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風塵山荘
この掲示板は仏教者の視点から時事を語る掲示板です。宗教・宗派を問わず、特に正系六門下の日蓮主義≠謔閧フ時事評論は歓迎します。また十数年の長きにわたり特定の人物を誹謗・中傷してきた冨士尻学研究≠ニ称する不倶戴天≠フ邪妄団とは情報交換を通してともに闘う掲示板である。

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日蓮非*{仏論 (二)、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月28日(火) 21時05分


[上代に見る宗祖本仏義]


日蓮本仏論≠ニは大石寺独特の教義であり、その特質は勝釈迦≠ナある。即ち釈迦如来を劣とし日蓮勝を論じるのが大石寺の誇る教義であるが、上代にはこのような思想は見られない。興師の日蓮観≠ヘあくまでも法華経の教主釈尊の遣使還告≠ナあり上行菩薩の後身であり、そのうえでの内証久遠元初自受用報身であり、教主釈尊と上行日蓮は一仏の表裏(因果)というものを越えるものではない。


日興上人は弟子檀那からの御供養の返書に、あきらかに日蓮宗祖を法華経の当体としての仏≠ニし明言されている。

【文証(番号は歴法全の番号)】

 聖人御影の御宝前・20番/ 法花聖人の御宝前・37番/ 法主上人御神殿・47番/ 仏にまいらせて・61番/ 仏の御見参・63番/ 御経日蓮聖人・64番/ ほくゑしやう人の御けさん・89番/ 法華しやう人の御ほうせん・90番/ ほつけしやうにんの御ほうせん・91番/


上記を見ると、興師が日蓮宗祖を仏≠ニして見ていたのは史実であろう。しかしその本質はあくまで上行後身、内証は自受用報身如来であっても教主釈尊≠出るものではない。

【文証・一】

「此の国をば念仏真言禅律の大謗法の故大小守護の善神捨て去る間、その後の祠(ほくち)には大鬼神入り替わりて、国土に飢饉、疫病、蒙古国の三災連連として国土滅亡の由、故に日蓮聖人の勘文関東の三代に仰せ含ませられ候い畢んぬ、此の旨こそ日蓮阿闍梨の所存の法門にて候え、国の為世の為一切衆生の為の故に、日蓮阿闍梨仏の御使として大慈悲を以つて身命を惜しまず申され候いきと談じて候いしかば」(原殿御返事)

【文証・二】
御義口伝に云く、此の品は迹門流通の後、本門開顕の序文なり、故に先ず本地無作の三身を顕わさんが為に、釈尊所具の菩薩なるが故に、本地本化の弟子を召すなり、是れ又妙法の従地なれば十界の大地なり。(御義口伝・聖五一一頁)


日興記の文証は決定的である。御義口伝は徹底的に無作三身を以て実仏とし、釈尊を嫌う文面が多々見られる。例えば「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり、既に此の品の時、上行菩薩に付嘱し玉う故なり(御義口伝・神力品)」等の文証があるが、日蓮宗祖がご自身を指して論じているのだから本因を全面的に出して本果を隠されているだけの話しである。

肝心なことは、上行菩薩は法華経の教主釈尊の九界(本因)であると決判されていることである。この、日蓮宗祖が上行後身で本地は教主釈尊であるという思想は富士門下には徹底されていたようで、興師の本弟子である日仙師に帰依していた秋山氏は讃岐に居を移されてからも日蓮宗祖の御講参詣の意義について厳しく一門に遺戒されている。

【文証】

[秋山泰忠状]
十月十三日の御事は泰忠が跡を知行せんずる男子女子孫彦に至る迄忠を致し申すべきなり、此の御堂より外に仮初にも御堂を建て此の御堂を背き申すまじき印に、又内々は兄弟と云ひ又は伯叔父中従兄弟の中にも恨むる事有りとも、十三日には相互に心を一つにして御仏大上人を泰忠が仰ぎ申す如くに、十五日迄皆々一所にて御勤も申し候べく候。 (要集八巻・二三四頁)


ここに日興門流の意識が強く表されている。即ち十三日という日蓮宗祖の命日にあたる報恩御講≠ノは、どのような諍いがあったとしても秋山一門は日蓮宗祖に対する信仰をひとつにして十五日まで報恩を尽くせ、と遺戒されていて「御仏(みほとけ)大上人」と、上行後身思想と内証釈尊との教義がいかんなく顕れている。

なお、この讃岐の秋山氏の子孫はけっこう残っていて、北海道深川市の宝龍寺の講頭を勤めていた秋山氏豊一氏も日正寺の秋山御能師も讃岐の秋山氏の末裔である。(余談)


日興上人のもとで重須の学頭を勤められていた三位日順師にいたっては、印度応誕の釈迦如来を迹仏と見放す思考が見受けられる。



【文証・一】
@日蓮聖人の出現は上行菩薩の後身なり、行者已に出世して結要付嘱を弘通す。(富士宗学要集二巻・二一頁)

A従地涌出の下方の大士・神力別付の上行応化の日蓮聖人。(同 二九頁)

B本尊総体の日蓮聖人の御罰を蒙り。(同 二八頁)

C久遠元初自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなりこと。(同 八三頁)


※以上は類文ではあるが、各方面からの指摘なので敢えて四種を出した。問題なのは次の御指南である。


【文証・二】

然ルに天竺の仏は迹仏なり、今日本国に顕れ玉うべき釈迦は本仏なり、彼ノ本仏の顕シ玉ふ所なれば日本を中国と云フなり。
(同 百十三頁)

これは本迹勝劣≠フうえから種脱相対のもとに説かれたものであり、教・機・時・国・序の五義判によるものであるが釈迦仏法と日蓮仏法との対比のうえでの勝劣ではない。あくまでも上行後身≠ニいう線を前面に押し出したうえでの本国土妙の相違によるのであり、日寛師のような「勝釈尊」とは云えないが、日蓮本仏論の先駆と云えるのではないか。

 



(補遺) 追伸の文証について、
名前:松木法太郎    日付:08月28日(火) 21時19分

日興上人が、「御経日蓮聖人・64番/ ほくゑしやう人の御けさん・89番/ 法華しやう人の御ほうせん・90番/ ほつけしやうにんの御ほうせん・91番」と云われたことは重要である。日蓮宗祖を法華経そのものであると御指南されているのである。


【文証・一】
云はく「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写すること有らん
者は当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口より此の経典
を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」已上。

此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦
牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。
(守護国家論・新編一四九頁)

【文証・二】
されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、此の度仏
法を心みよ。(撰時抄・新編八七一頁)

 

お応えします、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月28日(火) 20時31分


>1、十方と表現されるならその基点はどこか。


※十方と云うのは、ひとつの世界(宇宙法界)を東西南北の四方と、その中間の四方で八方、これに上下を入れて十方となるが、宇宙の立体的世界観を表現したもので起点というものは存在しないが、大乗思想の世界観では霊山が中心であるから末法今時では、本門戒壇大本尊が法界の中心である。

【文証】=霊山とは御本尊なり。(御義口伝・寿量品)


2、大乗非仏説は学問的に正しいと考えるか?正しいと考えるなら法華もまた非仏説となるが、それでよいか?


※大乗非仏説は正しい解釈ではない。原始仏教の最古層に属するパーリー聖典に代表されるダンマパダ(法句経)やスッタ・ニパータ(経集)こそ、シャーキャームニの言葉に近い、とされているが印度に於て文字≠ェ開発されたのはブッダ滅後約百年の後であり、確実なブッダの言葉とは云いがたい。

しかし、アイヌ民族には長文の叙情詩であるユーカラの二万数千語を一句たがわず繰り返し述べる者がいたことは事実で、文字の無い民族は想像を絶する記憶力の持ち主がいて、これをその能力のある者に伝承されたから印度のブッダの教えがまったく伝わっていないと考えることは困難である。

しかし、原始仏典の全てがブッダの言葉とは信じ難い以上は大乗非仏説と同時に小乗非仏説も論じられなければならない。むしろ印度のように瞑想(ヨーガ=瑜伽)を重視するバラモン的習慣のあるお国柄を考えると、ひとつの教えを多くの弟子が、それぞれの直観力によってさらに深化させたであろうから大乗に進化した形跡からブッダの教えを求めることは可能と思う。

大乗非仏説はフランスの文学者によって打ち出された思考であるが、その百年ほど以前に京都の醤油屋の主人であった富永仲基が、様々な大乗経典を検討し比較文化論のうえから非仏説であることを「出定後語」という著書に発表し、現在も公刊されているが、日蓮宗祖はどうも、大乗仏典の成立にさいし疑問を持っておられたようである。


【文証・一】

私に日蓮云はく、威儀形色経・瑜伽経等の文の如くんば仏説に於ては法華経
に印・真言有るか。若し爾らば経家・訳家之を略せるか。六波羅密経の如き
は経家之を略す。旧訳の仁王経の如きは訳者之を略せるか。若し爾らば天台
真言の理同事異の釈は、経家並びに訳者の時より法華経・大日経の勝劣なり。
全く仏説の勝劣に非ず。此天台真言の極なり。天台宗の義勢才覚の為に此の
義を難ず。天台真言の僻見此くの如し。
(法華真言勝劣事・新編三○七頁)

【文証・二】

経教は西天より東土におよぼす時、訳者の意楽に随って経論の文不定なり。
(聖愚問答抄・新編三九二頁)

【文証・三】

法華経も天竺には十六里の宝蔵に有れば無量の事有れども、流沙・葱嶺等の
険難、五万八千万里の路次容易ならざる間、枝葉をば之を略せり。此等は併
しながら訳者の意楽に随ふ。広を好み略を悪む人も有り。略を好み広を悪む
人も有り。然れば則ち、玄奘広を好んで四十巻の般若経を六百巻に成し、
羅什三蔵は略を好んで千巻の大論を百巻に縮めたり。印契・真言の勝るゝと
云ふ事、是を以て弁へ難し。

羅什所訳の法華経には是を宗とせず。不空三蔵の法華儀軌には印・真言之有
り。仁王経も羅什の所訳には印・真言之無し。不空、所訳の経には之を副へ
たり。知んぬ是訳者の意楽なりと。(真言見聞・新編六一二頁)


以上、縷々述べたが、大乗仏教は釈尊の精神を述べたものであると、逃げ腰で論じる大乗系仏教学者は堕落思想家と云えるのではないか。大乗が非仏説であるなら小乗だって非仏説ではないか、と堂々と論陣を張るべきである。

日蓮宗祖の場合は「法華経の教主釈尊」と述べられている。これは法華経を説いた仏ということでそれがブッダの弟子であっても構わなく、滅後の訳経僧(羅什)でもかまわない。ようするに法華経を説法した仏弟子であってもなんら構わないこととなる。

恐るべきことに、日蓮宗祖の場合は故意か偶然か大乗非仏説に対応していたのである。

 

茶々をいれてみます。(新) 返信  引用 
名前:新しい風に心を洗おう。    日付:08月28日(火) 20時04分
本日朝、投稿したのは電車の中からですので意味が伝わらなかったかもしれませんので若干言いなおします。古い方は削除ください、恐れいります。

いつもロムさせてもらっております。といってもロム男氏ではありません。教学解釈力は格段に落ちます。



松木さま、二つ、茶々を入れさせてください。

1、十方と表現されるならその基点はどこか。
  そもそも『一国土』をどう解釈するのか。『地球上』と解釈するのが通常と思われるが、それでよいでしょうか。
  『日本』『中国』とか『インド』とかの固有国家ではないと思われるので。


2、大乗非仏説は学問的に正しいと考えるか?正しいと考えるなら法華経もあるいはその他もろもろの八万四千経典、また非仏説となりうるが、それでよいか?そうすると、法華経が最強というのも崩れてしまうが、それで成り立つのか。

茶々をいれてみます。 返信  引用 
名前:新しい風に心を洗おう。    日付:08月28日(火) 07時57分
いつもロムさせてもらっております。といってもロム男氏ではありません。

松木さま、二つ、茶々を入れさせてください。

1、十方と表現されるならその基点はどこか。

2、大乗非仏説は学問的に正しいと考えるか?正しいと考えるなら法華もまた非仏説となるが、それでよいか?

日蓮非*{仏論 (一)、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月27日(月) 22時00分


[一仏一国土]

日蓮宗祖の佐前≠フ御書を「仏の爾前の経とおぼしめせ」との御指南からまったく問題としない徒輩がいるとには呆れ果てるしかあるまい。日蓮宗祖の佐前の御書は、仏教教義の原則的な意義を書き留められているのであり、仏教学の基本にあたる。

一仏一国土という絶対的な原則がある。阿弥陀仏は西方浄土であり、千日尼御前御書に「十方の佛と申すは東方善徳佛、東南方無憂徳佛、南方栴檀徳佛、西南方宝施佛、西方無量明佛、西北方華徳佛、北方相徳佛、東北方三乗行佛、上方廣衆佛、下方明徳佛也」とあげられている。

我々衆生の世界はもちろん「娑婆世界」であり本主∞教主∞救主≠ヘ釈迦牟尼仏である。

【文証・一】

涅槃経三十五の巻の迦葉菩薩品に云はく「我処々の経中に於て説いて言はく、
一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二転輪王あり一世界の中に二仏出
世すといはゞ、是の処コトワリ有ること無けん」と。大論の九に云はく「十方恒
河沙の三千大千世界を名づけて一仏国土と為す。是の中更に余仏無し。実に
一ヒトリの釈迦牟尼仏のみなり」と。(今此三界合文・新編二五四頁)

【文証・二】

真言七重難。一、真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云。若し爾れ
ば大日の出世・成道・説法・利生は釈尊より前か後か、如何。対機説法の仏
は八相作仏す。父母は誰ぞ。名字は如何。娑婆世界の仏と云はゞ、世に二仏
無く国に二主無きは聖教の通判なり。涅槃経の三十五巻を見るべきなり。
(真言見聞・新編六一五頁)

【文証・三】

涅槃経の三十五に云はく「我処々の経の中に於て説いて言はく、一人出世す
れば多人利益す。一国土の中に二の転輪王あり。一世界の中に二仏出世すと
いはゞ是の処コトワリ、有ること無し」と。大論の九に云はく「十方恒河沙三千
大千世界を名づけて一仏国土と為す。是の中更に余仏無し。実には一ヒトリの
釈迦牟尼仏なり」文。記の一に云はく「世に二仏無く国に二主無し。一仏の
境界に二の尊号無し」文。持地論に云はく「世に二仏無く国に二主無し一仏
界に二の尊号無し」文。(真言見聞・新編六一六頁)


この娑婆世界に世世番番に出現して衆生を済度する仏はただひとり、釈迦牟尼世尊である。「今此三界皆是我有・是悉衆生悉是吾子・唯我一人能為救護」との原則は変えられない。

もし、「勝釈迦」を論じて報身如来に人格を付与すれば真言≠ノなってしまう。そもそもである、真言が仏教であるのか外道であるのか判断に苦しむところではあるが、阿弥陀仏のように他世界といえども神格≠ノ対して信仰する教義も存しているのだからこれは擱くが、報身如来に人格を付与しても絶待法≠スる本因妙に対すれば迹身≠ニなるから絶対的な仏身ということにはならない。
 

法隆寺釈迦三尊さん、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月27日(月) 21時31分

云く、
----------------------------------------------------------------
天台のいう初住位とは法華文句巻九下、『初住に上る登る時、己に常寿を得たり』との釈ということが分かった。常寿とは平たくは永遠に変わらぬ生命。また同じく、法華文句巻九下には『仏、三世において等しく三身有り。諸経の中に於いてこれを伝えず』とも釈している。あの宗派の方はこれが理解できていないのだ。やっと分かった。
----------------------------------------------------------------


※そのとおり『一仏一国土』を強引にへしまげて日蓮本仏論≠フ根拠としているが、日寛師からの牽強付会であり、それ以前に大石寺門流には無かった形而上的観念であります。


云く、
----------------------------------------------------------------
常寿を初めて説いたのは、法華経如来寿量品一六に至ってからだ。『我成仏してより己来、甚だ大いに久遠なり、寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず』すなわち、これぞ久遠元初。
----------------------------------------------------------------


※不思議なことに、日蓮宗祖の御妙判には一箇所も無いのが元初≠ニいう言葉です。これは私が十年ほど以前に御妙判の全編を検索してわかったのですが、大石寺の血脈抄(本因妙抄・百六箇抄)以外の通例の御妙判にはまったくありません。これについても考察していますのでいずれ発表したい。


云く、
----------------------------------------------------------------
総勘文抄『釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にておわせし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して仏になる様を衆生に見知らしめ四十余年に方便経を儲け衆生を誘引す。』すなわち、久遠元初自受用身。(ここでの対象は釈尊)これは(ここでの本仏)釈尊の自内証の境界を本質とする概念で、本門の開顕によって、爾前迹門の十界因果を打破したもの。『仏界も無始の九界に具し、九界も無始の仏界備わる』本門の十界因果(=本因本果)そして、本因本果・因果具時。事の一念三千。さらには、本因本果本国土三妙一体。と。繋がった。
----------------------------------------------------------------


※そう簡単につながっては困ります。(笑)、じょうだんですよ。一念三千とは法華経の諸法実相と十界互具は華厳経、本国土妙は大論から引っ張ってきて成り立っています。これが一念三千の二経一論≠ナす。法華経だけで一念三千の義がなりたつわけではありません。このあたりは中国の山内派と山外派との論争が日本に持ち越され決着がついたということになりますかね。


云く、
----------------------------------------------------------------
決定、やはり、法華経文底で行くことに決定。しかし、本仏は釈迦か日蓮か。これは、あせらずに一先ず置くことにしよう。そうなれば、本尊も今まで通り文字曼荼羅。決定。久遠元初、久遠実成は、わずかな経験からでも、一回、自分の中にあるように実際、感じたこともあるし。
----------------------------------------------------------------


※釈迦か日蓮かと云えば、私は釈迦如来であります。日蓮宗祖は仏法の次第から論じても釈迦仏・十方三世の諸仏以降の仏であるから本因の教主であるとしても余仏≠フ地位にあることには変わりはない。

と思います。

 

応顕寺のことから、様々に調べてみました。 返信  引用 
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月27日(月) 00時57分
いつも、申し訳ありません。今日も、私が書き込みばかり。
本当は、しばらく閲覧のつもりでした。
今日、応顕寺のについて調べていくうちに様々なことが分かりました。
今日は、夜の勤行でお題目を送らせて頂きました。
私は大石寺ではありません。
御本尊は違い、ご迷惑かとも思いましたが、せめてもの私の心です。

この掲示板で感じたことは。ここの住人の方で、娘さんのことを書かれた方を拝見しました。また、夏休みに川で釣りを楽しむ書き込みも。
信仰に関係なく、皆、家族を持ち日々平凡に生活をしておられ、その書き込みには、皆、本当に平凡な幸福のために懸命であることを知りました。ごくごく普通の人です。
すいません。もう私の素性を明かしますが、私は創価です。
確かに、ここの住人は大石寺の教義を超えています。(逸脱しています。)
法華講の方々におかれましては、謗法の人扱いは致し方がないかとも思います。

応顕寺のユーチューブを拝見しましたが、その文言は創価の方と同じ怒りを感じました。
因みに創価にも創価の教義を超えているネット依存症のような方がおられますが、これぐらいのことでは除名しません。
地元組織の皆様方を、はじめ見守る方向性です。
ただ、ご指摘のとおり、情報網だけはもの凄いものがありますが。
しかし、逆に、創価の教義を超えているネット創価人を揶揄し批判している創価人もおかしいよ。と思っている一人です。現場の人間は大抵そうだと認識しています。団結が崩れるからです。排除や斬ることは、そこから集団としては弱くなります。当然ですよね。分断は悪です。(これは創価思想です)
僧侶が上、信徒が下。絶対的に聞き入れなければならない。で、なければ、とのいかにも、を創価人は嫌います。現場ではおおくの僧侶に古くいじめられ見下されてきたからです。
創価人は本人が創価を辞めない限りどのような方であろうとも、同志です。
人を斬る、排除するとは、あまり、良いことではありません。
創価は斬らなさすぎて煩雑であり、もう、クソミソ状態でもありますが。バカもきちがいも、ふつうの人間も、立派な人間も、特別に出来る教学の達人も実はいます。そういう方はネットには出入りしません。
様々な見解を持つ方を意にそぐはないから即座に斬ってしまうような狭さはありません。仏教における研究者も一人といわず実はいます。寛容です。しかし、そのクソミソから生まれる縁起はまさに摩訶不思議な現証を題目を皆であげっきっていくなかで生じてくるから不思議です。
創価教学は忙しい在家のために解釈されたものであり、激励です。もはや仏法を超えているとも思うのですが、まずは、この現実社会をどう乗り越えるかが課題なのです。そのような背景があって創価教学は、異端
に思えるのは無理ないかと存じます。
創価の話ばかりになりました。
ともあれ、ここの住人のお方がどのようにされるのかは知り得ませんが、前に前に進んで行って下されば嬉しいです。



Re: 応顕寺のことから、様々に調べてみました。
名前:松木法太郎    日付:08月27日(月) 21時35分

ほう、創価の方でしたか。       ・・・・・(−☆)キラリ!、


じょうだんですよ。(笑)、

法太郎さんへ。本門立正宗なる痴犬集団についての記事ですが。 返信  引用 
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月26日(日) 00時26分
降魔の剣を開きました。
「本門立正宗」と「日蓮正宗法華講」との法論を掲載され、PDFにダウンロードして読ませて頂いております。

法太郎さんの所見も、また、日蓮本仏論については、この法論での大草先生の論文と同じ御所見であると『本門立正宗なる痴犬集団について』の記事の文面から理解させて頂きました。
本仏か余仏かについては、これにて終了ですね。



「本門立正宗」と「日蓮正宗法華講」との法論から学んだこと。
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月26日(日) 04時06分
>この釈尊の本因初住は、宗祖本仏義に入るための最も初門となる義であるが、

天台のいう初住位とは法華文句巻九下、『初住に上る登る時、己に常寿を得たり』との釈ということが分かった。
常寿とは平たくは永遠に変わらぬ生命。
また同じく、法華文句巻九下には『仏、三世において等しく三身有り。諸経の中に於いてこれを伝えず』とも釈している。
あの宗派の方はこれが理解できていないのだ。やっと分かった。
常寿を初めて説いたのは、法華経如来寿量品一六に至ってからだ。
『我成仏してより己来、甚だ大いに久遠なり、寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず』すなわち、これぞ久遠元初。

総勘文抄『釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にておわせし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して仏になる様を衆生に見知らしめ四十余年に方便経を儲け衆生を誘引す。』すなわち、久遠元初自受用身。(ここでの対象は釈尊)
これは(ここでの本仏)釈尊の自内証の境界を本質とする概念で、本門の開顕によって、爾前迹門の十界因果を打破したもの。
『仏界も無始の九界に具し、九界も無始の仏界備わる』本門の十界因果(=本因本果)
そして、
本因本果・因果具時。事の一念三千。さらには、本因本果本国土三妙一体。と。
繋がった。
決定、やはり、法華経文底で行くことに決定。
しかし、本仏は釈迦か日蓮か。これは、あせらずに一先ず置くことにしよう。
そうなれば、本尊も今まで通り文字曼荼羅。決定。
久遠元初、久遠実成は、わずかな経験からでも、一回、自分の中にあるように実際、感じたこともあるし。







HN変えます 返信  引用 
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月25日(土) 13時50分
残暑お見舞い申し上げます。
皆様、この猛暑の中、お体大丈夫でしょうか。

早速ですが、このほど、HNをお尋ねします。改め、法隆寺釈迦三尊に改名させて頂きます。何卒、宜しくお願い申しあげます。

お尋ねしますさん、 返信  引用 
名前:松木法太郎    日付:08月24日(金) 23時43分

云く、
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釈迦の精神を述べたものとは根本的に違いますよね。阿含経経典群の中に、その当時の語りべが語りべに、またその語りべが語りべに伝えた、実物大の釈尊のことを少々、書かれていますが、大乗興隆と、それは、まったくそれとは別物ですよね。
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※前生譚ですな。釈迦がかって修行した時の名前がボサツ≠ナあったが、大乗では修行の階位となってしまいましたね。(笑)、


云く
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経に依って釈尊の性質?どういったらいいのか分かりませんが、変わるのは存じております。細かいことは分かりませんが。
大石寺でのそれは、五重の相対の上で大事なことですよね。
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※パーリー聖典の最古層にある経典類には摩訶不思議な表記がまま、見られます。犀の角の章句などがその代表的な経典ではないですかね。「蛇の章」には以下のような文々句々があります。


「あたかも森林の中で、縛られていない鹿が餌を求めて思うところに出かけるごとく、知者は独立自在の獲得を期して、犀の角のように独り歩め」

「同伴者たちの中にいると、休むとき、立つとき、行くとき、旅するとき、人から呼びかけられる。だれも欲しない独立自在の獲得を期して、犀の角のように独り歩め」

「同伴者たちの中にいると、遊戯と娯楽がある。また子どもたちへの情愛は広大である。愛しい者と別れることを厭いつつ、犀の角のように独り歩め」

「道理にはずれたものを見て不正にとらわれいる悪い仲間を避けよ。執心し怠惰な人にみずから近づくな。犀の負のように独り歩め。」

「多く学び、真理の教えを守り、立派で才智ある友と交われ。ためになることがらを知って疑惑を除き、犀の角のように独り歩め」

「独坐の思惟と禅定を捨てず、なにごともつねに理法通りに行い、もろもろの生存における過患をよく知って、犀の角のように独り歩め」

「慈しみ、平静心、あわれみ、解脱、そして喜びを時に応じてよく修め、世間のぜんたいに背かず、犀の角のように独り歩め」



※犀は犀≠ニいう命があって生命活動を行っているのであって角≠ェ犀の体を離れて存在しているわけではないが、なぜか、釈迦はこのような表現をしています。衆生は犀にはなれないが犀の角が常に先端にあって雄々しくすすむように、道の取得に邁進せよ、ということですかね。

名前は失念しましたが、浄土系の学者がかって仏教を「道の体系」と呼んだことがありました。終わりの無い修行こそ仏教の精神なのかもしれません。・・・・・本因妙ですな。(汗;、
 



いつも、お世話になります。
名前:法隆寺釈迦三尊    日付:08月25日(土) 13時47分
いつもお世話になります。
未だ、お尋ねしますでは、宜しくないと思い、法隆寺釈迦三尊にHNを変えさせて頂きます。

>浄土系の学者がかって仏教を「道の体系」と呼んだことがありました。終わりの無い修行こそ仏教の精神なのかもしれません。・・・・・本因妙ですな。(汗;、

本当ですね

> ※パーリー聖典の最古層にある経典類には摩訶不思議な表記がまま、見られます。犀の角の章句などがその代表的な経典ではないですかね。

何故か、話が、上座部仏教にまでいってしまいました。(笑)
パーリー聖典ですか.....。余談になりますが、スリランカに知り合いがおりまして、その時に対話したことを思いだし、パーリー経典→上座部→スリランカ→ストゥーパ→仏舎利→釈迦→と一瞬にして巡りましたよ。(笑)
知り合いが、日本の仏教がこのスリランカにもあるといい、富士門流もあるとのことでしたよ。
しかし、どうも、考え方が...............。彼らは突き詰めていくと
お国柄、やはりスリランカは小乗思考が根強いことがよく分かりました。分かってそうで、理解できない。残念。
話は変わりますが、私、一時、原始仏典的な思考にはまったことがあるのですよ。苦悩の原因究明解明に思考をめぐらしいったらそうなりました。(苦笑)
この苦悩に満ちた現実を真正面から見つめていった時に、気付いたらそうなってました。
そうなったら、法華系の信心はしていたものの『常楽我浄』という言葉がバカの言葉に見えてきて、しょうがなかったです。
この世は『空・苦・無我・無常』と執着し、苦悩し、あたかも森の中を彷徨う状態に。気付いたら、灰身滅智の思考の方向に。あれが続けばヤバかったです。結局、御書に助けられたというお粗末な結果となりましたが。(笑)
特に行法の部分では、十章抄の中の『但これらは時時の行なるべし、真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり・日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし、名は必ず体にいたる徳あり、』にしがみつきました。(題目のみでいいのだと言い聞かせ)
しかし、やはり、この世は五濁悪世だと知れたことは功徳です。
世の中、大抵は、男は、提婆達多だし、女だったら十羅刹女、鬼子母神だし。

大乗は、たしか、部派仏教の中の大衆部派から大乗という流れでしたっけ?
私、大乗に関してはは、まず、第一発目は大乗仏教の『縁起』という言葉に感動しました。大乗のいう『空』にも、といっても、理論上ですが。中村元著の『空の論理』という著作との出会いによるものだったのです。空の論理と表記ですので、もちろん竜樹の哲学によるものですが、竜樹が、その思考上、大聖人と重なったことを覚えています。『大智度論』も、誰か、一般人が読めるように著作してくださる方いないかな。
また、大乗興隆期は商人が儲かっていたみたいですね。瑠璃とかいろいろ石系が採れてたみたいで、ギリシャに売っていたようです。
そりゃそうですよね。商売人が儲かって布施しないことには大乗は衰退しますよね。国に護られてないですから。とはいっても、結局、衰退しましたが。

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