戦後60年 戦禍の記憶
 
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2005/06/23(木)
<戦後60年 戦禍の記憶> 語り継ぐ心 (3)

ナヌムの家(韓国)
「本当の謝罪聞きたい」

 いきなり右足のズボンをまくり上げ、ひざの内側を指さした。二センチほど肌がえぐられている。

 「突然、兵隊が腰の短刀を抜いて…」

 今も兵隊に殴られる夢にうなされる。夢なのに、必ず激痛が走る。

 元従軍慰安婦、金君子(キムグンジャ)さん(79)。社会福祉法人が韓国京畿道広州市で運営する「ナヌム(分かち合い)の家」で、ほかの十人の元慰安婦のハルモニ(おばあさん)たちとともに暮らしている。

■1日30人を相手

 幼いとき両親をなくした金さんは、六十数年前、日本植民地時代の韓国江原道で、養女に出された。ある日、養父から「お使いに行っておくれ」と言われて、汽車に乗せられた。女性たちがたくさんいて、兵隊の姿も見えた。

「ナヌムの家」にある歴史館。元慰安婦たちの肖像画が埋め尽くす壁の前で、金君子さんは「亡くなった人たちも多い」とつぶやいた
 着いたのは、中国吉林省琿春の「慰安所」。翌日から兵隊たちが小さな紙の券を手に小屋の前で列をつくった。広さは三畳ほど。堅い木の寝台に裸電球。一日三十人の相手をさせられた。「ジュンコ」と呼ばれた。十七歳だった。日本語がわからなくて、よく殴られた。ただ、「コノヤロウ」「バカヤロウ」「チョウセンジン」という単語は今でも覚えている。

 一年半後、激戦地に移った。爆撃、けたたましい銃声。自分たちも、いつ死ぬかわからない。首をくくって死のうとした慰安婦を何人も見た。母や姉を思い出したのか、子供のように泣きだす若い兵隊もいた。

 ある日、銃声がおさまった。日本に原爆が落ちたと聞いた。

 慰安婦たち七人で朝鮮を目指して四十日間、歩き続けた。中国との国境の豆満江を手をつないで渡った。ひとりの手が離れ、流された。

 故郷で恋人と再会した。しかし、結婚していた。恋人は妻とのはざまで悩み抜き、結局、自殺した。当時、おなかに恋人の赤ちゃんがいた。出産後、五カ月で亡くした。

■花嫁衣装の写真

 「ナヌムの家」の二階、金さんの部屋の壁は、たくさんの写真で埋め尽くされている。白いウエディングドレスを着て、花束を手にした金さん。結婚できなかったハルモニたちに、数年前、ある韓国企業がプレゼントしたものだ。身の回りの世話をしてくれる日本の若いボランティアたちのたくさんの顔もある。

 「日本から本当の謝罪がほしい。でも、関心を持ってここに来てくれる人たちには悪い感情は何もない」

 敷地の中に、一九九八年に開館した「歴史館」がある。当時の慰安所の内部を復元、元慰安婦の証言などさまざまな資料も公開している。

 金さんも、歴史を風化させないよう、ここを訪れる人たちに、自らの体験を語って聴かせる。

 昨年、日本からの入館者は約千五百人。開館当初は三千人だった。戦後六十年の今年も、必ずしも多くはない。(広州で、近藤浩)