武蔵大学教授 川島浩平
 
「黒人の身体能力は生まれつき優れている」私達の多くは、そう考えています。
実際、オリンピックの陸上競技などでは、「黒人」選手が圧倒していようにみえます。
1984年のロサンゼルスオリンピックから、2008年の北京オリンピックまでの、過去7大会の男子100M決勝で、スタートラインに立った56人は、すべて「黒人」です。
現在30歳未満の人は、オリンピックの100M決勝に、「黒人」以外の選手が出場するのを、まったく見たことがないことになります。
では、「黒人の身体能力は生まれつき優れている」、そう考えて、本当にいいのでしょうか。

まず「黒人」を、次のように定義しておきます。アフリカ大陸のサハラ砂漠より南、つまり「サブサハラ」出身の人とその子孫です。
ただし、黒人という人間集団が、厳密には定義不可能であると、断っておかなければなりません。
しかしここでは、広く一般に流通しているものとして、この定義を借用しておきます。
現在、長距離では、ケニアをはじめとする東アフリカ勢の強さが、短距離では、西アフリカを出自とする選手の強さが、目立っています。
 
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こちらをご覧ください。これは、陸上競技主要13種目の、現在の世界記録保持者、タイム、出自を表しています。短距離はいずれも、西アフリカ出自の選手、長距離はいずれも、東アフリカ出自の選手です。
アラブ系で、北アフリカ出身のエルゲルージを除けば、全員サブサハラの黒人です。
ここで、長距離に強いケニアの内情を、少し詳しく見てみましょう。

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こちらは、優れた運動選手の、人口一人当たりの産出率を計算し、ケニア全体を1とした場合の指数を、地域別に表しています。
ケニア国内でも、首都ナイロビ周辺や、北東地方、海岸地方からは、優秀な選手がまったく生まれていません。
西部の高原地帯にも、地域差があります。とくに、ナンディという民族が、22.9という圧倒的な優位を示していることが、わかります。
では、なぜナンディは、強いのでしょうか。
最近の研究は、遠い昔からイギリスが植民地支配を行った19世紀、20世紀になるまで、ナンディの間で広くみられたといわれる経済的な習慣に注目します。この習慣とは、他の民族を襲撃して、経済的資源の要である牛を奪うというものです。
ナンディによる牛の強奪は、夜間に、少数で、ひそかにかつすみやかに行われました。
少数の男性からなる一団は、夜通し、目指す牛の群れを求めて移動しました。その距離は、160キロを超えることもありました。
一団は、牛を手に入れると、迅速に、追手に気づかれる前に、帰途につかなければならず、成功者は、家で待つ人びとに称えられ、英雄として迎え入れられました。
当然、恵まれた条件で、伴侶を得る機会を与えられ、子孫を残す確率が高くなります。
こうした長距離走の習慣が、幾世代にわたって繰り返されるなかで、ナンディを人並みはずれた走力と、心肺機能の持ち主に鍛え上げてきたのでは、というわけです。
それでは、ナンディのなかの誰が、長距離走で優勝するのでしょう。
ナンディのトップレベルの選手と、他のケニア人の生活習慣に関する、最近の調査があります。
この研究は、学童期の通学手段と通学距離に注目します。
通学の手段として、「交通機関」「歩く」「走る」のいずれを利用したか、との問いに対して、レベルの高いアスリートほど、高い割合が「走る」と答えました。
それから、通学の距離は「5キロ未満」「5キロ以上10キロ未満」「10キロ以上」のいずれか、との問いに対して、同じように、レベルの高いアスリートほど、高い割合が「10キロ以上」と答えました。
長距離走者としてのナンディの名声は、恵まれた自然環境、経済構造や秩序、生活様式などの文化的な習慣、さらには、個々の人びとの経済的地位と、日常的な経験の積み重ねなど、多くの要因の、総合的な作用によって築かれました。
次に短距離をみてみます。短距離では、西アフリカ出自の選手が好成績を収め、世界ランキングの上位を、独占しています。
ここでは、カリブ海の島国、ジャマイカとドミニカ共和国を比較しながら、考えてみます。

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ジャマイカとドミニカは、メキシコ湾の南、大西洋に隣接するカリブ海に、600キロほど離れて位置する島国です。
両者の類似点は、少なくありません。いずれも、過去長期間にわたって、欧米の国に植民地として支配されました。西アフリカを出自とする黒人が多く、国民の9割近くが、黒人の血を受け継いでいるとの報告もあります。ジャマイカはイギリス、ドミニカはスペインとアメリカによる影響を強く受けてきました。そのため、ジャマイカは英語、ドミニカはスペイン語を母語とします。
宗主国による支配から、それぞれ長い闘争を経て独立しましたが、独立以前から、スポーツ選手の育成に力を注ぎ、スポーツ大国として、世界的な名声を得て、現在にいたっています。
しかし両国が得意とする競技は、まったく異なります。ジャマイカはウサイン・ボルトを生んだ陸上短距離王国、ドミニカはベースボール大国です。
ジャマイカは、1948年のオリンピック初出場以後、陸上競技だけで、通算金メダル13、銀メダル25、銅メダル16を獲得してきました。
対照的にドミニカは、1996年のオリンピック初出場以後、全競技併せても、通算金メダル2、銀メダル1、銅メダル1を獲得しただけです。
ドミニカは、運動の才能をベースボールに注ぎ込んできました。現在は、アメリカに次ぐ、メジャーリーガー輩出国として知られます。
いま仮に、短距離走とベースボールの日本人トップアスリートを集めたとします。そしてベースボールチームをジャマイカに、陸上チームをドミニカに派遣したとします。

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ベースボールの場合、あるウェブサイトでの、投票による順位を平均すると、世界ランキングで、日本は2.2位、ジャマイカは22位です。日本がジャマイカに、圧勝することはまちがいありません。
短距離走の場合、ドミニカの100メートル国内記録10秒16は、日本記録より0.16も遅く、200メートル国内記録20秒65は、日本記録より0.62も遅いことになります。ここでも、日本代表は圧倒的に有利です。
日本チームの連勝を見続けた観客の意識に「黒人の身体能力は生まれつき優れている」という考えが、浮かぶ余地は、まったくないでしょう。
各国でのスポーツの発展を具体的にみるなら、優れたアスリートを生みだす背景に、固有の歴史と、文化的な条件が存在することがわかります。
東アフリカと西アフリカという二つの地域をとっても、特徴を異にする人びとが、多数の民族集団を構成しています。東アフリカでは、ケニアの高原地帯にすむナンディが、遺伝と文化の相互作用のなかで培ってきた、群を抜く長距離走力を有しています。そのナンディの若者のうち、現代的な環境のなかで鍛えられたものが、最大限にその可能性を発揮したときに、長距離走で優位に立つことができる、そう考えるべきです。
一般的にはケニアという国家の優位と見なされがちですが、実際にはとても複雑な現象なのです。この点を理解し、西アフリカ出自の人々の短距離走も、同様に、精緻に分析する必要があるでしょう。
「黒人アスリートの優越」、そう人びとが認める状況はたしかに存在します。でもそれは、複雑な過程を通して生まれた現象を切り取った、一つの断面にすぎないのではないでしょうか。