月輪熊撃ち百頭物語



(1)
 6月8日の朝、弟と二人で檜枝岐村の親戚の家を訪ねました。昨年秋に母のお姉さんが昨年101歳で大往生されたのでお葬式には参列しました。それ以来法要にも出席していませんでしたのでその不作法をわびました。
 そこで、窓辺に置いてある写真立てを見つけました。そのタイトルを見て驚きました。
百頭記念とあるのです。おじさんのほこらしげにほほえんで坐っている足下に熊が横たわっています。
「ええ、100頭ですか」
「そうよ。4月にな」
おばさんも誇らしげです。
訪問したのは9時前でしたがおじさんは、もう畑に出て留守でした。
そこで
「これは、素晴らしいことなので是非話を聞きたいのでおじさんに伝えておいてください」
こうして私の月輪熊100頭捕獲物語の取材が始まりました。
 念のためにおじさんの熊捕獲は、鳥獣保護法に基づき狩猟捕獲申請をし、捕獲を認められてのものであることをお断りしております。

(2)
 おじさんに熊とりの話を聞いた夜、もう一人の親戚に会いました。その人はやっぱり母の姉の子どもです。つまり
従兄弟です。その人も若い頃父親と一緒に熊撃ちをした人です。
 実は、100頭捕獲のおじさんが最初に手にした鉄砲は、その従兄弟の父親からのもらった物だそうです。
 その従兄弟と熊撃ち話が盛り上がり、酒も入っていて私が興奮して
「熊の皮が欲しいな」
というと従兄弟は
「オレ、皮を持ってっつお。欲しければ、やっつお」
「欲しい、欲しい」
そうして、○万円で譲ってもらいました。
 一緒にいた弟も妻もあきれ顔でした。
毛皮の大きさは、畳一畳が裕に隠れる大きさです。耳も爪も元の形で残っています。家の居間に敷きましたが、迫力があり家の雰囲気が変わりました。体毛は思ったより柔らかいです。
 皮を裏返すと左前足と左後ろ足に穴を縫った跡があります。銃弾が貫通した跡のように思われます。
 
(3)
 南会津の奥にある檜枝岐村は、尾瀬への入り口として昭和40年代に観光客が多くなるまでは、陸の孤島、秘境などと言われていました。
 村は、幾重にも重なる壮大な山々や大森林に囲まれています。村人はこの山地に依存して生活しています。
 観光業が盛んになる前の村人は山に分け入って山菜、キノコ、木の実を採取し、冬季は山で動物を獲り、夏期は川で魚を獲り、また山に入り、ヘラ、しゃくし、曲げ物などを作って生活の糧としていた時代が長くありました。
 おじさんは(このブログ掲載が修了したでご本人に読んでいただいた後で氏名も公表させていただくかもしれません)、檜枝岐村で生まれ育った人です。貴重な山人の生活の様子を肌で知っている貴重な人です。
 狩りのことだけでなくいろいろなことを聞いてみたいと思います。それは歴史の証言でもあると思います。
、  
(4) 
 おじさんが100頭目を仕留めたのは、今年の4月22日です。8時半頃6人で出かけたそうです。空は晴れ絶好の狩り日和です。
 おじさんは4月16日が誕生日で79歳になります。6人の中の最高齢で、おじさんの次に若い人が60代の人です。
 おじさんが熊狩りに出かけるようになったのは、27歳からだそうですが、その頃はまだ素人なのでなかなか熊狩りに連れて行ってもらえなかったそうです。
 それが現在は最長老で100頭捕獲という記録を打ち立てるまでになったのですから、おじさんも鼻高々です。
 私は、おじさんが捕獲記録を残していることが貴重だと思います。ノートと山の地図に捕獲日、場所が記されています。
 初めて熊を獲ったのは32歳の時だったそうです。昭和40年(1965)4月4日そしてそれから47年で100頭という偉大な記録を残したことになります。
 平均すると年に2〜3頭ということになります。11月15日〜2月15日までは狩猟許可数はないそうですが、4月から5月にかけては有害動物駆除ということで、駆除数は村で1頭と限定されています。
 そうした中で長い間狩人として熊獲りを続けて来られたことは、おじさんが強靱な体力と精神の持ち主であることを証明しています。
 
(5)
 おじさんが100頭目の熊を見つけたのは、仲間と離れ坐りやすい場所で一休みしながらパンとソーセージを
食べているときでした。熊の皮で作った尻当てに腰を下ろし原生林を眺めていました。ただ休憩している訳ではありません。狩人の目は鋭く一帯を見渡しています。
 熊に出会ったのが12時半頃です。4時間ぐらい山を登ったところですから相当高度のあるところだと思います。
 狩りに出るときは持ち物が多いので、食べ物は食べやすいものを持って行きます。
 30Mほど下の斜面に動く物がありました。熊です。冬眠から覚めた熊がのそりのそりゆっくり雪の上を歩いています。
 おじさんは、すばやくライフルを手に取りました。スコープの中に映る熊の姿をじっくり確認している内に無意識に引き金引くと、熊ががくっと身体をよろめかせました。20mくらい走って倒れました。やったと思いました。
 一発で仕留めなければ熊はすさまじい速さで逃げていきます。そうすれば一人での捕獲は困難です。無線で逃げた方角を仲間に伝えて仲間が熊を待ち構えて撃ちます。
 おじさんが持っているライフル銃は5連発ですが、撃つ時は単発です。

(6)
 熊は、12月頃から3月頃までは、木の上の穴や木の根の穴、岩の穴、土の穴で冬眠します。檜枝岐では熊が冬眠する場所を「マゲ」と言います。狩り言葉です。マゲは木の根の穴が一番多いようです。熊は3月下旬頃になると冬眠から目覚めその穴から出てきます。
 その頃山の雪は表面が凍って固くなり日当たりの良い場所などは走ってもぬかることはないほど固くなります。固雪と言います。
しかし、日陰の部分は凍らず腰までぬかるようなところもありますが、積雪期とは比較にならないほど歩きやすくなります。木々の葉はまだ芽吹いていませんので見晴らしも良く、動きやすく狩りの季節の到来です。
 記念写真の熊の首に紐が見えます。それは息絶えた熊をさばきやすい平らなところに引っ張って来るときにつけたものです。その日熊は70kg以上はあったようです。
 無線で熊捕獲の連絡を受けた仲間が全員そろったのは2時間後でした。その後おそらくみんなで押したり引いたりしながら運んだのだと思います。
 
(7)
 撃った熊は、皮をはいで肉だけ運びます。おじさんから解体方法も聞きました。熊の身体を裏返し後ろ足の内股からナイフを入れ腹部を一文字に裂き、前足の内側にナイフを進めるというように理解しました。
 何かの本では肛門からナイフを入れていくという話を読んだことがありますが、それは分かりません。
 昔は、皮に高い値がついたので熊を解体せず持ち帰り家で慎重に剥いだそうです。バブル景気の頃は、一枚30万円という値がついたこともありました。
 今、高値がつくのは熊の胆(い)です。これは非常に珍重され漢方薬としても使われています。今でも胆一つに
70万〜80万という値がつくそうです。
 また、熊は、内臓から肉まで全部食べられますので解体した肉は、狩りに出た人間で均等に配分し背負っております。もちろん胃も均等に配分します。
 
(8)
 解体のメーンは熊胆ゆうたん)の取り出しです。皮を剥ぐまえに腹部を切り熊胆を慎重に切り取ります。切り取った胆(い)は容器に詰めてつぶさないようにして運びます。
 胆の乾燥は熟練のおじさんが行います。囲炉裏の火棚の上で1ヶ月ほどかけて干します。ある程度乾燥してからは板に挟んで平らに伸ばし、乾き具合を見ながら板の紐を締めます。熊の胆は次第に薄く板状になっていきます。
 100頭目の熊の胆は、直径16Cmほどになりました。1000円札の長さです。下の画像は左が熊の胆を乾燥させながら平らに伸ばしていく道具です。右は乾燥させ伸ばした後熊の胆を、おじさんと狩り仲間が分けた分です。六分の1です。
 熊の胆は、腹痛、打撲、火傷、切り傷など何にでも効くと言われています。万能薬です。熊の胆をお湯を入れた茶碗に鉛筆の芯のかけらほど入れると、溶けながら勢いよく回転します。
 おじさんは
「切り傷に付けると、皮膚だけが早くふさがって肉がそのままになっているからあまりよくない」
というようなことを言っていました。
 私は子どもの頃、おなかをこわすと良く熊の胆を溶かしたお湯を飲まされました。強烈な苦さの記憶が今でも口の中に残っています。
  
(9)
 おじさんが熊を100頭獲ることができたのは、近くに熊が生きるだけの広葉樹の原生林があったからと考えることができます。
 広葉樹は、秋には実を付け動物に餌を提供します。熊は、春にはタケノコや山毛欅の新芽や山菜を食べます。夏には木イチゴ、サルナシ、山桑の実などの液菓類、アリや蜂など昆虫類や沢ガニなどを秋にはドングリやクルミなどの堅菓類や魚を食べます。熊は豊富な食料源になる広葉樹がなければ生きていけません。
 落葉は栄養豊かな土をつくり、ふくよかな地面は水分を含み水を浄化し生き物の水になります。
 また広葉樹林帯は、他種類のキノコや山菜を育みます。
 おじさんは、山菜やキノコ採り名人でもあります。
 山を知り尽くしています。本物の山人です。 熊にとっての母なる広葉樹の森ですが、それはおじさんにとっても
同様なのかもしれません。
 また村で働けるほとんどの人が観光業に従事していることを考えると、母なる広葉樹の原生林は村においても言えることのように思います。
 また、村だけではありません。原生林は水のダムになり、水を蓄え水源地帯になっております。その水は電力を作り豊かな生活を作り、下流地域の田畑を潤し、工業用水や生活水としても利用されます。
 森が枯れ熊が生活できなければ、人間の生活も維持できないことになります。
 古代のままの原生林が残る山は、全ての生き物の母であり神でもあります。
 私のホームページのタイトル「山の神様の贈り物」は、そうした思いでつけたものです。
(10)
 おじさんが高齢になるまで熊獲りを続けてこられた秘訣は、間違いなくその強靱な体力を維持できていることにあると思います。どのようにしてその体力づくりをしているか、それは一年中山と共に生活し、山歩きを楽しんでいるせいではないでしょうか。
 冬は、熊獲りはもちろんウサギ獲りりもします。ウサギ獲りは、鉄砲ではなくワナです。どのようなワナなのかはまだ聞いていませんが、それはウサギの通り道を熟知している人でなければできないことです。これも熊獲り同様の長い経験と深い知恵が必要です。
 春には、山菜採りに山にでかけます。
 採るものは、いら草、ぜんまい、うど、わらび、ふき、うるい、こごみなどです。おじさんの家に行くと一年中山菜のお茶うけがでます。
 秋には、キノコ採りです。むきだけ、かのした、シシ茸、舞茸などです。その中で、シシ茸は採取が特に困難なようです。
 きのこ料理、山菜料理はおばさんの自慢です。
 こうしておじさんだけでなく家族中が山の恵みと共に生活しています。春は新緑、秋は紅葉、冬は雪を眺めながらの山と共に過ごします。
 おじさんの体力と精神力は、山で鍛えられていると思います。それが狩りを長く続けることができる秘訣に違いありません。
(11)
 狩りに山へ入ってから行ってはならないこととして、口笛を吹かないというような話を聞いたことがありますが、おじさんは
「現在はすべて常識判断」と言っています。
掟のようなこととしては、はらみ熊は撃たないということも何かの本で読んだことがあります。それについては
「二年目の小熊は撃つ」
そうです。つまり、今年の冬に生まれた小熊は撃たないということのようです。それは暗黙の了解なのでしょう。
 熊肉を使った料理で最もポピュラーな食べ方は、熊汁のようです。野菜と一緒に肉を煮込んで食べます。熊肉ご飯を炊くこともあります。
 熊肉の味は、いのししに似ているといいます。
「やせている熊はまずい」とおじさん。
 と言いますが、痩せている熊は食べ物が十分でなかったのか、あるいは冬に出産を終えたメス熊かもしれません。
 熊の交尾は夏ですが、妊娠が決定する子宮への着床は秋になってメス熊が餌を十分取り出産に耐えられるだけの体力をつけてからです。
 厳しく過酷な大自然の中で生き抜けるよう進化してきている熊です。そして人間も過酷な自然と闘いながら生きる生活の知恵を日々深化させています。

(12) 
 山奥の村で現在のように様々の動物の肉がいつでもどこでも手に入るようになったのは、30年前ぐらいからではないでしょうか。
 それまでは、食料にするタンパク質は、山で猟をして獲る熊やうさぎや川魚などしかなかったのです。ですから猟は人間が生き残るために非常に重要なものでした。
 また猟は、数少ない現金収入源にもなっていました。
 おじさんが猟を始めた頃の「鉄砲撃ち」は現在のようにレクレーション的な意味合いもある猟とはかなり違ったと思います。
 熊の胆は薬用になりますし、熊の脂肪は「熊の油」と言ってこれも村の生活では無くてはならない貴重なものです。
 熊の油は、主に皮膚を保護するために塗ります。子どもの頃、しもやけやあかぎれで手足がひび割れた時に
油紙に包んである熊の油を塗ってもらったことがあります。熊の胆や熊の油は村で生きるための常備薬でもありました。
 今でもそれを大切に保管し日常的に使用している村人は多くいると思います。もちろんおじさんの家でそうしているのは言うまでもありません。
 現在は、冷蔵庫があるのでおじさん家では、熊の油を冷凍してあります。そして使うときに溶かします。

(13)
  おじさんの話では、昔は熊撃ちに行くときは山に泊まりがけで出かけたそうです。奥山に行かなければ熊がいなかったといいます。そのためにおそらく奥山のある地点に狩用の山小屋を準備していたのではないでしょうか。
 ところが、現在は熊が村の近くまで出てくるのです。民家まで来ることさえあります。そのため熊撃ちも日帰りでできます。
 それはなぜなんでしょうか。
 一つには、熊が奥山では暮らしにくくなったからということが考えられます。つまり、熊の食料になる山の恵みが少なくなったということなのか。あるは、林道などが奥山まで延びために熊の行動範囲が制限されたということなのか。
 あるいは、熊にとって村近くに出た方が食料を得やすくなったということなのでしょうか。
 それについておじさんの考えはまだ聞いていません。
 熊撃ちのことだけ考えれば何の問題もありませんが、ことはそう簡単ではないように思われます。
 酸性雨等の環境の変化で高山地帯の植生に変化がでてきているということも考えられます。いずれにしても広葉樹の森に熊が生き残れないとなると、それは人間生活にとっても重大な影響があるように思います。
 森の王者のツキノワ熊が生きる豊かな広葉樹の森が永遠に存続し、おじさんの熊撃ちも長く続くことを祈ります。
(14)
昔、檜枝岐村には「狩り場、川狩り馬鹿がする」という言葉があったそうです。おじさんから聞きました。いやな言葉です。
 おそらくそれは観光業で潤っていたいた人の中の心ない一部の人達が苦労の多い狩りや魚獲りの仕事をして生活を支えていた人達を揶揄して言ったのだと思います。
 おじさんは、そういう陰口を知りながら人に言えないつらい経験もしてきています。狩りの思い出にも苦いこともあるかもしれません。
 しかし、今おじさんは、山を愛で山で育つものへの感謝の心を持ち、山に生きる全ての生き物に敬意を持っています。
その上で
「熊撃ちは、生き甲斐だ」と自分の山人人生に誇りを持っています。
 おじさんは山で生き、山の生活の中で多くの経験を積み山人の知恵を身につけてきました。その内容は奥深く今回の物語では書ききれません。というより私はまだ十分聞ききれていません。
「今度呑みながら話をしよう」
おじさんからそう言っていただいていますので、近いうちに村へまた出向くつもりです。そしておじさんの心の奥にある話をもっと聞きたいと思います。
 そして、熊撃ち物語第2弾を書くことができることを期待しています。














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