日本がドイツと異なる道を歩んだワケ

 戦争を終わらせた平和主義者・昭和天皇のイメージも実際とは異なる。敗色が濃厚となった1945年2月14日、昭和天皇は戦争を終結させるため直接動くことを提案した近衛文麿元首相に対し「(戦争の終結は)改めて戦果を上げてからでなければ、話をするのは難しい」として拒否した。同じ日に昭和天皇は「この戦争は最善を尽くせば勝てると信じているが、そのときまで国民が持ちこたえられるか、それが心配だ」と述べたという。

 1931年9月、中国侵略の序幕となった満州事変が勃発したが、昭和天皇はこれにも責任がある。内閣の同意なしに軍事行動に乗り出した関東軍を制止するどころか「今回はやむを得ないが、今後は注意せよ」と述べるにとどまったのだ。昭和天皇は翌月、主な戦場となった遼寧省錦州への爆撃を裁可した。これは第1次大戦以来、初めて行われた都市への爆撃だった。当時、昭和天皇の側近だった奈良侍従武官長の回顧録には、昭和天皇は「錦州周辺で張学良の軍隊が再び組織された場合、戦線が拡大するのは致し方ないのか。もし必要なら、戦線の拡大に同意できる」と述べたと記録されている。

 さらに昭和天皇に対しては、日中戦争と太平洋戦争での捕虜虐待や毒ガス使用にも責任があるとの見方もある。著書『昭和天皇』でピューリッツァー賞を受賞した米国の歴史学者ハーバート・ビックスは「日本は1929年に戦争捕虜の虐待を禁じたジュネーブ条約に調印した。そのことを昭和天皇は知っていたにもかかわらず、軍に対して大量虐殺や捕虜虐待をやめるよう命令しなかった」と主張している。

 昭和天皇は1937年9月11日付で、参謀総長を通じて化学兵器特殊部隊を上海に配備するとの命令を下し、その後1938年には中国やモンゴルの主要な戦闘地域で毒ガスが広範囲に使用された。ハーバート・ビックスは「毒ガスは日中戦争中、昭和天皇・大本営・統帥部が徹底して管理していた兵器だ。通常は天皇の裁可が下されてから、参謀総長の指示が下され、大本営陸軍部を通じて現地の軍に運び込まれていた」と主張している。

金基哲(キム・ギチョル)記者
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