいるときも決して暴力的脅迫的ではなく、「あくまでも場所がないための単なる添い寝」「あくまでも好意による単なるマッサージ」という文脈で肌を触ってくるので、これはもしかして、セクハラじゃないのか?ここで怒る方が変なのか?むしろ彼の好意に感謝すべきなのか?男性恐怖症の自分の感覚がおかしいだけ?と混乱してしまい、言いなりになってしまっていた。
中川氏は他の人と談笑などするときに何度か「御中虫は僕の娘みたいなもの」「僕は御中虫の社会的父親なんだ」等発言しており、また実際その言葉に違わぬ程の面倒を見てくれた。たとえばガムランを離れたところでも仕事をもちかけてくれたり、職を斡旋してくれたり、職場に来て上司に「御中虫を頼みます」とあいさつしてくれたり、私が精神病院入院時は、多忙であろう合間を縫ってしばしばお見舞いに来て私の気晴らしをしてくれたり、主治医にも「あの子は才能のある子だから病気で潰れないようにお願いします」といったことを頼んでくれたり、他にもあったかもしれないが、とにかく様々な場面でお世話になってきた。そういった非常に優しくありがたい氏の一面を考えると、「あの人は実は裏ではセクハラしまくってるえげつない人間なんだ」と告発することは、心情的にとても難しく、それをしたら自分は鬼か悪魔じゃないのか、あんなに世話になったくせに彼を地獄へ蹴り落とすのか、と思うと周囲に相談することはどうしてもできなかった。
周囲に相談することがどうしてもできない状況に追い込まれる、これがセクハラです。
そうなると、一人で苦しみ続けることになるのです。
何かのきっかけでやっと声を上げることができたとしても、
周囲が「人に頼るな」「加害者本人に嫌だと言え」などと即座に言ってしまえば、
被害者はさらに苦しい立場に自らを追い込むことになります。
場合によっては、うつ病、PTSDなどを発症したり、
自傷行為、最悪の場合自殺することもあります。
誰でも、加害者、被害者、加害者の友人、被害者の友人など、問題の当事者や関係者になる可能性があります。
自分の信念や常識、そういったものに例え自信を持っている人であっても、
もう一度、自分が加害者の友人になった時、人として何がいえるのか、
被害者の知人としてどう関われるのか。
今一度想像し、考えてみることが大事なのではないかと思います。
「僕は虫の社会的父親なんだ」と公言していた中川氏。中川氏が御中にとっては社会的父親なんだ、と周囲に認識されてしまうことで、さらに追い詰められる被害者の心理。
セクハラ問題で回りが騒ぐなどゲスの極み、こういうことは当事者同士が解決するべき問題、いい大人が他人に頼らないと解決できないのか、嫌なら嫌と言えばいいじゃないか、などといった周囲の声は、被害者をさらにおいつめるだけでなく、まさに加害者の思う壺の声であると言えます。
中立・傍観・無関係などのつもりで発する(または発しない)言葉や行動が、実は加害者にとって非常に有利であるというのがセクハラ問題の事実。
以下はブログに投稿済みの記事ですが、御中虫の入院をうけて、再度記したいと思います。
<セクハラ被害を受けた時すぐに訴えられなかった理由・御中虫の場合>
自分は過去が過去なので(近親相姦、他人からのレイプ、痴漢セクハラ多数)中川氏にセクハラを受けても「こいつもか」「他のやつにくらべたら(暴力を振るったり脅迫してこないだけ)ましか」「この程度のことで目くじら立ててたら、生きていけないよなあ」という諦めが先に立ち、怒ることができなかった。
当時は性被害の過去を誰にも言っていなかったし、それを絶対に誰にも悟られまいと懸命に自分の女性性を封印し、男性経験や性的なことにはものすごく鈍感なふりをしつづけてきた。だから、中川氏の自分に対する行為はセクハラであるということは内心ではわかりすぎるほどわかっていたのだが、それを訴えると、うっかり言動のどこかでほころびが生じ、自分の過去までもが周囲に知られてしまうのではないかという懸念が先立ち、言えなかった。
散々外見をけなされ「誰がお前なんかに手を出すか」「ほんまに女か?」などと人前でも二人きりのときでも頻繁に言われていたので、そのような自分が中川氏からセクハラにあっていると周囲に訴えても、自意識過剰とか勘違い女のような目で見られ、よけいに傷つくだけだろうな、と思い、言えなかった。
小鹿も書いているとおり、中川氏は冗談の流れでセクハラ行為をすることが多いため、周囲の和を優先してその場で怒りを表明できなかったり、二人でいるときも決して暴力的脅迫的ではなく、「あくまでも場所がないための単なる添い寝」「あくまでも好意による単なるマッサージ」という文脈で肌を触ってくるので、これはもしかして、セクハラじゃないのか?ここで怒る方が変なのか?むしろ彼の好意に感謝すべきなのか?男性恐怖症の自分の感覚がおかしいだけ?と混乱してしまい、言いなりになってしまっていた。
中川氏は他の人と談笑などするときに何度か「御中虫は僕の娘みたいなもの」「僕は御中虫の社会的父親なんだ」等発言しており、また実際その言葉に違わぬ程の面倒を見てくれた。たとえばガムランを離れたところでも仕事をもちかけてくれたり、職を斡旋してくれたり、職場に来て上司に「御中虫を頼みます」とあいさつしてくれたり、私が精神病院入院時は、多忙であろう合間を縫ってしばしばお見舞いに来て私の気晴らしをしてくれたり、主治医にも「あの子は才能のある子だから病気で潰れないようにお願いします」といったことを頼んでくれたり、他にもあったかもしれないが、とにかく様々な場面でお世話になってきた。そういった非常に優しくありがたい氏の一面を考えると、「あの人は実は裏ではセクハラしまくってるえげつない人間なんだ」と告発することは、心情的にとても難しく、それをしたら自分は鬼か悪魔じゃないのか、あんなに世話になったくせに彼を地獄へ蹴り落とすのか、と思うと周囲に相談することはどうしてもできなかった。
周囲に相談することがどうしてもできない状況に追い込まれる、これがセクハラです。
そうなると、一人で苦しみ続けることになるのです。
何かのきっかけでやっと声を上げることができたとしても、
周囲が「人に頼るな」「加害者本人に嫌だと言え」などと即座に言ってしまえば、
被害者はさらに苦しい立場に自らを追い込むことになります。
場合によっては、うつ病、PTSDなどを発症したり、
自傷行為、最悪の場合自殺することもあります。
誰でも、加害者、被害者、加害者の友人、被害者の友人など、問題の当事者や関係者になる可能性があります。
自分の信念や常識、そういったものに例え自信を持っている人であっても、
もう一度、自分が加害者の友人になった時、人として何がいえるのか、
被害者の知人としてどう関われるのか。
今一度想像し、考えてみることが大事なのではないかと思います。
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