[上代に見る宗祖本仏義]
日蓮本仏論≠ニは大石寺独特の教義であり、その特質は勝釈迦≠ナある。即ち釈迦如来を劣とし日蓮勝を論じるのが大石寺の誇る教義であるが、上代にはこのような思想は見られない。興師の日蓮観≠ヘあくまでも法華経の教主釈尊の遣使還告≠ナあり上行菩薩の後身であり、そのうえでの内証久遠元初自受用報身であり、教主釈尊と上行日蓮は一仏の表裏(因果)というものを越えるものではない。
日興上人は弟子檀那からの御供養の返書に、あきらかに日蓮宗祖を法華経の当体としての仏≠ニし明言されている。
【文証(番号は歴法全の番号)】
聖人御影の御宝前・20番/ 法花聖人の御宝前・37番/ 法主上人御神殿・47番/ 仏にまいらせて・61番/ 仏の御見参・63番/ 御経日蓮聖人・64番/ ほくゑしやう人の御けさん・89番/ 法華しやう人の御ほうせん・90番/ ほつけしやうにんの御ほうせん・91番/
上記を見ると、興師が日蓮宗祖を仏≠ニして見ていたのは史実であろう。しかしその本質はあくまで上行後身、内証は自受用報身如来であっても教主釈尊≠出るものではない。
【文証・一】
「此の国をば念仏真言禅律の大謗法の故大小守護の善神捨て去る間、その後の祠(ほくち)には大鬼神入り替わりて、国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連連として国土滅亡の由、故に日蓮聖人の勘文関東の三代に仰せ含ませられ候い畢んぬ、此の旨こそ日蓮阿闍梨の所存の法門にて候え、国の為世の為一切衆生の為の故に、日蓮阿闍梨仏の御使として大慈悲を以つて身命を惜しまず申され候いきと談じて候いしかば」(原殿御返事)
【文証・二】 御義口伝に云く、此の品は迹門流通の後、本門開顕の序文なり、故に先ず本地無作の三身を顕わさんが為に、釈尊所具の菩薩なるが故に、本地本化の弟子を召すなり、是れ又妙法の従地なれば十界の大地なり。(御義口伝・聖五一一頁)
日興記の文証は決定的である。御義口伝は徹底的に無作三身を以て実仏とし、釈尊を嫌う文面が多々見られる。例えば「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり、既に此の品の時、上行菩薩に付嘱し玉う故なり(御義口伝・神力品)」等の文証があるが、日蓮宗祖がご自身を指して論じているのだから本因を全面的に出して本果を隠されているだけの話しである。
肝心なことは、上行菩薩は法華経の教主釈尊の九界(本因)であると決判されていることである。この、日蓮宗祖が上行後身で本地は教主釈尊であるという思想は富士門下には徹底されていたようで、興師の本弟子である日仙師に帰依していた秋山氏は讃岐に居を移されてからも日蓮宗祖の御講参詣の意義について厳しく一門に遺戒されている。
【文証】
[秋山泰忠状] 十月十三日の御事は泰忠が跡を知行せんずる男子女子孫彦に至る迄忠を致し申すべきなり、此の御堂より外に仮初にも御堂を建て此の御堂を背き申すまじき印に、又内々は兄弟と云ひ又は伯叔父中従兄弟の中にも恨むる事有りとも、十三日には相互に心を一つにして御仏大上人を泰忠が仰ぎ申す如くに、十五日迄皆々一所にて御勤も申し候べく候。 (要集八巻・二三四頁)
ここに日興門流の意識が強く表されている。即ち十三日という日蓮宗祖の命日にあたる報恩御講≠ノは、どのような諍いがあったとしても秋山一門は日蓮宗祖に対する信仰をひとつにして十五日まで報恩を尽くせ、と遺戒されていて「御仏(みほとけ)大上人」と、上行後身思想と内証釈尊との教義がいかんなく顕れている。
なお、この讃岐の秋山氏の子孫はけっこう残っていて、北海道深川市の宝龍寺の講頭を勤めていた秋山氏豊一氏も日正寺の秋山御能師も讃岐の秋山氏の末裔である。(余談)
日興上人のもとで重須の学頭を勤められていた三位日順師にいたっては、印度応誕の釈迦如来を迹仏と見放す思考が見受けられる。
【文証・一】 @日蓮聖人の出現は上行菩薩の後身なり、行者已に出世して結要付嘱を弘通す。(富士宗学要集二巻・二一頁)
A従地涌出の下方の大士・神力別付の上行応化の日蓮聖人。(同 二九頁)
B本尊総体の日蓮聖人の御罰を蒙り。(同 二八頁)
C久遠元初自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなりこと。(同 八三頁)
※以上は類文ではあるが、各方面からの指摘なので敢えて四種を出した。問題なのは次の御指南である。
【文証・二】
然ルに天竺の仏は迹仏なり、今日本国に顕れ玉うべき釈迦は本仏なり、彼ノ本仏の顕シ玉ふ所なれば日本を中国と云フなり。 (同 百十三頁)
これは本迹勝劣≠フうえから種脱相対のもとに説かれたものであり、教・機・時・国・序の五義判によるものであるが釈迦仏法と日蓮仏法との対比のうえでの勝劣ではない。あくまでも上行後身≠ニいう線を前面に押し出したうえでの本国土妙の相違によるのであり、日寛師のような「勝釈尊」とは云えないが、日蓮本仏論の先駆と云えるのではないか。
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